民主統一 259号 2000/11/1発行


「がんばろう、日本!」国民協議会運動をよびかける11・19集会へ!
責任の回復、新たなる公の創造、そして矜持ある国民運動の秋

平成世間胸算用(番外編)
がんばる日本と日本人の回復を!

森政権の奇妙な安定がいよいよ揺るぎ出した、とある日のことでございます。
おい、ついに出たよ。「森内閣を痛罵したいのですが、あまりに愚かなのでタイトルを思いつきません」ってぇ、週刊誌の見出しだぜ。
やっぱしな。いくらなんでもひどすぎるもんな。呆れてものも言えねぇってのは、このことだ。
ご隠居そう悪口ばかり言うものではないぞ。「空前絶後の反面教師」という評価もある。熊や八だって、「あそこまでひどくない」ってところから、責任や自覚ってものを、少しは実感してきたんじゃろうが。
へぇ、そいつは確かに…。近頃じゃ、「総理の資質」とかいう以前の話ですからね。二国間の「裏話」を、他の国にベラベラしゃべっちまうようじゃ、どこからもまともに相手にされなくなるってぇ意味くらい、おいらにだってわかりまさぁ。そいつが通じないってぇんだから、お終いだね。
それによ、最近、自民党の幹部連中はそこらじゅうで、「有名人」に選挙にでてくれって話をして回って、しかもそういう話が、テレビに堂々と出てくるだろ。ああいうことやってると、ますます票が減るってこと、あいつら本当に分かってないのかね?
あれこれ言うまえに、選挙で勝つために、真面目に一生懸命やっているとは思えねぇ。
ご隠居だからこそ、「空前絶後の反面教師」なんじゃよ。「変わろうとして変わりきれないでいる」状態の最後尾にいた熊や八のような国民が、「森内閣―自公保政権」というおねだり車両との連結器を、ここにきてついに外したんじゃ。おねだり車両には当然、自力の動力はないから、ズルズルと加速的に坂を後退していくわな。
 それを後から追っかけていって「総理の資質がなんだかんだ」とやるのが、政治活動だと思っているのか、それとも「変わるための」自前の政治活動を蓄積していくのか、こういう区分が永田町にも庶民にも始まっておるんじゃ。
下り坂を後退していく貨物車の中で、つかみあいしたり、足ひっぱりあったり、ガンとばしたりしている連中にゃ、「変わろうとして変わりきれないでいる」風景は、これっぽっちも見えてねぇってことなんだな。
生き残るためには「飛び下りる」しかないのに、外が見えない貨物車の中で「逃げ切ろう」としている連中ってとこだな。
それを追っかけて「批判」してるから、この間の党首討論でも野党は迫力ゼロってわけだ。
シンキローは、どこまで追っかけても蜃気楼よ。
ご隠居それそれ、これが「反面教師」の学習効果というものじゃ。崩れゆく社会、総無責任、モラルハザード連鎖のなかで、誰がどこで「もう逃げ切れない」と「踏みとどまる」のか。そのための「空前絶後の反面教師」というわけじゃ。
 ここから、永田町の小話の世界と、有権者再編の力勝負の世界との二極化が始まっておる。森内閣の超低空安定飛行を揺さぶる力は、永田町の小話を追っかけておる既存のマスコミからはでなかったというのも、象徴的じゃな。当然、長野の知事選や東京二十一区の補選も、「政党対無党派」という枠では、有権者再編にかかわる肝心なものは、いっさい見えん。
「政党対無党派」という括りかたも、どうも腑に落ちねぇ。当事者は「政党は必要だ」って言ってるんだぜ。その上で、既存の政党にゃ現状を変える力はないってことなんだろ? だったら問題は、「政党か無党派か」じゃなくて、現状を変える力があるのか、ないのかってことじゃないのか。
だからどういうキャラクター、実績なら、現状を変えたい層の支持を集められるのかってことだろ? 田中康夫も川田悦子も、単なる「有名人」じゃなくて、「変えよう」という行動力があったからじゃないか。
ご隠居ここでも、連結器は外されておるんじゃな。だからこそ、ホンモノも見えてくる。この十年、「変えよう」という思いをどう行動として貫いてきたのか。遠回りのようでも、国民主権の再定義とか主権在民の底上げという道を貫いてきたもののところに、ホンモノの改革のパワーがあるということもはっきりしてきた。ムードや気分、シングル・イシューでは、世直しのために五年、十年続けるという人間関係(信頼関係)はつくれんからな。
