日本再生 304号(民主統一改題34号) 2004/8/1発行

参院選後のマニフェストと政党政治の新たなステージ
20世紀型政治から21世紀型政党政治へ転換の始まり

二大政党制は、21世紀の政治の役割を問う舞台へ

 参院選で、有権者は小泉改革に厳しい判断を下した。焦点の年金問題では、「人生いろいろ」発言に見られるような総理の政治姿勢、また社会保険庁のテイタラクなどが取り上げられたが、その底流で有権者が問うていたのは「次の時代(少子高齢・人口減少時代)の社会ビジョンをどの政党が示しているのか・示そうとしているのか」であったといえるだろう。
 炎天下で「青空年金教室」を長時間開催し、「年金について、せいいっぱい説明します」という全面広告を打った民主党と、「年金は複雑で説明に一時間はかかる。そんな話、みなさん聞かないでしょ」と総理が街頭演説し、民主党に対するネガティブキャンペーンの全面広告を打った自民党。この違いは、単なるパフォーマンスや選挙戦術レベルのものではない。
 年金さらには社会福祉が、はじめて国政選挙の重要な争点となった意味は大きい。経済成長下の時代には、「あれもこれも」という要求の調整は経済の拡大が解決してくれた。したがって政治は、官僚が用意した案にしたがって「負担は軽く、給付は厚く」と言っていれば済んだ。
 しかし低成長時代しかも少子高齢社会になると、ここでの分配は「あれかこれか」という、本来の意味の政治判断が問われる。つまり「なにが公平か」から分配の基準となる価値を選択
  し、それに沿って政策を決めるということであり、価値の選択にあたって国民の合意を形成する(そのためにビジョンを提示する=選択肢を示す)という、本来の意味の政党の機能が問われる。二大政党の定着と競争は、このステージにはいったのだ。
 年金が争点となり、社会保障が有権者の第一の政策関心になり、それに沿って政策選択さらには政権選択が行われていく。二大政党の流れはこのように定着しつつある。それを可能にした政治文化の基礎は、「損得や自分がいくらもらえるか」ではなく「何が公平なのか」「将来の世代も含めた公正とは」から判断しようとした有権者の成熟である。
 ここを感じ取り、それに訴えようとした候補者と、その感性が欠落した候補者とでは、同じ政党でも年金問題の訴え方に天と地ほどの差が生じるようになった。マニフェストはかような意味でも深化している。昨年総選挙、今回参院選と続いた流れは、もはや後戻りできない。
 言い換えれば、「戦後システムの見直し」に対する態度や「伝統的な安保観、安保政策」の違いで政党を区分し、あるいは政党間の対立軸を測るというということでは、現実の政党区分は見えなくなりつつある。
 「政治の課題としていえば、二十一世紀の経済社会の現実を踏まえて、政府の役割をどのようなものと考えるのか、という

問題に行き着く。〜中略〜民営化という言葉は反政府的なレトリックであるが、反政府のレトリックだけで政府の役割について語ることには限界がある。〜中略〜確かに二十世紀半ば以来の政府の役割は見直されるべきであるが、同時に政府の新しい役割について新しい着地点を構想し、模索することが必要である。それは政府が『どのような社会を念頭におき、どのような社会を目標とするか』という素朴な問いかけに答えることと不可分の関係にある。与党にとって最大の逆風となった年金制度改革は、正にこの基本的要件を欠いていたと見なされたのである」(佐々木毅・東大学長/日経7/14『経済教室』)
 人口減少と少子高齢社会、そして東アジアの市場統合と流動化する国際関係。この二十一世紀の現実に基づくリアリズムを基礎に、政府の役割・政治の役割をめぐって政党が競い、選択肢を示し、また国民との合意を形成していくこと。政治市場およびマニフェスト政治文化の定着のステージは、ここへ移りつつある。
 〇六年、あるいは〇五年をピークにわが国の人口は減少し始める。一方高齢化のピークは二〇五〇年頃であり、このタイムラグをいかに激変緩和で乗り切れるかは、二十一世紀のわが国の帰趨を決するといっても過言ではない。この認識に立てば、少子化対策とは第一級の国策、すべての政策の前提に置かれるべきものということになる。同時にこの時期に東アジアの市場統合に「確実な地歩」を築かずして、今後の国富の確保は難しい。
 こうした現実のリアリズムにたてば、この数年の政治は二十一世紀のわが国を左右するものであり、衆参の任期が前後して満了となる〇七年の「一大政治決戦」をいかに準備すべきかも、見えてくるはずである。
  自民党:「政党」崩壊の終わりの終わり
民主党:マニフェスト政党創成の始まりの始まり

