日本再生 312号(民主統一改題42号) 2005/4/1発行

小泉政権の4年間を総括し、
政権交代を要求する国民運動を準備しよう

民営化=反政府のレトリックでの「改革」ではなく、
“選択―責任―連帯”を創出する日本再生の改革を

 この四月、小泉総理の在任期間は五年目を迎える。「自民党をぶっ潰す〜」「構造改革なくして景気回復なし」と叫んで登場した小泉総理だが、「追いつけ、追い越せ」型の時代からの大きな転換に直面しているわが国が、二十一世紀最初のこの時期に失ったものは計り知れない。
 この四年間の政権の業績を総括してみよう。
 「構造改革を進める中で、景気は個人消費や設備投資を中心に、堅調に回復している」と「改革の成果」が強調されるが、国民生活の実態を見てみれば、サラリーマンの給料は六年連続で減少。それでも給料を安定的にもらえるのは、まだよいほうで、失業者は三百万人を超え、求職そのものをあきらめてしまった人は四百万人、フリーターも四百万人を超える。正規社員などの安定雇用からパートなどの不安定雇用への変化も急速に進み、勤労者に占める非正規社員の割合は34パーセント。このうち八割が月二十万円以下の収入、十万円未満の人はそのうちの四割にのぼる。じつに日本の勤労者の三分の一が、安い賃金、不十分な福利厚生などに加え、いつ職を失うかわからないという不安をかかえて生活していることになる。
 郵政民営化を「改革の本丸」と位置付け、(国民の多数が望む)年金改革にはまじめに取り組もうとしない―ここに小泉改革の政治性格が端的に凝集されている。小泉改革に「理念」らしきものがあるとすれば、それは「民営化」である。
    「民営化という言葉は反政府的なレトリックであるが、反政府のレトリックだけで政府の役割について語ることには限界がある。〜中略〜確かに二十世紀半ば以来の政府の役割は見直されるべきであるが、同時に政府の新しい役割について新しい着地点を構想し、模索することが必要である。それは政府が『どのような社会を念頭におき、どのような社会を目標とするか』という素朴な問いかけに答えることと不可分の関係にある。(参院選で)与党にとって最大の逆風となった年金制度改革は、正にこの基本的要件を欠いていたと見なされたのである」(佐々木毅・東大学長/日経04/7/14『経済教室』()内は引用者)
 問われているのは、「追いつけ、追い越せ」型の二十世紀型の政府の役割から、二十一世紀型の政府の役割への転換とはどのようなものであり、その移行プロセスをどうやって激変型ではなくリスクマネージ可能なものとするのか、ということである。
 年金制度は三十年、四十年先の人生設計の基本に関わる。制度設計の柱のひとつは、「公費がどれだけ投入されるのか」である。まさにここに、「政府が『どのような社会を念頭におき、どのような社会を目標とするか』」(佐々木氏・前出)が示されるからだ。ちなみに市場主義の導入によって、国有企業による「揺りかごから墓場まで」の人生丸抱えシステムがなくなった中国では、年金制度の確立が急務である。個人の自己責任は多くの人が意識せざるを得なくなったが(意識改革は進んだが)、どこまで公費投入されるのか―すなわち国家がどこまで関わるのかが見えないことによる不安が大きいことが問題だと

