民主統一 2510号 2000/3/1発行

「お任せ」「虚ろ」「やさしい」日本か
「決断し、がんばる」日本か!

漂流し脱力化する日本を救う主権者運動を

国家、社会の命運を決する「力強き政治」の確立をこそ

 とめどなき崩落…。越智・金融再生委員長の「失言」、新潟県警の度重なる「失態」「ウソ」と特別監察をめぐる「官官接待」の顛末。追い討ちをかけるように、オウムソフトが防衛庁、NTTなどに納入されていたことが判明。
 内部調査とやらが、次から次へと覆され、さらに唖然とするような事態が明らかになる。朝には「辞任? そんなこと考えてないよ」と言った人が、午後には「世間」の反応に押されて(自分は間違ったとは思わないが)これ以上迷惑はかけられない(誰に?)と言って「引責」辞任する。
 わが国にはどうやら、責任感、職務意識といったことについての座標軸が、まったく違う世界ができてしまっているようだ。越智氏にしても、一連の警察不祥事の関係者にしても、「ワキが甘かった」「ちょっとまずかった」「緊張感が不足していた」という程度にしか、考えていないのだろう。物事の是非、理非曲直の基準が、そもそもまったく違っているのだ。この世界では、「自供」したのだから処分はしないという「法理」がまかりとおり、「権限の及ぶ範囲にない」という「法理」で、責任の所在が消えてなくなる。
 サイバー・テロの危険や情報安全保障がこれだけ叫ばれている中で、接続機能そのものを、どこかの誰かに「お任せ」きりという防衛庁の能天気さは、一国平和主義に骨の髄まで浸り切った、食いっぱぐれのない「公務員」の姿以外のなにものでもない。
 これに歩調を合わせているのが、永田町における「政治の意思の脱力化」である。国家公安委員長はれっきとした閣僚である。それが国家公務員の「法理」をそのまま受け入れるという図式のどこに、「政治主導」「政治の意思」があるのか。これは、警察の人事権が内閣にあるかどうか、とは別の次元の問題であろう。
 しかし無秩序、無責任の全面化、職務意識の崩壊といった事態に対する、怒りや危機感という本源的な感性が、永田町には欠落していることが、これまた明らかになった。それは永田町―既存の権力構造の外から、「第二の敗戦」を契機に覚醒を始めた主権者の中からしか、生まれていない。怒りや危機感といった本源的な感性がなければ、「法理」の前に「遺憾の意」を表明して事足れりとするのも不思議ではない。
 社会共同体の衰亡、それも「内なる虚ろ」による崩落の危機に際して、秩序回復・危機管理の大権を発動しうる唯一の正統性は、主権者たる国民によって付託された国権の発動という以外、どこにあるというのか。まさに今、国家・社会の命運を決する力強き政治、決断する政治が問われている。この一点に自らの政治生命を賭けるということが、例えパフォーマンスであったとしてもでてこない。「ブッチホン」などのパフォーマンスならいくらでもあるが。
 一連の「事件」の深刻さは、単なる腐敗、汚職、堕落といった次元の問題ではなく、共同体の守護者としての国家、法の支配と市民的自由という秩序の担保者としての国家が、その内側から「虚ろ」になり崩落しているという点にある。その事態の前に何も決断しない(できない)政治とは何か。「模擬国会」しかなすすべのない政党とは何か。「世界一の借金王」と首相が自嘲するような予算案の審議が、いつにもまして「空洞化」する国会とは何なのか。まさに「自自公の遠心過程」とはこのことである。「選挙までの現状維持」が、日々「政治の意思の脱力化」として進行している。
 「お任せ」「虚ろ」「やさしい」日本か、「決断し、がんばる」日本か。漂流し、脱力化する政治なのか、秩序回復・力強き政治なのか。覚醒を始めた主権者はいまこそ、このことを問わねばならない。
 無責任、ぶらさがり、ミーイズム、「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい自由」etcに染まり切るのか、それとも“小さき”職務意識や責任感、“少なくとも”自己規律、そして“できれば”「正しいことを力強く訴えられる自由」や「新たなる公の創造」の側に立つのか。覚醒を始めた主権者はいまこそ、このことを自他に正面から問わねばならない。
 この基礎、底を固めなければ、いかなる「改革ビジョン」も作文にすぎず、「改革の旗手」もパフォーマンスとしてすら演じられない。
 社会再生・人間再生を問わずして、日本再生はありえない。小さき責任感さえ駆逐していくソドムの狂宴―社会崩壊に対して、断固たる秩序回復を対置することを恐れる「自由」「民主主義」こそ、(ナチスに道を開いた)ワイマールの道である。共同体を維持するために正統に付託された権力の発動を忌避することこそ、民主政治の死に道を開くものである。
 「現在の日本は、社会全体の価値観から始まって一人ひとりの生き方にいたるまで、『戦後的なるもの』にガチガチにかためられてしまった。いわば『文明としての戦後』が衰亡のプロセスに入っている。(略)
 しかし、この戦後日本人の精神という『内なる敵』の問題は、日本人ひとりひとりが心がけましょう、ということでは到底解決がつかない問題です。心が大事だといくらいったところで出口はありません。もっと具体的なものに集約点を求めていかざるを得ないのです。そしてそれができるのは政治しかありません。(略)
 結局は政治が国の運命を決める。このことが、はっきりとする時代が近づいてきたのです。日本にとって最大の『内なる敵』は政治の弱さにある」(中西輝政「日本の『敵』」/文藝春秋3月号)
 まさにこの「政治の弱さ」に終止符を打ち、力強き政治を確立する一歩をひらくこと。これこそが、次期総選挙の課題である。この底固めなしに、いかなる改革も、パフォーマンスとしてさえも成立しえない。

