日本再生 341号 2007/10/1発行

逆転国会の論戦を政策選択選挙へと絞り込む
―福田内閣はそのための選挙管理内閣たりうるか
小沢民主党はそのための道筋をつくれるか

二大政党が政権交代をかけて向き合う政策選択選挙にむけた舞台は整いつつある
―問われる主権者の責務

参院選の結果、国会は衆参両院の決定が異なるという歴史的な局面を迎えた。「いかなる法案も両院の協議なしには成立しない」という、日本政治がこれまで経験したことのない領域だ。民意が与えたこの舞台で、二大政党が政権交代をかけてどう向き合うか。所信表明まで行った総理が代表質問をドタキャンして辞任するという、ありえないようなドタバタ劇で幕開けが少し遅れたが、いよいよ逆転国会の論戦が始まる。
逆転国会の論戦を政策選択選挙へと絞り込む、そのための舞台装置は整いつつある。はたして役者はいるのか―この問いにとどまっていては、主権者運動の役割は果たせない。「役者がいるか」という「ないものねだり」ではなく、既存政党を否応なくその舞台へ迫り出していくまでの自覚と責務が、主権者には問われる。
参議院で野党が過半数を占め、野党第一党党首を首班指名した例は(戦後直後を除けば)八九年と九八年にもある。しかしこの時には第一党は依然として自民党であったため、議会の運営権は与党側にあり、過半数割れを公明党との連立によってカバーすることができた。しかし今回は民主党が参院第一党として参議院で議長、議院運営委員長を確保した。民主党
  には次のような大きな権力が与えられ、同時に説明責任が課せられる。
@問責決議 不信任案のない参議院における「伝家の宝刀」。法的な拘束力はないが、場合によっては閣僚を辞任に追い込むこともできる。与党は法的な拘束力はないと「無視」することもできるが、これは世論を敵に回さないかぎりの話である。
A参院先議 年金流用禁止法案などを参議院で議員立法として成立させることによって、政策のイニシアチブを握ることができる。民主党には、「どうせ否決される」という前提でのこれまでの「対案」とは比較にならない説明責任が求められる。また参院先議法案が世論の支持を得た場合、それを衆議院で否決するのであれば、与党には相当な説明責任が求められる。
B審議放置 衆院が可決した法案を放置して、審議未了廃案としてしまう。この場合、衆議院における再可決は不可能になる。(一種のサボタージュであるから、世論の圧倒的支持が不可欠。)
C法案修正 衆議院が可決した法案を修正することができる。衆議院には参議院の修正を受け入れるのか、三分の二の賛成を得て元の法案を再可決するかが問われる。(修正が世論の支持を得た場合、それを三分の二をもって「否決」するには、与党は相当な説明責任が求められる。)

D予算関連法案 予算案本体は参議院で否決しても衆議院の議決が優先するが、国債発行などの予算関連法案は参議院で止めることができる。(予算案が成立しても関連法案が通らない、という場合にどうするかは「未体験ゾーン」。「止める」ことが国民の納得を得られるなら、必要最低限の補正予算を通して「話し合い解散」という選択もありうる。納得を得られるかは、「信を問う」に足りるまで争点が絞り込まれているかにかかるだろう。)
E国政調査権 年金やインド洋での燃料補給など、これまで野党がどれだけ要求しても出さなかった資料を、「院の決定として」出させることができる。(ただし慣例上は全会一致なので、多数決でこれを乱発することがどこまで世論に支持されるか。反対に世論の支持を得た場合には与党も反対はできないので、全会一致も可能になる。)
F国会同意人事 日銀総裁や各種委員会委員の選任について拒否できる(この場合、新たな人選が必要になる)。天下りなどのチェックができるが、拒否権の乱発になれば世論の支持は得られない。政府は世間に説明できる人選に留意しなければならなくなる。
 こうしてみると逆転国会というのは第一に、議会というオープンな場の論戦を通じて、どちらが国民を納得させられるかの競争であることが分かる。ここでのポイントは議会の活性化であり、立法府の機能強化である。
 「『議場ですべてオープンに議論すればいいじゃないか、国民の前で議論して決めたらいい』という小沢さんの意見は、そ
  の通りだと思いますね。それを今までは政権交代がないので政権与党と官僚が、言ってしまえば一種の談合のような形で、国民に見えないところで決めてきたわけです。そして情報非公開と。参議院で与野党が逆転して、野党が国政調査権を発動できるようになると、例えば海上自衛隊によるインド洋での給油の実態なんかも明らかにされる。だからテロ特措法の延長をめぐって安倍さんが政権を放り出したりするようなことが起きる。そういう大変化が起こっているわけです。裏で官僚とうまく調整して、というようなことは政治主導とは言いません。議会できちんと議論して決めるようになる。だから議会はものすごく大切です」(北川正恭氏・11面インタビュー)
 与党単独での法案成立が難しくなったなか、福田自民党は民主党との協議を通じて「柔軟に」接点を探る意向のようである。政策をめぐる与野党の協議はおおいに結構だが、その舞台はあくまでも第一義的に議会である。国会論戦の活性化―立法府の機能強化のための政党間協議であって、逆ではない。議会での論戦を通じて与野党の対立点、争点が絞り込まれ、国民に選択肢が明らかになることが前提である。その時には「解散総選挙で信を問う」のもひとつの方法であり、政党間協議で接点を見出すというのもひとつの方法であろう。
 主権者は「議会できちんと議論して決める」「国会論戦の活性化―立法府の機能強化のための政党間協議であって、逆ではない」ということを厳格に要求し、ここから国会や既存政党の動きをチェックしていかなければならない。閉ざされた事

