日本再生 301号(民主統一改題31号) 2004/5/1発行

マニフェストの政治文化を定着させる主権者運動の力で、
参院選をマニフェストに基づく中間選挙としよう

マニフェストの政治文化を定着させる主権者運動のさらなる発展・蓄積こそが問われている

 小泉総理の在任期間が三年を超えた。小泉政権の三年間、国民生活はどうなったか。「景気は回復しつつある」といい、平均株価は一万二千円台を回復したが(政権発足直後は一万四千円台)、この間に失われたものは大きい。
 勤労世帯の収入は減りつづけ、失業、倒産は高止まったままである。自殺者も年間三万人を超えたまま(交通事故の死者は年間約八千人)。高卒新卒者の就職率は減り続け、凶悪犯罪、少年犯罪は増え続けている。虐待やストーカーといった事件も後を絶たない。
 「構造改革なくして景気回復なし」というスローガン一辺倒―不作為の政治(政治が為すべきことをしない)が生み出したのは、「雇用なき景気回復」に象徴されるような二極化ではないか。「改善」した失業率の数字の裏には、もはや仕事に就くこと自体をあきらめてしまった人々がいる。国民年金の未納率四割の本質は、「職もみつからないし、五年先のことさえわからないのに、五十年先のために今からカネなんか払えませんよ」という若者の問題である。
 ここに届くような改革論議が、この三年間、どれほど行われてきただろうか。ネッセという社会学者は「希望という感情は努力が報われると感じた時に生じる。努力が空しいと思った時に絶望という感情になってしまう」と言っている(山田昌弘・学芸大学教授のお話/三〇二号に掲載予定)。「努力が報われない」と若者が感じてしまう社会を一方に生み出す政治を、失政・棄民政治と言わずして何と言うのか。
   しかし小泉内閣の支持率は、相変わらず高い。これを支えているのは、「無党派」と自民党支持層である。無党派の支持は細川内閣には及ばないものの、歴代自民党政権では群を抜いている。また自民党支持層の内閣支持率も、歴代自民党政権のなかで最も高い(朝日4/21)。
 ところが内閣への支持は高いにも関わらず、具体的な政策への評価は厳しい。4月24日付読売新聞の世論調査によれば、優先的に取り組んでほしい政策では「景気」「年金」「雇用」が多いのに対して、これらの政策の成果を「評価する」というのはそれぞれ、12%、5%、3%にとどまっている。(前出「朝日」も同様の傾向)
 政策を評価しないにもかかわらず、内閣は支持する!? 政権の評価は政策とは関係ないということなら、「この程度の公約が守れなくたってたいしたことではないっ」という政治がまかり通るのも当然である。五十五年体制の依存と分配の政治文化は崩壊しているが、ここにはマニフェストに基づいて政権を業績評価するという国民主権の政治文化もまた、針一本入らない。
 ここにとどまれば、マニフェストは単なるブーム、イメージにすぎないことになる。ここからどのようにしてマニフェストサイクルを次の一歩―参院選はマニフェストに基づく政権の中間評価―へと進めるか。政治文化を変える―政党には政策による紀律化と責任を求め、有権者には脱無党派の試練を求める―ための戦いは、ここでの一進一退に直面している。政権交代にむけた「胸つき八丁」のとば口を開けるための攻防とは、このことにほかならない。
 小泉政権の発足以来のスローガンが、ようやく具体的な法案の形で出てきたのが今国会である。政権が公約をどう実行

