民主統一 265号 2001/5/1発行
救国・改革政権へ舵を切れ
小泉新政権の「半歩前進」を、国民主権のさらなる一歩へ
小泉政権は、国民主権への大政奉還となるか?
永田町が「妖怪」に怯えている―国民主権という妖怪に。
昨年総選挙で「一区現象」をひき起こした有権者の「変えたい」は、長野、栃木、千葉そして秋田へと燎原の火となって拡がった。その火にあおられて、永田町にも「小泉革命」が飛び火した。
ある人は「驚天動地」と言い、ある人は「激怒」し、ある人は「呆然自失」しているが、目前に控えた参院選を考えれば、露骨に敵対してトラの尾ならぬ「妖怪」のシッポを踏むのは得策ではない…。だが参院選が終わったら…。
「この内閣は『改革断行内閣』だ。改革には、必ず抵抗する勢力がある。それとの戦いが今、始まった」とは、小泉新首相の言葉だ。
永田町を「中抜き」して総理・総裁になった小泉氏が、永田町内に支持基盤を持たないのは当然だ。予備選で小泉氏に投票した自民党員の気持ちは、「これで橋本が総裁になるなら、今度の参院選はもう自民党には投票しない」「これでダメなら、もう自民党員をやめる」というものだった。読売新聞(4/17)の党員アンケートでは、小泉さんに投票すると答えた人の20%が、今夏の参院選で自民党には投票しない(橋本支持では4%、全体では14%)と答えている。
「第二の敗戦」を契機に覚醒を始めた有権者は、すでに永田町をバイパスして「変えたい」を行動表現している。永田町のはるか先を行く民意に、ついていけるのかどうかだけが問われているのだ。
小泉政権が自民党の延命装置になるとすれば、それは永田町のなかでももはや、改革・国民主権を掲げる以外には生き残れないことをはっきりさせることによってだ。国民主権に背を向けて、派閥の論理に代表される自民党的体質で延命しようとするなら、それは「自民党の消滅」だ。このことを感じ取った党員が、選挙で国民から“お陀仏さん”にされる前に、自分たちで永田町の葬式を出す準備を始めた―これがこの総裁選の意味だ。
始めた葬式は、最後までやりとげよう。小泉政権の役割は、国民主権にソッポを向かれて命脈のつきた旧き自民党に、息を吹き返させることではない。国民主権への大政奉還の号令は下ったが、維新までにはまだ道のりがある。今度の参院選(その前哨戦としての都議選、同日選の静岡県知事選もふくめ)では、国民主権に怯えるもの、国民主権に背を向けた政官業のトライアングルによる組織選挙しかできないものを落とすことだ。
「変えたい」と小泉さんに投票したのなら、参院選では自公過半数割れだ。参議院自民党を仕切るのは、業界を動かし、カネと票で国会議員をコントロールし、最大派閥を誇って来たアノ◯◯派だ。「もっとも嫌われる政党」の本体だ。その延命のための小泉政権とするのか? 「死せるものをして死せるものを葬らしめよ」。国民主権の追認以外に生き残る道なし、というところへ、永田町の本丸をも追い込んでいくこと。それが小泉政権の役割だ。
永田町を変えられるのは有権者だけだ。
派閥の力学や合従連衡、議員の席換えや数合わせ。有権者の意思を無視して、こうしたもので政治が動くという、いわゆる「永田町の論理」。首相や国会ではなく、与党の実力者の一声や談合で政策が決まるという「二重構造」。派閥を実とし、党員を虚とする「政党」。これらが、燎原の火のごとく拡がる「国民主権」の前に崩壊を始めた。
五十五年体制の「終わりの始まり」であった細川政権から十年弱、ようやくその清算が、永田町の本丸にも及び始めたということだ。だがこれは序曲にすぎない。この半歩前進が、次の一歩へつながるか、それとも二歩後退となるか―小泉政権をめぐる攻防が、それを決する。
小泉政権の誕生は、政権交代と同じ意味か?
「かつての自民党のリーダーたちは田中内閣の後に三木内閣を誕生させたように、民意の動向をにらみながら巧みに政権を変えることによって『疑似政権交代』を演出する能力を持っていた。今回の事態は『疑似政権交代』を違った形で行ったものというべきである。違った形というのは、リーダーたちのこうした能力が枯渇状態になり、党員、党友の投票による蜂起によってしかこれが実現できなかったという点にある」(佐々木毅・東大学長4/27朝日)
しかり。民意を追認する、という意味での「半歩前進」が、疑似政権交代にとどまるなら、「二歩後退」となる。
例えば小泉首相はさっそく会見で、「首相公選制に限定した改憲」に言及し、持論である首相公選制への意欲を示している。民意の追認の前に政党を解消し、首相公選制にもっていくことが、国民主権の前進となりうるか。断じて否である。
「変えたい」を「表紙を変える(首相公選制)」に集約するのか、それとも参加型政党政治の確立へと集約するのか。国民主権の発展をめぐる有権者再編の力勝負は、こういうステージへと移りつつある。
「ある人が私に言った。『旧ソ連でゴルバチョフが政権をとって、一挙に党を軽視しポピュリズムで政治改革をやったが、結局は党をつぶしソ連に大混乱を起こした。そのようなことがないように注意してほしい』と。総裁の仕事は、党の団結と選挙に勝つことだ」(小泉新政権について中曽根康弘氏4/27毎日夕)
興味深い指摘だ。中曽根氏の言に従えば、「党の団結と選挙に勝つこと」とは、小泉―田中人気で参院選では自公過半数確保ということだ。この枠に収まる「変えたい」なのか、それともこの枠に止まらない「変えたい」なのか。政党と選挙というものを、国民主権原理の上に完全にすえきるのか、それとも政党や選挙は、談合や数合わせを隠す「看板」にすぎないのか。有権者再編の力勝負の焦点は、ここに移りつつある。
問われているのは、政策と選挙、そして政局を一致させて行動できる、したがって当然、有権者再編のすべを心得ている、そういう政党、政治家なのかどうかだ。それがなければ、「圧倒的な民意」(予備選圧勝、そして小泉政権の支持率は80%台から出発する)、それを体現する「選ばれた一人」(公選制)の前に、与野党の論戦は消え、総与党化となる。(だが、オルタナティブが存在しないところでの政権交代は可能なのか?)
