民主統一 242号 1999/6/1発行
新時代の国家・社会のありようをめぐる政治論争を積み上げるなかから、
次期総選挙を政権構想をめぐる場としよう
自自公・自民総裁選をめぐる駆け引きのむこうにみえるもの
永田町が波立ってきた。ガイドライン関連法案の審議あたりから、「自自公」の動向が、そして一方では自民党総裁選をめぐる駆け引きが、連日の政治ニュースとなっている。いうまでもなくキーワードは「次期総選挙」である。
表層だけを見れば、相変らずの数合わせ、ポストをめぐる駆け引き、「連立」という名の漂流政治ではある。しかし時代の大転換期には、当事者の思惑をはるかに超えた舞台回しの力が動くものである。そこから見れば、永田町の駆け引きのむこうに、ポスト争い・数合わせとは別の風景が見えてくる。
自自連立が従来とは違って、「国家的危機」に対する一部の国民の覚醒を背景に、景気対策とガイドライン関連法という当面の「国家的危機への対処」をかかげ、自自公もホンネは「選挙」にあったとしても、ガイドラインや通信傍受、住民基本台帳法改正、あるいは介護保険や国旗・国旗、憲法といった、国家と社会のありようをめぐる骨格の問題で、合意の形式を整えざるをえない展開になっていく。
同時に、ガイドライン関連法を「戦争法案」と批判する側も、その論理は次第に、紛争未然防止―予防外交など、東アジアにおける総合安全保障をどうするのかへと歩をすすめざるをえない。通信傍受その他でも、「多元的成熟社会」における自由と秩序、公と私、権利と義務などについて、「階級的タテ型社会」の時代とは異なる観点から再定義することに踏み込まざるをえないだろう。
この空間が拡がるにつれて、「オオカミ少年的」国家主義と一国平和主義というコインの裏表の構造は、活力なき時代錯誤として舞台の袖から退場していくことになる。
一方でこの過程は、旧い権力システムの“変容”過程ともなっていくだろう。自自―自自公連立は竹下元総理の「遺言」と言われているが、自民党総裁選をめぐる駆け引きや、自自公をめぐるあれこれの“異論”などは、「竹下政治」に象徴される田中政治以降の権力システムや政党のありよう(国家をどこに持っていくのかを問わない分配機能としての「政治」、それをめぐる権力闘争や合意形成、そこで培われる選挙互助会としての「政党」)の“終わりの終わり”であると同時に、新時代の国家・社会のありようをめぐって政治論争を組織し、その線に沿って政党や政権構想が選択されるという、新しい権力システムへの移行の“始まりの始まり”ともなりうる。
問題はこうした舞台まわしを、いかにスムースにすすめるか、その中に有権者・国民の自覚的参加をいかに促していくかにある。次期総選挙にむけて、時代の舞台回しの力を漠然としたものにとどめてしまうか、それとも新時代の国家・社会をめぐる政治論戦―政権構想として意識的にすすめることのできる構造をつくりあげていくか。自覚し始めた有権者・国民と時代をとらえようとする政治家には、そのことが問われている。
当事者の思惑がどうであれ、自自公の「落とし所」は、地方分権、省庁再編、新農基法、住民基本台帳法、船舶検査、日の丸・君が代、憲法調査会といった今国会の重要法案、また介護保険や産業再生、経済構造改革、景気対策といった新時代の国家・社会のありようにかかわる構造改革についての「政策合意」とそれにもとづく「政権構想」と、無関係にはありえない。自民党総裁選をめぐる駆け引きも、こうした文脈の中にある。
こうした重要課題をめぐる分岐は、政党間の垣根をこえて錯綜しており、もはや既存の政党区分の線に沿って走ってはいない。構造改革をめぐる政治論争は、国家のハード面とソフト面をめぐる多角的な論点を提示しながら、永田町(リーダー)と国民(フォロワー・支持基盤)との、従来とは違う分岐・再編を促進していく。
参院選―地方選で見えてきた時代の潮目の変化を、政治表現へと促進していく格好の舞台として、こうした構造改革をめぐる政策論争を意識的に積み上げる中から、次期総選挙を新たな政権構想をたたかわせる場へと押し上げていこう。
「がんばれ加藤、踏ん張れ小沢、負けるな小渕、ついてけ菅・鳩」―元気印の国民は、リーダーをこのように押し上げていこう。
構造改革をめぐる戦略的展開−相乗的波及連鎖を
