日本再生 350号 2008/7/1発行

「何をあきらめるか」―右肩上がりの惰性から、「足るを知る」21世紀型の選択へ
「脱炭素社会」への挑戦をマニフェストで政治決定しよう

「動かない」政治を動かすのは、
主権者の一票だ。その選択が明確に
なる「逃げ場のない」政権選択選挙へ

 衆参の多数派が異なるという「ねじれ」の政治状況になってから、ほぼ一年が経過した。「何も決まらない」「動かない政治」と喧伝されながら、「ねじれ」の功は確実に見えてきた。最大の「功」は、代議制民主主義の原点でもある「税のあり方(集め方・使い方)は主権者が決める」ということが実感されてきたことだろう。自分たちの社会を維持するために何が必要か、その負担をどう分かち合うか。政府がどんなに立派でも、官僚がどんなに優秀でも、それを決めるのは政府でもないし、官僚でもない、それを決めるのは主権者だということが、ガソリン税や年金、医療などを通じて生活で実感されてきた。
 だからこそ税金の無駄遣いはケシカランというだけではなくて、「どちらが賢い使い方をするか」「どちらに財布を預けるほうが信用できるか」という、お任せ民主主義の「白紙委任」とは異なる次元のステージにおける“選択”が始まる。監視ではなく検証、そして検証の視点(決算の視点)から立案・決定過
  程への参画へ。来るべき総選挙にむけたマニフェスト(政権公約)の作成過程は、こうした基盤の上に立脚しなければならない。
 一方で一年を経て、いよいよ「選挙で示された民意で政治を動かす」という以外の選択肢はなくなった。大連立の軽挙妄動は封じられた。「三分の二による再可決」もやったし、問責決議も出した。残っているのは総選挙で民意を問うことだけだ。それ以外に政治を動かすすべはなくなった。もはや「逃げ場」はない。
 「〜日本の政治がいかに多くの政策課題を抱え、しかももはや『先送り』できない状態にあることがますます明らかになった。とくに、社会保障制度の脆弱性は政府の能力の限界を際立たせ、官僚制という手段(マシーン)を使いこなせない政治の力量不足は政府機能の危機的状況を招いている。今や国民負担のあり方を堂々とテーブルの上に載せ、具体的な政策の是非を必死で国民にアピールし、国民との契約を結びなおす以外に道はなくなった。その上、環境や資源、食糧をめぐる新たな問題が互いに連鎖しつつ、われわれの前途に立ちはだかっている。

 これは一言で言えば、郵政民営化選挙の余勢を駆っていつまでも政権運営ができる段階が終わったことを意味する。その意味では、今年中に総選挙を行うべきだとの世論の動向は基本的に正しい。次の総選挙は政策課題の重要性において正に『失敗の許されない』重大な選挙である。いい加減な準備と意味不明な政策論争で済ますわけにいかない選挙である。政権の枠組みをめぐっても各党がその消長を賭して臨まなければならない選挙である。有権者も自らの負担のあり方を含め、ぎりぎりの政権と政策の選択をしなければならない。あらゆる意味で正に『逃げ場のない』総選挙になる」(21世紀臨調「緊急提言」6月3日)
 「動かない」政治を動かすのは、主権者の一票だ。その選択が明確になる「逃げ場のない」政権選択選挙を準備しよう。


