日本再生 320号(民主統一改題50号) 2005/12/1発行
第三次小泉内閣の性格と役割、それと向き合う前原民主党の課題 「あろうべき二大政党」確立へのとば口を開けられるか | ||
小泉マニフェストの進捗 マニフェストによる政党の紀律化、その糸口は見えてきたか 総裁任期が残り一年を切り、「小泉改革」は総仕上げの段階にはいった。ポスト郵政の構造改革―政策金融、道路財源・特別会計、三位一体、医療制度など―にメドをつけ、総選挙で圧倒的な支持を得た「小さな政府」への方向性をゆるぎないものにできるか。これが、小泉マニフェストのこの一年間の検証基準にほかならない。 人口減少―右肩下がり時代の政治システムへの転換にむけてまず、右肩上がりの時代に肥大化した「官」と、そこにぶら下がってきた構造(依存と分配)を排除する。これが現在のわが国における「小さな政府」の意味であり、ポスト小泉をめぐる改革競争はこの領域で進行している。 総選挙前までと大きく違うのは、官邸の方針に反して、既得権益をバックにした与党・部会が勝手なことをやるという構図が崩れ、官邸と党執行部が連携してマニフェストの実現をはかっていく構図が鮮明になり、族議員が格段に無力となったことである。ポスト小泉のレースは、この改革競争をマネージすることができるのは誰か、によって決まるのであって、ポスト郵政の構造改革を骨抜き・先送りして来年九月を待つ、というゲームによって決まるわけではない。もし後者のゲームでポスト小泉が決まれば、そのときは自民党が政権党の座を失うことになるだろう。これが〇五年総選挙の結果である。 |
「改革を止めるな」このメッセージで圧勝したからこそ、政権維持のためにはそのマニフェストを実行する以外にない。かような意味でも、政権選択選挙―マニフェスト選挙は定着しつつある。マニフェストは選挙の時のキレイごと、政権維持は永田町の力学で、というネジレが大きく後景に退いた。それゆえマニフェストは紙の勝負ではなく、何をするかという行動綱領であり、組織戦の指針であることが鮮明になった。小泉マニフェストは自民党の支持基盤をどこに求めるか、どこからどこへ入れ替えるのかを鮮明にしたものであったがゆえに、強力なメッセージとなりえたのである。 問題は次の選挙だ。このハードルはかなり高いが、ここで勝てなければ全てを失うことになる。次の選挙に勝つために、小泉改革のマニフェストを徹底的に推進し、その人材、陣形、組織をつくることに全力を傾注する―これが小泉新体制の基本線であり、それにそって新人議員、地方組織までにわたる組織再編が行われる、というのが立党五十年の光景であろう。 自民党新綱領には「小さな政府」が明記され、この基準から地方組織の再編にまで手をつけるとされている。地方支部の解散権を党本部が持ち、都道府県議員の公認も党本部が行うという規約改正について、党中央と地方組織が同じ価値観、方向性で取り組むという姿でなければどうやって国民から信頼されるのか、という武部幹事長の弁はまさに正論であろう。これに対して「自由も民主主義もない」というのでは、政党の綱領やマニフェストは問題意識の羅列でよい(実際の行動はマニフェストとは無縁でよい)、と主張しているに等しいことになる。これでは、マニフェストによる政党の紀律化という意味は入らない。 | |
総選挙での圧勝に驕り、相変わらず「談合の何が悪い、役所のやることに文句をつけるな」などという野次を平気で飛ばすような自民党地方議員を党綱領(「小さな政府」)、小泉マニフェストの基準から整理できなければ「次はない」(〇七年は統一地方選)ということさえ分からないようでは、民意を読むことなど到底できない。有権者の民意を読めずに、仲介者(業界団体や組合)の顔色ばかりうかがっていては、とても政権を維持することはできない―これが小泉マニフェストの組織決断だ。 綱領やマニフェストは、問題意識の整理ではない。それによってどういう組織をつくるのか、という行動綱領である。「正しい」問題意識の整理よりも、例えシングルイシューであれ、ひとつの行動綱領のほうが有権者に選択される―政権選択選挙は、ここから始まった。 政権政党は政権維持のために(次も勝つために)、マニフェストの実現に全力を尽くす。野党は政権党のマニフェストを厳しく検証し、業績評価するとともに、政権を取るという目的から、自らのマニフェストを鍛え上げなければならない。政権を取るという目的が見えない「正しい問題意識」では、大学院の試験にはパスできても、権力闘争には使い物にならない。まして政権交代は、有権者の主体的参加が勝負の権力闘争である。その組織戦の指針たりえるか如何に、マニフェストの勝負はかかっている。 小泉マニフェストは「小さな政府」という綱領的転換を、支持基盤の入れ替えという組織戦において推し進めるとともに、その方向で党改革も推進するというサイクルとして回り始めている。これはそう簡単に後戻りはできないだろう。なぜなら「改革 |