「圧倒的な世論の支持」の前に、国民主権の発展のための論戦を組めない政党とは何かが問われる(とりわけ野党の存在意義)。与党は「生き残り」総翼賛化でよい。小泉政権の「公選論」に対して、国民主権の発展や参加型政治をめぐって論戦を構える力を持たずして、構造改革の諸政策を競い合う政策論争で追い詰めていくことはできるのか? 野党、とりわけ民主党に問われているのは、そういうことだ。そして首相公選論への国民主権の発展からの論戦を、(公選論に反対している)小沢氏がどのように構えていけるのか。
言い換えれば、「政策の小泉から政局の小泉に変わる」と平然と言ってのける人でも(「だからこそ」と言うべきか)、民意の追認はできる。だがその延長に、参加型政党政治・政権交代可能な政党政治確立への「次の一歩」はあるのか。
メーデー集会に参加した小泉首相(首相の出席は五年ぶり)は、「私が総理・総裁に就任したことは、政権交代と同じ意味を持っている」と述べた。はたしてそうか? 自公保連立の枠組みは変わっていない。政策合意も大きな変化はない。森政権の政策の何をどう転換するのかも、明確ではない。(小泉氏の「公約」である国債発行上限30兆円は、現在の継続である)
有権者再編の力勝負を伴わない政権交代は、じつは「疑似政権交代」にすぎない。これが、細川政権以来の紆余曲折の学習過程だ。救国・改革政権へと舵を切る政権交代は、有権者レベルでの権力基盤の入れ替え戦であり、永田町の席換え・数合わせ・権力抗争の範疇をはるかにこえる。
大政奉還とは、既存の権力構造内部における地位の交代―延命だ。国民主権への大政奉還の号令は下ったが、まだ決定的なものとなってはいない。参院選は、国民主権への大政奉還を決定的なものとする(それ以外に延命の道なし、というところに追い込む)と同時に、その枠を超えて維新にまで突き進むために(既存の権力構造内部の地位の交代をはるかにこえる政治社会革命のダイナミズムへ)「鳥羽伏見」の決戦を準備していかなければならないのだ。参院選とその後の政局とは、そういうことだ。
改革政策の力強さはどこから生まれるのか
国民主権は「妖怪」ではない。風だ、地殻変動だと、マスコミのように他人称で語るのはやめよう。国民主権とは、私たちだ。その国の民主主義のレベルは、国民のレベルによって決まる。それ以上でも以下でもない。
「現在の政府(森政権)は、税金を払わずに便益だけを受け取ろうという人たちの代表になっている。悪い政治と悪い国民が結びついている。こういう政治では民主主義は健全に機能しない」と評したのは、小泉政権で入閣した竹中平蔵氏である。
これは国民のレベル以下だから、これを国民多数のレベルにまず合わせる。それが自民党総裁選予備選だった。ここからどこへ行くか。
改革政策の力強さ、実行力は、「立派な」一人を選ぶところから生まれるのではない。「県民や県職員が自己決定し、自己責任をとれるシステムで、必然的にそういうヒットというべき政策が生まれてくる〜。もう少し言うと、有権者が『要求型の民主主義』の感覚のままで、政治や行政が『打出の小槌』を振り続けていては、日本の閉塞感は拭えない〜。だから私は、県民に『自己責任を問いますよ』というところまでいきたい」(北川・三重県知事「論座」5月号)
疑似政権交代に止まって満足する「変えたい」なのか。そうでないなら、選挙の時だけの有権者、選挙頼みの政治を卒業するべきだ。政策、政局、選挙を一体として、国民主権で完全に説明できる、そういう政治家と有権者へさらに飛躍していくべきなのだ。
「無党派受け」のするリーダーに改革を期待する―そこに有権者の怠慢はないか、お互いに問い合おうではないか。そういう国民自身の議論のなかからこそ、新時代の政党の姿が見えてくるようにしよう。有権者同士の議論がないところに、政策を競い合い、選択していくという本来の政権交代の政党政治は生まれない。
アウトサイダーたる小泉氏は、改革者か?それともホラ吹きか? 米政府内ではこんな話が聞こえているそうだ。だが、当事者たる日本の有権者は、そういう様子見の空間を入れるわけにはいかない(「様子見」の政党では圏外だ)。
改革政策の力強さ、実行力は、政権の権力基盤―永田町の数合わせ、ではなく有権者再編の力勝負―にかかっている。「郵政民営化」も「首相公選―憲法改正」「集団的自衛権」も、アドバルーンをあげるのは簡単だが、自己責任・自己決定で地に足のついた国民合意―国民的な議論をつくりだす、その胆力こそが問われている。
「将来の課題」としてではなく、有権者の問題解決能力・自己統治能力を一歩一歩高めていくなかでのみ、改革政治の力強さは確実なものとなる。
国民主権の力で、救国・改革政権へと舵を切れ!
(首相公選制と参加型政治の確立については、本号掲載の飯尾潤氏ならびに首長のインタビューを参照されたい)