日本再生 348号 2008/5/1発行

主権在民の方程式で決定過程(国会・地方議会)を可視化しよう!
国民主権の原理で議会を機能させるための輿論を形成しよう!

主権在民の方程式で国会を動かす
そのための「国会改革」を

 「ねじれ」国会が始まって、約半年が経った。衆議院と参議院の決定が異なるという状況は、日本の政治・議会でこれまで「当たり前」だと思ってきたことが、じつは国民主権の原理からみればいかに非常識だったのか、を明らかにしている。
 「ガソリン税」では、政府と与党が何を決めようと、決定権は国会にあること、それを決める議員を選ぶのは有権者の一票であり、それによって税が変わることが生活実感で分かった。内閣は提案するだけで、決定するのは国会であると憲法には明確に規定されている。にもかかわらず、「政府が決めたことが国会で通らないのはおかしい、混乱する」というのは、自民党の事前審査さえ通れば、あとは閣議も議会もスルーするという官僚内閣制の非常識だ、ということが分かった。「地方が混乱する」というのも、三月三十一日で期限が切れる暫定税率を前提に(官僚内閣制の惰性を前提に)地方の予算を組む(組ませる)という、中央集権制の不条理にほかならないことが明らかになった。
 族議員と官僚、自民党税調が牛耳ってきた道路財源の決
  定過程が、国会でのオープンな議論となった。(これまでは予算と直接関係のない問題での追及も多かった)衆議院予算委員会は、予算の中身(道路財源の使い方)に関する実質的な審議の場となった。道路特定財源がどういうもので、「十年間、五十九兆円を道路に使う」という計画がどういうものなのか―自分たちがどういう税金を払い、それがどう使われるのかが、「ガソリン税暫定税率がどうなるか」という生活感覚として、国民には理解され始めた。
 個々の政策への利害関心のみならず、税金の集め方・使い方をどこでどう決めるのか、その決定過程に主権者の意思が反映されるとはどういうことなのか、そういう性質の民意が動き始めている(世論とは区別される輿論の形成)。税金の集め方・使い方は「お上が決める」のではなく、自分たちが選んだ議会で決める。この議会制民主主義の原点が、教科書に書いてある一般論ではなく、生活実感の問題になり始めた。(ここから、マニフェストの読み方も根本的に変わる。さらに言えば、「これだけのサービスならこれだけの負担でも納得」というのが納税者なら、「自分たちの意思でこういう仕組みにしたのだから納得」というのが主権者だろう、という仕分けも見えてくる。)

 「『ねじれ』で何も決まらない」というのも、官僚内閣制の非常識にほかならない。国民主権の原理からすれば、国会が本来の機能を取り戻すために何をなすべきか、主権在民の方程式で国会を動かすための障害はどこにあり、それをどう取り除いていくか、という課題が見えてくる。
 「たしかに、この衆参の『ねじれ』は、内閣提出の法案の成立を至上命令とする与党執行部の立場からは厄介な状況である。しかし、野党にしても、『ねじれ』を乱用して無軌道な徹底抗戦を続ければ国民から見放されかねない。我々は『ねじれ国会』に正面から向き合い、その本質を見極め、改めて国会を機能させる具体的な方法を模索してみたいと考えた」「(先進各国でも二院の『ねじれ』は珍しくない)もし我が国にかぎって、政権を担う政治勢力が衆参両院で多数を占めていないと政治が停滞してしまうならば、それは、他の先進諸国に比べ日本の議会制民主主義が成熟していないことを意味する」(「機能不全の国会を改革する八つの方策」自民・民主有志議員『中央公論』3月号)。
 主権在民の方程式で政治を動かす―この原理原則に立ってこそ、具体的な行動指針が見えてくる。この視点が抜けて「政治を動かそう」とすれば、大連立やら政界再編、はては中
  選挙区制の復活などという現実と遊離した空文句を振り回すことになる。これではますます、生まれつつある輿論、質が変わり始めた民意は読めない。
 主権在民の方程式で決定過程を可視化し、コントロールする。その舞台はすでに回り始めた。第一幕では、政府と与党が何を決めようと、決定権は国会にあること、その議員を選ぶのは有権者の一票であり、それによって税金が具体的に変わることが分かった。族議員と官僚、自民党税調が牛耳ってきた道路財源の決定過程がオープンになり、国民に見えるようになった(可視化)。
 第二幕は、一般財源化で幕を開けた。福田総理は「〇九年度からの一般財源化」を国民の前で約束したが、それを担保するものは今のところ何もない。このまま暫定税率と道路整備財源特例法を再議決すれば、「十年間、五十九兆円を道路に使う」ことが確定するので、一般財源化とは正反対の結果になる。「〇九年度からの一般財源化」を閣議決定する(なおかつ総務会で党議拘束をかける)ことで、自民党内の「造反」を抑えることはできるだろう。しかし一般財源化の論点は、「賛成か、反対か」ということで収まるようなものではない。
 例えば、一般財源化したとしても「必要な道路は造る」となっ