をすると言うから小泉さんに投票した。もう、官僚や与党の抵抗を口実にはできない。それでも改革が進まないなら、次は民主党だ」という有権者が見えているからだ。 マニフェストを行動綱領として貫徹するサイクルが動き始めた。それをポスト小泉においてもさらに定着・発展させ、綱領・マニフェストによって紀律化されるという、現代的な国民政党にふさわしい姿への糸口となりうるか。この歴史的課題をクリアできない時、すなわち言っていることとやっていることが違う、マニフェストを実行していないではないかと有権者が判断した時には政権党の座を失う――こうしたマニフェスト選挙のリアル感が見えてきた。
前原民主党は、 | |
バラバラ、という意味に帰着することになる。マニフェストによる組織の紀律化、その現実性や具体性をどこまで手にできるかが、二大政党下の野党のありかたを確立することとも連動する。 民主党にとってマニフェストの課題は、ふたつある。ひとつは与党のマニフェストを徹底して検証することであり、もうひとつは政権奪取の武器としてマニフェストを深化させることである。 与党マニフェストの検証とは、与党がマニフェストで約束したことがどこまで実行されているか、ということであって、与党マニフェストのここが間違っていると、自分たちのマニフェストの基準から批判することではない。 〇五年総選挙の選択は、右肩上がりの時代に肥大化した「官」と、そこにぶら下がってきた構造(依存と分配)を排除するという方向性の合意のうえで、その実行を小泉政権に任せたということである。したがってこの付託をどこまで実行しているか、ここから検証しなければならない。これがいわゆる「小さな政府」をめぐる改革競争である。とくにその主戦場は、肥大化した「官」―税金の無駄食いを正す領域において、先送り・骨抜き・ごまかしを許さないことを競うべきだろう。 同時に、マニフェストが実行された結果に対する業績評価が重要になる。マニフェストがそのとおり実行された結果、国民生活はどうなったのか、右肩下がりの時代に対応する方向性は見えたのか。否であるなら、それに代わる選択肢―マニフェストをどう提示し、次の政権選択を準備するか。こうしたマニフェストサイクルを回していくことと、次の選挙体制を準備すること(候補者の選抜・育成、足腰の強化など)とは一体でなければならない。 |
政権選択選挙の定着は、民主党にとっては「民主党マニフェストによる政権交代」の支持基盤が形成され始めたことを意味している。言い換えれば基礎票約二千万の性格は、政権交代一般(反自民の延長での政権交代、政権選択という意味が抜けた政権交代など)の支持というよりも、民主党マニフェストの問題設定に対する共感、支持である。だからこそ、民主党マニフェストの問題設定、方向性に紀律化されていない組織の現状に対する視線も厳しいものになるし、この側面からのマニフェストの深化が急務ともなっている。 このコア層に対する組織メッセージをどうするのか。ここは小泉マニフェスト的「小さな政府」に「大きな政府」で対峙しているわけではない。右肩下がりの時代に対応するためには、右肩上がりの時代に肥大化した「官」と、その下での依存と分配の構造を整理することは不可欠である、という点では方向性は一致している。したがって「小さな政府か、大きな政府か」とか、「小さな政府で、はたしていいのか」という問題設定では、民主党マニフェストのコアの支持層への組織メッセージとはならない。 同時にこの層は、小泉改革と小さな政府を競う、バラマキ・税金の無駄遣いを徹底してチェックするということだけに、民主党の存在意義や政権担当能力を期待しているわけではない。この層の民主党政権への期待を確信に変える問題設定は、小泉改革の次をどうするのか、すなわちバラマキ政治を壊した後に打ち立てるべき政府の役割とは何か、ということであろう。言い換えれば、小さな政府=市場競争の諸結果にどう対応するのか、市場に任せるべき問題と政府が担うべき問題との仕分けをどうするのか、ということである。 | |