前審査や談合をまとめる「能力」ではなく、開かれた議場での論戦に通用する能力へ、議員の資格要件を変えていかなければならない。
 付言すれば、「国政調査権」や「国会同意人事」は賢明に使いこなすことができれば、「官僚内閣制」といわれる与党と霞ヶ関の関係に、二大政党が政権交代をかけて向き合う時代の緊張感を走らせることができる。自民党も、官僚が作った案を党本部の中の閉ざされた部会の議論で承認するというこれまでのやり方ではやっていけない。議会として議論し、議会として行政府と向き合うという議会人の作法を、与野党ともに実践的に身に付ける(官僚内閣制から議院内閣制―議員内閣制ではない―へ)チャンスである。
第二に国民を納得させるということがポピュリズムの範疇に終わるのか、パブリックの輿論を形成する糸口となるのかが問われることになる。先に挙げた七つの権限からも明らかなように、逆転国会のマネージは与党にとっても野党にとっても、世論の支持が決定的である。問題はその質をどう高めるか、だ。
 この間、国政選挙においても地方選挙においても、シングルイシューの選択が大きな力を発揮してきた。たしかにそれは、「自分の一票で政治が動く」ことを実感させるものではあったが、同時にその実感をマニフェスト選択へと高めていくことが決定的に重要であることも明らかだ。
 本来、構造改革とは「一点突破全面展開」のような単純な話
  ではなく、複合的な政策パッケージである。既得権益を打破するエネルギーを得るためには、「一点突破」のアジェンダ設定が必要な場合もある。しかしいまや残されている課題、そして早急に着手しなければならない課題は、年金ひとつとっても「一元化か、現行システムか」という二項対立のシングルイシューで選択できる話ではない。財源をどうするか、生活保護など他の社会保障との関連はどうするのか、など多様な論点を整理したうえで選択肢を示さなければならない。このプロセスが「生煮え」のまま、次の総選挙もシングルイシューでの選択にしてしまえば(政策選択として成熟させることができなければ)、「自分の一票で政治が動く」という実感は、衆愚政治へと堕すことになる。
 「政府・与党は当面、民主党の主張を取り入れないと法律はできないと考えたほうがよい。対立法案でどこまで妥協できるか、仕分けが大切になってくる。その仕分けをするのが国会論戦であり、民主党が積極的に法案を提出する方針を打ち出しているのは歓迎すべきことだ。妥協し合わないと法律はできないので、妥協の文化を日本の政治に根づかせることが必要だ。足して2で割るのが妥協ではない。互いに『自分はこれを優先する。しかし、ここは決定的ではないから取引しよう』といった、もう少し複雑な妥協だ」(飯尾潤・政策研究大学院大学教授 読売8/23)
 

 こうしたプロセスを経ることなしには、政策をめぐる与野党の優先順位や設計図の違いは、見えてこないだろう。政策選択へと絞り込むためにはこうしたプロセスが不可欠だ。国会論戦や政党間協議を通じてこうした論点整理をどこまで見せられるか、これを福田内閣と小沢民主党に要求し、その緊張感を与え続けていくことが主権者運動の責務である。そしてここから、二大政党が政権交代をかけて向き合う時代の議会政治のルールの糸口をつかむべきである。(政治改革の歩みを、官僚内閣制から議院内閣制へとしてさらに前へ進めること。)
 マニフェストは国会論戦の集積を体系化するもので、選挙の直前につくるものではない。逆転国会の論戦を自民、民主それぞれが次期総選挙マニフェストを整理していく舞台とすること、ここから選挙管理内閣としての役割を要求していこう。