有権者再編ってのは、そういうことですかい。
ご隠居虚ろな戦後、崩れゆく社会に呑み込まれてしまう人間・生活なのか、それともどこかで踏み止まる人間・生活なのか、さらには新しい社会に向かって駆け抜けていく人間・生活なのか。こういうことがはっきりしてくる。
生きざまの総決算っていうことですかい?
ご隠居茶髪の兄ちゃんが、森が「寝ててくれ」って言ったのは許せねぇから今度ばかりは投票に行くって、タクシーの運ちゃんに投票所を聞いてきたって話があったな。こういう感覚は、いくら上司や政治家の悪口を言っても、赤ちょうちんで飲んで一晩寝たら、きれいに「忘れて」それまでと何一つ変わらない生活を送るというオヤジ世代にはわからんだろう。自分の言ったことを自分でやらなくてもなんとも思わんのだ。結局は、いつも誰かのせいにして逃げ切ろうというヤツラじゃからな。
 そのいい例が、教育改革国民会議の「奉仕活動の義務化」じゃ。大人に「公」ということがないのに、子供にそれを強制してどうなる? 「そんなら、まずテメエらがやれ」と大人に向かってタンカを切れる子供のほうに、むしろ可能性があるとは思わんか? それに正面から向き合える大人がどれほどいるかのぅ。
 そのためには、「大人の責任」を自覚し、またそれを果たそうとする日々の戦いがどれほど必要か。それを何年続けたら、「小さき一歩」を自分で確認できるのか。そういう生活の苦闘が伴った大人でなければ、向き合えん。ホンモノの自由や民主主義というものは、こういう基礎にたたねばならんのじゃ。
 だから教師や政治家が一番わかっとらんのじゃ。イジメがあれば隠そうとする、都合の悪いことがあれば責任を逃げることしか考えない。森だって中川だって、その場かぎりの言い訳ばかりじゃろう。それでは、自由・民主主義は「カラスの勝手」にしかならんわい。
台湾で民主的な政権交代が行われたのに対して、「事を荒立てないでほしい」って言うのは、イジメ問題が表ざたになった時の、無能な校長・教頭の言い種とそっくりでさぁ。テメエが後何年で無事に退職できるかってことしか頭にねぇんだ。
御身大切ってやつだな。
ご隠居そういうやつが、結局いつも国を誤らせてきたんじゃ。おねだり貨車との連結器を外す、それも熊や八が外すということは、リーダー層だけではなく国民レベルでも、逃げ切るわけにはいかんという肚を固めるということなんじゃ。
がんばる日本と日本人の回復ってぇのは、そういうことなんですね。
ご隠居まぁ、十年は最低続けることじゃ。暗愚政権は国益上はきわめて不利であることは間違いないが、それを変える力は結局、「このまま逃げ切るわけにはいかない」という人々の、無数の小さき無償の戦いから生まれる以外にないのじゃよ。文字どおり、急がば回れ、ということじゃ。
この間までは「与党も与党だけど、野党もだらしがねぇ」って思ってたが、連結器が外れて(おれらが外して)、向こうが逆走し始めると、与党・野党とか、永田町・国民とかじゃなくて、世界が違ってる、見えてる風景がまったく違ってるんだってことがよくわかりやすよ。
ご隠居それをどう蓄積していくかじゃ。政党がないということは、政治的に蓄積されていないということじゃ、個人という形でしか蓄積されておらん。ようやくこの十年で、改革の思いを貫いてきた政治家とその支持基盤のところに、政治的表現としての蓄積の糸口は見えてきたが、それはまだ点じゃ。それらを面に、構造につなげて行くためには、新しい国民運動が必要なんじゃ。
 熊、八も連結器を外した以上、これからは釜炊きの助っ人をせねばならんぞ。前へ進むエネルギーは、おねだり・逃げ切り貨車との関係からは出て来んのじゃからな。
へい。頭はよくねぇが、体を動かして働くことは任してくだせぇ。
ご隠居お前たちまでが、自分の直接利益ではないことに一生懸命になれば、相当どうしようもない者でないかぎり「世直しなんざぁ、俺には関係ねぇ」とは居直れなくなるからな。こういう効果もあるわな。
それってほめられてるんですかぃ? 
ご隠居まぁ、「逃げ切り」「食い逃げ」を止めれば、役に立たない個性はないということじゃよ。
それじゃさっそく、11月19日に集まれ、てぇチラシを長屋中に配ってくるとしようじゃないか。
おっしゃあ。

