日本再生 273号(民主統一改題3号) 2002/1/1発行

戦後日本の総無責任連鎖の崩落、
その瓦礫のなかですっくと立つ、そういう国民になろう!


衝撃と激動の時代の幕開け、
不安ではなく覚悟を語れ

 二十一世紀最初の年は、激動と衝撃の時代の幕開けとなった。911に象徴されるように、従来の基準では対処することも、ついて行くことさえもできない事態が、あらゆるところで始まったということである。
 だが第一幕の幕開けの前には、すでに序曲が流れていた。
 近代の総括の上に新しい一ページを加えるための試行錯誤という序曲からは、「戦後ビジョン」の試みとして第一幕が始まるだろう。「根拠なき熱狂」の序曲は、911の前に吹き飛び、下手をすれば近代の知恵の蓄積(国際秩序のルール)さえ揺るがしかねない幕開けとなるだろう(アメリカの対テロ自衛戦争の論理は、イスラエルにどのように飛び火しているか)。市場経済の荒波のなかで生き残りをかけるという序曲は、本格的なグローバル・コンペティションへの海図なき船出として、第一幕を開けるだろう(WTO加盟は、中国にかつてない試練を与える)。
 わが国の序曲、それは「失われた十年」(何を失ったのか?)という旋律であり、そこからは、場当たり・先送りの総無責任連鎖が崩落する場面から第一幕は始まることになる。
 失業率は5・5%と過去最悪を更新、東証大納会は十八年ぶりの安値、相次ぐ金融機関の破綻・・・。いよいよ場当たり・先送りの繰り返しという総無責任連鎖の崩落へのカウントダウンが始まった。
 テロ特措法は、憲法と軍事・防衛をめぐる屁理屈(戦後、とりわけここ十年の怠慢とつじつま合わせ)の余地を吹き飛ばした。憲法改正をあいまいにしたまま、このままズルズルいくのか。ここでも総無責任連鎖の崩落へのカウントダウンが始まっている。
 わが国の状態は、あの貿易センタービルのように、外から見ればまだ何とか形を保っているが、内部はもう崩落寸前、本格的な崩落がいつ始まり、どこでそれを止めることができるのか―地上部分で止められるのか、地下まで瓦解するのか―といったところに置かれている。そのことをマジに考えざるをえない。そういう事態が、今年はさらにいろいろ起こるだろう。
 わが国がタイタニックのように沈みゆく船であるなら、だれがどのようにして救命ボートを出すのか、どこに向けて、どの規模で、ということが政権問題である。挙国一致では話にならない。
 総無責任連鎖の崩落に立ち向かうことができるのは、改革保守の政治勢力であり、政権交代なくしてその道は開けない。その覚悟から、のるかそるかの事態に対処できなければ、日本再生の可能性はついえることになるだろう。
 そういう覚悟と肚を固めよう! 空疎な「改革」の掛け声が不信と不安をさらに増大させていく中で、「不安」から事態を語るということ自体が、すでに当事者意識の欠如を意味している。
 「なんとか変えてほしい、小泉さんに期待するしかない」。小泉政権の支持率(支持ではなく期待)はこういうところにあるのだろう。だが、そこに本当に主権者としてのまじめな問いはあるのか? そろそろそれも問わねばならないだろう。「負け試合をチームの一員として自己批判できるだけの責任意識が、あなたにはあるか?」と。

□戦後日本の総無責任連鎖による社会の崩落に歯止めをかけることは、一市民が国や社会に対する自覚と責任を回復するところからしか始まりません。
 そのことはパブリックに係わることが欠落し、国家と政党政治に対する忌避で彩られた“戦後日本”に死を宣告することなしではありません。
 野球やサッカーの試合で負けたチームの中で、選手の一人ひとりに“あの時・あの場面で自分が何とかしていれば”との思いが派生しなければ、そのチームが次の試合で一念奮起する可能性が見えるでしょうか。
 自分のプレーに一切非はなく、誰々が悪いとか、監督やコーチの作戦が悪いというだけのチームに、次の試合での勝利の可能性は見えてきません。
 現下における日本社会の崩壊は、このようにプレーヤーも指導者も、負け試合の自己批判ができていないという、総無責任連鎖の状況から起こっています。私たちは「平成の草莽崛起」と呼ばれるにふさわしい、矜持ある国民運動を行っていくつもりであり、目の前の現実が“敗戦”であれば、私たちは自己批判から入る以外に勝利の道はないのではないでしょうか。(牽牛倶楽部・年末合宿のよびかけ より)□

 国民として、フォロワーとしての私の覚悟はこうだ――不安と不信の増大は、ここで止める以外にない。ここからリーダーや政治家にも「覚悟」を問おう。改革保守の政治勢力は、そこからつくられていく。