いう。
 政府の新たな役割が置き去りにされ、それが見えないままに改革=「民営化」が進めば、国民の不安は増すばかりである。右肩上がりの時代が終わり、二十一世紀は「明日は今日よりよくなる」と、誰もが信じられる時代ではない。今後の日本社会が「変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代」(一九九六年中教審答申)となることは、すでに十年前には分かっていた。右肩上がり―追いつき、追い越せの時代とは違う政府の役割と公のあり方が求められていたにもかかわらず、この移行・転換の時期を失った結果が今日である。約四割の若者が自分の人生設計について、「今より豊かでなくなっている」と考えているのみならず、この失政によってさらに「明日がどうなるかさえ分からない」という状態に追いやられている。これで、五十年先のために年金保険料を払え、というほうが無理というものである。
 今日わが国の大きな問題となっている「敗者」の問題とは、単に「グローバル市場・グローバル競争の必然的な結果」というのみならず、こうした社会・経済の変化に対応すべき政治や政府の無為と失政によって問題が深刻化し、将来に大きな影を投げかけるにいたっている、というべきであろう。求められているのは、民営化(「小さな政府」)という反政府のレトリックではなく、大きな公共・小さな政府(=大きな公共を支える多様なパブリックの担い手)であり、社会の運営原理を「依存と分配」ではなく、「選択―責任―連帯」へと転換することなのである。
   冷戦の終焉は人類史上初めての、単一のグローバル市場の出現をもたらした。それは「資本が国家という枠組みから解放された『資本の時代』」(佐々木毅・東大学長3/17日経新聞「やさしい経済学」)であり、国境を超えたグローバル競争の時代である。これにどう対応するか。同時に先進各国は、低成長時代・少子高齢社会のステージを迎えた。
 「みんな平等に貧しくなるのか、アメリカのように金持ちを優遇して全体をかさ上げしてもらうのか、もはや選択肢は後者しかない」(99年経済戦略会議)というのが、民営化という反政府のレトリックによる小泉改革であった。ヨーロッパはEU統合という「別の道」を選択した。おなじ資本主義・市場経済のなかで、市場・資本と国家や政府のかかわりに関しての分岐が始まった。社会主義市場経済という特異な道を通った中国は今、アメリカ型の市場万能型経済社会へ向かうのか、それとも「親民政府」(胡錦涛政権)といわれるような方向に行くのか、分岐点に立っている。先にあげたように、年金の制度設計はこうした経済社会の方向性に大きく関わっている。
 ではわれわれは、わが国は、どのような方向性を選択するのか。民営化という反政府の「改革」や経済効率一辺倒の政治に対して、「総中流意識」「右肩上がりの時代の平等意識」から批判をする、という空間では選択肢はとうてい見えてこない。「格差」や「二極化」が問題にされるが、高度成長期にも格差は存在していた。格差の存在そのものを「あってはならない」と批判するのは、典型的な「総中流」・護送船団意識である。これでは「選択」という意味はわからない。

 みんながおなじように、という「標準モデル」でこれからの選択肢を考えることはできない。山田昌弘氏は戦後教育を、一定の学校・学歴ならこの程度の職業に就ける(その先の人生設計が見える)というパイプラインシステムに例え、このパイプラインからの「漏れ」(卒業しても期待した職業に就けない)が大量に生じている一方、「確実な」パイプライン(医学部など)に殺到する結果、希望の二極化が、やる気の二極化をもたらしていると指摘する。そして問題は、教育と職業の継ぎ目を再び接続させること(新たな就労教育)であると述べている。(中央公論・4月号)
 戦後教育のパイプラインシステムのなかでは、選択は必要ない。パイプラインの流れに乗っていればよい。ところが今や継ぎ目がなくなっている以上、否応なしに選択せざるをえない。対人能力、コミュニケーション能力に長けた部分ほど「選択」に実感があり、それに長けていない部分ほど、選択の機会を得られないまま敗者となる傾向にある。文部科学大臣が考えるような「学力低下」とは別の次元で、新しい事態が進行しているというべきである。こうした現実が見えた上での改革なのか。
 小泉改革の四年間とは、民営化のスローガンの下でじつは、利益分配型政治の延命を図ったものにほかならなかった(「道路公団民営化」の顛末、「郵政民営化」の着地点など)。それは選択ではなく依存を、責任ではなく無責任を、連帯ではなく不信を増大させた四年間である。民営化(「小さな政府」)ではなく、大きな公共・小さな政府(=大きな公共を支える多様なパブリックの担い手)への転換、社会の運営原理を「依存と分配」ではなく、「選択―責任―連帯」へと転換すること、これが政権交代の意味にほかならない。
  分権改革・財政改革・アジア戦略を創出する政策市場を構築しよう

 与野党の間に政策の違いがほとんどなくても、中の水が腐ってしまわないように金魚鉢の水を時々入れ替えなければならないのと同様に政権交代が必要だ、という論理には一理ある。それほどまでに、現在のわが国の状況は閉塞感に満ちている。 しかし、本来はやはり政権交代というものは、政策の方向性・志向性における転換を伴うものでなければならない。そして政権交代によって政策転換が行われるためには、政策を競い、そのなかで政策を選択する(合意形成する)という「政策市場」が不可欠となる。政権選択の選挙(マニフェスト選挙)は、こうした政策市場の基礎のうえでこそ機能しうるものである。
 小選挙区制の導入に始まった政治改革は、この意味では五十五年体制の政治構造を大きく揺さぶり、政策決定過程すなわち権力構造に多大な変化をもたらした。
 「派閥や後援会は、もはや選挙運動体としても自民党の地方組織としても、党内の人材育成機構としても、大きな意味を持たなくなるだろう。政調会の部会による政策課題の分業処理は続くであろうが、特定分野に精通しているだけでは当選に必要なだけの数の有権者にアピールできない以上、部会に長期在任する意味は弱まらざるをえない(かつては部会に長期在任して「族議員」となった/編集部)。これらの変化によって生じた空隙には、ごく少数の与党幹部および内閣とそのスタッフ機構から構成される執政部が、その影響力を拡大させている。〜中略〜小泉政権発足以降に具現化したのは、単なる手続きの変化ではなく、政策決定を実質的に担っている者(政治権力者)そのものの変化であった」(待鳥聡史・京都大学助

