日本再生 303号(民主統一改題33号) 2004/7/1発行

参院選―これからの50年を左右する選択
白紙委任の道を断って、一票の選択に責任を持とう

静かな怒りを投票行動へ!
一票に選択に国民としての責任を!

 今回の参院選の最大のポイントは、投票率である。ここに来て小泉政権の支持率が急落しているが、「政治不信」や無党派の延長での小泉不支持では、自らの一票で審判を下すまでの当事者意識は生まれない。
 事前の世論調査では、年金、イラクなどでの小泉政権への批判が高まっているなかでも、参院選に「関心がある」は、昨年の総選挙よりも若干低くなっている。投票率が五割を切れば、棄権という「白紙委任」」が政権の最大の支持基盤ということになる。これでは国民が自らの意思で政府を選び、評価するという国民主権は機能しない。
 有権者自身が「白紙委任」の道を断って、一票の選択に国民として責任をもつという「底」を打つこと。マニフェストの政治文化をさらに一歩定着させていくための参院選における攻防の環は、ここにある。言い換えれば、「白紙委任」の道を断つまでの当事者意識を組織する活動がどこまでできるのか、それができる人(活動家)がどこまでいるのか、ということに尽きる。
 小泉・自公政治の「無責任・居直り」ぶりに対する国民の「静かな怒り」は、確実に広まっている。「静かな」という意味は、年金問題にしても、イラク多国籍軍参加にしても、地方財政=三位一体改革にしても、二項対立的な賛成・反対という次元ではなく、構造的に問題設定を見極めようとしているということである。したがってその「怒り」は、単純な「反小泉」とか「お灸をすえる」という表現にはならない。問題設定を見極める忍耐力があるから、目の前のあれこれそれ自身に感情的に振り回されない。それゆえ「静かな怒り」なのである。
   例えばこんな光景が見られた。選挙戦の前半、岡田・民主党代表の演説予定地で「前座」の国会議員や地元自治体議員が、マニフェストの「マ」の字も出てこない演説を一時間ほど行っている間、決して動員ではない四百名ほどの聴衆(幅広い年齢層)はヤジも失笑もなく、岡田代表の到着を待っていた。この忍耐力は、政治不信の延長には絶対に生まれない。政治不信に拝跪し、「無党派受け」を狙うようなバッジ組やスタッフは、ここでは完全に浮きあがっている。
 反対に小泉総理の遊説には、総選挙までの「純ちゃーん」という熱気は、もはやない。小泉総理は「ここで年金問題を説明すれば一時間はかかる。みなさん、そんな話は聞かないでしょう!」と絶叫。ここではバッジ組にも聴衆にも、忍耐力がまるでない。その場限りの「言い放し」であり、「それで何が悪い!?」という居直りである。白紙委任の道を断つとは、この底抜けの無責任構造と手を切って、国民としての当事者意識=一票の選択の責任をいかに問うのか、ということである。
 「一時間かかる」という年金問題の説明でも、「静かな怒り」のほうは炎天下での「あおぞら年金教室」をじっと聞くのである。そして「○○についてはどう考えているのか」と質問をする(政治家はけしからん、という類の話ではなく)。
 マニフェストを読みこなす力は、こういう形で有権者のなかに定着しつつある。昨年総選挙でも「年金」は有権者の最も関心の高いテーマであったが、争点にまではなりえなかった。決定的には有権者の参加が未成熟だったからである(政党側から言えば、有権者を当事者として参加させるまでの問題設定が未成熟だった、ということ)。
 ところが今国会を通じて、風景が一変した。これまで「政治に関心がなかった」人たちが、当事者として参加し始めたのであ