 参院選の結果は政党建設の側面から言えば、自民党:「政党」崩壊の終わりの終わり、民主党:マニフェスト政党創成の始まりの始まり、ということになる。
 「政党」がカッコつきなのは、経済成長時代の「依存と分配」の「政党」という意味である。九〇年代から顕著になってきたのは、こうした旧い政治の機能不全であり、「新党」「政界再編論」はそれを「政治不信」「無党派」との関係で補ってきたにすぎない。こうした「政党」崩壊期の最終幕が今回の参院選であり、それを象徴したのが自民党であった。既存の支持基盤はスカスカとなる一方で無党派にもそっぽをむかれるという状況は、九〇年代の「政党」崩壊がついに、依存と分配の中軸にまで及んだということである。
 二十一世紀の課題をめぐる政治市場で、二大政党の一翼を担うにたりるような国民政党への再生は、「参院選敗北」の意味さえ理解しようとしない「旧世代」の頭を飛び越えたところから始まるしかないだろう。
 「今日、私たち日本国民が厳に見据えなければならない“国のかたち”があります。その最重要要素は『少子高齢社会』だということです。今後、日本を二十一世紀の成熟国家にふさわしく発展させ、その安寧を維持させるために構築、遂行しなければならない主要政策には全て、急速に進む少子高齢化が前提になる、と私はこのHPのなかでくり返し申し上げてまいりました。(中略)
 しかし、今回の自民党の候補者リストを見る限り、少子高齢社会の重要なプレーヤーである女性や若い世代を議員として

育むという意識が依然として余りにも低いことに、諦めに似た失望を覚えました。有権者にとっては候補者の顔ぶれにこそ、政党の目指す社会像が垣間見えてくるはず。自民党はその意味で社会の期待に応えること、社会の期待を自らが引き出すことができなかったと痛感します。
 次に考えさせられたのは、連立と選挙協力との関係です。党首脳部は参院選の結果を受けて勝利宣言をいたしました。『自民党・公明党は、与党として参議院における全ての委員会で過半数を占める安定多数を確保した』との理屈です。(略)『与党の数』に逃げ込み、改選数を下回った自党の選挙結果を真正面から直視しない総括のあり方に、政党のあるべき姿を望むことはできません。
(中略)ここ数年、なし崩し的に深められてきた自公の選挙協力の結果、失われたのは自民党の存在意義ではないか、と断じざるを得ません。『選挙区候補は自民党、比例は公明党』という投票依頼の言葉に違和感を感じるうちに軌道修正を図らなければ、将来、どうなるのか。自民党が踏みとどまるべき時がきているように思います。(中略)
 最後に、49という獲得議席についてです。この数字が意味するところは「敗北」です。(中略)今回の戦いだけで見る限り、自民党は「第二党」に転落したのです。この現実に対してはっきり負けを認めたうえでの反省が行われないことを、私は正直、理解することができないでいます。(中略)選挙についてのまっとうな総括もない自民党がこのあと、国民の期待や支持を得る政党として正々堂々、王道を歩んでいくことができるのだろうか、と私は自問せずにいられません。二十世紀後半にはひろく国民全体の信頼を勝ち得ていた自民党が、『政権政党』の座にしがみつくことで『国民政党』の誇りをかなぐり捨
  てれば、今後、国民の夢や希望から乖離した政党に転落していくのではないか。この参院選の結果は巷で言われるような“小泉政権の終わりの始まり”にとどまらず、“自民党の終わりの始まり”にまで行き着きかねない深刻な結果である|私はこのことをあえて言葉にする必要を感じました。」(野田聖子衆院議員ホームページより)
 民主党にとっては、マニフェストにふさわしい政党を創成する始まりの始まりである。政策がそれなりに体系化され、ひとつの社会ビジョンとして像を結ぶ方向に整理されつつあるなかで、問われているのはそれを伝えるすべ・組織・人である。候補者の発掘・育成、議会の運営や党派間交渉(国対)、さらには自治体議員のネットワークなどを、マニフェストにふさわしいもの、マニフェストで説明できるものとしてつくり上げていくことである。
 たとえば年金一元化のマニフェストを、政府与党の年金改革はいかにダメなのかとして伝えたのでは、本質(問題設定の一致)は伝わらない。これでは「自民党も民主党もどっちもどっち」という、政治不信の正当化を打破することはできない。これが「伝導機関」の問題である。この未確立ないしは不在の時代を終わりにするための主体的条件がどこまで準備されたのか。これが政党的組織建設からの参院選総括のキーポイントである。
 それゆえ今回、マニフェストで説明できる枠の選挙戦を戦った地方組織においては、中央レベルでの決定(マニフェストあるいはそれに準じる政策判断・決定)を地域・有権者に伝えていくためには、議員・候補者の日常活動とともに、マニフェストに主体的に反応できる自治体議員の育成とそのネットワークが決定的に重要である、という総括になってくる。

