民主統一 248号 1999/12/1発行

自自公の遠心過程からうまれる”死の跳躍”と、生活から生まれつつある構造改革の感性、生命力をむすびつける政治的受け皿をいかにつくるか
「がんばろう、日本!」国民協議会のめざすもの

旧い政治構造からの延長の政界再編劇は終幕を迎えつつある
”自自公の向こう”にむかって跳べ

 “死の跳躍”という言葉がある。医師ベルツが日本の近代化を形容したもので、失敗すれば首の骨を折るほどの危険な試みを意味するという。新たな時代へ跳ぶための決死の試みである。
 自民党との合流か、連立離脱かと取りざたされた小沢・自由党党首が、「保守新党」―新たな政界再編構想に言及し始めた。旧い政治構造の延長の枠内における政界再編の最後の一幕たる自自公連立に働きだした遠心力は、もはやおしとどめようもない。生き残るためには、“自自公のむこう”にむかって跳ぶ以外にはない、という踏ん切りとその行動が、自自公の内外からさまざまな形で始まった。
 “自自公のむこう”に見え始めた新しい政治の風景、その最大の変数は有権者として自覚しつつある国民の競り上がりであり、それによって舞台は転換しつつある。
 なぜ小沢・自由党党首が、自自合流による保守再生ではなく、民主党の一部も視野に入れた「保守新党」を言いだしたのか。自自合流の保守再生論では、生活感覚では構造改革がわかっている国民の期待を、たとえその瞬間でも、集約することはできないのである。
 自民党執行部がなぜ、選挙をこれほど恐れるのか。自自公になってからの内閣支持率は低下の一途である。「やるじゃない、やりすぎじゃない、小渕さん」という首相お気に入りの川柳の時に比べ、いまや「バラマキ改革」への酷評がいたるところから噴き出している。誰がそう言っているのか。実際の経済や社会、生活を支えている基軸の国民に立脚したオピニオン・リーダー、すなわち票の流れを左右するポイントの部分が、そう言っているのである。介護保険の「見直し」騒動にみられるように、ぶら下がり国民には保護を、構造改革支持国民には妨害を、という自民党の対策をやればやるほど、基軸の国民からは見放されていく実態を、選挙の現場を仕切る幹部はリアルに知っている。支持率低下は、その表層的表れにすぎない。
 公明党はなぜ、選挙前の「政策実現の実績」に執心するのか。政権参加という賭けが、公明党が参加したから「バラマキ」の全面化になったと言われないためには、国民生活関連領域で、自覚的国民も納得できる構造改革にむすびつく政策実績を上げなければ、(新進党以来追求してきた)国民政党への脱皮の道は閉ざされるのである。
 民主党もまた、「先祖帰り」では生き残りの道はないという先の代表選での確認の上で、自自公に代わりうる政権政党への飛躍に賭ける以外にないところへきている。それはまた、憲法や安保と言った旧い対立軸による論議から、世代交代、その背景にある自立的国民意識の集約や、構造改革的ニーズの政策化とその組織展開をめぐって競うという、新たな活力への挑戦ともなろう。
 共産党もまた、公明との票の奪い合いをポイントにした旧来の延長での自自公批判ではなく、民主党との野党共闘をポイントにした自自公批判によって、地方議会レベルでの集票力(生活関連要求の政策化における圧倒的優位性)の延長にはない、国政レベルでの争点における存在感を獲得しようとしている。
 自自公とは、細川連立以降の、五十五年体制を壊すことをめぐって繰り広げられてきた政界再編劇の終幕である。その意味は、旧い利権配分から新しい利権配分への移行と再編を、できあいの権力構造の枠内でおさめるのかどうか、すなわち国民意識を含む社会基盤までの構造転換をともなわない「大政奉還」の線で収拾するのかどうか、の決着である。
 国民が、できあいの権力構造の枠内での再編に満足するなら、「改革」はそこで終わる。「危機」が目の前にある時にはあたふたと対処し、積み残しの宿題はなんとか片付けるが、一息ついてみれば、財政状況は過去最悪で、モルヒネなしにはやっていけない体質はいっそう進み、自己決定力は低下する一方。世界第二の経済大国の蓄積を食い潰しながらダラダラと衰退する、というシナリオが思い浮かぶ。
 しかし、それに満足・納得しない国民が声を上げ始めた。それが“自自公のむこう”に見えるものを、要求している。経済、社会、生活を支えている活力ある国民の中から、構造改革への踏み込みなくして何の改革か、それでは現状維持を改革と言っているにすぎないではないか、との声があがってきた。
 「中小企業支援と銘打ちながら、フタをあけて見れば従来型の救済策ではないか」「景気対策はいくら注ぎ込むかではなく、次の展望をひらくためにどこにどう使うかの問題なのに、あいかわらず金額の話ばかりではどうしようもない」「介護保険に不備があるのは事実だが、保険料徴集を凍結するならその財源を明示しなければ、ただの先送り・ツケ回しではないか」等々。
 こうした政策批判が、普通の国民・生活者の日常会話の中でかわされ始めた。「アイツらだけにやるのはけしからん、こっちにもよこせ」「◯◯を削って××を」という“おねだり”型の政府批判とは明確に質の異なる、構造改革の意識性(生活感性)からの政策批判である。そしてこの目線からの、リーダーの品定めも始まった。
 だからこそ、改革の政策はきれいに整理しているが、行動原理は派閥力学の枠内とか、できあいの権力構造の中で雑巾がけから一歩一歩といった「永田町」的リーダー形成の限界も、生活からの構造改革の感性で見えてしまう。永田町と自覚しつつある国民との距離も、九十年代初めとは、いまや質を大きく異にしている。
 “自自公のむこう”に見える政治再編の舞台は、もはやできあいの権力構造の枠内での合従連衡ではありえない。小沢・保守新党構想に関連した加藤紘一氏の「各政党の政権基盤、支持基盤を抜きにして政界再編をやると、一時の花に終わる」との発言は、言いえて妙である。構造改革への踏み込みのためには、国民意識を含めた社会の基盤そのものを再編するまでのエネルギーと論理を必要とする。生活から生まれている構造改革の感性の競り上がりを集約しうる政治的受け皿をつくる戦いに赴く者だけが、新たな再編劇の幕をあけることができる。