社会的連帯を生み出す糸口となる構造改革なのか、
社会的分裂を形成しただけの構造改革なのか

―構造改革20年の総括と、新たな価値への合意形成

 安倍総理の辞任直前に報告された平成二十年度予算概算要求は、要求段階では過去二番目の水準となった。とくに「重点施策推進要望」のうち約半分は公共事業である。また自民党総裁選を前に朝日新聞社が同党の都道府県連幹事長らに行ったアンケートによれば、「一番力を入れてほしい政策」では経済格差の是正が最も多く、今後の経済政策では、三十二
  道県が歳出抑制より公共事業・財政出動を期待している。一人区に限らず、都市部の複数区でも「参院選で『(土建)業界の人が参っている』とさんざん聞いた。財政出動は必要」とある。
 それでは福田政権で改革の後戻りが始まるのかといえば、客観的にもそれは難しいだろう。バラマキたくても、もはや財源がないことは明らかだ。そして「あれもやります、これもやります」という「公約」には、有権者のほうが「財源はどうするのか」とチェックする。「マニフェストで選ぶ」有権者の比率は、都市部よりも郡部のほうが高い。民主党の子育て支援や農家への所得補償についても、「○○をしてくれる」というよりは、生活の実際に目線を合わせる政治姿勢のあるほうに期待した、という面が強い。また経世会系および社会党系議員が議席を減らし続けていることは、依存と分配を終わりにするという民意は〇五年総選挙でも今参院選でも一貫している、といえる。
 では何が問題なのか。
「…かつての自民党のばらまき政治、それが行き詰まった。小泉さんはまさにそこを壊したのでしょうけれども、今回の選挙結果は、ばらまき政治に対する懐かしさというか、小泉政治に対しての不満の表れというふうに単純に思うのは、やっぱり危ないのではないかと思います。私は、かつてのばらまきをどう切り替えていくかの展望が不十分だということに対する不満だというように受けとめるんですけれどもね。

 地方分権についても、国と地方との関係に関しても、地方は確かに覚悟を示しつつある、あるいは覚悟を持ちつつあると思います。でも、この何年間か政府がやってきた分権対策というのは、補助金は二分の一から三分の一にするとか、結局、補助金の根っこは切らずに、つまり補助金の装置は残したままお金をつくり出して、それで三兆円税源移譲したという、ある種まやかしの構造だったわけです。それに対しての不十分さ、不満というのがあったのではないでしょうか」(増田寛也氏・参院選総括 言論NPOホームページhttp://www.genron-npo.net/manifesto//002770.htmlより)
 まさに問われているのは「改革の続行か、後退か」「改革の影なのか、改革の不徹底なのか」ではなく、社会的連帯を生み出す糸口となる構造改革なのか、社会的分裂を形成しただけの構造改革なのかという視点から、構造改革二十年の総括を共有し、今後の「選択と集中」の方向をどう定めるのかということである。言い換えれば、構造改革とグローバル化による「二つの国民」(佐々木毅・読売8/12)への分裂を前提として(旧き良き「総中流」「護送船団」の時代にもどることは不可能である以上)、ここからバラマキに替わる次代の「選択と集中」の方向をどう展望していくのかということである。
 「二つの国民への分裂」を前提にすれば、グローバル経済市場の主体的プレイヤーとなりうる人と圧倒的多数の普通の人に、同じ枠組みで人生設計をしろというほうが無理だということだ。前者はより自由と自立を求めるだろうし、後者にとっては何よりも安心が第一ということになる。この両者の間で合意しうる(妥協しうる)「社会的公正」とは何か。ここに経済的発想
  に基づく政治の技が必要となる。そこから社会的連帯も可能になる。
 市場主義とナショナリズムを組み合わせた「権威主義的市場主義」からも、市場主義を否定して国民を守れという格差反対論からも卒業して、社会的公正のバランスをどうとるか、社会的連帯のバランスをどうとるかをめぐって、次代の(グローバル化時代の)社会的価値を提示できるか。まさに新しい価値を生み出す政党の役割が問われている。
 自民党大敗の一因は、たしかに小泉改革によって地方組織が弱体化したことだろう。しかし小泉以前の「旧い自民党」に戻れるのかといえば、そうではあるまい。「国民が自民党に期待するのは…時代に即した新しい保守政党として、規制緩和と弱者救済のバランスをとることではないだろうか」(中西寛・毎日8/29)。民主党も「年金一元化・税方式」「農家の所得補償」「子育て支援」を、「改革の影への手当て」としてではなく、次代の社会のために必要な選択的投資であると言い切れるか、だろう。
 地域振興の鍵は分権と経済だ。分権のさらなる促進と自立の基盤となる地域経済再生は、まさに一体の課題である。
 地方分権改革推進委員会は「基本的な考え方」で、「自治行政権のみならず自治財政権、自治立法権を有する完全自治体を目指す取組み」を次なる分権改革の課題とし、「地方政府の確立」を打ち出している。国が決めたことを執行するだけの「出先機関」から、「自治行政権、自治財政権、自治立法権を十分に具備した地方政府」(地方分権改革推進委員会)への転換であり、中央政府の都合による「分権」から「自立し