る。「当事者として」(例え「自分にとってトクかソンか」というレベルからでも)マニフェストを検証するのと、(例え「年金問題に関心がある」でも)傍観者としてマニフェストを見るのとでは、大きく違ってくる。
 フォロワー、受け手のほうがこのように変わっているからこそ、訴えるほうには昨年総選挙の時以上に、マニフェストを単なるスローガンとしてではなく、有権者が当事者として考え、選択するように伝え、組織することが問われる。これは昨年のマニフェストの延長にはない、飛躍である。(本号掲載の中塚議員、大塚議員のインタビュー参照)
 七割、八割の普通の人が「当事者として」政策選択に参加してくるときには、「自分にとってトクかソンか」というところからとなるのは当然である。こうした参加をマニフェストの政治文化からガバナンスする能力がなければ、ある種の「騒動」の様相を呈することも避けられない。「これまでは『お任せ』で済んでいたと思っていたが、そうではない」と普通の人が参加してきたときに、きちんと選択できるように政治の能力を高めることこそが問われているのである。
 一票の選択の責任を問うとは、「静かな怒り」に対して、当事者として考え選択できるまでの政治表現を与え、主権者としての行動の動機づけをするまでの国民主権の組織能力のことである。
 マニフェスト感覚のある政党は、国民が「当事者として考え、選択できる」ように努力する。反対に「この程度の公約、守れなくたってどうってことないッ」という政党は、世論を操作の対象として、サプライズや「びっくり箱方式」をくりだす。炎天下で「あおぞら年金教室」を行い、一般の有権者に、当事者として選択できるように説明する政党と、「年金の説明は三十分、一時間かかる、そんなもの有権者は聞かない」という政党との違い
  は、決して小さなものではない。
 こうしたマニフェストをめぐるガバナンス・統治観の違いが、バッジ組にもフォロワー・有権者のなかにも明らかになりつつある。問題はその「中間」に膨大に広がっている層である。
 少なくない部分は、無責任な政治不信とは手を切りつつあるが(きちんと話せば「与党も野党もどっちもどっち」「政治なんか誰がやっても同じ」などのヘラズ口は出てこない)、有権者としての責任の「底」を自力で打てているわけではない。したがって適切な働きかけがなければ、「小泉政治がよくないことは自分も分かっている。政府の年金法案がムチャクチャなのも分かっている。しかし、投票したい候補者がいない…」「民主党ががんばっているのも分かるが…」というところに止まることになる。「白紙委任」の道を未然に断つというのは、直接はここの問題である。
 ここに当事者責任としての「底」をいかにうつのか。
 この参議院選の任期に重なる六年間は、人口減少・超高齢化時代のなかでの年金をはじめとする社会保障制度の改革や、国と地方の関係、さらには憲法など、これからのわが国の五十年を左右する政策課題の選択が、待ったなしに問われる。これらの課題にどのようにコミットするのか。ここについて「白紙委任」でいいのか。有権者として、当事者としてしかと考えましょうと。  昨年の総選挙で「年金」を白紙委任した(自公のあいまいなマニフェスト)結果がどうなったのか―今回の年金法案であり、出生率1.29という肝心な数字を後から出す(国民に隠す)という手法である。あなたはさらに、来年の介護保険見直し、あるいは年金の抜本改革などを「白紙委任」するのか、と。
 あるいはイラクの多国籍軍への参加を、国会終了後に決めていっさい国会での議論の余地を与えないというやり方(イラク

問題での説明責任の放棄は一貫している)に、今後のわが国の安全保障改革を(憲法改正も含めて)あなたは「白紙委任」するのか、と。
 こうした訴えは、一国民としての共有感があってはじめて、相手に伝わるものである。「白紙委任」の道を断つとは、政党・永田町の現状をアレコレ評論する余地を断って、一国民・一有権者として自らを見失うことなく現実と向き合おう、ということである。そうすれば、現にうまれつつあるマニフェスト政治文化をめぐる政党の軸の違いも見えてくる。そこからはもはや「どっちもどっち」というヘラズ口は出てこない。ここで国民主権の常識の「底」を打とう。


