日本再生 333号 2007/2/1発行

行動的な蓄積が見えてきたローカルマニフェスト運動と
賢明な政策判断を下そうとする有権者市場

〜既存政党よ、「ずれまくり」でいいのか?!

 
蓄積するマニフェストとチャラになるマニフェスト
マニフェスト型選挙を後退させるな!

 元タレント候補が既存政党の推薦を受けた官僚出身候補に圧勝した宮崎県知事選は、既存政党と有権者との乖離をものの見事にさらけ出した。タレント候補の知名度? 無党派の反乱? 保守分裂が敗因? 地方選と国政選挙は関係ない? こうした類の「分析」では、有権者の声をいっさいキャッチできていない、かすりもしていないという既存政党の現状(機能停止)から「ノミのひと跳ね」もしない。
 「変えたい、変わろう、変えよう」という有権者が求めているのは、“ないものねだり”ではない。グローバル化した市場経済が生活で見えているからこそ、“ないものねだり”ではなく知恵をしぼって“あるもの探し”をし、どうやって自力で稼ぐかを考える。その視線から一票の選択をしようとしている。
 グローバル市場への対応はまず、東アジアに生産ネットワークを築くことで新たな国際競争力と新たな市場を獲得するところに蓄積された。並行して、ジャパン・クールと呼ばれるようなソフトパワーが形成されてきた。(政府が「正しい日本食」を認定しよう、などというセンスでは、こうしたソフトパワーを外交資産として活用できないのも当然だ。)
 こうした市場経済の変化に生活で対応し、“あるもの探し”
  から自力で稼ごうというところに、「賢明な政策判断を下そうとする有権者市場」が準備されつつある。北海道には雪を目当てに台湾から観光客が訪れ、ニセコのパウダースノーにはオーストラリアからスキー客がやって来る。徳島の上勝町では、料亭などで使われるツマの圧倒的シェアを誇るおばあさんたちの「葉っぱビジネス」が、年間三億円に迫ろうとしている。市場経済が生活で共有され、蓄積される度合いに応じて、「政策選択」「賢明な政策判断」という意味が主体的に分かる有権者意識が蓄積されていく。
 宮崎県知事選でこうした有権者には鮮明に見えていたもの、反対に「無党派」とか「政治不信」とかいう人たちにはまるで見えていなかったもの、それはマニフェストである。東国原氏の勝因は三人の候補者のうち唯一、マニフェストを掲げたことであるといっても過言ではないだろう。官僚でもない、行政経験もない新人のマニフェストは、いわゆる「数値目標、財源、手順」などといった点で、詰め切れていないのは当然だ。しかし「宮崎はこのままでよかっちゃろかい」という訴えからは、「変えたい、変わろう、変えよう」という思いが、どの候補よりも真剣に伝わった。そして「宮崎がんばいよ宣言」「宮崎どげんかせんないかんが宣言」「宮崎はかわらんといかんが宣言」という「具体策」の提案からは、「お任せ」ではなく「県民総力戦」で意識改革をし、知恵をしぼって“あるもの探し”から未来をひらこうというメッセージが伝わってくる。
(http://sonomanmakai.net/manifest/)

(このマニフェストをどのように現実の行政に落とし込んでいくか。これが次の課題になる。県庁が県民の役に立つ公共物として再生できるか、県議会が県民の民意を反映する場として再生できるか。これが選挙で選ばれた知事マニフェストへの対応を通じて試される。それこそが県政への信頼回復の唯一最大の道である。)
 こういうマニフェストを提示して、有権者の「変えたい、変わろう、変えよう」を受け止め、「賢明な政策判断」のための選択肢を示す―これがまったくできていないこと、これこそ既存政党の敗因のすべてである。市場経済を生活で共有している有権者と乖離しきってしまえば、争点設定もずれまくりになるし、選択肢も示せないのは当然だ。
 宮崎県知事選と同時に行われた山梨県知事選では、自民党は推薦候補すら決められなかった。宮崎も山梨も保守系の根深い対立にくわえて「郵政選挙」の後遺症を抱え、身内の論理にどっぷり浸かりきっている。これでは、地域に根を張っているからこそ時代や市場の変化に生活で対応できる人々(いわゆる保守系無所属といわれる人々)が離反するのは当然だろう。自民党支持層=保守層が無党派化している、という認識では、こうした風景は視野に入らない。
 民主党はいずれの選挙でも独自候補を立てることができなかった。保守系の強い地域であえて挑戦して「県政野党」になりたくないということか。これでは有権者の「変えたい」には、かすりもしない。これでどうやって参院選一人区で勝負するのか。民主党が野党第一党としての役割を果たしていない
  という人は、七割に達している(朝日新聞1/23)。
 争点設定も「ずれまくり」となる。安倍・自民党は憲法改正を、小沢・民主党は格差是正を選挙の争点とするようであるが、「憲法改正か、格差是正か」が選択肢たりえるのか?これでは、賢明な政策判断を下そうとする有権者に訴えるべきものは持てない。政党が政策選択の提示たりえるマニフェストを出せなければ、マニフェスト選挙は後戻りさせられることになる。
 小泉改革を継承し「成長」「上げ潮」路線を標榜するなら、規制緩和や行政改革のいっそうの推進など、成長戦略の骨格にかかわる政策で争点設定するのが安倍政権の本筋であろう。(小泉マニフェストは郵政造反組の復党でチャラになったのか?)そこをあいまいにすれば、根強い改革阻止圧力にズルズルと押し戻されることになる(なりつつある)。
 民主党は、安倍政権のこうした改革からの後戻りをこそ、批判すべきである。「憲法で、格差問題から争点をそらそうとしている」ということでは、昨年の郵政解散の二の舞だ。憲法を逃げるかどうか、ではない。日本型社会主義をバッチリ残したままで、成長は可能なのか―このことを問わずして「成長か、格差是正か」では、「改革疲れ」に集票の組織戦の焦点を合わせることにしかならない。(〇四年参院選で自民党を上回り、〇五年総選挙でも「郵政」に代わる争点として設定した)国民年金を含む年金一元化のマニフェスト(改革競争のマニフェスト)はどう蓄積されてきたのか。それとも政権をとれなかったマニフェストはチャラなのか。