ガイドライン関連法案の審議は、ユーゴ情勢(NATOによる空爆―「人道的介入」という新たな集団安保への踏み込みと、中ロの対応)や北朝鮮情勢(瀬戸際外交と米の対北朝鮮政策の見直し、日米韓協調の具体化)などを背景に、「戦争法案」という枠では括れない論戦へと発展しつつある(反対する側も)。
アメリカの一国覇権主義・空爆第一主義に「巻き込まれる」かどうかという問題は、わが国が地域的な集団安全保障構想や総合安全保障構想を持てるかどうか、それを実現する困難・責任の一端を引き受ける意思があるのか、という問題に帰着する(それを外したアメリカ非難や北朝鮮敵視は一国主義に帰結することが、生活の論理で“ストンと落ちる”ところまで、情勢は成熟した)。
すなわち、東アジア安定の公共財としての日米安保の運用(九六年の「日米安保再定義」)を実践的に深めることであり、「東アジアの安定」をその後の教訓も踏まえて、経済・金融や環境・エネルギー、社会基盤整備なども含めた総合戦略としてとらえ、それを担保する装置として日米協力=ガイドラインを位置付けるという戦略的展開の圧倒的弱さ(政治家の構想力と国民の意識性の欠除)が、中国の反発を不必要に助長することになっているということである。
ユーゴでの大使館誤爆を契機に噴き出した中国の「反米」気運は、胸突き八丁にさしかかった朱鎔基改革をめぐる中国内の権力闘争を伺わせる展開となっている。中国が二十一世紀に、その国力にふさわしい「責任ある大国」となるためには、朱鎔基首相が進める構造改革が軌道にのり、それによって中国の政治経済社会の国際化がさらに進むことを通じる以外にない。朱鎔基改革を進めるための対外環境とは、何よりも「安定」である。それは地域紛争が起こらないことはもとより、金融・通貨・貿易・投資などの経済的な安定のことでもある。それは同時に、ようやく回復軌道に乗り始めた東アジア経済にとっても切実な「共通の利益」にほかならない。
一昨年の通貨危機の教訓から、アジアでも通貨安定の地域的仕組みが議論され始めたが、円がその役割を果たすためには、一方で日本が地域の安全保障に対する責任を具体的に負うことは、不可欠の条件である。――このようにして構造改革の諸問題は、内政と外交をリンクさせ、安全保障と経済構造改革や社会構造改革を(国境を超えて)リンクさせる統合戦略をどう描くのかということに帰着する。
あるいはまた臨時国会以降、今年後半の大きな焦点となると考えられる、産業競争力強化や経済構造改革と景気対策とのリンク(景気対策が構造改革に結びつくのかどうか)、さらには失業対策や来年スタートする介護保険などの新たな社会政策、それらと財政構造改革や行政改革とのリンクなど、わが国再興に向けた経済社会の構造改革のためのラストチャンスを迎えつつある。
わが国の構造改革がその緒につくかどうかは、アジアの再興にとって重要な問題であると同時に、過熱気味のドル一辺倒に流れがちな世界経済の安定にとっても重要な課題であることは言うまでもない。
それは同時に、米大統領選挙、台湾総統選挙、折り返し点を迎える金大中政権(憲法改正)、ロシア大統領選挙などの政治日程が、さまざまな形で地域の不安定要因に影響する時期でもあり、それらを安定的に推移させる条件のひとつ(小さくない条件)が、わが国の安定―構造改革に一定のメドがつくこと―であることも、言うまでもない。
この中でアジアの構造改革とわが国の構造改革をリンクさせ、そのための「共通の利益」を明らかにし、そのための地域の安定を担保するさまざまな協調システムをつくりだすこと。そしてそのことを、国内外の構造改革をさらに一段とおしすすめるテコとし、そこからさらに「共通の利益」を深め、それによって構造改革の波及力をさらに広め、地域協調を多元的多角的なものとして発展させること。またそれを自国の改革への波及効果として生かしきること。
こうした構造改革の戦略的展開と統合性が具体的に見えてくる時期にはいりつつある。構造改革をめぐる政策論争のなかで、この多角的相互連鎖を、能動的意識的につくりだしていくこと(一連の講演会はそのためのもの)。その中から次期総選挙を、時代を駆け抜ける政治、国を任せられる政治家を担ぎだす、世直し国民運動とするための仲間の輪をひろげていこう。