「衰亡する戦後政治」を清算し、日本をよみがえらせる政治の実現をこそ!

 このことは、「第二の敗戦」を契機に走り始めた「戦後なるもの」の基盤の亀裂―主権者としての覚醒―を、さらに政治の舞台へ力強く登場させることであり、それによって「戦後なるもの」をわが国の政治と政党の領域において清算することを意味している。
 それはどういうことか。
 昨年末からの各種世論調査は、自自公連立―小渕政権をめぐる国民内部の亀裂を、かなり明らかにしている。既得権層とバラマキ批判層との亀裂は、内閣支持・不支持の分岐として鮮明に走り始めている。そのなかでも、自民党は最大の政治的基盤である「比較第一党」の座さえ危ういという臨界点に立っている。有権者が選挙に関心を持って投票に行けば行くほど、それが切実になる。もはや自民党にとっての選挙戦術は、有権者ができるだけ投票に行かないこと(既得権の利害関係者だけが投票に行くこと)であるとさえ、言われる。
 そして都市部にかぎった調査ではあるが、自民党は公明党と同じ程度に「拒否度」の高い政党になっているということである。かつてはレフトウィングを伸ばし、やわらかい保守層も取り込んでいた「包括政党」だったのが、今や衰退産業を代表する部分代表にすぎない、とのイメージが定着しつつある(「論座」3ー4月号/「自民『歴史的大敗』へ15のデータ」)。
 「都市部で自民党の拒否の度合いが急速に高まり、政権党として維持してきた求心力が低下しているのは極めて今日的な新現象です。(略)
 一方で自民党支持者の回答を子細にみると、伸びてほしくない政党について『わからない』が、各政党支持者のなかでずば抜けて高い。自民党は『敵』も見えず、恐らく自分が置かれた位置がわからなくなっているのでしょう」(前出・蒲島郁夫)
 「敵も見えず、自分の置かれた位置もわからない」とは、まさに「戦後なるものの虚ろ」そのものではないか。冷戦体制という「特異な」歴史空間でのみ可能であった、高度経済成長のパイを分け合うことで成り立っていた自社体制ならびに自民党内派閥政治。その基盤はもはや崩壊し、覚醒するものは自力で覚醒して去り、崩落するものは崩落し、義理選挙にも行かなくなった。一方の社民党は、風前の灯という中で、残るはクモの巣だらけの幽霊寺という自民党。こんな光景が浮かんでくる。
 しかし「虚ろ」は、そのままではなくならない。「虚ろ」を何によって、どのように清算するのか。
 九八年参院選の後に開催された、「がんばろう、日本!10・10シンポジウム」の基調は、こう述べている。 
 「自民党政治の国民的基盤が崩壊しつつある(注.参院選の総括)ということは、戦後保守の基盤を、グローバル時代の国益・ナショナルアイデンティティーへと脱皮・転換させていく政治的主導性の領域には膨大な『手付かずの市場』が拡がっていることを意味しているのです」
 しかり。この虚ろは、「第二の敗戦」によって目覚めた、主権者の責任意識を政党政治の領域にまで高め上げ、“小さき”職務意識や責任感、“少なくとも”自己規律、そして“できれば”「正しいことを力強く訴えられる自由」や「新たなる公の創造」という主体性の上に立脚した「力強き政治」の確立によって清算する以外にない。