ここのメッセージが伴わないと、「改革競争」は相手の土俵の中だけの勝負になる。つまり有権者再編を伴わない永田町内部だけのマニフェスト競争になる。例えば税金の無駄遣いの温床といわれている特別会計。財政制度等審議会(財務相の諮問機関)は特別会計の半減という報告書を提出したが、民営化はゼロ、一般会計への吸収も六つだけで、大半は同一省庁が所管する特別会計同士の統合である。政府はこれをたたき台に工程表を作成するという。これではバナナの叩き売りさながら、「いくつ減らすか」という数合わせにしかならないだろう。 これに対して、特別会計の無駄遣いの実態を暴き、天下り・政官業癒着を追及し、徹底的にメスをいれていくことは必要である。しかしそれに加えて、右肩下がりの時代に「そもそも必要な事業か」「(社会的に必要でも)政府がやるべき事業か」という仕分けを行い、そのなかから「政府の役割」をめぐる新たな対立軸を形成する論戦を仕掛けていくことが重要ではないのか。ここから有権者再編の組織戦が見えてくるのではないか。 霞ヶ関叩きに終わらない、右肩下がりの時代の社会的ニーズは何で(誰が必要としているのか)、政府が果たすべき役割はどこまでか、という論議を国民に開かれた形で展開していくこと。院内の論戦をそこから組み立てることはもとより、それを有権者にどこまで伝えていくことができるか―政策で支持基盤をつくる―で組織を紀律化すること。政権が取れなかったマニフェストを、次の政権奪取の武器に仕上げていくとは、例えばこういうことではないか。 あるいは三位一体改革。生活保護費の財源移譲では、地方の自主性は低められることはあっても増すことはない。すでに |
昨年の段階で、これはわれわれが求める「国から地方への分権ではない」という声は、地方自治体側から上がっていた。もちろんそのなかには「おねだり自治体」の要素も混在していたが、自立・自治を求める部分との連携が見えてきたからこそ、地方で民主党は善戦した。補助金に頼らずに自分たちの力と知恵で自立しようとする部分が見えて、三位一体を批判する場合と、それが見えずに批判する場合とでは、組織戦のターゲットも方向もまるで違ってくる。前者の方向性をさらに力強いものとするために、地方分権をめぐる政策論戦をどう構え、伝達していくか。 いまひとつ必要なのは、小泉マニフェストで新規参入した層に象徴される「柔らかい構造改革派」(『論座』11月号)への組織メッセージである。ここでも問題設定の基軸は「政府の役割とは何か」であり、その問いを共有するために、小泉改革の諸結果と向き合う場をつくることだろう。 例えば耐震強度の偽装問題などは、パブリックなき「官から民へ」の象徴だろう。百平米で三千万円台というマンションを購入する層は、「柔らかい構造改革派」と重なると思われる。「官から民」へは必要だけれど、あなたがたが望み支持した「官から民へ」はこういうものだったのですか? 官=役所がやれば間違いがない、民がやったからだめだ、ということではない、というのは分かりますね。そうです、官か民かが問題じゃないんです。問題はパブリック、公的な責任がどこにもないことが問題なんです。それこそが政府の役割じゃないでしょうか、と。 そういう問いが受け入れられる舞台=小泉改革の結果に対する検証=が、あちこちに派生してくるはずである。そこを的確にとらえてメッセージを発することができるかは、日常活動がど | |
こまでマニフェストで紀律化されているか、にかかっている。 あるいは談合。いかに税金が食い物にされているかを暴くことはもちろんだが、民営化すれば談合はなくなるのか? と問いかけてみることも必要ではないか。道路公団の談合、成田空港公団の談合が相次いで摘発されたが、その実態を見れば、民営化されても談合がなくなる制度的な担保は何もないことが分かる。むしろ政治のチェックがさらに効かなくなる分、談合や偽装が大手を振るう結果になってもおかしくない。民営化は目的ではない。国鉄民営化が成功したのは、民営化それ自体ではなく、民営化によって政治の介入がなくなり、公共交通としてのあり方が問われたことによるものだ。 パブリックなき民営化では、官の私物化が肥大化する。中国やロシアの民営化なら、国有財産を簒奪した者を特定できるが、日本型社会主義からのパブリックなき民営化では、総無責任連鎖が社会そのものの中にビルトインされる。談合しかり、耐震強度偽装しかり。 そのツケを払うのは、国民一般ではない。「勝ち組」は、そのツケをはるかに上回る利益を、民営化や規制緩和の過程で手にしている。あるいは一千兆円にのぼる財政赤字の重みがのしかかるのは、右肩上がり世代の肩ではない。耐震強度偽装で、安心して家も買えない、となるのはどういう層か。資金バックのある大手ゼネコンの高級マンションを買う層にとっては、そういう不安は(相対的に)身近なものではないだろう。 「官から民へ」という小泉改革は、日本型社会主義(田中―経世会政治に代表される五十五年体制)の後始末をミッションとするものであり、それ自身からパブリック、新たな公共が生み出されてくるわけではない。日本型社会主義の総無責任連鎖 |
