民主統一 261号 2001/1/1発行


暗愚・亡国政権を一掃し、救国・改革政権を打ち立てよう!

日本再生へのラストチャンス

 新しい世紀が幕を開けた。ここ数年のうちに、抜本的な構造改革へと舵を切り、その“とば口”を開けられるかどうかは、二十一世紀の日本と日本人の命運にとって決定的である。二十世紀最後の十年を、そのための下準備となしうるか、それとも「失われた十年」としてしまうのかも、それによって決まる。
 例えば、わが国の人口は二〇〇七年から減少し始める。それ以前に七百兆円の赤字を抱える財政再建のメドを立てられなければ、その政治的決断がこれ以上「先送り」されたら、どうなるか。その時は、日本国債の暴落をどの時点で織り込むか、だけの問題になるだろう。その時には、東アジアの構造改革は屋台骨を折られるだろう。日米経済関係は大きなダメージを受けるだろう。そういうシナリオが動き出すまでに、われわれに残された時間はあまりない。
 あるいは、憲法調査会は二〇〇五年を期限としているが、これをズルズルと先延ばしするのかどうかは、ここ一、二年の進展によって決まる。有権者の覚醒・主権者の自覚は止まっていない。「このままではダメになる」という声は各地で聞かれる。政治がそれを骨太に受け止めることができていないと、多くの人が感じている状況を、ここ数年ズルズルと続けていたら、どうなるか。
 あるいはまた、ここ数年で、自立と自由を支えるための新しい社会保障への転換のメドを立てられず、戦後のおねだり社民型福祉をダラダラと続けていたら、われわれの社会はどうなるか。「逃げ切り」「食い逃げ」の人生設計だけがはびこる社会に、どんな活力が残されているか。「逃げ切れない」世代には、どんな人生設計がありうるのか。それはもうここ数年で、われわれ自身が結論をださざるをえない事柄なのだ。
 北東アジアには、近代を総総括しうる新しい歴史的ステージが始まっている(その歴史的意味は、本号・中西寛氏インタビュー参照)。米国新政権は、正面からアメリカの国益の問題として、日本の構造改革を迫ってくる。韓国や台湾の構造改革、別の意味で中国の改革にとっても、日本の構造改革の進展はきわめて重要な問題になっている。わが国が孤立して近代化を進めたのとは異なる、新しい歴史的条件がこの地域に生まれつつある時に、何の意志も持たずに漂流し続ける国や民族に、今後どんな位置がありうるのか。
 まさに日本再生のラストチャンスである。カウントダウンはすでに始まっている。この期に及んで萎えてしまう、「わかるけど、しかし…」となる、全て分かっていて能弁なのに肝心な時に行動できない―そういう人間ばかりをつくった戦後を今こそ、清算しよう! 
 がんばる日本と日本人の回復を!

