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■第六回大会基調
■六回大会基調を行動指針とするために
「一歩前進、それゆえの迷走」に向き合うなかから、「参加する政治」の主体を鍛えよう
「凌ぎの時代」に求められる政治と主権者の賢明さ

【新しいゲームが始まった 「まかせる政治」から「参加する政治」へ】
 〇九年、憲政史上はじめて総選挙での国民の一票によって政権が交代し、わが国の民主政は新しいステージへと押し上げられた。新たに誕生した鳩山政権は、「本当の国民主権の実現」「内容のともなった地域主権」を柱として、統治システムと政治過程の「革命的」ともいえる転換に、矢継ぎ早に取り組んでいる。
 新しいゲームが始まった。しかし何の主体的準備もないまま新たなステージに突入したがゆえに、足元は混乱、迷走といわれてもしかたない状況(予算・税制、普天間など)だ。しかし、これを(政権交代さえできない)閉塞による混迷と同一視してはならない。あくまでも、「一歩前進した」がゆえの迷走であり、これを政党政治のイノベーションへと引き上げていく主権者運動こそが、試されている。
 「政治の話をするとき、僕は乗り物のバスに喩える。運転手は乗客たちとの契約に従って運転している。乗客たちが国民にあたり、契約が憲法にあたり、運転手が統治権力にあたる。近代国家というバスの本義は、乗客たちが運転手に、その都度目的地を告げ、徹底監視し、文句を言うことだ。
 ところが敗戦後の日本は一応『近代国家』という建前なのだが、こうしたバスの在り方からほど遠かった。乗客たちは運転手に何もかも『お任せ』してきた。目的が自明(経済的豊かさ)だから、いちいち目的地を告げないし、ルートも運転の仕方も運転手の選択に委ねてきた。それでうまくいった。
 ところがうまくいかなくなった。バスが今まで走ったことがない場所を走るようになったからだ。経済的に豊かであり続けようとしてもルートはもはや自明ではない。幸せが経済的豊かさとイコールだった時代も終わった。自明さを前提にして運転手に『お任せ』しているわけにはいかなくなった。
 乗客である我々は、運転手にその都度の目的地を告げねばならなくなった。目的地に向かって適切なルートをとっているのか、道路状況にふさわしい運転をしているのか、徹底監視せねばならなくなった。監視したうえであれこれ文句を言い、場合によっては運転手を取り替える必要も出てきた。
 そう。我々は運転手を取り替えた。愚かなくせに『とにかく任せろ』という運転手を『乗客の指示に従う』という運転手に。だがそれからが大変だ。運転手も運転経験が乏しいなら、乗客たちも命令して監視する経験が乏しい。運転手のミスや乗客たちの頓珍漢(とんちんかん)でバスはあちこちにゴッツンコ。
 そんなプロセスが始まった。『新政権の一〇〇日間ハネムーン』という言い方があるが、ミスリーディング。運転者は一〇〇日間でかなり上手になる。だが、今まで『お任せ』状態の乗客たちが、自分たちの大目的を定めたうえ、その都度の目的やルートを適切に指示できるようになるには、ずっと長くかかる」(「民主主義が一度もなかった国・日本」まえがき/宮台真司)
 新しいゲームへの「準備がない」のは既存政党、マスコミだけではない。投票と陳情以外の政治参加を知らない有権者、自分の思いや要求をぶつけることが「参加」だと信じて疑っていない市民、国民、こうした「お任せ」政治の基盤そのものこそ、「準備がない」ことの本質である。有権者を主権者へ、納税者を主権者へ、市民を自治の主体へという活動の持続性こそが、「一歩前進、それゆえの迷走」に向き合う胆力を準備する。「白紙委任」「お任せ」の観客民主主義にとどまったままでは、政権交代さえ消費の対象に替えて、未来を食いつぶすことになる。
政権交代によって、参加の風景は大きく変わろうとしている。マニフェストを媒介に、既存の組織関係を介さずに参加しようという層が、社会のいたるところに生まれている。事業仕分けに「政治過程の『見える化』だ」と反応しているのは、そういう人々である。投票と陳情以外の参加、社会をともに担うための幅広い参加をいかに創造し、深化させていくのか。それが問われている。