 徒手空拳の素人が唯一マニフェストを掲げて、中央官僚出身・政党推薦の有力候補二人に圧勝した宮崎県知事選挙(投票率は5ポイントアップ)は、マニフェスト型選挙を誰がどこで蓄積してきたのか、誰がどこでチャラにしているのかを象徴する光景でもある。

官治分権から自治分権へ
有権者の意思を明確にする「強い一票」を

 〇三年統一地方選(知事マニフェスト)から始まったマニフェスト型選挙は、今年の統一地方選でマニフェストサイクルの一段階を迎えることになる。ローカルマニフェストの先進地域では、すでにマニフェストに基づく目標管理によって行政が運営され、検証され、改善されるというPDCAサイクル(plan計画―do実行―check検証―act改善)が回り始め、このなかで業務の品質管理、マネジメントが行われるようになっている。したがって情報公開の課題は、このサイクルを一次データの開示はもちろん、いかに普通の市民にもわかりやすく公開するか、になってくる(政務調査費やら談合やらといった不正のチェック、という段階は卒業)。ここから市民にとっては、進捗状況のチェックにとどまらず、政策の満足度や新たな政策ニーズの発掘といった政策形成の主体としてマニフェストの検証に参画する、という新しいステージが開かれてくる。マニフェストのPDCAサイクルとその公開によって、政策形成論議の
  ための共通の土俵が形成されうるところまで、ローカルマニフェストの実践は蓄積されつつある。
 さらに今年の統一地方選では首長のみならず、議会マニフェストによる選挙戦が展開されるところまで、マニフェスト型選挙の政治文化は重層的に深化・蓄積されつつある。賢明な政策判断を下せる有権者市場をより豊かなものとするために、この統一地方選は極めて重要な組織戦となっている。問われているのは、「清き一票」ではなく明確な政治意思を持った「強い一票」をいかに組織するかだ。
 それはまず第一に、市場経済を生活で共有し、そこから「賢明な政策判断・政策選択」を下そうとする有権者に的確な選択肢を示し、その政治意思を集約することである。ローカルマニフェストのコアの組織戦は、この領域となる。“ないものねだり”ではなく知恵をしぼって“あるもの探し”をし、どうやって自力で稼ぐかを考えようとしている有権者に、「そうだ!」と響くマニフェスト、そういう有権者が「よし、いっしょにやろう!」と起ちあがる、そういうマニフェストの組織戦である。これが見えてきてはじめて、「そうなったらいいな」という期待票が動く。
 「国から地方へ」を掲げた小泉政権の三位一体改革によって、三兆円の税源移譲がこの六月から始まり、多くの人にとっては、国よりも自治体に納める税金のほうが多くなる。これまで国に納めていた所得税の半分以上が市町村や都道府県で直接使われることになるため、自治体の質が直接住民生活にはね返る。

