民主統一 266号 2001/6/1発行
小泉がんばれ、自公を落とせ
国民主権の力で政権交代の基盤整備をおしすすめ、政界大再編へ<
国民主権の発展から小泉「疑似政権交代」を呑み込み、ホンモノの政権交代へ
驚異的な支持率で小泉政権が発足してから、一ヶ月が過ぎた。すでにわれわれは、三月一日発行の「民主統一」二六三号で、「国民主権の正面突破」「構造改革を正面から問う」ために、「参院選は小泉―自公保政権と正面から構えよう」と提起していたのであるから、「絶好の情勢」の到来と言える。橋本氏が(国会議員の投票で)総裁になって、そこから政界再編への流れができるというシナリオよりもずっと大胆に、国民主権の力によって政界再編をすすめるための舞台が、整いつつあるのだ。
昨年総選挙での一区現象、そして長野、栃木、千葉、秋田と続いて来た国民主権のうねりを、ついに自民党も追認せざるをえなくなった(それ以外に延命の道がなくなった)という意味で、これは「半歩前進」である。
「かつての自民党のリーダーたちは田中内閣の後に三木内閣を誕生させたように、民意の動向をにらみながら巧みに政権を変えることによって『疑似政権交代』を演出する能力を持っていた。今回の事態は『疑似政権交代』を違った形で行ったものというべきである。違った形というのは、リーダーたちのこうした能力が枯渇状態になり、党員、党友の投票による蜂起によってしかこれが実現できなかったという点にある」(佐々木毅・東大学長4/27朝日)
この「疑似政権交代」からさらに「一歩前進」するか、それとも「二歩後退」につながるか。都議選、参院選(同日選となる静岡、兵庫の県知事選や前後する自治体選挙も含め)はその攻防となる。
自民党内に支持基盤を持たない小泉首相にとって、国民の高い支持は命綱である。その人気はいまだワイドショー感覚のものであるが、高い支持を支えているのはいわゆる無党派層であり、その期待は「自民党解体」である。その自民党の最大の選挙対策は、小泉人気を得ていまや「無党派対策」となった。
国民主権(の追認)という要素が入り始めるや、強固な結束を誇ったはずの永田町の「本丸」さえもが溶解し始める。まさに、新党ブームや細川政権から始まった既成政党離れの最終幕(自民党の「第二の社会党化」)と、ここ十年ちかくの(政界再編をめぐる)紆余曲折から学んだ主権者が、政権交代可能な政党政治の基盤整備のとば口を開ける新たなドラマの幕開けとの“交差”、かような意味での「幕間劇」が、小泉政権をめぐる諸問題である。
小泉内閣の使命、それは次なる「政界大再編」にむけて、政権交代可能な政党政治の基盤整備を正面から歴史の舞台に登場させるために、旧政治の最後の将軍として、国民主権への大政奉還を決定的なものとすること、そして江戸城を明け渡すことである。
小泉がんばれ、自公を落とせ。旧体制内の地位の交代(国民主権の追認派への主導権の移行)を決定的なものにするとともに、次なる「政界大再編」―政権交代可能な政党政治の基盤整備(有権者再編)のエネルギーをつくり出すこととを結びつけよう!