 それは同時に、残存する旧い基盤との「入れ替え」戦を上手に組織していくこと、ここでのマネジメント能力を磨くことでもある。衆参の任期が満了となる〇七年には、統一地方選挙も行われる。政権交代に向かう「胸つき八丁」を越えるとは、ここの問題である。
 
 
「次の選択」にむけたロードマップ

 二十一世紀の政治をめぐる二大政党の舞台、その客観的条件と主体的条件がこの参院選(前提に昨年の総選挙)からみえ始めてきた。〇七年に想定される「政治決戦」はその最初の攻防としなければならない。逆に言えばこの時にまだ、旧い五十五年体制・依存と分配の残滓をひきずったまま「選択」しなければならないとすれば、日本再生に間に合わないことになりかねない。
 したがってここ数年の政治はきわめて重要な移行期であり、二十一世紀型政治に軸足をはっきり置いて、それがさらにクリアに見えていくようにする力で、旧い残滓を片付けていかなければならない。
 例えば憲法である。この時期に、憲法もまた課題のひとつになることは間違いない。「しかしながら、それはあくまで一つの政治問題であり、先に述べたような重要な政治課題への取り組みを先送りして憲法改正問題ばかりに精力を使うわけにはいかないことは確認しておく必要がある。
   憲法問題を論じてさえいれば政治の責任が果たせるかのような議論に対しては、慎重な留保が必要である。どれだけ憲法について論じても、年金問題に展望が開けるわけではないのである」(佐々木毅・東大教授 前出)  だからこそ「九条問題」については、民主党が主導的に解決するべきである。二十一世紀の政治をめぐる対立軸は、「憲法や伝統的安保観」に沿って走っているわけではないのだから。同様に、小泉総理が任期中は封印している増税―財政再建についても、民主党が政策論議の主導権をとるべきである。その際、財政問題は社会保障のあり方および地方分権と一体で扱うべきであり、これらの展望なしに財政問題を扱えば「赤字問題」だけになることに十分留意する必要がある。まさに税をどこからどうとって、何にどう使うのかというなかに、二十一世紀の政府の役割、「公正とは何か」という価値の選択が示されるのにほかならない。
 年金を争点に、有権者が政党に求めているのはまさにこうした選択肢である。「次の選択」のときには、より多数の有権者がそれを意識的に選択し、「国民が何を選択したからこういう政府を選んだ」ということが明確になるようにしたいものである。さすれば「選ぶ側」の責任、すなわち主権者としての責任もより明確になる。
 「次の選択」にむけて、国民主権の常識をさらに磨いていこう。