 「納税者の視点に立つ改革を目指す首長と議会を選び、税金の使途と結果を十分説明する財政情報の公開や、住民の監視と住民参加を強める自治体にするのか。それとも、旧態依然の感覚しかない首長と議員を漫然と選び、税の使い方を実質的に自治体の官僚組織に委ねてしまうのか。それを選ぶのが、今回の統一選になる」(読売1/4「解説」青山彰久) 
 「強い一票」の多数派形成の領域はここである。夕張市の破綻は「お任せ」で首長や議員を選んでいるような地域は倒産する、そういう時代の到来を告げている。放漫経営、粉飾まがいの会計操作を続けてきた歴代市長とその予算を承認し続けてきた市議会の責任は当然問われるが、彼らを選び続けてきたのもほかならぬ夕張市民である―これが「他人ごと」ではないと分かるから、多くの人が注目し続けている。
 多数の人は「これまでのようにはやっていけない」というところから、市場の変化を生活で追認する。ここから必死に「生活の知恵」を絞れるか、「最後は何とかしてくれる(国が? 市役所が? 誰が?)」という習性をまだひきずるのか、「自分だけは助かろう」となるのか。多数の普通の人、普通の自治体はここで今、自治の力が試されようとしている。だから夕張は他人ごとではないのだ。ここで自治の力を問う、そういう組織戦がどれだけできるのか。既存政党はそれにどこまで関われるのか、存在感を示せるのか。
 「財政再建団体となる夕張市が財政再建計画の骨格を一
  部見直し、住民負担の軽減を打ち出した。夕張市が昨年十一月、『全国最低の行政サービス』『全国最高の市民負担』を柱にした過酷な再建計画の骨格案を自らまとめた背景には国(総務省)の厳しい姿勢があった。今回の軌道修正を国が容認したのは、安倍内閣の支持率が低下する中で統一地方選・参院選を控え、ことさらに『地方いじめ』をしているとのイメージを避けたい政治判断が働いたと言える」(毎日1/23)
 「自民党大会では〜『小泉改革で置き去りにされた』との思いが地方に強いことを踏まえ、首相は『地方の活性化なくして国の活力はない。頑張る地方を応援する』と強調した」(産経1/18)
 このような問題設定から、「強い一票」を呼び覚ますことができるだろうか? 再建の前に地域が崩壊しかねないというが、地域が崩壊するか再生するかは、その地域住民自身の意思で決まる。「誰かが何とかしてくれるだろう」「最後は国が面倒を見てくれるだろう」では、ぶら下がりが延命することはあっても、それで地域が本当に再生するのだろうか。
 補助金・交付金を一括して地方に渡すという民主党マニフェストは、「どう使うかは地方の自主判断、破綻しても自己責任」という前提だろう。それなら「地方いじめ」批判ではなく、地方の自立を阻む中央の官僚統制をこそ徹底的に批判すべきではないか。(官僚批判は自治分権・住民自治の強化と結びついてこそ意味がある。)

 今日の地域間格差は単純に、カネのある都市vsカネのない地方という構図ではない。総中流・護送船団の習慣が体質化しているぶら下がり・根なし草(大都市部に圧倒的)と、グローバル経済が生活で分かるからこそ、知恵を絞って自力で稼ぐことのできる部分(圧倒的に地方)との「生きる力」「生活の知恵」の格差である。大企業の本社が収めた税金である、という意味も分からず「東京の税金を地方に回すのはケシカラン、自分らに寄こせ」ということが「タックスイーターからタックスペイヤーへ」だと勘違いしているところに、自治分権の主体性は生まれるはずもない。
 「納税者の視点に立つ改革を目指す首長と議会を選び、税金の使途と結果を十分説明する財政情報の公開や、住民の監視と住民参加を強める自治体にするのか。それとも、旧態依然の感覚しかない首長と議員を漫然と選び、税の使い方を実質的に自治体の官僚組織に委ねてしまうのか」(読売・前出)。こうした有権者の意思の二極化こそが事の本質だ。
 ローカルマニフェストの実践と蓄積は、まさにグローバル経済を生活で共有する度合いや形態の違い、そこから生まれる
  生活の知恵の格差、蓄積の格差に応じて多種多様である。「強い一票」を、政務調査費や談合などの無駄づかいを追及する、というところから始めるしかないところもあるだろう。政策を選ぶ・政策で業績評価するという政治文化を根づかせる一歩、という組織戦もあるだろう。自治基本条例や議会基本条例(二元代表制を使いこなす)といった自治分権・住民自治の内実をめぐって「強い一票」をどう組織するか、というところもあるだろう。
 こうした格差(進んでいるか遅れているか、高次元か低次元か)が問題ではない。相互に連携して、気づき・学びあいながら政治市場を開拓していくことができるか、が重要なのだ。
 市場経済が生活で共有されている有権者は、既存政党の支持者のなかにもいるし、もちろん「既存政党の支持者になる意思はないが、二大政党が機能するためにやるべきことがあればやる意思はある」という有権者には、市場経済が生活でそれぞれ共有されている。こうした多様な有権者の「強い一票」を組織し、政策選択市場の形成へと再編していく有権者再編の地力が試されている。