有権者再編の力勝負は、がんばる日本と日本人の回復から

 改革にはなによりも、パワーが必要だ。森政権を支えてきた超低空安定飛行構造を揺るがしたのは、既存の政治報道ではなく、写真週刊誌だった。ネタが「格落ち」だったからではない。森政権とその構造(自公、森野中など)を「空前絶後の反面教師」とするパワー、生きた生活のエネルギーは、どこにあるのか(どこにはないのか)という問題なのだ。ここでも、自力で「生きる」パワーのないものが、記者クラブに代表される旧制度に守られた既得権益層となっている。
 中国の江沢民国家主席が香港で記者を罵倒している映像が、流された。それがどういうリアクションをもたらすのか、ご当人はおそらく想像だにしていないのだろう。自分たちの世界では「当然」のことが、外からは「滑稽」にすら見えてしまうのは、選挙目玉のタレント探しになりふりかまわぬ自民党の姿にも通じるのではないか。当事者は選挙対策に必死のつもりが、ワイドショーでも「とても真面目にやっているとは思えない」「国民をバカにしている」となっている。
 なぜ党首討論で、野党(民主党)にパワーが感じられないのか。蜃気楼に政治姿勢を問おうとしているからである。崩れゆく社会、総無責任、モラルハザード社会を追いかけていって、「姿勢」を問おうとするところから、一体どんなパワーが生まれるというのか。
 崩れゆく社会に呑み込まれるのか、「逃げ切ろう」とするのか、それとも踏み止まるのか、さらに駆け抜けて行くのか。今始まっているのは、改革か守旧かというレベルよりもはるかに本質的な分岐だ。
 森野中政権の末期が、これまでのどの自民党政権よりも醜悪なのは、ここにきてなお、「誰かのせいにして逃げ切ろう」という厚顔ばかりであることだ。そしてもうひとつ大きく違うのは、国民のなかでは、これを「空前絶後の反面教師」とすることが始まっているということだ。がんばる日本と日本人の回復は、ここを発火点にできるかどうかにかかっている。
 政党政治がないということは、政治的な蓄積がないということだ。総選挙で一歩自覚を深めたはずが、その後の「永田町の政局」に嫌気がさして、「与党も野党もどっちもどっち」と、再び呑み込まれるなら、国民主権はそこから後退し始める。「やっぱり、政党は信用できない」と「無党派」ぶるなら、そこで国民主権は歩みを止める。長野県知事選、東京二十一区の補欠選挙で、問われていたのは、そのことだ。
 崩れゆく社会に呑み込まれるのか、踏み止まるのか、あなた自身が問われているのだ。そう言って、「逃げ切ろう」とする人の前に立つ、普通の人の「責任の回復」が始まるところから、ホンモノのパワーは生まれてくる。
 当事者自身が、「政党は必要だ。しかし既存の政党には“変える”パワーがない」と言っている時に、それを「無党派」と一括りにするのは、「逃げ切ろう」とする人々である。既存の政治メディアしかり、自民党しかり、アンチ政党・市民主義しかり(共産党にもその気あり)。
 「“変える”パワーをどう生み出し、政治表現するのか。本来、政党とはそういうもの。それを一国民として準備することが、国民主権の再確立ではないか」と言って回れる者がいれば、「無党派」という仮面で「逃げ切ろう」とする者と、国民主権の一歩前進へ向う者との二極化が顕在化する。ここから改革のパワー、がんばる日本人のエネルギーは生まれる。
 国民自身のなかにこの分岐を持ち込み、そこから「がんばる」エネルギーを創りだし、それを点から面へ拡げ、つないでいくこと。「がんばろう、日本!」国民協議会運動とはそのことだ。
 「逃げ切ろう」とする人々を追いかけていく(「批判」しているつもりで)ことを「改革」と勘違いする空間はなくなった。有権者再編の力勝負とは、生活の現場、労働の現場で、普通の人が「崩れゆく社会に呑み込まれるのか、踏み止まるのか、あなた自身が問われているのだ」と言って、踏み止まることの勝負から始まっている。
 政界再編の「風」に翻弄されて自分自身を見失ったのか、それとも「思い」を十年貫き、主権在民の底上げを一歩一歩蓄積してきたのか。ここでの勝負はついている。後者の蓄積を、さらにダイナミックなパワーとして展開していくためにも、勝負は「踏み止まろうとする」普通の人々の小さき無償のエネルギーを、国民運動へ発展させていくかにかかっている。
 「がんばろう、日本!」国民協議会運動をよびかける11・19集会へ!

