日本再生 359号 2009/4/1発行

「降りない太郎」と「辞めない一郎」の「政局ごっこ」で、まともな選挙ができるのか
パラダイムチェンジに対応できない官僚内閣制の惰性は、政権交代でしかリセットできない


「百年に一度」のパラダイムチェンジ
その選択が「政治とカネ」(55年体制の亡霊)でいいのか

 遅くともこの秋には「天下分け目」の総選挙が確実に行われるというこの時期に、世論調査では次期総理候補として麻生首相をリードしていた民主党小沢代表の公設第一秘書が、政治資金規正法の虚偽記載の容疑で東京地検特捜部に逮捕され、起訴された。政治資金収支報告書の訂正相当という「形式犯」での強制捜査は、極めて異例である。
 「百年に一度」といわれるような経済危機のなか、国民の選択を左右しかねない重大な政治的影響を生じさせてまで、着手すべき事案であったのか。それだけの税金を投入するまでの公益があったのか(どれだけの検事が応援に動員されたか。しかも裁判員制度の開始を目前にしたこの時期に、「本来の」職務を離れて!)。
   はっきり言おう。「百年に一度」にふさわしいパラダイムチェンジは、すでにスローガンではなく行動として始まっている。G20にしろ、グリーンニューディールにしろ、「新たな産業革命」(エネルギー革命)にしろ、ポスト京都議定書の国際枠組み(COP15今年12月)にしろ、次の時代の国益とチャンスをかけた熾烈な駆け引きが、いたるところで展開されている。二〇五〇年の世界の経済産業の担い手・構造は、現在とは大きく異なっているはずだ。この状況のなか、秋までに行われる総選挙での選択は、二〇五〇年のわが国と社会の姿に大きくかかわる。その選択の焦点を、「政治とカネ」にしてしまっていいのか。
 永田町が「政治とカネ」にゆれる中、一九九三年の総選挙の結果、細川政権が誕生し、唯一の公約ともいうべき選挙制度改革―小選挙区制が導入された。以来、遅々としてではあれ、政権選択選挙(政権は有権者の一票で決まる)へと準備してきたはずだ。その「天下分け目」の総選挙が、五十五年体制の亡霊との格闘にすりかえられていいのか。

 一九二〇年代から三〇年代(大恐慌に至る時期)、第一次大戦後の国際秩序の大きな再編期(十九世紀型秩序から二十世紀型秩序への転換の過程)に、二大政党の骨格が見え始めていたわが国では、「内政ごっこ」を繰り返したあげくに政党政治が頓挫、軍部(戦前日本の最大の官僚機構)の政治支配に道を明け渡していくことになった。
 政党、軍部、官僚が「内政ごっこ」に明け暮れたのは、「百年に一度」に匹敵するパラダイムチェンジ、それをめぐる内外の激動を直視できず、目先の狭い利権(満州利権など)に右往左往したからである。まさに今回も「内外政治の激動的動き、これに対応できなければ、健全な政権選択選挙の実施は困難となる」(〇八年一月第五回大会「基調」)ということを地でいく事態である。
 「小沢か、麻生か」「自民か、民主か」という問題設定自体が、展開されつつあるパラダイムチェンジとは無縁の「内政ごっこ」にほかならない。パラダイムチェンジをめぐる政治経済社会の新たな展開、それに対応するためにこそ、五十五年体制、官僚内閣制のリセットが必要だ、そのためには政権交代が必要だ、これは「自民か、民主か」とは別次元の判断である―そういう民意(輿論)の形成を、「内政ごっこ」に引きずり込むのか。
戦前日本がそうであったように、パラダイムチェンジが見えな
  い「内政ごっこ」は民主主義の否定につながる。
 今回の迂回献金の背景とされるゼネコンの談合は、すでに〇五年の排除宣言で過去のものとなっている。「それ以前の過去の時点に遡れば違法の疑いがある政治献金は相当数あるはずだが、こうした過去の一時期に形式的に法に違反したというだけで摘発できるということになると、検察はどの政治家でも恣意的に捜査の網にかけることが出来てしまう」(郷原信郎 3/11日経ビジネスオンライン)。これでは、国民によって選ばれた国会議員よりも検察権力が優位にたつことになりかねない。「健全な民主主義の基盤としての権力分立の仕組みをも否定するいわば『検主主義』の考え方と言うべきであろう」(郷原氏 3/24日経ビジネスオンライン)。
政権選択選挙への下準備、主権在民の方程式の集積が、五十五年体制の亡霊、官僚内閣制の惰性をリセットできるのか。この「天下分け目」の攻防となった。
 世論調査も、媒体によって微妙な違いが生じている。「小沢代表の続投」に対して、「説明責任を果たしていない」は多数だが、「だから辞めろ」一辺倒ではなく、「それでも続投支持」が予想以上にある。その一番の理由は「党内がまとまるため」。つまり(「自民か、民主か」という次元ではなく)「それでも政権交代が必要だ」という輿論のコアは、大きくは崩れていないのだ。