国民主権を発展させる戦術の特異性
「小泉がんばれ、自公を落とせ」は、国民主権の「半歩前進」から国民主権への大政奉還を決定的なものとし、同時に政権交代可能な政党政治の基盤整備の「一歩前進」へとつなげていくための戦術である。
それは第一に、半歩前進をなかったことにする、あるいは「二歩後退」につながる道を断つための戦術である。
半歩前進をなかったことにするとは、「あくまでコップの中の争いで、コップを壊してはいけない」(青木参院議員)に端的なように、小泉人気に便乗して都議選・参院選で自民党が勝って、旧き永田町が生き延びようというシナリオ。この道を断つためには、小泉改革の「真の敵」を明らかにしなければならない。すなわち「自公を落とせ」である。基本政策の策定をめぐって、早くも自民党内の「抵抗勢力」が明らかになりつつある。
同様に「小泉がんばれ」だけでは、事態についていくことさえできない。第一にそれでは八割の支持の前に、総与党化―翼賛体制の道を自ら行くことになる(戦前、「近衛新体制」の前に、政党がこぞって「バスに乗り遅れるな」と大政翼賛会になだれこんだ歴史を想起せよ)。第二にそれでは、「善意で」小泉政権に期待している多数の国民を「観客民主主義」の側に止まらせることになる。必要なのは「観客」にも、即座に参加の役どころ、舞台を回す役割を示すことである。「妨害勢力を抑えこむのはあなたの一票だ」「自公を落とせ」と。
都議選・参院選で自民党が負けても、旧勢力が小泉の責任を追及できないようになる。すなわちこれが「国民主権への大政奉還」を後戻りできない決定的なものとする、ということである。逆に自民党が勝てば、必ず旧勢力が勢いづいて小泉改革の足をひっぱることになる。既に道路財源の見直しなどに、その兆候が表れている。そのいざこざで何も決められないままこの二、三年を浪費するような余裕は、すでにわが国にはない。
「小泉がんばれ、自公を落とせ」は、同時に、国民主権のさらなる一歩のための有権者再編の戦術でもある。それは「善意」の期待層を観客席から舞台に上がらせること、その役割を自覚した主権者が担うこと(草の根のリーダー、市井の行動的賢人)を意味する。
八割の支持のなかには、ついこの間まで「(森総理に対して)こんなんだったらアタシがやったほうがマシよ」と言っていた人々が、大量に入っている。そこには「小泉さん、真紀子さんをいじめないで」と、野党議員に抗議したような人たちも入っているだろう。こうした人々に対して「説教」するのではなく、より行動的に国民主権の隊列に加わるよう、いかに啓発し行動提起するのか。無数の小さき草の根のリーダーがその任を担うことこそ、国民主権のさらなる発展にほかならない。
この十年来、とりわけ九八年「経済第二の敗戦」を契機に目覚め、一歩一歩歩んで来た主権者は、自分の自覚や責任意識をいかに深めるのかという自己研鑽を卒業して、善意な期待層―当然、自分の経験・成長過程の窓からでは「よくわかっていない」と思える人が多い―に、国民主権の発展という大目標からの即座の行動提起ができるか、そしてその行動を通じた学習過程を意識的にコーディネイトできるか、という有権者再編の統治能力が問われることになる。
旧い権力構造が崩壊しつつある時(江戸城明け渡し前夜)の改革派の戦術の特異性とは、体制内の地位の交代を促進する(国民主権の追認派への主導権の移行)とともに、真の改革へのエネルギーをつくり出すこととを結びつけるところにある。
旧体制への批判がホンモノだったのか、「出来レース」「談合」だったのかは、この時にはっきりする。五十五年体制的「反自民」の延長では、「反小泉」か「小泉支持か」(便乗)という枠で右往左往することになる。自民党(族議員、金権腐敗など)あっての「反自民」、既成政党のていたらくあっての「アンチ永田町」「アンチ政党」の“虚ろ”が露呈する。ここには国民主権の実在・蓄積はない。あるのは気まぐれな「風」であり、浮遊する「世論」である。それを当てにする「政党」は、自ら政党政治を否定することになる。