構造改革への踏み込みをめぐる国民内部の利害の亀裂を
政治の舞台へ登場させる政策論争とその組織展開を

新春セミナー開催の趣旨にかえて

 バラマキ改革も、せいぜいこの二年が勝負と言われている。世界第二の経済大国の資産も、これだけ食い潰していればいずれ底をつくというものである。その間にどれだけ、自律的復調・再生へのメドをつかめるか。
 生きようとしているもの、生活の活力はあるという国民は、その実感があるからこそ、構造改革の感性を持ち始めている。いつまでに、何を、どこまではクリアーしなければならないか、そのためにはどういうことが必要なのか等という、「戦略的発想」が、生活レベルでも「当たり前のこと」となりつつある。その経済的表現は、新規産業や新規市場創出への果敢な挑戦となる。社会的表現が、行政に頼らないNPO事業展開だったりする。
 同時に他方では、かつての「その日暮らし」とはまったく意味の違った、何の目標もなく浮遊している生活・国民が少なからずいる。ここは目先の欲望・浪費も、もはや「公的資金」頼りが当たり前になっている。その経済的表れは、粉飾決算を税金で尻拭いしようという金融機関のモラルハザードであり、社会的表現が神奈川県警だったり、働きたくないだけのことをフリーターと称するいい年をした息子・娘とそれにカネを与えている親との関係だったりする。
 構造改革への踏み込みをめぐる国民内部の利害の亀裂(経済自立人と行政依存人と表現したりする)は、こうした社会の基底からの亀裂をもともなっている。そしてこの亀裂を政治の舞台に登場させるためには、それにふさわしい政策論争と組織づくりが必要なのである。構造改革への踏み込みをめぐって、次の政治再編の舞台の幕を開けていくために、これらを一歩一歩獲得・蓄積していくこと。これが決定的である。
 構造改革への踏み込みをめぐる国民内部の利害の亀裂を政治の舞台へ登場させる政策論争の試み
 自自公の経済政策は「経済新生対策」に表現されている。公共投資の増額や貸し渋り対策の上乗せなどの総需要追加政策である。その代償である国債の対GDP比率はいまや、昭和十八年並み(十年以上も大陸での戦争を続けてなお、“死力”をつくして戦争を続行しようとしていた時期の!)である。
 ベンチャー支援といわれた中小企業支援も、実際には従来型の救済対策に重点が置かれている。介護保険の見直しも、とりあえずの保険料凍結を賄う財源は不明なままで、国債で補うにせよ、後から消費税率をあげるにせよ、介護費用がこれからますます大きくなるのは間違いないという中での、先送りにほかならない。年金改革にしても、将来の姿がみえないままに、とりあえずの「負担増」で当座のつじつまをあわせようというものである。
 現在の経済環境の悪化を阻止し、なんとか現状を維持することで国民に安心してもらうことで、将来への期待を持てるようになるなら、これらの政策はそれなりに評価できるし、かれこれ百兆円もぶち込めば、GNPがそれなりにプラスになるのは当たり前である。
 しかしそれで「安心」して、政府に「お任せ」する国民とは、どういう国民なのだろうか。それが日本の経済、社会、生活を支えている基軸の国民なのだろうか。
 政府頼み・公的資金頼みの政策は、民間の活力・自助努力を抑制・妨害する。リスクをとって挑戦しようとする者のほうが、何もせずにぶらさがっている者より日の目を見られない社会では、新しい活力は生まれない。「能力に応じた負担、ニーズに応じた受益」という日本型社会主義の分配システムでは、選択―責任―連帯という信頼社会は築けない。
 「安心―お任せ」という社会をつくるのか、「選択―信頼」という社会をつくるのか。それによって現状維持のための改革にとどまるのか、構造改革へ踏み込むのか、政策のスタンスも体系も変わってくる。