何をあきらめるか、
その選択を主権者に問え 

 八年ぶりに日本で開催されるサミットをとりまく国際的な環
  境は、前回(00年・沖縄)とは様変わりしている。昨年のハイリゲンダム・サミット以降、地球温暖化対策が大きなテーマとなってきたが、ここにきて資源・食料の価格高騰や世界的なインフレ懸念など、新たな問題が浮上している。これらの問題の背景には、世界的な“金あまり”(金融緩和)があり、その根底にはドルの信認低下がある。また食料問題の背景には、バイオエタノールの開発や気候の変動があるように、これらの問題は相互に連関している。
 これは一時的な現象なのか。投機マネーの異常な動きが鎮静化すれば、事態は収まるのか。それとも冷戦体制崩壊以降、拡大基調を続けてきた世界経済の構造が大きな転換を迎えているのか。問題設定によって対応は大きく異なる。前者なら「○○緊急対策」でいい。後者であるなら、資源配分や産業構造の抜本的な転換が必要になる。一時的な原油高で漁業者が赤字だというなら、緊急対策の補助金でよい。しかし「海外から好きなだけ食料を買って来られる時代(20世紀型工業社会の高度成長)の終わり」「日本がアジアで買い負ける時代の始まり」なら、農業をはじめとする産業構造の抜本的転換に着手しなければならない。

意思決定は代行できない 
政権を選ぶ権利は国民にあり、
永田町には代行できない

 「○○緊急対策」なら、官僚に立案を任せてもよいだろう。しかし官僚内閣制では、資源配分を変える政策転換の意思決定はできない。その意思決定ができるのは主権者であり、「何をやめるのか」「何をあきらめるのか」を明確にしたマニフェスト(政権公約)による政権選択選挙以外にはない。
 サミットを前にようやく日本も、「二〇五〇年に二酸化炭素の排出を60―80%削減」との目標を明らかにした(福田ビジョン)。決意はいいだろう。しかし「二〇五〇年の目標」だけでは、それを実現できるかどうか、今の世代には責任も問われないし、検証のしようもない。またハイリゲンダム・サミットで日本が提唱し各国の合意を得た「二〇五〇年の目標」を達成するためには、「現状立脚型」の積み上げ方式の目標設定では不可能だ。
 6%の削減(京都議定書の目標)なら省エネの積み上げでも可能だろう(それでも達成が危ぶまれる状況)。「60―80%
  の削減」が意味するものは、「脱炭素社会」のような産業革命以来の経済社会の抜本的転換であり、エネルギー革命である。温暖化対策を省エネの問題設定で考えるのか、脱炭素社会の問題設定から考えるのか。現状立脚型の積み上げ方式なら、官僚内閣制の政策過程でも機能する。脱炭素社会への抜本的転換は、工業社会の成長モデルを「捨てる」ことを意味する(物欲の拡大連鎖から「足るを知る」へ)。「何をやめるのか」「何をあきらめるのか」、その選択を主権者に問うところからしか、この政策過程は始まらない。
 いまや環境を外部化した経済はありえない。21世紀型競争で問われているのは、環境経済外交戦略にもかかわらず、「環境政策」と「経済政策」と「外交」をバラバラにして、環境省、経産省、財務省、外務省などが何の連関もなく立案し、挙句の果てには「環境対策」と称して道路特定財源まで使うということでは、脱炭素社会への転換をめぐって展開されている国際競争に、ついていくことすら不可能だ。
 あるいは社会保障制度が破綻寸前になっているのは、政府の怠慢もさることながら、根底には20世紀型工業社会の福祉モデルの歴史的な限界に、いよいよ直面していることを意味し

