民主統一 264号 2001/4/1発行


民主主義の地殻変動の力で、政権交代の基盤整備へ!
国民主権にさらに磨きをかけよう

「変えたい」を、救国・改革政権の権力基盤(権力主体)へ

 変えたい、変わろう、変えよう―昨年総選挙で「一区現象」をひき起こした国民主権のうねりは、長野、栃木へ飛び火し、千葉から参院選へ「燎原の火」となろうとしている。
 千葉県知事選は、自民党県連が分裂状態となり、公明党は(政局との関連で)動けず(最終局面で自民応援)、民主党と市民団体もそれぞれ別の候補者を立てるという構図となった。「利害関係」票が総選挙の時以上に動けない状況のなか、国政選挙並みの投票率(58%)にどこまでもっていけるか―堂本、若井陣営による国民主権の競り合いがポイントとなった。
 結果は、堂本・若井で自民党候補のほぼダブルスコアの得票で、堂本暁子氏が当選した。郡部の投票率が低下するなか、前回より8ポイント投票率を押し上げたのは、都市部のいわゆる「千葉都民」である。(若井陣営の「敗因」は一点、ここの票の掘り起こしが及ばなかったことである。それ以外の要因―「労組依存」とか「無党派対策」など―を持ち出せば、自分を見失うことになる)。
 「変わろうとして変わりきれない」(昨年総選挙)から、「変えたい、を国民主権の行動へ!」。流れははっきり転換した。このエネルギーを政権交代のエネルギーへ、国民主権の歴史的発展へ、いかに促進していくのか。参院選―総選挙は一点、その組織戦として絞り込まれている(有権者再編の組織戦を展開するすべのないものは、既存の陣地の防衛戦一本にたてこもることになる。しかし、「自民王国」千葉の県知事選でさえ、自民党支持層の58%しか自民党候補に投票していない。そして堂本に19%、若井に15%。一方で公明支持層は65%が自民候補へ投票。防衛戦は自民党の「解党的出直し」どころか、「解消」への一里塚となりつつあるのではないか)。
 変えたい、を永田町をバイパスして行動表現している人々を「無党派」と一括りにするのは、無責任なマスコミだ。事実はどうか。65%が「政界再編で新たに生まれる政党の政権」を望み、約三割が「政界再編や政権交代がありそうだから」今度の選挙は面白そう、と考えている(「論座」4月号・蒲島東大教授の世論調査より)。
 つまり、「無党派」と一括りにされることを卒業して、改革・救国政権の権力基盤としての、自覚した主権者としてはっきり登場することだけが問われている。「無党派」を、選挙の時の方便としてではなく、新しい政治(政権交代のある民主主義)の基盤として打ち固めることだ。
 「無党派」と一括りにされて安心する人々が求めているのは、誰かの「強力なリーダーシップ」だ(だが何を、どんな政策を託したのかは必ずしも明確でない)。誰か「強力なリーダー」を選べば後はお任せ、ということでは、問題解決の自治能力・リベラルデモクラシーの自己統治能力を鍛える(国民主権に磨きをかける)ことはできない。
 われわれが求めているのは、当たり前のことを、周囲を説得しながら確実に実行していくというリーダーシップである。例えば消費税を上げてよいケースについて、「老後の年金が保障された場合」30%、「行政改革が行われた場合」30%に対して、「財政赤字をなくすため」11%、「消費税引き上げ絶対反対」27%ということになっている(同前)。
 つまり、求めているのは冷静な現状認識であり、政策についての説明責任と実行責任所在の明確化なのだ。それは、選んだ側の責任をも明確にすることだから、求めている「参加」は選挙の時の投票に止まらず、政策の立案・討議・決定に係わる「協働」「共同責任」である。
 「無党派」と一括りにされてきた長野、栃木そして千葉県政の今後は、選ばれた側にも選んだ側にも、このことが問われる。投票だけしたら、意思表示は終わりなのか。後は批判や不満を言うだけでいいのか。
 これは総選挙とその結果―森・自公保政権の顛末に対しても、同様である。半年の間に二度も信任(不信任案を否決)した首相を平然と取り替える与党に、あなたはどういう意思表示をするのか。
 「無党派」にとどまることなく、救国・改革政権の権力基盤(政権主体)として自ら考え、行動し、参加することへ!(投票以外にも、日常的に家庭、地域、職場で「国や社会のありよう」「政策」を議論すること―市民同士が政策論争を自力で深める・異なる意見を尊重して共存しつつ、合意をはかる―これが民主主義)。

異なる他者を尊重して共存し、自分たちで問題を解決する能力―自治能力・自己統治能力を磨こう!