教授「中央公論」4月号)
 小選挙区制は、マニフェスト(政権公約)によって政党が一致して有権者と契約することをともなってこそ、政策本位の選挙へとさらに近づくことが可能となった。そのことが政策決定過程すなわち権力構造に大きな変化をもたらしたことは間違いないが、問題はその先にある。すなわち現状は、マニフェストによる政党と政府の紀律化がなされていないために、民意と政策のアウトプットとの間に大きな乖離(すり替えと言ってもいい)があり、この間で民意のエネルギーが拡散されている。(民意は年金改革を求めるのに対して、郵政民営化を「改革の本丸」と位置付けることに端的に表れている)
 これと関連して第二に、「これらの変化によって生じた空隙には、ごく少数の与党幹部および内閣とそのスタッフ機構から構成される執政部が、その影響力を拡大させている」ということが、新たな猟官運動や公的資産の私的簒奪という歪みを生じさせている、ということである。(中国やロシアにおける「民営化」の過程では、国有資産が党官僚などにタダ同然で払い下げられたが、「規制改革」や「民営化」の下で同じような性質のことが進行している。改革の時期は旧勢力に取って代わる、新興特権層が生まれる時期でもある)
 こうした歪みを正す方向は、旧来の族議員的・利益分配的決定システムへの回帰ではなく、より開かれた、より競争的な政策市場の構築を!ということだ。民営化という反政府のレトリックから「改革」の問題設定をした側からの「政策市場」は、政策決定過程の変化から生じた空隙に、猟官運動、公的なものの私的簒奪として入り込む、ということとして収斂する。「脱官僚、脱中央集権、脱無党派」(一昨年のマニフェスト選挙のよ
  びかけ)として問題設定をしてきた側からこそ、政権選択選挙を機能させる政策市場が発展する。
 「少数の与党幹部および内閣とそのスタッフ機構から構成される執政部が、その影響力を拡大させ」ることになればなるほど、マニフェストの意味は重大である。マニフェストで有権者と契約したことを、そのとおり実行するかどうか―これでのみ権力はしばられる。だからこそ与党は内閣と一体で、国民に対して責任を負い、その結果については総選挙によって審判を受ける、という原則がきわめてクリアにならなければならない。
 ここでの政策課題はいくつもあるが、さしあたっては分権改革・財政改革・東アジア戦略ということになろう。
 分権改革については、昨年来の三位一体改革の議論でも明らかなように、「分権」を認めるかどうかではなく、その中身をめぐる政策競争と選択肢を鮮明にする必要がある。道州制や合併など「数の削減」や形の問題なのか、住民自治・地域自立のためという視点なのか。前者は「もうやっていけないから」という、右肩上がり・五十五年体制の破産の追認が起点であり、ローカルマニフェストの主体的な意味は入らない。後者の場合は制度論としては、基礎自治体を主体とした分権改革となるのは当然である。
 財政改革は、政党政治のスジ論からすれば、政権選択の争点にすべきではない課題であろう。これだけ膨大な財政赤字は、歳出の削減程度ではとうてい解決できるものではなく、増税は避けられない以上、「損得」を問うて政権を争うべきではない、という意味では。しかし現状ではやはり、右肩上がりの惰性が継続されたままで「増税やむなし」になし崩し的に流れるのか、それとも右肩上がりの惰性をはっきり転換したうえで、