ていれば、道路is政治といわれる決定過程は本質的には変わらない。「国際競争力の確保」という名分で、空港へアクセスする道路を造るために一年間で二・四兆円使うのか、それとも世界一高いといわれる空港発着料をゼロにするために年間八百億円使うのが「国際競争力の確保」に資するのか(小川淳也衆院議員。五―七面参照)。そういう議論ができなければ、決定過程が変わったとは言えない。言い換えれば一般財源化だけでは、「道路を造りたい国交省と族議員が、教育や福祉に税金を使ってほしい国民を縛っている」(片山善博氏・東京新聞3/4)仕組みが変わったとはいえないだろう。
 あるいは、一般財源化したら(今は「道路にしか使えない」としている)地方への配分はどうするのか。あるいは今は「道路に使うから」と自動車のガソリンに課税しているが、一般財源化するなら、自動車燃料には課税して航空機や船舶の燃料には課税していないという矛盾はどうするのか。環境税や炭素税にするというのはスジが通るが、その場合には「自動車関連にだけ課税」というわけにはいかないので、環境負荷に応じた新しい税体系が必要になる。これはこれで税制の抜本的な転換だ。
 このような多岐にわたる論点を、「〇九年度より一般財源化
  する」という閣議決定で、そもそもカバーできるわけもない。したがって、これらの論点について国会のなかで具体的に議論を積み重ね、「一致点はどこか」「対立点はどこか」を整理していかなければならない。その過程をオープンに見えるようにすることで、国民にも与野党の一致点と相違点が分かり、次の総選挙で何を選択すればよいかが見えてくる。
 そういう国会審議の糸口が見えるか。あるいは一般財源化はしました、しかし決定過程はほとんど変わりません、という結末に終わるのか。主権在民で国会を可視化する、そのための障害が何で、それをどう取り除くかが具体的に見えるようになること、それが第二幕では問われる。
 官僚内閣制の決定過程は、国会の外で族議員と官僚が決めるというもので、国会は単なる儀式にすぎなかった。「ねじれ」で問われていることは、主権在民の決定機関としての国会にするための「国会改革」である。これは与野党を問わず、「立法府として」取り組むべきであり、そのための具体的項目を、次期マニフェストに共通して書き込むべきだろう。それを提言し、また要求するバッジをつけない主権者の輿論形成がきわめて重要になる。そこへの転轍こそ、第二幕の課題だろう。

 その先には、主権在民の方程式で議会=決定過程を動かす、これを共通の前提にしたうえでの政党間競争という新しい舞台が見えてくる。五十五年体制・官僚内閣制の政治文化vs国民主権の政治文化、という対立軸から、国民主権を機能させることを共通の前提にしたうえでの政権選択へ。主権在民の方程式で現実の政治を動かす一歩一歩のなかから、それが具体化されていく。それが「キレイゴト」「一般論」にしか聞こえないのは、現実の国民主権の形成過程から遊離して五十五年体制や官僚内閣制を批判しているにすぎないからだろう。(七―十面 枝野幸男衆院議員の講演ならびに十一―十三面 木原・山内議員のお話を参照)
 主権在民の方程式で国会を動かす国会改革、そのための輿論形成―バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協奏を!

自治をリードする議会へ
―主権在民の地方議会改革


 主権在民の方程式で国会を動かす国会改革、そのための輿論形成のポイントのひとつは地方議会における議会改革との連動である。三月三十一日で期限が切れる暫定税率を前提に地方の予算を組む(組ませる)、それが通らないと混乱するといって首長に税率維持の署名をさせる。まさに官僚内閣制の非常識と中央集権制の不条理は表裏の関係だ。
   国民主権の原則からすれば、分権は原理であって、やったほうがいいかどうかという問題ではない。中央政府の下請け機関としての地方公共団体なのか、住民が主権者としてコントロールする地方政府なのか。それによって「地方分権」の方向性も、姿も大きく違ってくる。行政内部における国と地方の権限配分が主要な課題であった第一ステージでは「改革派首長」が一定の役割を果たしたが、住民が主権者としてコントロールする地方政府をめざすなら、これからは「改革派議会」の役割が重要になる。
 議会は決定機関であり、首長はその決定に従って執行する。つまり決定過程にどのように民意を反映し、集約するのか、そこにどれだけ主権者が参画しているのかが、自治体を地方政府たらしめる要件になる。「これだけのサービスがあるからこれだけの負担にも納得」という納税者主権のみならず、「自分たちが決めた(自分たちの代表を通じて決めた)仕組みだから納得」という主権者がいること、そういう主権在民の方程式で議会がコントロールされていることが、地方政府たりうる要件になる。
 地方公共団体なら、中央政府の決定にしたがって執行する、その下請け機関にすぎないから、決定機関としての議会は必要ない。せいぜい執行機関に要望を伝える「口利き」の役割だろう。いくつもの政策アイディアを羅列して決議して「何をやるかは執行部にお任せ」では、決定機関としての責任を果たしたことにはならない。A案なのかB案なのか、それを討

議して決定することが議会の責任だ。自治体運営に直接民主主義的手法がますます取り入れられる中で、市民の意見・要望をそのまま仲介するだけなら、議会なんかいらない、アンケートでもやって決めればいいということになる。
 自治をリードする地方議会。この問題設定は、制度論の問題ではない。国民主権を自治体においてどう機能させるのか。地方議会を主権在民の方程式で動かすために、その障害をどう取り除いていくか。制度論にかまけているヒマがあるなら、現にある二元代表制を主権在民の方程式で使いこなす知恵を絞れ、ということだ。
 主権在民の方程式で二元代表制を機能させるためには、議会の談合によらずに直接市民に基盤を持つ首長とともに、市民に対して個々の議員としてではなく「議会として」説明責任
  を果たす議会の登場が求められる。首長提案に賛否を表明するのみならず、議員同士が討論して「議会としての総意」をまとめ、決定機関として自治をリードする議会へ(市民に対して決定者としての責任を持つ)。そのためには議員同士の討論が不可欠になる。そのための議会改革だ。(地方議会改革の問題設定と実践的方向については二―三面総会報告、「一灯照隅」を参照。)
主権在民の方程式で議院内閣制を機能させることと、主権在民の方程式で二元代表制を機能させることを連動させる。ここから次期総選挙を「堂々たる政権選択選挙」としていく国民的基盤を準備していこう。「国会改革」を共通の項目としてマニフェストに書き込むことを要求する輿論形成を、その一歩としていこう。