日本再生 343号 2007/12/1発行

国民主権・住民自治の原則で政治を動かす!
政治構造改革の新たなステージへ

官僚内閣制から議院内閣制へ 政党間競争の知恵をしぼれ
「未体験ゾーン」第一幕の総括から、第二幕へ

 参院選の結果、国会は衆議院と参議院の多数党が異なるという、いわゆる「ねじれ」状態となった。両院の協議なしにいかなる法案も成立しない、という状況で、どのように政治を動かしていくのか。このことは、これまでの官僚内閣制のシステムから脱却することなしには立法府が機能しなくなったということ、いいかえれば、議員・政党が官僚内閣制の振り付けに頼らずに自力で議論せざるをえない舞台を有権者が与えた、ということにほかならない。
 この間永田町では、安倍総理の突然の辞任、自民党による大連立提案と小沢民主党代表の辞任騒動と、役者の力量不足を露呈させ続けてきた。もとより主権者運動の問題設定は、「ふさわしい役者がいるかどうか、ではなく、否応なく既存政党をこの舞台に『迫り出す』」(「日本再生」三四〇号9/1)というものである。この観点から一連の事態を第一幕として総括し、第二幕へと舞台を回していくべきである。
 おりしも十一月六日「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)は、「現下の政治情勢に対する緊急提言」で、『「新しい国会情勢を踏まえた新しい政治慣行の創造」と「規律ある政党政治の実現を両立させ、次の総選挙を「政権選択選挙」と
  する道筋を確かなものとする』との提言を行った。(http://www.secj.jp/)。既存政党を『迫り出す』ための、主権者からのアプローチとしてきわめて時宜にかなったものといえる。
 第一幕の混乱は、国会の「ねじれ」が原因なのか? 断じて否である。「ねじれ」を理由に「政治が動かない」と決め付け、議会外の協議によって対決(政策論争のガチンコ勝負)を回避しようとすることこそ、議会政治、政党政治の自殺行為にほかならない。この点で、現時点における大連立構想は、いわば官僚内閣制の下での与党審査システムを無原則に与野党間にまで広げようという類の話であって、これでは決別したはずの五十五年体制の政治スタイルへの逆行にほかならない。
 小選挙区制、マニフェストなどによる政権選択選挙の枠組みは、国民主権の内実を実態化するために、この十数年をかけて築いてきたものである。しかしこの“共有地”を守ろうとする意思は、永田町・既存政党においてはきわめて脆弱であることが、今回の大連立騒動で改めて明らかになった。その意味で、永田町と民意との乖離は依然として大きいものがある。そのなかで、民主党が党の機関決定という形でこうした大連立を否定したことは、ここまでの政治構造改革―政権選択選挙の歩みを後戻りさせないタガが、なんとかはめられたという意味では評価できる。今回の騒動で民主党が失った信頼を回復するには、この点を外してはない。

 各種の世論調査をみても、国民が望んでいることは大連立ではなく、政党間の政策競争であり、開かれた政策協議である。そのために必要なことは、政党・議員が官僚の振り付けに頼らずに互いに議論し合うための「議会の話し合い」のルールを確立することである。官僚内閣制を前提にしたところでは、話し合い=与党審査の無原則的拡張、という類のものでしかない。議院内閣制の話し合いをやろうとすれば、与党審査などというものはやめて、国会で与野党が議論して修正する、ということになるべきだろう。また行政府をチェックするという議会の役割を果たす意味では、(閣内に入っていない)与党議員も委員会審議で内閣をチェックすればよい。
 政策協議と決定の実質を、国会外の非公式な場で行う「話し合い」では、国会の空洞化に拍車をかけるだけである。「国会論戦の活性化―立法府の機能強化のための政党間協議であって、逆ではない」(『日本再生』三四一号10/1)という意味が、一連の事態を通じて実践的に共有されつつある。
 国会の場における徹底した与野党の議論を通じて、「与野党で修正合意できる課題」と対立が残る課題を仕分けすること。対立する課題については、「両院協議での合意」あるいは「衆院の再可決」という手順を踏んで、議院内閣制を作動させる話し合いのルールや仕組みをつくることこそ、求められている。このプロセスのなかからこそ、熟議を尽くしてもなお残る対立点とは何かを整理し、総選挙で国民の信を問うべき争点を絞り込んでいくことが可能になる。これが議院内閣制の下での「話し合い」路線の意味にほかならない。
   「ねじれ」国会を与えた民意は、こうしたプロセスに踏み出して、政権選択選挙の道すじを確かなものにせよ、ということである。だからこそ、ここまでの政権選択選挙のインフラ整備に逆行する大連立には、明確にノーが突きつけられた。
 第一幕の混乱は、第一義的に政権党の責任である。「福田内閣は、衆参の『ねじれ』を国難と位置づけ、対決の回避を最優先する緊急避難型の政権運営に徹しているようにも見える」(21世紀臨調「緊急提言」)ことが、「動かない国会」を演出している。給油問題が国益に関わる重要課題であるなら、衆院の三分の二で再可決することを視野に国会日程を組み立てるべきであった。両院の議決が異なる状況は今後も続く以上、憲法で定められた衆院優越の権限を行使しない理由はどこにもない。政治を動かす第一義的責任は、政権党にある。政治が動かない原因を野党に帰するようでは、政権政党の地位と責任を放棄するに等しい。行使すべき権力を行使しないことこそ、無責任政治にほかならない。
 議院内閣制の外形をとりつつ、その実質は官僚内閣制として運営されてきたことが、いよいよ機能不全として露呈している。大連立に民意がノーを突きつけた以上、政治を動かすためには議院内閣制を作動させる仕組みを作る以外にないこと、これは官僚機構の仕事ではなく政党政治の役割であることを、既存政党は肝に銘じるべきである。この領域に対する無理解と及び腰こそが、第一幕の混乱の原因にほかならない。
 