同様に、小泉人気に「ポピュリズムの危うさ」を指摘するだけの者も、国民主権を信じていないことがわかる。
ポピュリズムの危険性は、どこから生まれるか。それは、ワイドショー、夕刊紙的参加から生まれるのではない。そうした参加を、観客民主主義に止めずに、新たな有権者へと成長させるすべを持たない(持とうとしない)ところから、である。旧体制、その権力構造と価値観が崩壊するときに、次のオルタナティブを準備するところまで、自由や民主主義を発展しえていないところから、である。
国民主権の『神話』を信じ、それを現実のものとするために戦うところにこそ、抜本的な構造改革の旗は立つ。そして大衆は、旧体制の「指導者」とは別の道を通って、自分の誤りや狭さを克服していく。
小泉がんばれ、自公を落とせ。この戦術の前に、国民主権の実在・蓄積があらわになる。この十年近くを、アンチ政党―既成政党批判で過ごしてきた結果の“虚ろ”なのか、「政権交代可能な政党政治」を期待し、落胆しつつも悩みながら一歩一歩蓄積してきたのか。一有権者としての責任意識から、すべてが照らし出されることになる。一有権者としての責任意識に立脚しない「被選挙権の行使」(バッジ族)とは何者なのかも明らかになる。
前者の誤り(マイナスの蓄積)をひきずっていれば「小泉がんばれ、自公を落とせ」に、疑心暗鬼、危惧を対置することになる。そのようなマイナスの蓄積がない度合いに応じて、ワイドショー、夕刊紙的参加からも、「小泉がんばれ、自公を落とせ」に「そうだッ」「それいいね」と反応が返ってくる。そして後者のなかからは、「小泉がんばれ、自公を落とせ」を有権者再編の指針として伝えていこうとする、草の根リーダー的・市井の行動的賢人の主体が生まれてくる。
大政奉還の枠を超えてすすむ、救国・改革政権の権力基盤への有権者再編をおしすすめよう。
改革保守の国民政党を準備しよう
小泉氏の言う自民党の解党的出直し、自民党を壊してでも改革をとは、「(国民主権への)大政奉還、江戸城明け渡し」という意味である。疑似政権交代とは旧体制内部で「大政奉還」「江戸城明け渡し」を主張するものが権力の座につく―それ以外の延命の道は断たれる―ことを意味する。
都議選・参院選で、このことを後戻りできないまで決定的なものとすると同時に、大政奉還の枠を超えて維新にまで突き進むエネルギーを生み出す場としなければならない。
言うまでもなく、平成の薩長とは国民主権である。これが見えていないと、小泉政権の役割は分らない。そして平成の維新とは「構造改革」と「政権交代可能な政党政治」を両輪として展開できるということである。それは「改革保守」と表現する以外にない。
国民主権、自由、民主主義、市場経済の発展からすべてを語ること、ここに改革保守の旗は立つ。
国民の「変えたい」を、官僚・族議員叩きにしか動員できない「改革」派は、政権交代可能な政党政治の基盤(有権者再編)を傷つけることはあっても、促進したことはない。細川改革以来の事実が、そのことをなによりもはっきり物語っている。改革の失敗や挫折を、守旧派・既得権益層の抵抗の根強さに帰するのは簡単だが、そこからは、自由・民主主義の発展にかかわる何ものも学ぶことはできない。
改革保守とは、権力の所在は国民にあると言い切れる者である。そこからのみ、自由、民主主義、市場経済の発展から戦後を根本的に見直すという一有権者としての責任意識は覚醒される。改革がすすまない閉塞の打破を、カリスマ・リーダーの登場に託すのではなく、国民・市民の自己責任・自己決定を問う市民革命として、無数の「小さき英雄」が時代を前に回す。そこに改革保守の旗は立つ。
公の領域を官が独占していた時代とは、国益や公益が国民とは別のところに超然と存在していると思われていた時代であり、「由らしむべし、知らしむべからず」という統治を必要としていると思われていた「半人前」の国民の時代である。この延長に「観客民主主義」「お任せ民主主義」を民主主義と勘違いしていた時代を終わりにすること。構造改革とは、そのことにほかならない。