「この先」を見据えた選択を、
白紙委任するわけにはいかない

 この参議院選の任期に重なる六年間は、人口減少・超高齢化時代のなかでの年金をはじめとする社会保障制度の改革や、国と地方の関係、さらには憲法など、これからのわが国の五十年を左右する政策課題の選択が、待ったなしに問われる。もはや持続不可能な財政の立て直しも、否応なく迫られる。
 またこの秋から二年間の任期で、わが国は国連安保理非常任理事国に選ばれる予定である。主権移譲後のイラクの政治プロセス(総選挙、憲法制定など)や北朝鮮問題に、安保理の場で対応し存在感を獲得できるかは、わが国の二十一世紀の国際社会での位置を決する。
   あるいはFTAを始めとする東アジアの経済統合・地域共同体の動きも、この数年で加速的に本格化する。農業を始めとする産業構造の改革や、労働力移入などへの対応といった国内の構造改革の遅れを理由に、東アジアでの存在感で中国の後塵を拝すようなことになれば、人口減・超高齢化のなかで、少なくとも今世紀全般五十年のわが国の国運は大きく損なわれることになる。
 これらの課題にどのようにコミットするのか。任期六年間のなかで必ず問われるはずの政策課題に、コミットする政治意思がないものを国会に送るべきではない。ここから見ると、自民党と民主党の対立軸・ないしは差別化は、確実に進んでいることが分かる。
 例えば、任期を終える二〇一〇年に視点を置いた毎日新聞(6/29)の候補者アンケートによれば、現行の社会保障や財政などの国家システムについて、持続不可能とみる候補が自民党では43%なのに対して、民主党では96%となっている。
 すでに国と地方の長期債務残高は七〇〇兆円を超えている。〇六年をピークに人口は減り始める(年間約六〇万人ずつ)。団塊の世代が退職期を迎えるなか、企業の厚生年金や自治体の退職金引当金はそれをカバーできる状況にないことははっきりしている等々。われわれの前には確実に、「これからの現実」が見えている。
 このなかで、こうした危機感の違いは大きい。人口減少社会という、かつて経験したことのない社会が確実にやってくるときに、「過去と現在」を見てどうするかを考える自民党と、「この先」を考えようとする民主党の違いは、決して小さいものではない。五十五年体制からでは見えない対立軸が、次第に全面

に現れてきている。その問題設定を見極めようという有権者の波は確実にある。ここをマニフェストにいかに結び付けていくのかが決定的である。
 また年金問題では、「一〇年までに一元化すべき」が自民党では67%なのに対して、民主党では96%である(公明党は15%)。マニフェストに「一元化」を掲げてきた民主党は当然であるが、(年金一元化を検討するとした)「三党合意」にもかかわらず、与党はバラバラであるということが第一。そして第二に「一〇年までに」という期限がつかない一元化とは何なのか、ということである。
 人口減少が始まるのが〇七年、大量の団塊の世代が受給年齢(六十五歳)に達するのが二〇一〇年代初頭から、ということを考えれば、「一〇年までに」一元化を達成しなければ、超高齢化と人口減少の真っ只中で制度が破綻するのを待ってはじめて手をつける、と言っていることになる。この危機感―現実認識の違いは、決して小さなものではない。
 ここに「白紙委任」できるのか、ということである。わが国の今後五十年を決する選択が問われる時期に、こういう現実感のない候補者を国会に送るべきではない。ここは有権者としてやはり、しかと選択し判断すべきである。その判断をこれ以上「先送り」することは、有権者としての責任放棄である。年金にしろ、財政にしろすべてツケは否応なく国民に返ってくる以上、いつまでも「当事者」から逃げて「政治家のせい」にしているわけにはいかない。ここをしかと訴えよう。
 この調査でもうひとつ特徴的なことは、「憲法改正」である。「二〇一〇年までに憲法を改正すべき」は自民党が83%に対して、民主党は40%。自民党の場合は「専守防衛を前提に自衛隊の保有を明記すべき」が83%となっている。
   ひとつは、財政や社会保障といった課題―この六年の任期のなかで、これまでの延長では確実に対処不能になる問題―についての危機感・現実感が欠如したところでの「憲法改正」の突出とは何か、という問題である。つまり、わが国が現に抱える構造問題(これまで経験したことのない問題)を解決することと、憲法改正とがまったく結びついていない、まさに「後ろ向き」の憲法改正論であり、それは社民・共産の憲法論と見事に表裏一体となっているということである。
 〇五年(来年)、国会の憲法調査会は議論の区切りを迎える。このままいけば〇七年は、衆参の選挙がほぼ同じ時期に行われることになる。すなわちここで、五十五年体制の残滓を一掃した、新たな対立軸での選択(人口減少・超高齢化社会、東アジアの統合などの「新しい時代の課題」にかかわる選択)を行わなければならない。これが日本再生のタイムテーブルだ。逆に言えばそれまでに、憲法九条をめぐる五十五年体制のトラウマを、清算しておく必要がある。そのためには〇五年の国会がヤマである。(方法論については、5月23日シンポジウムでの飯尾教授の提言を参照されたい。)
 参院選は、その前哨戦として位置付けられる。六年の任期中に確実に迫られる選択(社会保障の再設計、国と地方の財政再建、東アジアの統合など)に対する危機感も現実感もない候補者や政党に「白紙委任」する道を、有権者自身がここで断ち切ること。そこから新しい対立軸の土台を作っていこうではないか。
 