のなかには、公的セクターに公僕はなく、市民セクターに公民はなく、市場セクターに社会的責任や遵法精神は存在しなかった。「官から民へ」は、右肩上がりで隠されていたその本質を露呈させる。そこから問われてくるのは、新たな公・パブリックをどのように確立するのか、である。これが「小泉改革の次」をめぐる政党間競争でなければならない。そこへの糸口として、小泉マニフェストの検証と業績評価を行うことが必要だろう。 新たな時代の政府の役割をめぐる政党間競争を ポスト郵政の構造改革―政策金融、道路財源・特別会計、三位一体、医療制度など―は、右肩上がりの時代に肥大化した「官」および依存と分配の構造の後始末(日本型社会主義の後始末)にすぎない。本格的な政権選択が問われるのは、財政再建―増税の議論である。総選挙後、増税を口にした蔵相に対して、官邸・党ともに「まずは税金の無駄遣いを省いてから」という論調で一致し、国債発行三十兆円枠の設定で、歳出削減の徹底をねらうという姿勢ではある。しかし一方で政府税調は定率減税の廃止を答申、消費税増税もカウントダウンに入っている。この議論を「小泉後」に先送りさせず、〇六年度予算成立後ただちに、本格的な財政再建―増税の問題設定とロードマップをめぐるマニフェスト競争の舞台をセットすべきである。「徹底した歳出削減=無駄を省く=なしに増税すべきでない」という「正しい」名分で、増税の問題設定から逃げる姿勢はとるべきではない。 与党が「歳出削減は必要ない」「バラマキ大いに結構」というなら別だが、方向性は歳出削減で一致し、その徹底ぶりを競う | |
という形式になった以上、増税論議から逃げない姿勢を見せることこそが、政権担当能力への信頼感につながるはずだ。いいかえれば、「郵政で見せた小泉さんの改革の意欲を支持したのであって、増税まで白紙委任した覚えはない」というところまできた有権者の政権選択意識を、(五年、十年先の話ではない)目前の避けて通れない増税論議から逃げる与党に政権を任せるわけにはいかない、というところまで成熟させる有権者再編に踏み込むことが必要だ。 消費税増税を伴う民主党の年金一元化案が支持されたように、有権者の成熟は確実に進んでおり、その点からも民主党マニフェストの問題設定への共感はある。「徹底した歳出削減―無駄を省く―なしに増税すべきでない」という一般的には正しい名分だけで、そうしたコアの支持層を固めることはもはやできない。 税のありかた、税制の姿は、いかなる社会をめざすのか、そこにおける政府の役割は何か、公的な領域を誰がどう担うのか、ということを端的にあらわすものにほかならない。(敗戦後のシャウプ税制以外、五十五年体制では税制の議論をまともに行ったことはない。右肩上がりのおかげで、バラマキ・護送船団で何も考えずにやってこられた。) それは「高福祉・高負担=大きな政府」「低福祉・低負担=小さな政府」というほど単純ではない。きわめて大雑把に言えば、「公=基本的に税で賄う部分」と「共または協=コミュニティー的相互扶助」と「私=市場に任せる部分」とを、いかなる割合でどのようにバランスさせるのか、ということである。ここには、 |
グローバル経済―競争の諸結果(いわゆる二極化)にどう対応するのか、社会の再統合・再統治の幅と担い手をどうするか、という問題がリンクする。 その選択肢を提示し、選挙で国民的な合意を図ることが、政権選択選挙のもっとも基本的な意義にほかならない。これが、現代民主主義国家における政権交代の基本的なメカニズムだ。そのとば口を開けられるか。これが「小泉改革」をめぐるこれからの一年に問われる課題である。 極めてイメージ的に整理すれば、このような感覚になる(現状がこのように整理されているわけではない、という前提のうえで)。 小泉自民党は新自由主義を基礎とし、競争による社会経済の効率化を図り、小さな政府を標榜する政党。 民主党は市場経済と個人主義を前提にしながらも、再分配政策によって格差の拡大に歯止めをかけ、社会的連帯を維持していこうとする政党。 自民党は新自由主義に完全に純化されたわけではないが、明らかに軸足はそこに移った。新綱領に「小さな政府」を明記したのは、それを象徴しているだろう。新綱領による政策と組織の紀律化が、どこまで行われるか。民主党は「社会的連帯」のなかに、五十五年体制的分配の要素が延命する余地を断ち切って、マニフェストによる紀律化を有権者再編とリンクして推し進められるか。 あろうべき、政権交代可能な二大政党を確立するためのとば口を開けるべく、「小泉改革」をめぐる組織戦を構えよう。 | |