 来るべき総選挙は、「政治とカネ」を争点としたものではない。「百年に一度」のパラダイムチェンジに対応するために、五十五年体制の亡霊、官僚内閣制の惰性を主権者の力でリセットするための選挙だ。だからこそ、小沢代表がどうであれ、政権交代は必要だ。


「降りない太郎」と「辞めない一郎」
健全な政権選択選挙を準備するための障害を、いかに取り除いていくか

 「降りない太郎」と「辞めない一郎」、これ自体が「内政ごっこ」の最たるものだろう。こうした健全な政権選択選挙を準備するための障害を、いかに取り除いていくか。
 「降りない太郎」とは何か。それは官僚内閣制の惰性、その肥大化である。昨年九月、福田総理の辞任を受けて麻生氏が自民党総裁に選ばれたのは「選挙の顔」としてであった。ところが解散のための総理はすぐに、解散できない総理になる。あろうことか「百年に一度の危機」を、延命のために利用したのである。(危機の震源地アメリカで大統領選を行っている最中に、選挙を「政治空白」と言ってのけた。にもかかわらず、緊急経済対策を盛り込んだ補正予算案の提出を、年明け
  に先送り。)
 早期解散の見送りは、官僚内閣制の惰性にとっては延命のための「天佑」ともいうべきチャンスとなった。福田内閣の下でも「安全安心」などを謳い文句に、官僚の許認可、規制の権限は巧妙に肥大化していたが、「降りない太郎」の下でさらにそれが公然化することになった。
 ついには、(抜け道だらけではあるが)法律で規制された公務員の天下り、渡りを「政令」で堂々と認めるという挙にでた。国民に選ばれた国会が決めた法律を、国民に選ばれてもいない官僚が作った政令で覆す。天皇大権の時代ですら、政令を法律の上に位置づけることはなかったとされるが、国民主権の時代に立法権が官僚によって否定され、しかも内閣総理大臣がその政令に署名し、「渡りを認めない」と国会で答弁しながらその政令を撤回しないという。(十一―十四面 馬淵議員講演参照)
 しかも新設される内閣人事局は総務省の焼け太り、首相の強い意向で、霞ヶ関代表の官房副長官をトップにすえることでまとまるという。政権交代に備えて、制度の骨格は握ってしまおうということか。
 あるいは昨年から引き続き焦点となっている道路財源、道路計画。「ねじれ」の功で、福田総理が一般財源化を明言、計画の見直しが閣議決定となったにもかかわらず、なにひとつ