「日本人として考える」日本再生の国民精神を!

 がんばる日本と日本人の回復。それは「逃げ切るわけにはいかない」人々が、「自分の直接利害を超えるなにものか」のために、小さき無償の戦いに踏み出すことである。
 政党政治がないということはまさに、時代の変化に正面から向き合うことを避け続け、逃げつづけ、ついに「逃げ切れない」というところにきてようやく、覚醒が始まるということを意味する。「第二の敗戦」で目覚めたのは、まだ少数だ。一度や二度の風で改革ができると思った人は、早々と「挫折」して古巣に戻った。五年、十年、主権在民の底上げをコツコツやってきた人たちは、崩れゆく社会に対置する何かを築いてきた。ここでの勝負はついている。
 森野中政権の最大の「功績」は、まさに「第二の敗戦」では覚醒しきらなかった普通の人にまで、「反面教師」として、責任の回復を促していることである。今必要なことは、この十年近くの実際のなかで確かめられたさまざまな覚醒、責任の回復を、そこまでの過程の違いを超えてまとめあげ、パワーとしていくことである。
 改革とは、旧い社会・人間関係を壊し、新しい社会・人間関係へ再編成していくことだ。壊す時には「明るく」壊さなければならない。「暗く」壊したのでは次の展望は見えないから、意欲のあるもの、パワーのあるものはついてこない。「明るく」壊すには、次の社会や時代の方向を共有するある程度の基盤や仲間をつくらなければならない。
 この十年で、それがある程度つくれた者は、小選挙区で勝てるようになり(政権交代への展望を自力でつかみ)、そこからさらに地域に深く根付くことを、主権在民の底上げ・発展として語れるようになっている(より基盤に近いところで、さらに「明るく」壊せるようになっている)。
 そして旧い社会・人間関係を壊すには、“真なるもの”を語って壊さなければならない。「これ以上逃げ切るわけにはいかない」というところまでを貫く“真なるもの”でなければ、崩れゆく社会を追いかけて「批判する」という範疇に終わる。
 うつろな戦後も、それへのアンチも、カラスの勝手の「自由・民主主義」、とてつもない自己愛という点で、メダルの裏表にすぎない。
 普通の人が、「自分の直接利害ではないこと」を政治に託す(地元に道路を、ではなく、孫・子の代まで残る財政赤字を何とかしてほしい、年金不安を何とかしてほしいなど)ようになるやいなや、自己利益を超えた“真なるもの”をいかに語れるかが問われる。
 世直しは最低、五年、十年続けてはじめて「小さき一歩」を自己確認できる。直接利害なしにそれを続けられる無償性が問われる。子供や孫の代の資源・資産を、今日明日のために食い逃げしていいのか、と自問するところから、普通の人が十年、二十年単位で考えるようになる。そこから始まる無償の戦いである。
 そこから本格的に、自由・民主主義の再確立が始まる。そこから、自ら自身の共同体を自ら自身で担う―日本人として考えることが始まる。無国籍な「自由・民主主義」一般は存在しない。総無責任社会に、自由・民主主義はありえない。自発性―選択と責任の基礎がないところに、自由・民主主義は根付かない。
 さすれば、「自由・民主主義の再確立を思想的基盤にした、アジア戦略および日米同盟の再定義」「国民主権の発展としての憲法改正」「国民主権の発展としての政治主導(政治改革、行政改革)」「主権在民の底上げのための地方分権」「自由・民主主義の再確立としての社会保障再構築」「選択―責任―連帯の運営原理による教育改革」「がんばる日本と日本人の回復としての人づくり」などとして、構造改革の諸問題は整理されてゆく。
 がんばる日本と日本人の回復、それは「日本人として考える」からこそ、自由・民主主義の再確立のために戦うこと、その無償の戦いを十年、二十年やり続けるという国民精神の復興のことである。
 がんばる日本と日本人の回復、それは旧い共同体の崩壊から現状を語るのではなく、新しい共同体をつくる協同―連帯から旧い社会・人間関係を再編すること(国や地域という単位で、あるいは家族、職場、友人という単位で)である。
 責任の回復、新たなる公の創造、そして矜持ある国民運動を!