日本再生 281号(民主統一改題11号) 2002/9/1発行
平成の開国倒幕へ
「日本を救う」矜持あるリーダーと責任あるフォロワー(主権者)の誕生の秋
われわれの政権交代戦略(3)
パブリックなき戦後にケジメをつけ
依存と分配を断ち切る
「リーダーの矜持」「フォロワーの責任」
政権交代なくして構造改革なし、政権交代こそ日本再生の第一歩。
まさに今求められているのは、そのための突破力であり、リーダーの統治力・胆力・マネジメント力にほかならない。それは、政党政治の組織文化としての「透明性とアカウンタビリティー」の基礎のうえにこそ、形成されうる。
民主党代表選における若手候補擁立のプロセスは、まさにその象徴となった。
野田佳彦議員は、「党内維新」「時間との戦い、五年、十年で力をつけていくという悠長なことではこの国は滅びてしまう」という時代観を鮮明に示し、だからこそ「この時期に政治生命をかける」「党首となり政権を取れなければ国会議員を辞職する」と、幕末の志士をほうふつとさせる決意を示した。
前原誠司議員は、「新しい民主党のリーダーは『戦う意志のない者は去れ』と、堂々と言える人間でなければなりません」「何事にも逃げる姿勢では、日本を変えるなどという大事業は期待すべくもない」と「ブレない、逃げない、おもねない」姿勢を鮮明に示した。
小泉の「自民党をぶっ潰す」という絶叫との隔絶は明らかである。(こちらはついに「カイ党宣言」というふざけたダジャレに帰結した。)フォロワーの風景が変わった。責任と信頼をめぐって社会が分岐し、パブリックのウォンツを持った主権者が生まれているからである。
依存と分配から脱却できていないフォロワーは、「誰かにお任せ」ゆえに根拠なきカリスマ幻想とその破綻を繰り返す。自己責任はあるが、民主主義の作法を知らないときには、「変えたい」という心情だけでリーダーを選ぶことになる。長野・千葉の県知事選挙は、透明性とアカウンタビリティーとは何かをめぐる格好の学習効果となるだろう。(昨年の千葉県知事選挙の「その後」については七―八面「千葉・囲む会」の報告参照)
「自己責任を超えたパブリックの責任」を意識しつつある主権者のウォンツは鮮明になりつつある。「今必要なのは、国民がいかなる社会を求めているか、日々の生活で何に不安を感じているのかを真摯に聞き、『改革の幻想』を撒き散らすだけの小泉政治を打破することです。〜『政権交代』とそれを実現するための『統治能力』と『リーダー力』を、我々が自らの責任において築き上げることが、何より重要である」(七面 作田・同人)
このウォンツに応えるリーダーの「矜持」「責任」「胆力」を、切磋琢磨の中から築き上げていく。若手候補一本化のプロセスは、そういう性質のものとなる。一本化の合意文書は、そのための客観的な基準とともに、「共有する時代認識、国家観および政治手法」を明記している。
依存と分配の利害代表の間でなら、利権とポストの配分で調整できる。自民党の派閥政治は文字通りこれであり、ただパイが小さくなる中で、延命をかけた分捕り合戦が激しくなっているだけのことである。
自己責任が前提では、こういう「調整」は効かない。小さな自己責任をより高次のパブリックへとまとめあげる合意形成能力が問われる。ましてや歴史変革のパブリックにかける者同士の間では、国家観・時代観をめぐる大義に殉じるという合意形成能力が問われる。(合意文書では「火だるまになってでも改革に身をささげる決意を共有するとともに、結果にかかわらず互いに最後まで相手を支え抜くことを約する」とある。)
パブリックなき・政党政治なき戦後日本には、そうした主体性も能力の蓄積もありはしない。師匠も先輩もいないなかでの初挑戦である。
民主党代表選だけではない。既得権のしばりが崩れるにつれて、各地の選挙では「出たい人が自己責任で手を挙げる」という状況がますます起きるだろう。その時の調整とはどういうことか。「自分たちの地域をどうしたいのか」「四年間で何をどこまで変えるのか」という公約に基づいて問いあう―透明性とアカウンタビリティーでの「民主主義の作法」が、普通の市民にも求められる。
小泉政権への「中間評価」の意味を持ち、政権交代への重要なステップとなる補欠選挙(10月27日投票)も、候補者選びのプロセスから、こうした国民主権の成熟が問われている。
与党の「公募」は人材不足ゆえの窮余の策だが、地元利害関係者の談合という決定システムは変わらない。自己責任が前提になっている人、政官業の癒着に与っていない人たちが自分たちの代表をつくるために参加する―候補者選びのプロセス自体を、政権交代の基盤整備とすることである。
このような組織戦として10月27日の補選投票日を迎え、「がんばろう、日本!」国民協議会第二回大会(10月27日)に集まろう!