 これは安全保障や外交でも同様で、現状の日米安保維持のためのガイドラインはクリアできても、新しい歴史的舞台における次のアジアにおける安保構想をどうするか、そこから中国・米国との関係をどう再構築するか、韓国との関係はどうするか、その中で北朝鮮問題をどうするか、またASEANとの関係はどうか、といった国益をめぐる“次の踏み込み”になぜ進めないのか。また核問題でも情緒的な核感情からではなく、NPT、CTBTが機能不全に陥りつつある中で、どういう非核戦略を日本の国益として描けるのか。それなしに西村発言を扱えば、誰も振り向かない、埃をかぶったような「後ろ向き」の論争にしかならない。
 そして今ひとつ重要なことは、構造改革の政策は、単品ではなく体系的戦略的でなければならないということである。「知らず知らずのうちに破断界を超えるような改革」(堺屋太一・経企庁長官)が進行しているのも事実である。問題はそれを体系的戦略的に扱わなければ、政策アイディアのつまみ食いでは、ベンチャー支援が旧来型の救済策になってしまったりするのである。
 このチグハグは、結局は構造改革の安定的支持基盤を獲得できていないこと、言い換えれば、すでに声を上げ始めている構造改革支持の国民意識に形を与え、政治的受け皿となる政党や政治家のグループができていない(個々の議員ではそれはできつつある)ことに帰着する。
 構造改革への踏み込みをめぐる国民内部の利害の亀裂を政治の舞台へ登場させる組織展開を
 構造改革をめぐる分岐は、先にも述べたとおり、利益配分をめぐる対立とは異なる国民内部の利害の亀裂を伴っている。利益配分をめぐる対立なら、持てるものと持たざるものとか、◯◯業界と××業界とか、都市と農村とか、男女の差別とかいう論理でわかったつもりになれたが、構造改革をめぐる国民内部の利害の亀裂は、いわば生き方や責任の取り方にまでかかわる違いであり、タテ型発想といわれる組織論―哲学では、再編・統合できない性質のものとなっている。
 だからこそこの改革は、明治維新というよりもむしろ、大化の改新や十七条憲法に匹敵する「時代精神」を必要とする改革だと言ったりするのである。すなわち、四海に囲まれた島国としての同質性を前提にして、「同じ日本人だから」ということの基礎の上に成り立っていた意思交流―統合論理では通用しない亀裂であり、だからこそこの亀裂を再統合する「国民意識」「時代精神」が必要なのである。
 それはもはや、一国ナショナリズムの過去にかえって、あるいは戦後無条件降伏への怨み言をバネにして、獲得できるものではない。そういう人たちは「危険な人々というよりも、哀しい人々」(アンドルー・ゴードン「世紀末日本のナショナリズム」11・30朝日夕刊)であり、グローバル社会の中で構造改革のアイデンティティー獲得に挑戦する活力、生命力のない人々なのである。
 一国の歴史はその国の国民意識を発揚し、誇りを呼び起こすものであるのは言うまでもない。だがその国民意識や誇りは、ひよわな自己愛とは縁もゆかりもない。それはグローバル社会の中で構造改革のアイデンティティー獲得に挑戦する勇気と確信を奮い立たせるものでなければならない。
 そしてかような意味で、古代よりさまざまな文明を集積し、それを独自のものにつくりかえてきたわが民族と国民の伝統の上に、新たな「平成の時代精神」を、すなわち構造改革の国民的エネルギーを統合し、奮い立たせる旗手がかかげるにふさわしい時代精神を創造する時なのである。
 一連の講演会も、こうした観点からテーマと講師を設定してきたが、新春セミナーではさらに各方面から体系的に深める糸口とすべく、読者諸兄姉のご参加を!