暗愚政権を一掃することこそ、救国・改革への第一歩

 「われわれが軽んじていた『政治』こそが、改革の徹底を妨げ、あるいは骨抜きにする最大の勢力であることが、明確になりつつある」。 
 こういうことは「おねだり社民・分配政治」のお世話にならずとも、自分のメシくらいは自分で食うのは当たり前、ということで生活してきて(それゆえ「政治」の必要を感じなかった)、「第二の敗戦」を契機に「国をどうするのかを論じる」(本来の)政治の必要を意識し始めた人々(覚醒しつつある有権者)にとって、共通の認識になりつつある。
 「このままではダメになる」という声は、いたるところで聞かれるが、それを骨太に受け止めることは、もはや永田町にはできないということも、多くの人が知っている。知った上でなお、主権者として選挙権を正しく行使するとは何なのかと自他に問うているのだ。もはや、生まれつつある有権者の覚醒・主権者の自覚は、既存の永田町の政党の枠に集約することはできないところにきている。日本が救われるとすれば、ここが成長すること以外にはない。
 だからこそ、有権者の覚醒・主権者の自覚が成長し、自己研鑽を積むための場を、既存政党構造の「外」につくらなければならないのだ。まさに「がんばろう、日本!」国民協議会は、そのために展開される。
 有権者の覚醒・主権者の自覚の成長、がんばる日本と日本人の回復―この渦を至るところに作り出し、その渦に既存の政党構造をも巻き込んでいこう。そのなかから新しいリーダーを選抜し、鍛え上げよう。政治家を育てるとは、そういうことだ。依存・ぶらさがりの諸関係、改革の妨害勢力は、このなかに藻くずとして沈めてしまおう。「がんばろう、日本!」国民協議会の本格的な展開とは、そのことだ。
 日本再生への第一歩は、暗愚政権を一掃することから! 改革の妨害勢力、改革を骨抜きにする勢力、「このままではダメになる」という国民の意識に「先送り」と「気休め」でしか応答できない「政治」を一掃せずして、改革への一歩前進はありえない。
 参院選では、野党協力によって与党を大敗に追い込むことを目指そう。そこから次の総選挙へ、主権者の力で追い込んでいこう。
 政権構想がない? そんなヘラズ口を叩くものには、こう言おう。「国民のためにならない政権を倒す、その一点で協力することのどこが悪いのか」と。この一点での野党協力を「恐れる」ものは、誰か。恐れずに突き進むのは誰か。目をこらして見極めていこう。
 「国民のためにならない政権を倒す、その一点で協力する」という野党協力に二の足を踏むものは、主権者の自覚の渦のなかで藻くずと化すことを恐れているにほかならない。主権者のうねりの中で起死回生をはかる決断、有権者の覚醒の力に全てを賭けてこの転換期を駆け抜ける意欲、それだけが問われている。それを避けての「政権批判」は、なれあいでしかない。
 「(細川政権の時より)日本の事態はより深刻だ。国民のためにならない政治を倒すということでいい。政権構想がなければ駄目という議論は間違いだ。世界史を見ても、明確な一派で革命を成し遂げたことなんかない。ロシア革命も東欧での民主化も、いろんな勢力が悪い政府を倒している。現政権を倒した後でどうするかは国民が選べばいい」(小沢一郎・自由党党首 12/26産経新聞)
 しかり。政権交代は、永田町の駆け引きや数合わせではなく、有権者再編の力勝負で!  「国民のためにならない政権を倒す、その一点で協力する」野党協力のなかで、政権構想を有権者・国民に問え! そのなかからこそ、次期総選挙の組織戦は展開される。98年参院選、00年総選挙を引っ張ってきた覚醒しつある有権者は、このようにして、今年の参院選から次期総選挙へとさらに押し込んでいこう。

日本再生の第二幕は、国民が主権者として進める!

 加藤政局や省庁再編―内閣改造をめぐる争奪戦は、旧政治の崩壊過程がいよいよ始まったことを、誰の目にも明らかにした。それゆえ、自民党のなかからも「特殊法人改革」や「憲法改正案」のようなものも出てくる。言い換えれば、世論が既得権益の再分配を改革と言いくるめる範疇で収まるなら次は◯◯、収まらない場合には□□、といった(世論との関係での)生き残り策だ。(世論―有権者の自覚がそれを超えたら、お手上げだ)。
 だからこそ、自覚しつつある有権者は、何がホンモノで、何がニセモノなのか、しかと目を凝らしていこう。「これをやったら自民党は選挙で勝てない」という政策にこそ、日本再生の鍵があると言えるかもしれない。ではその政策は、野党にならできるのか? こう検証してみよう。
 「17歳の犯罪」をバネにしてしか社会の危機を語れないような政治家には、何もわかっちゃいないと喝破しよう。それが行き着くのはせいぜい、「奉仕活動の義務化」くらいのものだ。崩れゆく社会との関係ではじめて、なにかしら説教できると思っていること自身が、とてつもない逆立ちであり、まだ逃げ切れると思っていることなのだと。衝突直前まで、故障したブレーキを操作し続けて殉職した京福電鉄の運転士に匹敵するだけの責任意識、自分の利害を超えたなにものかに殉じる気概があるか、と問おう。その生き方、苦闘を示すことなしに、大人としての人生を語れるかと。
 こうした国民の責任意識が生まれてきたからこそ、既存政治がバイパスされ、そこから危機が顕在化しているのであって、逆ではない。日本再生の可能性は、ここにしかない。
 だからこそ、自覚しつつある有権者は、第二幕を開けるべく行動しよう。政治に不満があるなら、とにかく投票にいこう、と呼びかけよう。それでだめな時は、「また考える」のではなくて、行動しようと。
 「私たち普通の国民だって、ちっとはでっかいことに係わってこれからは生きていきましょうよ。悪くないんじゃない、歴史が、私たち今いのちある有権者の覚醒から、新たに回りはじめる、その夢を皆で抱こう!っていうのは」(10面・高橋)。
 がんばる日本と日本人の回復を!
 暗愚・亡国政権を一掃し、救国・改革政権を打ち立てよう!