国益や公益は国民、住民自身が決定する。それは自己利益の延長ではできないからこそ、“新たなる公”の創造が問われる。そのために、自由、民主主義、市場経済の発展に対する責任が問われる。そのために、異なる意見との合意形成―より高い次元のパブリックへの統合が問われる。そのために、主権者としての小さき統治能力の不断の発展が問われる。ここに改革保守の旗は立つ。
官から民へという改革は、かような“新たなる公”の創造―その担い手たる主権者の形成が伴わなければ、官僚・族議員バッシングでお茶を濁すことになる。その結末は、公の機能停止、社会的不公正の拡大(挑戦するものには規制を、ぶら下がりには手厚い保護を)である。その政府は税金を負担せずに便益だけを受けようとする人々の代表となる。そんなところで、民主主義が機能するはずがない。
「景気なんかより、フェアにやってくれ」と叫びたくなるような疑似市場経済では、自立した投資家も起業家も経営者も労働者も育たない。労働組合の権利は保護されても労働者の権利は保護されないような仕組みでは、労働市場は形成されないし、主体的労働は育成されない。自営業では失敗を教訓に再挑戦することが許されない(全財産を失う)のに、(too big to failと言われる)大企業の社長なら、税金で尻拭いの債権放棄でも経営責任が問われないという仕組みでは、健全な起業家は育たない。
成熟した市場を介した資源の最適配分とは、現在のみならず、次の時代の社会的ニーズ・改革のニーズまでをとらえ、その新たな市場(社会的市場)を開拓・再編していくところまでを視野に入れたものになる。コスト計算にも、さまざまな社会的費用が含まれる。そこではグローバル競争で勝ち抜く世界と、共同体の協力社会とが並存する。ここに改革保守の旗は立つ。
そして成熟した民主主義社会における政党とは、“新たなる公”の創造をめぐって政策と政権を競うことである。それゆえ社会の半歩先に立って、“新たなる公”の担い手たる有権者の市場を開発し、育成することのできる政党が次の政権を担う。ここに改革保守の国民政党の旗は立つ。
(それによって、もう一方の旗〈社会民主主義的国民政党〉も可能となる。逆はない。「戦後保守」と言われるものも含めて「日本型総社民(バラマキ)」化した結果の破局からは、いかなる意味でも、国民主権を発展させる意識性は生まれなかったという事実から、われわれは出発すべきだ)
かような政権交代可能な政党政治の基盤整備への教訓として、この十年近くの政治の紆余曲折を総括しきること。これが「半歩前進」をさらなる一歩へ転じる理論的指針である。だからこそ、改革保守の国民政党を準備しよう。そのステージへと転換するために、「小泉がんばれ、自公を落とせ」で有権者再編をおしすすめよう!
自公過半数割れから、新しいドラマの幕を開けよう! 投票に行こう!
国民主権の力で政権交代の基盤整備をおしすすめ、政界大再編へ! この舞台の幕は、都議選から切って落とされる。
小泉改革が具体論に踏み込み始めると、「抵抗勢力」も明らかになってくる。自民党内からは「選挙が終わったら言いたいことを言わせてもらう」という声も聞こえてくる。自公過半数割れでも小泉をひきずりおろせない―ここから次の政治のドラマの幕を開けよう。さすれば国民主権が有利なように「解散権」を行使する条件ができる。
勝負は投票率である。投票率四割以下の世界では、業界・団体票、「アンチ政党」票などの「組織票」の奪い合いにしかならない。ここには国民主権は見えてこない。
自覚的な有権者が5%投票率を上げ、それにひっぱられてふつうの有権者が投票に行き、投票率が五割を越えれば、業界・団体票、「アンチ政党」票などの「組織票」は呑み込むことができる。
都議選の投票率が四割を切ったら、長野、栃木、千葉、秋田と続いてきた国民主権のうねりを、東京がチャラにしたということになる。江戸っ子の面子にかけても、国民主権の力で新しい政治のドラマの幕を、都議選から切って落とそう!
(都議選については6―7面ならびにメールマガジン10を参照)