依存と分配を断ち切る「リーダーの矜持」と「フォロワーの責任」を、政権交代の形へ! 日本再生への自信と覚悟を語ろう!
小泉訪朝の「決断」は日本を救う矜持ある決断か?
小泉政権の「改革幻想」が次々と破綻するなか、突然、「小泉訪朝・日朝首脳会談」の報が飛び込んだ。総理は「政治生命をかけて行く」と言っているようだが、何に「政治生命」をかけるのか?
野田、前原両氏の決意を見るまでもなく、「かくも長き停滞」から未だに脱することができないわが国は「国難」ともいうべき状況にあり、改革は時間との戦いである。だからこそ、「自民党をぶっ潰す」「聖域なき構造改革」という小泉総理が、国民の圧倒的支持を集めた。さすれば総理が「政治生命をかける」べきは、政官業の癒着を断ち切る改革の断行ではないのか。
郵政民営化が改革か? 道路公団民営化が改革か? GDPの六割が行政にコントロールされ、口利き政治が跋扈するという政官業の癒着に手をつけない“衣替え”を「改革」と言いくるめる手法は、もはや破綻した。この結果責任を問わずして、何に政治生命をかけるのか?
かように問題設定をしぼりこめば、総理の訪朝の決断とは、政権延命の思惑からにほかならない。外交、とりわけわが国の重大な国益にかかわる外交を政治の思惑からもてあそぶのは、亡国の道である。
「成算は不透明」「結果が出せなければ失敗」などという甘いことではない。問題設定の枠組み、いかに準備されたかのプロセス、そして誰が、いかなる組織・人間関係が動かしているのかが、問題の性格を決める。
小泉政権に、責任と信頼、透明性とアカウンタビリティーのカケラでもあるか? それがないところでの政治家の言葉は、目先の目くらましにしかならない。「改革? 進んでいるじゃないか」と平然と言う総理は、北朝鮮から帰って「首脳同士が会ったんだから前進」とはしゃぐのか。
太陽政策という戦略と政策パッケージを準備した金大中大統領でも、首脳会談で「一点突破」を図ることはできなかった。小泉総理にそれができるだけの戦略、政策パッケージ、「何をどこまで」という基準、そしてスタッフ・チームが準備されているのか。
もしそれがあるなら逆に、外務省のていたらくは何なのか。郵政や道路公団に、なぜあれだけ手間取るのか。(国鉄民営化には、中曽根総理の政治的なリーダーシップと内部の改革意欲があった。石原大臣に国交省を抑えこむだけの権限があるのか、総理がそれをバックアップしているのか、その実行に誰一人責任を負っていない「民営化報告」とは何なのか。)
日本を救うための改革に政治生命をかけずして、「訪朝」に政治生命をかける―ここには日本再生の矜持も覚悟も責任もない。
政治の思惑で外交をもてそぶは亡国の道
矜持、責任がないところでの「国益」とは自分の目先の利害にほかならない。それはムネオ問題でも外務省問題でも明らかだ。
「保身」と「私益」から、対ロ外交で一人相撲に舞い上がった(二八〇号・講演会「外務省改革と対ロ外交の再構築」参照)外務省は、どこがどう「変わった」のか?
各国の利害と思惑がせめぎあう外交交渉においては、リーダーの大局観、戦略的問題設定能力とともに、縁の下を支える専門家(外交官)にも使命感(兵藤長雄氏・前出講演会)が求められる。それを「忘れて」縄張り意識や「誤った選民意識」(この言葉は外務省改革の報告書から削除された)を振り回し、一部の政治家と結託して私益・保身を図る―ムネオ問題、松尾問題(まさか忘れていないでしょうね)で明らかになった外務省の構造問題のどこがどう変わったのか?