 

政権選択選挙への道すじを確かなものにせよ

 「ねじれ」を理由に政治が動かないというのは、政党の怠慢にほかならない。いかなる法案も両院の協議なしには成立しない、という状況は議員が徹底して議論して妥協の知恵を絞り、それでもなお残る対立点は何か、総選挙で国民に信を問うべき争点はどこかを国民の前に明らかにするための、格好の舞台である。
 大連立や党首会談は、一般論としては否定されるものではないが、今問われているのは、委員会での修正協議や両院協議会での合意、それができない場合には衆院での再可決という、憲法に規定された手順を踏んで政治を動かすことであり、そのプロセスを国民の前にオープンにすることである。
 「ねじれ」は最終的には、政権選択選挙をくりかえすなかでこそ決着をつけるべきものである。(一発勝負では決着がつかないことを覚悟し、その胆力を有権者も政党も鍛えるべきだろう。)そのためには、いかなる法案も両院の協議なしには成立しない、という状況のなかで政治を動かすための、議院内閣制を作動させる仕組みを一歩一歩構築していかなければならない。その努力を省いて、政党間の「談合」で「ねじれ」を解消しようとする試みは、民主主義の否定につながる。選挙での国民の選択とは関わりのないところで、政権の枠組みが変わったり首相が交代するということを、これ以上繰り返すべきではない。
   この意味からも先の総選挙以降、安倍政権、福田政権と国民の選択とは関わりなく首相の交代が繰り返されてきたことは、決して望ましいことではない。福田政権は、総選挙で国民の信任を得て正統性を獲得することを恐れるべきではない。そのためにも、衆院での再可決という憲法上の権力を堂々と使うべきである。緊急避難型の政権運営に徹しているかぎり、政権党として政治を動かすという責任能力は退化するばかりである。
 衆院での再可決に対して野党が参議院での問責決議で対抗するという見方があるが、問責決議に憲法上の根拠はない。議院内閣制を作動させる衆院優越の仕組みを確立するためにも、問責決議を恐れて憲法上の政治権力の行使をためらうべきではない。「ねじれ」は短期間には解消されないであろうことを考えれば、議院内閣制を作動させるための両院の関係、役割を明らかにするためにも、このプロセスは必要だ。
 この攻防は結局、どちらが国民を納得させられるかの競い合いである。衆院再可決に国民の納得が得られるなら、参院も簡単に問責決議は出せなくなる。あるいは再可決で政治を動かそうとする政権党に対し、野党が問責決議をタテに国会を止め続けた場合、国民の批判はどちらに向くか。この土俵で勝負することを恐れるところから、行使すべき権力を行使しないという無責任政治がはびこることになる。政局運営においても野党の失敗や混乱に乗ずることばかりを考えるようになってしまうだろう。

 こうした政党の液状化に歯止めをかける唯一の道は、選挙を戦いぬくことである。政権選択選挙の形式(小選挙区、マニフェスト)が「タガ」となって、民主党には新たな求心力が生まれつつある。自民党も、解散を先延ばしして延命を図るということではなく、明確な政権構想を掲げて政権選択選挙を戦いぬくことに集中すべきだ。
 与野党、とりわけ自民党と民主党はこの国会論戦を通じて、政権選択を問うべき課題、争点を絞り込み、国民の前に提示して、政権選択選挙への道すじを確かなものとすべきである。