 問われているのは、異なる他者を尊重して共存し、自分たちで問題を解決する能力(自治能力・自己統治能力)である。それは「誰かを選んで後はお任せ」という「強力なリーダーシップ」論の対極に位置する。
 例えばこうだ。
 「守秘義務を理由に非公開にする世界が悪いのは、『お任せ民主主義』を民主主義と錯覚させたことだ。国民や住民は、行政や政治に要求することが民主主義と思った」「どの事業にいくらの予算がついたという価値基準をやめ、いかに国民や住民との『協働』を促して中身をどうつくるのかに転換すべき時だ。国民や住民の責任は重くなるが、そういう民主国家を作る方向へ進まないと、日本社会の今の閉塞感はとれない」(北川・三重県知事2/20「毎日」)
 さらに山田・杉並区長は、こう述べる。中央集権の全国一律体制から、地域が自己主張を始めるようになった。外交やエネルギー政策といった「国」レベルの問題にも、地域が自己主張し始めた。ここから新しい問題が問われる。地域の利害を寄せ集めたものが国の利益、国民全体の利益なのか。地域の利益だけ主張している地域ではだめだということが分かってくる。地域の利益と国や国民全体の利益とをどうリンクさせるのか。自己主張する自治体の長や住民には、それを説得できる力量が問われるし、それを学んできている、と。(講演要旨・くわしくは本号11―14面参照)
 しかり。公(パブリック)の担い手は「官」だけと思っていた時代。「国益・公益」が、国民とは別のところに「超然」と存在すると思われていた時代。それは、)「由らしむべし、知らしむべからず」という統治を必要としていると思われていた「半人前」の国民の時代でもあり、お任せ民主主義・観客民主主義を民主主義と勘違いしていた時代、でもある。これを終わりにする、国民主権の再定義―歴史的発展の時代を切り開こう、ということだ。
 「国益・公益」を国民、住民自身が決定する。それは自己利益の延長ではできない。だからこそ目先の自己利益を超えた“新たなる公”の創造が問われる。そこからの自己統治が問われる。そうした自立した国民(自ラ治メ、自ラニ由ルという自治と自由の責任能力のある国民)の「外」に「超然」と存在していた「公」とは何かも、白日の下にさらされる。
 なーんだ、「政治」に口利きをしてもらって、税金にぶら下がらなければやっていけないんだ。税金を払わずに便益だけは受けようという人たちの政府なんだ、と。(よってその経済政策は、利益を出している部門からマイナスの部門への富の移転、ということになる。これが「不景気」の本質であり、市場原理が不公正に歪められることになる。不良債権と財政赤字はその象徴。どちらも情報そのものがまったく信頼されていない。敗走を「転戦」と言いくるめ、「戦力の逐次投入」でドロ沼にはまりこんでいくという戦前の構図がそのまま繰り返されている)。こういう政府では、民主主義は機能しないし、市場秩序は維持されえない。
 国益・公益を、誰かに決めてもらうのではなく、自らの意思と責任で決める。そのためには、異なる他者を尊重し共存しつつ、問題解決の合意を形成するという民主主義の能力が不可欠となる。それを学ばなければならない。いやすでに、その経験は蓄積されつつある。
 そうした民主主義の自己統治能力の成熟によってこそ、外交・安全保障や社会保障といった基本政策、あるいは憲法について、国民多数の合意を形成しうる。それこそが政権交代の基盤整備であり、政権交代可能な政党政治の基盤整備なのだ。
 この十年の紆余曲折を、そのための貴重な学習過程(教材も教程も全くない手探りの独学)としうるかどうか。それは、参院選とそれ以降の政治過程を、救国・改革政権へと舵を切るためのものとしうるかに、かかっている。
 有権者再編の主導性で、救国・改革政権の権力基盤を! その力で、本格的な政治再編の舞台へ!