むしろ今回の「訪朝」から透けて見えるのは、国民から「解体論」まででている外務省の延命の思惑と、小泉の政権延命の思惑との二人三脚である。これは「二島先行返還論」で国論をミスリードした鈴木宗男と外務省幹部の関係と、どこが違うのか? 「二島先行返還論」がいかに対ロ外交を歪め、国益を損ねたか。ムネオ利権と外務省の脳死という高いツケを国民は払わされたのだ。それをまた繰り返すのか?
目先の思惑で外交を扱えばどれほど国益を損ねるかは、日中関係を見れば明らかである。田中角栄の日中国交回復は、戦後日本外交の「大きな功績」と評価されるが、田中の外交交渉の背景には、政権獲得の思惑があった。「佐藤の次は福田」という党内の既定路線を覆すためには、三木派・大平派の支持が必要であり、そのために「日中国交回復」をもくろんだ。つまり「日中国交回復」は田中にとって、総裁選に勝つための手段にすぎなかった。
このような思惑で外交交渉をやればどうなるか。中国側の「賠償放棄」に感激してODAにつながる奇妙な援助を承諾する。それが今日、日中関係をいかに歪めているか(対中利権も含めて)。また国交回復前年に突如、中国は尖閣諸島の領有を主張し始めたが、中国のこの主張を何ら問題にすることなく、「棚上げして」(黙認して)国交樹立を約した。台湾との関係もしかりである。これが今日に至るまで、わが国にいかに損失をもたらしているか。
目先の思惑や打算で外交を扱う愚を繰り返さないためにも、政権交代を!
守るべき国益、結果責任を明確にすべし
首脳会談、しかも国交がない国との首脳会談は、外交交渉の最後の切り札である。それを早々と切るからには、守るべき国益と結果に対する責任を明確にしなければならない。「首脳同士が会ったことに意義がある」などという話ではない。北朝鮮にとっては日本の総理がピョンヤンまで来た、ということ自体が、外交的勝利なのだから(イラン、イラクとならんで北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しする米国がイラク攻撃に踏み切る前に、対米関係改善の糸口をつくるために「日本カード」をつかう)。
拉致問題、不審船、ミサイルなどは日朝関係を阻む問題である。これらは「戦前の清算」とは別の問題である。これらの問題が解決される保証、メドが立たなければ、国交交渉には入れない―この交渉の枠組みなしに対北関係の進展はありえない。首脳会談はそれを外してはない。(対ロ外交ではせっかく築いた「東京宣言」の交渉枠組みを、自ら「二島返還論」でブチ壊した。)
一国を代表して国交のない国と首脳会談をやるという以上、それに「政治生命をかける」という以上、結果責任は明確にしておくべきだ。それを鮮明に問えない者に、政権交代のリーダー力はない。
今回の訪朝を各国が「歓迎」している背景には、それぞれの国益をめぐる思惑がある。ブッシュ政権はイラク攻撃に入るまでの間、この地域で余計なゴタゴタはしたくないという思惑で「歓迎」している。これは、長期的な東アジアの安全保障とは関係ない判断であり、北朝鮮の「変化」を探るカードとして「小泉訪朝」は使えるということだ。ロシア・プーチン政権にとって日朝関係を「後押し」することは、G8での地歩を固めることに通じる極東戦略に位置づいている。韓国・金大中政権にとって日朝関係を仲介することは、太陽政策の数少ない成果としてカウントしうる。中国はWTO加盟や党大会(指導部交代)などに手一杯のこの時期に、北朝鮮が日米との関係を「改善」すれば、北朝鮮崩壊というリスクを回避できる。
このような各国の思惑のなかで、「小泉訪朝」カードが抜かれたのである。「小泉式びっくり訪北」(朝鮮日報見出し)などとパフォーマンスにかまけていては、ポスト冷戦後の国際政治の攻防に翻弄され、自らを見失うは必定だ。
このような複雑でタフな国際政治の駆け引きのなかで、国益を貫徹できる矜持あるリーダー、使命感のある専門家・官僚をつくりあげるためにも政権交代を!