政権発足当初に比べて支持率は下がったとはいえ、国民は「一歩前進ゆえの迷走」に耐えて、もう少し時間を与えようとしている。だからこそ鳩山政権は、政権維持(連立維持のための目先の足し算)に右顧左眄することなく、愚直に国民との約束にこだわり、めざす方向(マニフェストに込められた政策思想の軸)をこそ国民に訴え続けるべきである。

【凌ぎの時代の政党政治のイノベーションとは〜鳩山政権の歴史的使命】
 政権交代を機にわれわれが向き合わなければならないのは、21世紀の「重い現実」である。わが国は、人口減少と超高齢化が同時にかつ急激に進行するという、人類史上例のない事態に直面している。「世界第二の経済大国」という地位はすでに過去のものとなり、グローバル化のなかで台頭する新興国に追い上げられる立場となっている。こうした現実から出発しない政策論争は、マユツバものでしかない。
 21世紀の「重い現実」と向き合うことを避け、「世界第二の経済大国」幻想を前提にし続けてきた結果が、「失われた二十年」にほかならない。九〇年代末のアジア通貨危機は、経済のグローバル化の帰結のひとつであった。一方で香港の主権が中国に返還され、アジアは「苦難の近代」の歴史から決別した。日本がアジアで「ナンバー・ワン」であった時代の幕が降り始め、「アマング・イーコールズ」へと移っていく舞台の幕が上がり始めた。
にもかかわらず、あいかわらず「世界第二の経済大国」を前提とした政治が続いた。この間に国・地方を合わせた長期債務残高は急増し、GDP比では今や敗戦時のレベルを超えるまでになっている。まさに二十世紀の終わりから二十一世紀のはじめにかけて、「世界第二の経済大国」幻想を前提にした粉飾決算を続けてきた、としか言いようがない。もはや、これ以上は不可能である。「ないものねだり」や「昔はよかった」では、いかんともしがたい地点に、われわれは立っている。
 政権交代を機にわれわれが知るべきなのは、「本当は日本がどうなっており、どうなりうるか」であり、それを考え示すことである。
 「俗に国民目線の政治とは、この認識を国民と可能な限り共有することから始まる。特定の政策に過大な期待を寄せることなく、冷静に現実を凝視するかのような、世論調査から見える有権者の視線はある意味、頼もしさを覚える。
 問題は政治のほうがそれに応える頼もしさを持っているかどうかである。国民が期待するのは、特定の政策にすべてのエネルギーを投入するだけではなく、先の点検作業や税と社会保障を一体として扱う番号制度の導入などによって、視線を共有するためのインフラをきっちりとつくることである。これらは国民と政治の乖離を埋め、日本の政治システムが21世紀システムにキャッチアップするための前提である」(佐々木毅「日経経済教室」9/11)
 鳩山政権の歴史的な役割は、ここにある。21世紀の重い現実は、「お任せ」政治では克服できない(粉飾決算にしかならない)。国民と政治の乖離を埋め、「参加する政治」「引き受ける政治」へと転換すること、そのための最初のインフラ整備を確実に行うことである。
言い換えれば、「あれも、これも」ではなく(もはや不可能)、「あれか、これか」を選択する、または「何かをやるために、何かをあきらめる」という選択をする、そのためのインフラ整備にほかならない。
 世界的な金融危機のなか、経済は5%も収縮したにもかかわらず失業率は3%台というオランダが、注目を集めている。その秘密は「短時間正社員」というシステムにある。政府、企業、労働組合が一体となって「痛みを分け合う」改革に取り組み、同一労働同一賃金、社会保障も同一水準というシステムを約二十年かけて作り上げた。このオランダ・モデルの最大の強みはどこにあるか。それは国民の政府に対する信頼である。失業中の若者がインタビューで「政府を信頼していますから」と答え、世論調査では緊急雇用対策(企業への補助)に、66%が「政府を信頼する」と答えている。