 冷戦体制―五十五年体制の「右」「左」という(疑似)体制選択論理の残滓を残したままで、この「虚ろ」を清算しうるか。否である。パイの分け合い―既得権への参入の論理が「右」か「左」かという世界に、“真なるもの”はない。この枠そのものの「外」から、従ってこの枠組みが歴史的に崩壊する時に「負けて目覚める」ところからしか、それは始まらない(始まらなかった)。
 そこで必要とされるのは、われわれ自身の主体性や自尊、あるいは国益やナショナルアイデンティティーといったことを、わが国近代の総総括、ならびに二十一世紀の人類史的課題と結びつけて、どのように語れるのかということである(ごく一般的に「地球有限時代における国民国家の役割の再定義」などと表現しているが)。
 時代と向き合い、事実を正面からとらえることの弱さが、ウソではないが真実も語っていない「歴史物語」をつくりあげる。しかし、自己愛では「虚ろ」を埋めることはできないことを、しかと心得よ。
 そして「地球有限時代」とか「グローバル」とかを論じることが、国籍不明になり、自らを見失うことになるのはどこからか。それは共同体を維持する責務、とりわけ功利主義や機能主義に還元できない、政治の本源、国家の本源にかかわる領域の没主体性(虚ろ)からである。「正義」や「公なるもの」を正面から語れない者の説く「地球共生」や「グローバル」とはいかなるシロモノかということだ。
 これらが凝縮した「当面の政治課題」の一つは、間違いなく、「対米関係の再設計」であろう。思えば五十五年体制の起源の一つは、吉田茂の準備した憲法改正手続法が、戦前回帰的な「勇ましい」改憲論の登場によって葬り去られ(戦争体験がまだ生々しい国民多数に危険視されて)、その結果、国民主権の土俵の上で憲法を論じる機会を封じた昭和三十一年の選挙にある。それは、西側一員論にいきつく対米基軸論の起源でもある。
 この「虚ろ」をいつ、どのように清算し、何によって埋めるのか。それはストレートに、われわれの主体性や自尊、国際社会で生き抜く覚悟、あるいは国益をどこに求め、何によって生きていくのかに結びつく。とても薄っぺらな嫌米ナショナリズムや、旧来どおりの日米基軸論で手に負える領域ではない。
 覚醒を始めた主権者が、自らにこの問いを引き受けることなしに、誰がそれを引き受けるのか。既存の権力構造は、この問題でも冷戦後の十年間、漂流しっぱなしであったし、それが止まる見通しはついていないのだ。
 同時に「通商国家」の覇を競う、外需主導型経済というメシの食い方を、今後も続けるのか(続けられるのか)をシビアに考えることでもある。あるいはアメリカ型市場主義と同じ土俵でやっていけるのか、日本のコアコンピタンスはどこにあるのか、モノづくりの強さを本当に支えるものは何か(職業意識、勤労意識を抜きに、日本のモノづくりの生産性は成り立たない)などをシビアに問うことである。循環型社会や少子高齢社会の設計をどうするのかを、肚をすえて考えよということである。