見直されることなく、旧来どおり予算が執行され続けている(同前参照)。まさに「降りない太郎」の下で、官僚内閣制の惰性の「やりたい放題」が公然化している。(渡辺喜美衆院議員は、この点で自民党を離党した。)
 官僚内閣制は、単に霞ヶ関と永田町の癒着ということにとどまらない、長年にわたって社会全体に張り巡らされてきたシステムである。生活の実態の全体性を、個別バラバラにして霞が関の各課レベルの行政権の下に中央集権的に結び付けている。すでに時代の変化にも、生活実態にも合わなくなっている(それどころか障害となっている)にもかかわらず、その惰性が延命し続けてきたのは、まさに「政権交代がない」ことによる。選挙によって政権は変わりうる、政権は国民が選挙で選ぶということが現実のものとなってこそ、官僚内閣制の惰性はリセットしうる。
 「辞めない一郎」はどうか。これは「一度選んだら、任期中は『お任せ』」という疑似マニフェスト感覚の決算の問題である。
 小沢代表の辞任か、続投かの判断は、いまや完全に世論調査の数字に任されてしまった。「政権交代」という民主党最大の公約の実現が問われているときに、「選んだ以上、判断を任せる」という待機主義は、どこから派生するのか。それこそ「選んだ以上は、任期中はお任せ」という、疑似マニフェスト感覚である。
   地方議会では議会基本条例の制定をめぐって、こんな議論がある。すなわち「選挙で選ばれた以上、議員や首長が公約・マニフェストをどう実行していくか、四年間は『白紙委任』だ」「われわれは選挙で選ばれたのだから、議会に『住民参加』は不必要だ」という議論である。マニフェスト・公約を選ぶときには、主権者の参加がある。しかしそれを実行していく過程は、「お任せ」「白紙委任」だと。こういうマニフェスト感覚で、「お任せ」民主主義を脱却していくことは可能だろうか。
 政権交代を実現するためには、個々の候補者が小選挙区で全力をつくすと同時に、党としてのマネジメント、ガバナンスをどう機能させるかが重要になる。自民党は「(派閥同士の)部族連合」「選挙互助会」だろう(政策で規律化された政党へどう脱皮していくか。その挑戦が始まる)。民主党はどうか。「政権交代」という公約の実現過程は、「代表にお任せ」なのか。(これは小沢氏個人の政治手法や体質の問題ではなく、ガバナンスに関わる政党の政治文化の問題である。小沢氏がその政治生命を「政権交代」に賭けてきたことは間違いないし、その貢献は「余人をもって代えがたい」のも事実である。だからこそ、その小沢氏にこの局面までを「お任せ」するということでは、決定的なガバナンスの欠如に等しいということだ。これでは小沢氏の政治生命を防衛する、ということと、政権交代を実現することとの仕分けができなくなる。)

 「小沢さんで政権交代ができるかどうか」ではなく、「民主政のためには政権交代が必要だ」という、自民か民主かとは別次元の判断基準をもちつつある輿論の参加をいかに組織するか、そのガバナンスが問われるのではないか。まさにオバマが「変えるのは政治家ではない、あなただ」と呼びかけ、戸別訪問に歩くボランティアスタッフが「これは民主か、共和かという選挙ではない。アメリカのため、私たちのための選挙だ」と訴えたような参加のダイナミズムを生み出すことなくして、政権交代のエネルギーはどこから生まれてくるのか。
 マニフェストが力を発揮するのは、「選挙で選ばれた」というお墨付きによって、行政をコントロールできるからではない。決定的には、その決定過程、実施過程と検証過程に議会と主権者市民が大胆に参加することで、よりよいものにすることができること、その過程を共有することで、責任を分かち合うことができるところである。この最大の武器を活かさずに「選んだら、任期中はお任せ」では、マニフェストは「選挙の道具」にしかならない。
 決定過程への参加をいかに組織するか。それができるのが、各レベルでのリーダーの要件である。リーダーに求められる説明責任とは、こうした参加を組織するためのものにほかならない。
 決定過程をブラックボックスにする「選んだら、後はお任せ」という発想は、選挙での主権者の選択を意味のないものとする政界再編(永田町の席替え)の発想に通じる。九〇年代に
  繰り返された政党の合従連衡は、まさに「選挙で政権を選ぶ」という主権在民の原則を反故にするものであり、それゆえ自民党政権と官僚内閣制の延命に手を貸した。そこで肥大化した無党派主義からの脱却は、「脱中央集権」「脱官僚」と並ぶマニフェスト運動の課題であったはずだ。
 「辞めない一郎」と「降りない太郎」。健全な政権選択選挙を準備するための障害の構造を、いかに取り除いていくか。知恵の出しどころである。


「百年に一度」のパラダイムチェンジに対応するために、五十五年体制の亡霊、官僚内閣制の惰性を、主権者の力でリセットしよう

 「百年に一度」のパラダイムチェンジのなかで行われる、来るべき総選挙では、五十年後のわが国のあり方を決するような選択が問われる。そのためには、五十五年体制の亡霊、官僚内閣制の惰性を主権者の力でリセットすることが必要だ。それは政権交代によってのみ、なしうる。選挙で政権が変わる、という経験のないわが国では、選挙で政権が変わってはじめて、「国民が選挙で政権を選ぶ」ことが現実のものとなる。来るべき総選挙を、「国民が選挙で政権を選ぶ」ことを実感する、だからこそ「百年に一度」にふさわしい選択をする、という政権選択選挙へと迫り上げていかなければならない。