 「何をあきらめるか」という選択は、こうした政治への信頼が基礎にあってこそ可能となる。
日本でも、国民は(マスコミを介さずに)政治家・政党と直接対話し始めた。民主党マニフェストは公示前に三〇〇万部、選挙中には四五〇万部受け取られ、民主党ホームページのページビューは七、八月で三六〇〇万に及んだという。事業仕分けはインターネット中継され、それがネット上でさらに次々と広められた。マニフェストが、政治家と有権者の直接コミュニケーションのツールになり始めたからこそ、政治の説明責任、説得力が試される。とりわけマニフェストが実行できなかったときにこそ、「参加する政治」の信頼をさらに深めることができるか、が問われる。
21世紀の「重い現実」に向き合う視線を共有するための一歩を、確実に築けるのか。「ハネムーン期間」後の政権運営には、何よりもこのことが問われる。「強い」政府は国民の信頼があってこそ、である。永田町の数合わせ、パワーゲームは政治の力強さを失わせ、政府の信頼を脆弱にするものでしかないことを、しかと心得るべきである。


【凌ぎの時代に求められる主権者運動の賢明さとは】
21世紀のわが国が直面しているのは、「世界第二の経済大国」という単線的な成長の時代ではなく、重い現実を克服する「凌ぎ(しのぎ)」の時代である。G20に象徴される新興国の追い上げを受ける一方、急激な人口減・少子高齢社会を迎えるなかで、財政赤字は敗戦時に匹敵する。これ以上の「粉飾決算」はもはや不可能、という時期に及んでの政権交代である。よって、最善のシナリオでも「胴体着陸」は避けて通れない。これがわれわれの現状だ。
 「凌ぎの時代」に求められるのは、とうに機能不全に陥っている高度成長時代の社会システムの抜本的な見直しと転換である。それは国民の一部をも巻き込んだ既得権構造の破壊と、新たな公共の創造を伴う。
 行政刷新会議による事業仕分けに対しては、手法についても、仕分け結果についても、さまざまな批判が可能である。しかし「国民の前で公開討議することの効用はすべての欠陥をしのいで余る。…停滞したわが国の政治と行政に直接民主主義の息吹を伝える役割も秘めている」(上山信一 日経「経済教室」11/30)ことは間違いない。そして「税の使い道の是非を政府に直接問う納税者意識を国民に与えた。それは、国民の政治参画意識を高める効用をも持ったのではないか。先に『新しい公共』の粗削りな空間、と形容したのはそのような意味からだ…」(船橋洋一 朝日12/3)というように、社会システムの見直しと転換に不可欠な、民主主義の基盤整備という方向性が秘められている。これをどのようにして、さらに発展させていくのか。
 時代の変化にともなう社会システムの転換には、政策の転換(政策思想の軸)とともに政治過程の転換が必要である。政策は問題解決のためのいわば処方箋であり、その合意形成・決定過程といった手法が政治過程である。「お任せ」政治とは、政策においては高度成長を前提にした利益分配(「あれも、これも」)であり、政治過程においては「白紙委任」であった。「凌ぎの時代」においては、政策においては「あれか、これか」「何をあきらめるか」の選択(と集中)が、政治過程においては「参加」「自治」が必要になってくる。
 (20世紀型システムに替わって)成長と社会保障を両立させるうえで、先のオランダ・モデルをはじめとするヨーロッパの試みは、わが国の「凌ぎの時代」に重要な示唆を与えている。制度設計上のポイントは、年齢や性別にかかわらず、多くの人が自らの意欲と能力にふさわしい形で進んで働き、必要な社会的支援の制度を力を合わせて構築できるようにする、ということだろう。納税者番号、社会保障番号などの導入がなぜ必要なのか。その一番の理由は、「本当に必要な人に税金を正しく払い戻すため」である。すなわち税金は「お上に取られる」ものではなく、共に社会を支えていくための参加である。