 
 


マニフェスト政治文化の定着と
政権交代へのロードマップ

 かような設定からすれば、今回の参院選は次の総選挙とセットで考えるべきものとなる。何もなければ、次の総選挙は参議院の任期と重なる〇七年に、衆参がきわめて近い時期に行われることになる。ここに向けて新しい問題設定―「後ろ向き」ではなく、「この先」五十年を見据えた問題設定―を有権者のなかで、しかと成熟させる必要がある。
 当然、参加のしかたも「少数の専門家が出した結論への賛否」ではなく、当事者として考え、選択するというものに変わらなければならない。そういう提起―訴えをして組織をつくっているのかどうか(マニフェストで組織をつくっているのかどうか)で、候補者・議員(バッジ組)を検証し、また育成していかなければならない。
 またそれを国政レベルのみならず、自治体でも促進していくことが必要になるだろう(バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働の重層的構造)。
 参院選で自民党が負ければ、自民党内の政局になる可能性が高い。しかし、自民党総裁の交代―首相の交代という「疑似政権交代」で、有権者はエネルギーを発散させてはならない。首相の交代はあくまで総選挙であり、小泉退陣なら総選挙で信を問え、ということに集中すべきである。
   そのためにも「白紙委任」の道を、この参院選で断ち切らなければならない。
 「白紙委任」が政権の最大の支持基盤(投票率50%割れ)ということなら、小泉・無責任政治がこのまま三年間続くことになる。その時には、今回の年金や道路公団のようなことが郵政改革、その他でも繰り返されることになる。誰も「改革」と評価しないことを「改革は進んでいる」と開き直る政府が「死に体」のまま、限られた時間と資源を喰い散らかし続ける。「白紙委任」とはこの道を自らの意思として選択する、ということにほかならない。
 有権者は、自らの選択をこれ以上、先送りすべきではない。わが国の再生、次世代のために残された時間と資源は限定されている。この先三年間、さまざまな難局に「政府が頼りない」「政治家は信用できない」とだけ言っては済まされないことを、しかと自覚しよう。
 現実が提起する問題と政策選択に「当事者」として正面から向き合うこと、その共有性のうえにこそ、政治意思は形成される。ここ数年の選択は、わが国の今後五十年にかかわる選択であり、ここに明確な政治意思を持ったリーダーとフォロワー、バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の構造をもって臨むこと。マニフェストの政治文化の定着とはこのことであり、同時にそれが日本再生と政権交代のロードマップである。
 その一歩として、参院選では「白紙委任」の道を断って、一票の選択に責任を持つという有権者のうねりを創りだそう。