 「日本の不幸は、こんな小泉内閣でも(抵抗勢力との出来レース、プロレスの悪役とヒーローの関係で、じつは肝心なことは何一つ変わらないまま)、それに期待するしかないことだ」と、ワケ知り顔――そういうあなたは何ものなの? 国民の生命・生活・安全を守るという国家や政府の役割を放棄して平然としている政権に、なんの憤りも感じないあなたに、国民としての自覚はあるのか? 
 「目の前の生活で精一杯、世の中のことを考えている余裕なんてない」――ウソを言っちゃいけません。それなら「右肩上がり」の時やバブルの時に、考えたんですか? いつでも目先のことしか考えず、パブリックのことを忌避してきただけでしょ? その結果を、また誰かのせいにするんですか? 「負けて目覚める、それ以外に日本が救われる道はない」と新生日本のために散った「戦艦大和の最期」の声が、あなたには聞えないんですか?
 「この国には何でもある、希望以外は…」――そうだ、だからこそ青年よ、パブリックのために自らを鍛えよ! 若者が、ホームレスになってようやく「自分の居場所が見つかった」という社会は、幸せな社会なのか? そんな「自分探し」の虚ろに安住するな! 希望さえも、誰かに期待して待っている、それほどまでに自己決定できなくなったら、その国・民族は滅びるしかない。
 「日本じゃ、やりたいこともできないし〜、別に捨てるものもないし〜、でも向こうで国籍とっても骨を埋める気はないんだ〜、あっ捨てるものがあった、ウチの親!」――いいとこ取りで亡国棄民の「勝ち組」になるくらいなら、結構よ、「負け組」として胸をはって、この国に踏みとどまってやろうじゃないの!
 一灯照隅。がんばる日本人の小さき覚悟を、あらゆるところで示し、問おう。私の覚悟はこうだ、あなたはどうか? 国民としての覚悟はこうだ、リーダーはこれにどう答えるのか?と。
 そして「善意」の不安を叱咤激励し、「私でもここまでできたのだから、あなたにだってできるでしょう」と声を掛け合おう。逃げ切り、絶望、亡国棄民などのぶら下がりには、正面から叱責を飛ばそう。
 不安を語っても希望は見えてこない。不安ではなく覚悟を語れ。そこから希望は見えてくる。
 戦後日本の総無責任連鎖の崩落へのカウントダウンは始まった。崩落の後の瓦礫のなかにすっくと立つ、そういう国民、そういう日本人になろう!
 「一九四五年八月、焦土と化した日本に上陸した占領軍兵士がそこに見出したのは、驚くべきことに、敗者の卑屈や憎悪ではなく、平和な世界と改革への希望に満ちた民衆の姿であった」(『敗北を抱きしめて』J・ダワー 上巻扉より)

新生日本への
ビジョンと覚悟を語れ

 ●最後の砦、国民の個人資産をどう活かすのか
 日本経済がどん底に陥っているのに、六六六兆という膨大な(常識では持続不可能な)財政赤字を抱えた政府に危機感がないのは、一千三百兆の個人金融資産があるからだと言われる。
 だがこのままズルズルいけばこれも目減りし、さらには海外への資産逃避(円が日本を見捨てる)が加速化する。逃げるすべのない国民は、失政のツケと相殺で老後の蓄えその他を失い、残ったのはローンだけ。総無責任連鎖の崩落の経済的光景は、こういうものになるだろう。
 最後の砦、国民の個人資産をどう活かすのか―あり金を何のためにはたくのか。これを正面から論じる覚悟が、国民に、そして政治家にあるか? これだけが問われている。
 この覚悟は、「失われた十年」を切開することなしには生まれない。すなわち失われた十年とは、資本主義のルール・市場原理を否定し続けた十年であり、「雇用対策」「景気対策」などの名の下に、歪んだ不公正きわまりない経済社会をつくりあげた十年だということである。
 例えば、わが国のGDPは五百兆強、そのうち中央・地方の政府関連は三百兆強。国民の作り出した価値の五分の三が、国民の自己決定ではなく「お上」の手に委ねられているというわけだ。こういう社会に、自由や自己責任などが育まれるか?
 当然この構造の裏には、公的なものにたかる利権分配システムが、ベッタリと張り付いている。リスクをとって何かをするより、「お上」に頼ってぶら下がったほうがラクしてトクする社会。「雇用対策」「景気対策」の名の下で肥大化したのは、こういう社会だ。
 このことを金融資産からみれば、一三八五兆の個人金融資産のうち、なんと八〇〇兆以上が、国債、郵便貯金、簡易保険を通じて政府部門に流れている。これらのカネはどこへ行ったのか。車の通らない道路、釣堀と化した港湾施設、使われないダム、年一回歌謡ショーが開かれるホール、閑古鳥のなく保養施設、年度末ごとに繰り返される道路の掘り返し…。
 金融や財政政策における主権意識のない政府(他国に言われるままに金庫のカギを渡した85年プラザ合意以降の失政)なら、国民にも自分のカネをどこにどう使うか、自己決定できないのは当たり前? 
 最後の砦、国民の個人資産を、日本再生のために戦略的に活用するためには、この「自己決定できない・させない」歪みを正すことなくしてない。そして「新生日本債」「日本再生債」を国民が買う―自分で判断してリスクを取れるためには、リーダーは「覚悟と希望」を語れなければならない。不安では、リスクはとれないのだから。