 それが可能になり、また機能しうるのは、市民自治による地方自治が徹底されていることによる。これが政治過程の重要な転換である。住民にもっとも近いところで、受益と負担のあり方を決定し、検証する。その訓練と蓄積からこそ、「参加する政治」「引き受ける政治」の主体性は育まれる。
 民主党はマニフェストで、ヒモつき補助金を廃止し、自治体に一括補助金として交付するとしている。その着実な実行を強く求めるとともに、「あれか、これか」の選択、優先順位を自ら決定することのできる市民自治の拡充、深化こそが急務である。胴体着陸に成功するかどうかは、ここに大きくかかっている。
(以下、大会基調へ続く)

「凌ぎの時代」には成長戦略も、20世紀型から大きく転換しなければならない。医療、介護、子育て、教育といった社会的サービスの市場を社会的ニーズに見合うものへと、さらに拡大・深化していく方向性は、多くの人によって指摘されている通りであるが、何よりも必要なことは、20世紀型の「成長戦略」発想の払拭である。
高度成長の時代には、社会福祉や社会的サービスは、経済成長の副産物と考えられてきた。だからいつも「財源」が最大の焦点になるし、成長が鈍化すれば給付をカットすることになる。現に小泉政権以降、社会保障関係費は毎年二二〇〇億円カットされ、それが医療崩壊の引き金を引いたことについては、多くの意見が一致している。だがしかし、今の医療制度のまま二二〇〇億円の抑制解除を行えば、それで問題は解決するかといえば、否であろう。
「凌ぎの時代」に成長と社会保障を両立させるためのキーワードは、「公正」と「参加」である。これは、市場がまっとうに機能するためにも不可欠である。「規制を緩和し、市場に任せれば、社会がうまく回る」という「市場原理主義」も、「アンチ市場=政府による再分配主義」も「お任せ」という点では同質であり、政府が政策的に成長産業を育成するという20世紀型「成長戦略」発想において、両者は見事に一致する。
政府が成長産業を育成する? それこそ社会主義だろう。そこには租税特別措置や独法、公益法人などの既得権構造を媒介に、行政依存人が幾重にもぶら下がっている。ここにどんなに再分配をしても粉飾決算、砂上の楼閣にしかならないことは、この間の事実が証明している。ゾンビには退場してもらわねばならない。
21世紀の課題を解決するための政府の役割は、「公正」と「参加」を担保すること、それによって社会の自立(個人の自立ではなく)を補完することである(社会投資国家)。
「『発展』概念の非物質主義的転回は、政府の追求すべき目標と政策における優先順位の変化をもたらし、持続可能な発展に貢献する社会的な資本が、『社会資本』(道路など)から(自然環境も含めた)『社会的共通資本』そして(信頼やネットワークなどの)『社会関係資本』へと移っていくにつれて、政府が投資すべき優先順位も社会資本から社会的共通資本を経て、社会関係資本に移っていく。それに伴って『公共投資』の性質も物質主義的な色彩を脱却し、非物質主義的色彩を強めていく。
この過程で政府機能に以下の二点で大きな構造変化が生じる。第一に、高度成長期とは異なって、政府は公共投資に対する独占的な地位を失うであろう。〜中略〜(社会的共通資本たる)自然資本を保全するには、公共事業を含めて我々の経済活動を制御するルールを設定することのほうが重要になっていく〜中略〜さらに社会関係資本に至っては、政府は投資の主体ですらなくなる。ここで、政府に対しては市民による社会関係資本投資を促し、その蓄積を支える支援者としての役割が期待される。〜中略〜政府の役割は公共財・サービスを独占的に供給することから、社会関係資本が蓄積しやすいような環境を整備し、その制度的障害を取り除くことに変わっていくであろう。
政府機能は第二に、・・・・・・市場のルールを設定し、それを方向づける制度構築に重点を移していくという形で構造変化を遂げることになるだろう。実はこの機能こそ、それを担うことができるのは政府を置いて他にはないのである。・・・(自然資本も社会関係資本も)資本の蓄積過程において致命的な減耗を被る可能性がある。このことを回避し、社会関係資本のストック水準を維持していくためには、政府は市場を制御するルールと制度の構築により大きな責任を持たなければならない。」(諸富徹「環境」岩波書店 ()内は引用者)