国家を変革する力強き政治を生み出す無数の凡人的戦いを

 「お任せ」「虚ろ」「やさしい」日本か、「決断し、がんばる」日本か。漂流し、脱力化する政治なのか、秩序回復・力強き政治なのか。
 民主主義の役割は、民意を反映することと同時に、共同体の守護者としての国家を体現すること、とくに歴史的変革の時にはその二つを同時に果たさなければならない。すなわち民意の高まり(主権者の覚醒)を、国家変革の力に変換し、衰亡する政治を清算することである。これが次期総選挙の焦点である。
 「力強き政治」の確立に必要な視点や問題提起は、整理されつつある。それを推進する主体勢力も、姿を表しつつある。「第二の敗戦」からの覚醒や、生活からの構造改革派が、政治決着の舞台に競り上がる道すじも見え始めている。ただひとつ、決定的に準備できていないのが、「神輿」なのだ。
 担ぎ手には、少なからず手があがっている。みんなボランティアの手弁当だ。まだまだ欧米並みに、政党の日常活動に参加することが当たり前、政治活動は市民的義務のひとつとして常識、というところにまではなっていないが、それでも政治家を育てる、あるいは政党を育成することに関わる(応援というレベルでも)という主権者意識は、生まれつつある。フォロワーの下準備は整いつつある。
 しかし担ぐべき神輿の準備ができていない。今日、世界で政党政治の形式で変革の組織戦を展開できているところはどこも、七〇年代以降の政党政治の試練(サッチャー、レーガンの新保守主義、ドイツ社民のベルリン綱領、ゴルバチョフのペレストロイカ、韓国、台湾の民主化前史など)があってのことである。この時期に「次の時代」(冷戦後ということ)の人間主体、なかんずくリーダーとその意識活動(政党の綱領に凝縮される)を準備できなかったわが国に(だからこそ政党政治の未確立なのだ)、神輿の準備がないのは何の不思議もない。それを嘆いたり、その原因を説明しても、「神輿がない」という現実の変革にはノミのひと跳ねもしない。
 「負けて目覚める」ところから始まるしかなかったという事実を正面から受け止めるなら、そのなかで、改革に賭ける“少しの勇気”“少しの挑戦心”“少しの野心”のあるものを、まずは応援しようではないか。インキュベーターに入るものが皆、ベンチャーとして雄飛するわけではない。だからこそ、厳しく検証もし、またそのなかから選抜して育て上げることが必要なのだ。一度や二度の失敗で挫けない、失敗の経験を蓄積する根性のある者は、みんなで励まそうではないか。
 「みんなに好かれる」というだけでは、何も託せない。何を支持すればよいのかわからない。それよりも、改革の「一途な思い」については信頼しうるという人を、選ぼう。共振できる「思い」があるなら、仲間になれる。議員や候補者と有権者が、ともに切磋琢磨しあう関係を築こうではないか。
 そして隣にいる“小さき”職務意識や責任感、“少なくとも”自己規律、という仲間と声を掛け合って、“できれば”「正しいことを力強く訴えられる自由」や「新たなる公の創造」へとさらに踏み込んでいこうではないか。
 漂流し脱力化する日本を救う主権者の改革運動の「顔」は、残念ながら準備されていない。だからこそ、無数の凡人が「顔」になろう。そして無数の凡人の小さき自発性、少しの自己犠牲と無数の共振を原動力として、進んで行こうではないか。「がんばろう、日本!」国民協議会を、そのような運動体としてつくりあげていこう!