国民主権・住民自治の原理で政治を動かす

 一九九四年、衆議院選挙に小選挙区制が導入された。その前年、一九九三年には衆参両院において地方分権推進が決議された。〇三年統一地方選ではじめてマニフェストが登場し、同年の総選挙も形の上ではマニフェスト選挙となった。〇五年総選挙を経て、小選挙区・マニフェストをツールとした政権選択選挙は定着しつつあるといえる。また〇七年統一地方選挙でマニフェストは標準装備となり、会派マニフェストを媒介に議会改革も実践的なテーマとなりつつある。こうして政治の構造改革はインフラ整備の段階から、それらをいかに使いこなすかという段階へ向かいつつある。
 国政においては「ねじれ」という事態に直面するなかから、議院内閣制の議会をどう動かすかという課題が避けて通れなくなり、これまでは議院内閣制の形式をとりつつ実質は官僚
  内閣制であったことに気づく、ということが始まっている。大連立騒動に見られたように、官僚内閣制のシステムのまま議会を動かそうとすれば、ここまでの政権選択選挙の定着に逆行すること、その道を封じるところまで、有権者のなかにおける政権選択選挙のインフラは蓄積されている。
 地方議会においても、会派マニフェストなどを媒介に、「議会としての合意形成」の意味が見え始めると、これまでは「議場で個々の議員が陳情しているだけ」(合意形成のプロセスは執行部に「お任せ」)という意味に気づく。議会は首長の追認機関ではない、チェック機関だから与党も野党もない、という「まっとうな」理解でも、ともすれば、執行部提案にイエスかノーかを決めるのが議会だ、という理解にとどまりがちである。しかしこれでは依然として、合意形成プロセスは執行部・首長に委ねられたままであり、議会はその結論に対してイエスかノーかという話になる。議会が市民の合意形成を首長に委ねたままでは、「強首長」になるのは当然だ。議会は議会として市民の合意形成を行う、そのために議員同士が討議し、市民にも参加してもらう―そういうことができれば、議会の力は圧倒的に強くなる。これが今問われている議会改革の地平だろう―というところまで来つつある。
 こうして「国民主権・住民自治の原理で政治を動かす」ことが、国政でも地方でも実践的な課題であることに気づくようになってきた。
 小選挙区もマニフェストも、永田町発ではない。それを取り入れざるをえないところまでの「外」からのうねりがあってこ

そ、可能となった。それは、政権選択選挙のインフラ整備に逆行する流れを封じるところまで蓄積されている。
 分権改革も、省庁の抵抗を押し切る本来の意味の政治主導は、官僚内閣制の下では期待できない。三位一体改革が補助金改革としては画期的であった半面、権力闘争としては中央省庁対地方自治体の分捕りあいの構図となったことは、それを端的に示している。この延長には、分権改革を推し進めるエネルギーは生まれない。参院選の結果を受けて、永田町では「分権は終わった」という雰囲気である。ここが踏ん張りどころだ。この限界を乗り越えるためには、地に足のついた住民自治のうねりが不可欠である。
 地方分権改革推進委員会は五月に発表した「基本的な考え方」で、「地方政府の確立」を明確に打ち出した。地方分権とは、単に国の行政権限を地方に移すということではない。国の政治機関が決定してきたことの一部を(生活の質に関わることの多くを)、自治体の政治機関(議会と首長)で決めるという意味だ。分権改革とは中央集権の後始末ではなく、国民主権を実体化するための政治構造改革の一環(住民自治の原理で政治を動かすための改革)である。
 地方政府という以上、政治の対立があるのは当然であり、有権者が選挙でどちらかを選ぶためには政党を論じることも当然だ、ということになる。反対に国の下請け機関なら、決められた公共サービスを実務的に提供すればよいのであるから、政治的対立や政党は不要だということになる。こうした「居眠り自治体」は、官僚内閣制の下請け機関にほかならない。
 国政においては官僚内閣制から議院内閣制へ、国民主権
  の原理で国政を動かし、政権選択選挙の道すじを確かなものとすること。地方においては、地方政府の確立にむけ、住民自治の原理で地方政府(首長と議会の二元代表制)を運営していくこと。こうして国民主権と住民自治の原理で政治を動かすための政治構造改革は、新たなステージの幕を開けつつある。
 政治文化においても深化が求められる。ともすれば選挙は「非日常」の出来事のように扱われるが、選挙は日常の所作であり(イギリスでは投票日のみが決まっていて告示日すらない)、平常心で政権選択の一票を投じるという政治文化をつくるべきだ。また生活に関連した多くの事柄が身近な地方政府で決定されるようになればなるほど(すでに国より自治体に納める税金のほうが多くなっている)、政党を「使いこなす」生活感覚を身に付ける必要がある。政治が極端から極端に振れることが、二大政党による政権交代ではない。そういう発想が残っていると、政党間の対立もまた「非日常的」なものに思われる。そういう発想から転換するべきだ。
 住民が自分たちの住むまちを、こうしたい、こうすればもっとよくなると思い、行動し「なぜこれができないのか」と壁にぶつかる―一人でも多くの市民がそういう経験をすれば、分権改革はすぐに理解される。政治をそういう日常の所作としよう。パブリックの観点から「使い勝手の悪い」制度やシステムを「使い勝手のよい」ものに変えていく、その合意形成のための知恵をしぼろう。政党に対しても、「この政党はこう使える、使えない」というくらいの生活感覚を持つ、そういう政治文化(政治参加の文化)を醸成していこう。