 「凌ぎの時代」の成長戦略のいまひとつの挑戦は、資本主義のグリーン化である。「世界同時不況と地球温暖化問題という二つのグローバル危機を解決するために今、『グリーン・ニューディール』が世界的に注目されているが、我々は『第三次産業革命』ともいうべき歴史的転換点に立っており、エネルギー供給構造の大きな転換とリーディング産業やその中核的技術の交代を近い将来、目の当たりにするだろう。かつての第一次産業革命が蒸気機関と軽工業、第二次産業革命が電力と重化学工業で特徴づけられるとすれば、『第三次産業革命』は再生可能エネルギーの台頭による『脱化石燃料化』と、環境・エネルギー上の必要に応じて全産業領域で進行する変革によって特徴づけられる。二〇五〇年までに低炭素社会を実現することは我々の人類史的使命で」(諸富徹「経済学」岩波書店)ある。
 ここでも政府の役割は、「公共財・サービスを独占的に供給することから、社会関係資本が蓄積しやすいような環境を整備し、その制度的障害を取り除くこと」であり、「市場のルールを設定し、それを方向づける制度構築に重点を移していく」ところにある。そして「この機能こそ、それを担うことができるのは政府を置いて他にはないのである」。
排出権取引制度や再生可能エネルギーの買取制度、炭素税(環境税)あるいはさまざまな認証制度など、制度設計のモデルは見え始めている。問題はその構造転換のプロセスである。この過程では既得権の大胆な破壊はもとより、「大量生産・大量消費・大量廃棄」システムを前提とした国民生活の一部も、変化を余儀なくされる。このことと新たな担い手の創造とを、同時に進めていかなければならない。
第二次大戦中、海軍戦略はそれまでの「巨艦巨砲主義」から空母による制空権確保へと大きく転換した。しかし真珠湾攻撃の成功体験を引きずった大日本帝国海軍は、最後まで巨艦巨砲主義を突き進み、戦艦大和をはじめ多くの艦船が海の藻屑と化した。戦後、なぜ巨艦巨砲主義を転換できなかったのか、との問いに元参謀は「水兵たちの失業は、しのびなかった」と答えている。
経済社会構造の転換に直面したとき、多くの人にはまず目先の困難、足元の苦しさが実感される。しかし「生活がかかった」既得権の破壊を恐れて、目先の延命策を繰り返していけば、未来を失うだけである。われわれ自らが変化を受け入れ、対応し、「世界第二の経済大国」時代の生活習慣や体質、半世紀に及ぶ「大量生産・大量消費・大量廃棄」システムの垢を落とす大仕事の一翼を、ともに担うべき時である。
今求められている政治の説得力、それは目先の困難に怯むことなく、目指すべき方向をしかと示し続けることであり、その前提は重ねて述べているように「公正」と「参加」を担保することである。
「凌ぎの時代」の主権者の賢明さとは何か。それは前を向いて、目指すべき方向をしかと見据え、重心を低くすることである。確かに目の前は「迷走」だが、これもわれわれが「閉塞」に決別することを選択した結果であり、「一歩前進」したがゆえの迷走である。鳩山政権がなんとかマニフェストを実現しようと踏ん張っているかぎり、政治家に「選挙での約束を守れ」と要求する以上、有権者にも自らの選択の結果に向き合う責任が求められる。「信頼できる政府」を作り出すのは、政治家・政党と有権者の協同作業による以外にないのだから。
われわれは「変化」を選択した。その変化は一夜で成し遂げられるものではない。半世紀に及ぶ垢を落としつつ、困難な中で新たなものを創造する過程は、「魔法の杖の一振り」ではない。マニフェストは四年間の約束である。政権交代後の「一歩前進、それゆえの迷走」に向き合うなかから、「参加する政治」の主体を育み、成長と社会保障を両立させるための社会関係資本を集積し、脱炭素社会の産業構造を創造していこう。
ここが主権者運動の踏ん張りどころである。