ている。ヨーロッパではすでに八〇年代から、その転換は準備されてきた。この間に日本では、社会保障の財源について厚労省と財務省が縄張り争いを繰り返す一方で、道路資本主義への資源配分を続けてきた。まさに「失われた十五年」である。
 今や問われているのは、「無駄か、無駄でないか」というだけではない。「必要であっても、優先順位の低いものはあきらめる」、その選択が問われている。それを選択するのは主権者の一票である。どんなに立派で有能であったとしても、それを決定するのは政府ではないし、官僚でもない。主権者の一票で選ばれた議会で決定するからこそ、マニフェストできちんと契約しなければならず、有権者は選挙結果に白紙委任したのではないことを示すために立案過程、決定過程、執行過程に常に参画しなければならない。
 「暫定税率を廃止する、その分は(地方には)もう来ない、ガソリンが二十五円下がるとはそういうことだと、はっきり言うべきなんです。(それで地方もどう覚悟をするか。)ある意味でこれは、これからの日本の政治の練習なんです。こういうことを本当に言える政治家、政党を信用すべきで、何となくバラ色みたいなことを言っているのは嘘だと。〜中略〜苦い薬を飲みながら、それでも前に進むか、それとも今のままぬるま湯につかっている方がいいか、そういう判断を迫られる」(小川淳也衆院議員「日本再生」三四八号)。
   すでに厳しい財政状況に向き合わざるをえない地方では、ローカルマニフェストで「何をあきらめるのか」の選択を市民に問わざるをえない。行財政改革を徹底して推進してきた首長は「次の選挙では『何をやめるか』をマニフェストに書く」と言い、あるいは「何を削るか、ここで責任を分かち合えるのか」と議会に問いかけている。
 「何をあきらめるのか」、その選択を主権者に問う堂々たる政権選択選挙を準備しよう。


お任せ民主主義の鉄鎖以外、
失うものはない
永田町には代行できない

 工業社会の成長モデルは、決定を官僚が代行したほうが効率的だ、というお任せ民主主義を生み出した。これでは分配の平等はできても(ただしこの「平等」は、グローバル経済・ポスト工業社会では崩壊)、責任を分かち合う市民社会は生まれなかった。これを「成功物語」といえるだろうか。
 高度成長の下では「日本株式会社の福利厚生部」(広井良典「日本の社会保障」)ともいえるような社会保障と、その枠内で「家族」というセーフティーネットが機能した。しかし非正規雇用者が労働人口の三分の一を占める今では、職業、教

育、家族、どれもがリスクと化している。それにすべて自己責任で対処しなければならない社会が、「成功物語」と言えるはずがない。
 食料自給率が四割という国で、食料の25%が廃棄され、ダントツの輸送にかかるエネルギー(フードマイレージ)を考慮すると「歴史上のどの王侯貴族よりも贅沢な食事をしている」にもかかわらず、「孤食」が蔓延し、飽食と健康悪化の悪循環がひろがる。こういう社会が健全と言えるだろうか。
 われわれはとっくに気づいている。高度成長モデルの惰性は、現実の生活においてはすでに破綻していることを。この事実を事実としてとらえるところから、新しい一歩は始まる。中央集権の惰性に浸っていれば「金がないなら、国から金を取ってくるのが首長の仕事だ」という発想になる。しかし自治体の財政状況をすべてオープンにして、議会も首長も住民と向き合えば、住民も「なんでも行政任せ」ではなく、自分たちでできることは自分たちで、地域で協力してできることは地域で、行政は最後に出てくるという、住民自治のまちづくりが可能になる。
 そこから見れば、一番遅れているのが東京だ。まさに高度
  成長の惰性が最も集積しているのが東京であり、道路資本主義・土建政治の心臓部が東京である。それを支えているものこそ中央集権制であり官僚内閣制であり、無党派主義(お任せ民主主義)にほかならない。
 「失われた十五年」に続く「失う十年」としないためには、「何をあきらめるのか」を選択しなければならない。20世紀は限りなき欲望の充足が第一とされた時代であった。21世紀は、これまで以上に責任ある形で自然や社会と向き合う生き方を選択する時代である(佐々木毅「ポスト資本主義社会の構図」日経「経済教室」参照)。「何をあきらめるか」とは、その選択にほかならない。
 20世紀の惰性を続ける無責任の連鎖に、われわれと子どもたちの未来を委ねることはできない。決定するのは私たちだ。主権は国民にあり、お任せ民主主義の鉄鎖以外に失うものはない。
 脱中央集権、脱官僚、脱無党派主義―このなかでわれわれが得るものは自治分権・地域主権の主体性であり、パブリックの責任を分かち合う社会的連帯であり、共感である。次期政権選択選挙をこのような土台の上に準備しよう。