しているのか、口先ではなく事実に基づいて具体的に検証する舞台が整ったわけである。マニフェストの政治文化への糸口があるほうは、これで政権を検証する。世論調査が示しているのは、そのうえで小泉政権を支持するという構造はない、ということである。
 逆に言えば、政策は評価しないが政権は支持する、というのは「政策がよくわからない」とか「かっこいいから」というレベルではなく、「責任を問わない」ということを自覚したうえでの支持だということだ。先の読売の世論調査では、国会答弁について「わかりやすい」44%に対して「すりかえ、ごまかしが多い」が50・6%と逆転しており、憲法など基本政策で立場が違う自民・公明が連立を組んでいることについて「問題だ」が54・7%、「そう思わない」が36・2%と、これも逆転している。にもかかわらず、59%が小泉内閣を「支持する」と答えている。
 これらは、政党政治の基本―政策による紀律化―での決定的な責任すり抜け構造であり、「マニフェストによって、国民が(政権を選ぶ際の)みずからの判断の根拠とその責任を自覚する」という脱無党派の試練におけるすり抜け構造である。ここに「主権者としての責任」を問うていくまでの力を持たなければ、マニフェストは言いっぱなし、単なるイメージで終わるということである。
 マニフェストサイクルを次へ回していくためには、小泉政権を支持するにしろ、しないにしろ、マニフェストに基づいてそれを表明する、ということが問われている。
 これは責任を問う側が、それにふさわしい基準で人間関係・組織をつくり、その日常活動を継続・蓄積すること(政策本位・政党本位のドブ板活動)を伴わなければ、個々の姿勢一般で
  超えられるものではない。このことが伴わなければ、そのマニフェストは「無党派対策」でしかないということになる。この枠の「無党派」は、小泉内閣の自覚的な支持基盤である。ここにおもねって、政権交代への「胸つき八丁」のとば口を開けることはできない。補選の結果(とくに埼玉8区/自民党の若い公募候補が勝った)は、そのことだ。
 相次ぐ閣僚や議員の年金未納問題にしても、それ自身はほとんどがミスであり意図的なものではないだろうが、しかし本質問題は、立法に携わる公職にある者が一国民としての義務を果たしているのかが問われたのである。パブリックの観点から責任を問われた時に、制度のせいにしたり事務方のせいにしたりする(ミスを強調するために)ということでは、マニフェストにふさわしい組織性なのかが疑われることになる。
 政治家の年金未納問題に対する国民の厳しい視線は、マニフェストの政治文化が一方では根づきつつあるからこそ、政治家・政党の日常活動までがそこから検証されるという緊張関係が生まれつつあることを表している。マニフェストに基づいた組織戦の日常化、その蓄積と継続のスタイルとチームづくりこそが問われているのである。
 自民党は延命が至上命題であるから、若い公募候補が「自民党をぶっ潰す〜」とやれば、無党派対策としてはそれなりに成功するし、それで延命できれば既存組織との折り合いもつく。しかし民主党は「民主党をぶっ潰す〜」ということで、政権政党への脱皮はできない。政権交代可能な野党第一党に求められるのは、統治能力―政権担当能力をマニフェストに則って深めていくという、政党政治の王道以外にない。国会運営においても地元活動においても候補者選定でも、それが日常的に問われる。またここで蓄積していく以外にはない。

 後半国会のヤマであった年金法案は結局、衆議院では本質的な論議に入れないままに終わった。政府側の答弁のいいかげんさ(総理の「答弁」拒否、大臣の答弁が守られないなど)や強引な運営が主要な原因だが、終盤の保険料未納問題では、五十五年体制の政治文化から見れば「どっちもどっち」という結末となった。だがここでこそ、マニフェストにふさわしい組織性をさらに深められるか、より一段と深まった公共性の観点から責任を問う組織戦に再度打って出られるかが試される。
 年金改革で論議されるべきことは何であったか。どういう問題設定が問われていたのか。
 「政府案が『五十年、百年もつ』というのであれば、つまり今後五十年、百年、政府が計算しているとおりの経済成長率、物価上昇率、出生率であるならば、そして政府が考えているとおりに積立金の運用益が出るなら、政府案でも五十年、百年もつかもしれません。しかし誰がそんなことを信用しますか?
 ですから『将来いくらもらえます』と約束すること自体が、幻想なんです。年金の議論は、制度として、ルールとして合理的なのか、公平なのかを求めなければなりません」(枝野幸男・民主党政調会長3―5面参照)
 「いくらもらえる」というのは、「自分の年金はどうなるのか、トクかソンか」という窓からだけ年金に関心をもつ国民をターゲットにした問題設定である。これは、「本当に大丈夫か?」という不安をあおることと表裏一体だ。ここからは不信は生まれても信頼は生まれない。社会的公正・新たな公益から問題を設定し、「不安」という層までを説得する組織戦は、訴える側がパブリックの観点で日常活動までを統治しきることが問わ
  れる。敵失を突く、というようなマニフェストにふさわしい組織性とはいえないスタイルを忍び込ませる余地はなくなった。これが次のステージである。
 「職もみつからないし、五年先のことさえわからないのに、五十年先のために今からカネなんか払えませんよ」という若者の問題を見ずに、「自分の年金はどうなるのか」だけに終始する「大人たち」に、社会的公正・新たな公益から問題を設定し、責任を問う―責任を分かち合うことを問うことである。
 「どっちもどっち」という冷笑に対しても、「これは本気だ、ホンモノだ」と思わせるまで、徹底して新たな公益・社会的公正、次の時代の社会ビジョンから訴え続けることである。マニフェストの政治文化を定着させていくための試練は、圧倒的にマイナス的な経路・形態からとなるのは当然である。プラスの政党政治の蓄積があったうえでのマニフェストではないのだから。
 この組織戦を共同して行うなかから、マニフェストにふさわしい組織と基盤―本来の意味の政党の党員のスタイル―のとば口が見えてくる。同時にそれは、候補者選定過程や組織運営、人事などを、マニフェスト文化―国民主権の政治文化にふさわしいもの、それから説明できるものへと改革し、また打ち立てることにもつながる。バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働として、この「王道」を切り拓いていくこと。そうでなければ、「無党派対策」としての公募という範疇での「マニフェストの取り込み」と同じ枠に収まることになる。
 マニフェストの政治文化を定着させる主権者運動のさらなる発展・蓄積こそが問われている。この力で、マニフェストに基づく政権の中間評価として参院選を戦おう。
 