た地域とその連帯」としての自治分権である。だからこそ、自立の基礎となる地域経済の再生とその経営の確立が急務となる。「改革の影」への手当てという発想では、この「選択と集中」は見えてこない。
 自律型経済のためには、地域資源を活用する智恵(「ないものねだり」から「あるもの探し」へ)とそれを支援する手立て、仕組みが必要になる。第一次産業を基礎に、「生産」(第一次)から「加工」(第二次)「販売、観光」(第三次)までを足し上げた「六次産業化」の智恵が鍵となろう。その転換のために、官需依存・お上頼みの構造の「負の遺産」をいかに清算するか。「過疎地の問題は言いかえれば農山村問題、つまり田園の魅力をどう作るかです。ところが農林水産省は、農業を育てようとも、農村の魅力を高めようともしていません。…今、農水省は二〇ヘクタールを基準にした専業農家だけを育てる方針を採っています。…つまり農水省の主張していることを実行すれば、各市町村に二〇軒か三〇軒の農家しかなくなる。これでは郵便局も理髪店も成り立ちません。確実に過疎化し、人が住めなくなります。兼業農家潰しは地域破壊です」(堺屋太一・「中央公論」10月号)。
 異常なまでの東京一極集中も、官需依存・お上頼みの構造の「負の遺産」である。「知価革命の生じた八〇年代からこの二五年間に、首都圏の全国に占める文化と経済の比重が高
  まった国は、主要国では日本だけです。他の国は全部下がっています。(アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、さらに韓国や中国、インドでも)日本だけなぜ東京に一極集中しているのでしょうか。それは、官僚が金と権限で無理に集めているからです」(堺屋太一・同前)
 0〜14歳人口が全国で一番低く、若い人を地方から吸い集めないと経済が維持できないという構造の上に発展しているのが、東京一極集中の姿である。この構造を続けるのか。その上で中央に集約した一部を「影の部分」への手当てに回す、という話なのか。それとも「自立した地域とその連帯」というあり方を目指して、そこへの移行プロセスをどうマネージするか、という議論を進めるのか。分権のあり方についての価値軸を示せ、そうでなければマニフェストたりえないと、主権者から政党に要求しなければならないだろう。
 立法の分権の突破口となる「上書き権」(政省令より条例を優先させることを体系づける)も重要だ。霞ヶ関の抵抗を突破するのは国民の支持だ。自治立法権を持つということは、地方議会が本当に地域の問題を地域で解決する力を持つということだ。住民が、うちの議会は大丈夫だと思えるような議会にならなければ、「総論賛成」の国会議員にこの問題の重要さを気づかせることは難しいだろう。議会基本条例の制定運動は、その「気づき」となりうるはずだ。

 また政党が地方政治において「永田町の論理」に従属した存在でしかなければ早晩、市民から見捨てられることになる。地域の問題に向きあい、その解決を提示する能力を持つことなしに、政党の地域における存在感や足腰は生まれない。自民党の地方組織崩壊は本質的にこの問題である。民主党もその「根」を確実に持たなければ、「政権批判の受け皿」以上にはなれないだろう。
 「次に望まれるのは『民意集約型政党』の整備である。自民党でも民主党でも、この課題は同じである。官僚内閣制のもとでは、有権者の要望をそのまま省庁の担当者に伝える『御用聞き』政治家は多かった(地方議会では、議場で「陳情」している議員が多かった/引用者)。しかし要望を集約して、政策のかたちに変換する政党独自の機能は、弱かったといわざる
  を得ない(地方においては、議論を通じて二元代表の一方である議会としての意思へ集約する機能はきわめて弱かった/引用者)。社会に根を張り、その多様な要求や意見を集約して、体系化していく政党、そうした政党が望まれている」(飯尾潤「日本の統治構造」中公新書)。
 民意を体系的に集約すれば、そこに一定の社会的価値を提示することがともなう。それが政党に求められる機能であるなら、議員の資格要件は(国政、地方とも)、議論のプロセスを通じて民意を集約できる議会人としての能力と作法が必要条件だということになるだろう。すでに開始されたこの実践的過程を自覚的に推進していくことこそ、独立変数としての主権者運動の責務にほかならない。これが、五回大会(〇八年一月六日)のテーマのひとつとなる。