新たな社会的費用とその負担を問うのか、という政策競争と選択肢は明確にする必要があるだろう。(この選択肢には当然、税制―歳入の構造改革をめぐる政策競争も関連する。税制は、より明確に「次の時代の社会ビジョン」を問うものであるのは、言うまでもない。)
 同時に財政改革については、より身近な自治体財政について、「事業仕分け」などを通じて主権者の自覚をもってとらえるというベースがある場合と、それがなくて「財政赤字をどうするんだ」と言うだけでは、政権選択選挙の主体を育成するうえでも大きな違いがあることは、はっきり押さえておくべきだろう。
 東アジア共同体は、日本政府も含めて二〇〇四年のASEANプラス3で合意されている。政策競争の問題設定はもはや、「東アジア戦略が必要かどうか」ではなく、これを促進するのか、停滞・阻害するのかというステージに否応なく変わっている。このことが分かっていないから、不必要な摩擦を誘発するようなことばかりするのである。
 東アジア共同体については、EUとの比較において「東アジアに(歴史的・文化的・社会的)共通性がない」ことが取り上げられてきた。しかしそうではない。「ASEAN研究者の山影進は『地域は伸び縮みする』と語り、同質性や類似性による地域認識を『塗り絵の手法』だとしりぞけ、『関係性、もしくは点と線による地域認識』を提唱した(『対立と共存の国際理論』)。地域はア・プリオリにあるのではない。関係の深化が『地域』を作るのである。東アジアはまさにそのプロセスに入ったと言えよう」(毛利和子・早稲田大学教授『論座3月号』)
 またEUとの比較において、ナショナリズムに沸く東アジアで国家主権の移譲が可能なのか、ということも言われる。しかしEU統合に参加した各国は、統合の枠組みを利用して、国益の
  さらなる実現と国民経済の発展を実現していったということは銘記されるべきであろう。
 グローバル化時代にわが国の国益を実現するためにこそ、東アジア戦略が必要であり、そのなかに存在感と責任ある立場を持つためにこそ、「普通の国」としての外交・防衛・安全保障政策を確立しなければならないのである。それがあってこそ、日米同盟の再設計も可能となる。それがなければ、直面している米軍の再編(グローバル展開に則した戦略配備)についても、これまでどおり「ワシントンの要求にどこまで答えられるか」ということに終始する。これこそ、健全な日米関係にとっての不幸ではないか。
 同時に、東アジア戦略が視野に入っている場合といない場合とでは、分権改革・財政改革の展望や方向性が大きく異なってくるのも当然であろう。

政権交代を要求する国民運動を準備しよう

  政権交代とは、単に首相の顔が変わることではない。ポスト小泉は誰か、と聞かれて自民党議員の顔しか浮かばないようでは、政治にまったく競争原理が働いていないこと―自分の政治意識が市場や競争を前提にしていない「談合」そのものであること―を自供しているにふさわしい。小泉政権がダメだというなら、総選挙で民主党を勝たせる(今なら岡田代表を首相にする)以外にはない、というのが二大政党―政権選択選挙の常識である。ここまで、有権者の意識をもっていかなければならない。
 「民主党は頼りない」というのなら、「それじゃ自民党のままでいいんですか」とたたみかけることだ。それで無責任になるほ

うは、そもそも話を聞く気がない。「自民党がダメなのは分かっている」というなら、いったん民主党に政権を取らせるしかないでしょう、他に選択肢はあるんですか、と説得する。
 野党になった自民党が、それを機にまっとうな国民政党へ脱皮すれば、民主党もうかうかしていられない。本格的な二大政党による政権交代に、こうして近づいていくんです、と。
 民主党は自民党とどう違うのか(違わないじゃないか)と言う人がいる。そういう部分はたいてい、(自民党とまったく対立する)野党の政権などできるわけがない、と思っている。「違わなくても、金魚鉢の水を入れ替えることは必要でしょ、そうしないと水が腐りますから」と、ここで政権交代の意義をたたみかけよう。この範疇ででも、政権交代を要求する国民世論を形成するためには、説得する側は(深く理解するか、浅くしか理解していないかは別にして)政策転換の意味、政策選択の意味をなにがしか理解していなければならないということであって、政策転換の字面の説明をすることが、政権交代を要求する国民運動の活動ではないのは言うまでもない。
   小選挙区制、マニフェスト(政権公約)、さらにはローカルマニフェストと、政権選択選挙の舞台装置は次第に整いつつある。それを使いこなして政権交代を実現すること。政権交代の要求が例え「金魚鉢の水を入れ替える」程度のものであったとしても、こうした道具立てを使いこなす準備が蓄積されていれば、政策転換(右肩上がりの惰性を断ち切り、選択と集中へ)のとば口をあけることは可能である。
 だからこそ、政権交代を要求する国民運動を準備しよう。