日本再生のための“逆マニフェスト”作成まで、
主権者運動を高めよう

 新たな公益・社会的公正からの問題設定が問われているのは、内政だけではない。イラク統治では本格的に、アメリカの単独主義の行き詰まりが露呈している。だが問題は、アメリカが撤退すれば済むというものではないことは明らかだ。イラクに安定した秩序と正統な政府をつくりだすために、何が必要なのか。戦争の正当性や大義、占領統治への参画の是非(わが国では自衛隊派兵の是非)をめぐる段階から、問題設定は大きく変わっている。
 ここで本格的に問われるのは、グローバル化の“影”をいかに再統治するのか、という「難題」である。アメリカの単独主義が行き詰まるということは、この問題をグローバル化一般や、アメリカンスタンダードに対する態度論(親米・反米の枠内)という範疇で代位していた空間が飛ぶ、ということである。 
 アメリカ単独主義の行き詰まりという問題は、ケリーが大統領になったら…という程度の問題ではなく、アメリカという図抜けた超大国が世界と安定的に関わりをもつようにするためには…という、新しい時代の「難題」である。ここが見えて「日米同盟」を言うのと、ここが見えずに「日米基軸」をいうのとでは、国益の定義も国家戦略も全く違ってくる。当然、「中国の台頭」ということに対する戦略対応も全く違ってくるし、FTAを始めとする東アジアの経済統合に対する戦略も違ってくる。
   アメリカという図抜けた超大国が世界と安定的に関わりをもつようにすることと、わが国の国益とを結びつける戦略は当然、日米同盟の再設計であり、同時に東アジアの経済統合を視野にここで日中関係の再設計もリンクさせるということになる。わが国は米中の間に割り込んだり、大国として競うという道(国策の誤りの道)をとらない以上、それは外交経済戦略ということになる。このことが分かって防衛・安全保障を再構築するのと、それがなくてあれこれ、というのとでは全く違ってくる。
 アメリカの単独主義が本格的に行き詰まるとは、こうした東アジア戦略―日米同盟・日中関係の再設計―外交経済統合戦略を、日本再生のための行動に移す舞台の幕が開くということにほかならない。
 冷戦の終焉とは、人類史上初めて、単一の世界市場―グローバル市場が生まれたことを意味する。それは同時に大変な格差―光と影の二極化の進行でもあった。グローバル市場のなかで一身に光を集め、一人勝ちしていたかに見えたアメリカに深い影を落としたのが911である。そしてグローバル化の恩恵を最大限に引き出している中国も、光とともに深刻になる一方の影を抱え込んでいる。この両方と、上手に付き合うことができなければ、わが国の国益は確保できない。このような時代環境のなかで、日本を再生させていくことが問われている。
 これはグローバル化の影をいかに再統治するか―国内的には二極化をいかに是正するかという問題であり、新たな公

正(社会的公正)・公益を国境を超えていかに共有していくのか、という問題にほかならない。よい市場にはよい統治が必要である。国境を超えたグローバル市場が弱肉強食では、“影”を再統治することはできない。グローバル化のなかにおける新たな社会的公正とは何か、市場の秩序や社会的市場とは何か。東アジアにうまれつつある経済統合のなかでは、こうしたことが問われる。このような東アジアにうまれつつある経済統合、その基礎にある市民社会を抜きに東アジア戦略はありえないし、そのことが見えなければ、日米同盟を維持することさえ難しくなるだろう。
 あるいは年金問題を始めとする、少子高齢化、環境と経済発展の問題など、「持続可能性」や「定常化」といった、これからの社会ビジョン・制度設計にかかわるモデルをわが国が提示できるかどうかは、わが国の再生にとってはむろんのこと、わが国が「課題先進国」としてのポジションを東アジアにおいて獲得できるか、ということにも大きく関わってくる。これらは、パイの拡大を競うという近代の発展(俗に言う右肩上がり)とは異なる時代の課題である。ここで「国家観」「歴史観」が試されている。旧きよき時代の島国的国家観では、こうした課題にはとても対応できない。
   また日本はもちろん、台湾や韓国、さらには中国も含めて、民意の成熟・その社会の質がより鮮明に問われる時代になっている。グローバル化はアイデンティティーの模索と不可分であるが、自国の近現代史を再解釈することによってアイデンティティーを確立しようとすれば、北東アジアではゼロ・サム・ゲームになり、他者のアイデンティティーを否定して自己のアイデンティティーを確立しようということになる。近代の枠内の国家観、歴史観(旧きよき時代の島国的国家観)では、この隘路を打開することはできない。
ここでもまた、新たな時代の課題―グローバル化の影を再統治する―新たな公正とは何かというところから、東アジア戦略と日本再生の課題を行動に移すことが問われている。
(10―15面 李鍾元・立教大学教授の講演参照)
 日本再生のための“逆マニフェスト”作成にまで、主権者運動を高めよう。5月23日第三回大会は、その試みである。志ある主権者の結集を!
 バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の公共性とガバナンスをめぐる協働関係を創造する場の育成、それが「がんばろう、日本!」国民協議会の役割である。