 そのために何をなすべきか。ひとつは二十一年度補正予算の徹底審議である。「未曾有の危機」といいながら、政府の経済対策は方向性も規模も的外れを繰り返してきた。にもかかわらず、解散時期の駆け引き、政権の自滅、さらには小沢問題ということで、予算審議は低調なままであった。その陰で「ない」と言ってきたはずの「埋蔵金」を財源に、あれもこれもの大盤振る舞いが横行している。
 与党は追加の経済対策として、景気悪化に対応するため、今後三年間を視野に環境への投資、社会保障の強化、公共事業の前倒し実施、金融・税制の拡充で、雇用確保や景気の下支えを行うという素案をまとめ、二十一年補正予算を編成するという。だが中途半端な付け焼刃的「対策」の羅列では、効果は限定的である。
 高速道路の休日割引は、中途半端な無料化政策だ。「三割引き」に匹敵するそうだが、「十割引き」の場合と費用・経済効果を比較検討して議論が尽くされたわけではない。馬淵議員が指摘するように、経済効果をきちんと比較検討する、そういう議論を展開するべきである。(そのように、野党は追及すべきだ)。
 例えば追加の経済対策に盛られるという太陽光パネルの設置は、単体としての対策ではその効果はきわめて限定的である。他方でパラダイムチェンジの文脈では、再生可能エネルギーの促進は「新たな産業革命」という位置づけであり、だからこそキャップ&トレード型の排出量取引といった経済社会システムを含む体系的な政策パッケージのなかで、太陽光パネル
  も位置づくことになる。この場合の経済効果は、はるかに大きいものとなるだろう。(七―十一面 パネルディスカッション参照)
 そして中途半端な政策には必ず、官僚内閣制の惰性が延命する空間が生まれる。「環境への投資」といえば、それこそ「穴を掘って埋め戻す」類の事業にまで「環境」と冠して、予算を引っ張ろうということになる。あるいは地域医療崩壊の手当てと称して、厚労省官僚の監督権がさらに隅々にまで及ぶような制度改正が進行する(現場はさらに窒息する)。ここをしっかりチェックしていくことで、「官僚内閣制の惰性をリセットする」という総選挙の争点を鮮明に絞り込んでいくことだ。それによって、任期満了まで解散できないところへ追い込むことだ。
 二点目には「政治とカネ」を争点にしないことである。来るべき総選挙は、「百年に一度」のパラダイムチェンジへの対応を決するものだ。「内政ごっこ」に明け暮れているヒマはない。
そのために「政治とカネ」について、例えば「一定規模以上の公共事業を請け負う企業からの献金は禁止」などの規正を、与野党ですぐに合意すべきだろう。
 政治資金規正法が「規制」法ではないのは、政治とカネについて必要なことは、資金を提供する側と政治家の関係を公正に保つことだからだ。資金の出し手が個人であろうと企業であろうと、カギは公正さだ。個人献金は善、企業献金は悪という二元論では、政治家は検察からの監視の対象ということになる。

 大統領選挙で莫大な資金を集めるアメリカでも、「政治とカネ」は常に問題になる。そのたびに、透明性を増す不断の努力が行われてきた。それでも腐敗や裏金は、繰り返し問題になる。そのたびに制度や法律が改変される。その繰り返しのなかでしか、政治に対する信頼は醸成されないだろう。
 いきなり「企業団体献金の全面廃止」を掲げてこれを争点にしようというのは、「小沢問題」を使って「どっちもどっち」に持ち込もうというのと表裏一体、どちらにしても五十五年体制の亡霊が跋扈することになる。
   公正な政治資金の仕組みをつくる、ということは選挙で国民が政権を選ぶことと一体である。そうして国民の政治参加が意味のあるものとなってこそ、政治資金は「監視」の対象ではなくなる。そういう政治文化に向けて、与野党が協力して一歩を踏み出すべきときではないか。
 重ねて言おう。この期に及んで、「内政ごっこ」に明け暮れているヒマはない。「百年に一度」のパラダイムチェンジに対応するために、官僚内閣制の惰性をリセットする総選挙を!