●東アジアに自画像を持つ歴史的チャンスを活かせ
 中国のWTO加盟をきっかけに、まだぞろ日本では「巨大な中国に飲み込まれる」といった類の中国論が流行っている。しかし渡辺利夫氏の指摘するように、それは「自信喪失した日本が中国というキャンバスに描いた自画像にすぎない」(本号14面インタビュー)。
 問われているのは、「戦後日本」を規定してきた東アジアの環境が最終的に変わったという事態に、虚ろな自画像さえ見失っていくのか、それとも自画像を確立する最後のチャンスとして受けて立つ覚悟があるのか、ということなのだ。
 「戦後日本」を規定してきた東アジアの環境が、最終的に変わったとは、こういうことだ。
 第一に、日本がこの地域での「図抜けたナンバーワン」ではなく、「アマング・イーコールズ」となるということ。この序曲はすでに、数年前から始まっていた。
 九七年に開催したシンポジウム『21世紀の東アジアと日本』で、中西輝政氏は「『ジャパン・アマング・イーコールズ』、つまりアジアにおいて日本は今後、似たようなレベルに達した国々の中のワン・オブ・ゼムにすぎない立場へと移ってゆかざるを得ない。〜中略〜大きな視野でみるならば、このことは明治開国以来の日本の国際環境が決定的に変容することを意味し、日本が国際社会でどのような生き方をするのか、重大な岐路に立たされるであろうと予想される」と述べている(同シンポジウム報告集より)。
 同シンポジウムの基調では、こうした時代の問いから「逃げない」責任性・主体性なくして、事実を事実として語ることもできないと問うたが、まさに先にあげた「中国巨大論」などは、そこから逃げまくったところに咲いたアダ花、というところであろう。これで中国のWTO加盟を受け取れば、「自分ひとりでは何もできないから日米同盟で」という「負け犬根性」以下にしかならないのは当然だ。
 日本が「図抜けたナンバーワン」であった時代は、東アジアが不幸な時代、「アマング・イーコールズ」は東アジアが幸せになる時代へのチャンスだと言えるのは、自分を見失わない(難しく言うと、近代の総総括のうえに立つ)覚悟からだけである。
 第二に、アメリカ、中国ともに、日本がこの地域の秩序形成に主体的にかかわること(マイナス=軍国主義の復活等はもとより、プラスでも)を望まなかったという環境が、変化した。それは皮肉にも、日本が「図抜けたナンバーワン」ではなくなったからだ。
 これを「被害者パラダイム」で受け取れば、それこそ世界の笑いものである。この環境変化を正面から受け止める覚悟があれば、まったく別の風景が見えてくる。
 すなわち「どん底」とは言え、まだわが国はこの地域では絶対的に大きな力を有しており、タイタニックとして沈めば、その渦に巻き込まれかねない国は少なくない。したがって、「日本ががんばる」ことに対して声援しこそすれ、「大国主義の危険」やら、「軍国主義の野望」を言い立てるところは(特定のプロパガンダ以下には)ない。
 つまりわが国が、地球共生国家日本の自画像をきちんともって、やるべきことを全力でやれば、東アジアの新しい風景が見えてくる。余計な遠慮や気配りは、その覚悟のなさ、自画像の虚ろの反映でしかない、ということだ。
 第三に、中国のWTO加盟は、この地域における本格的な経済戦略をもつことを要求している。アメリカが支える秩序を前提に、国内経済のオーバーフローとして外に出て行く(不調になれば収縮して帰ってくるだけ)。こういった、戦略なき経済政策では国内ももはや立ち行かない。早い話、昨年のセーフガードのようなことを繰り返していられるのか、ということだ。
 共通の市場がもたらすものは計り知れない。同時に共通の市場をつくりだすためには、「価値観の共有」や「共通の利益」に基づく、安全保障や社会政策などでのさまざまな協調が不可欠である。こうした協調と市場の統合の相乗効果から、東アジアの新しい自画像を描く時代の到来として受けて立つ、その覚悟が問われている。
 自由、民主主義、市場経済、どれも中途半端なまま無責任構造を増殖させてきた戦後日本をひきずる限り、そうした覚悟はできない。
 戦後日本に死を宣告し、責任の回復を! 
 不安ではなく、覚悟を語れ!  
 希望はそこから始まる!
 二〇〇二年、がんばる日本人へのさらなる一歩を!