民主統一 236号 1998/12/1発行

“平成日本の虚ろ”を埋める、開かれたナショナル・アイデンティティーを
アジアにおける構造改革の試練を、「苦難と挫折の近代化」を克服する”アジアの原風景”として生共有するために

ポスト冷戦後のアジアの新展開とわが国の役割

 江沢民・中国国家主席との日中首脳会談が終わり、韓国、ロシア、アメリカと続いたこの秋の一連の首脳外交に一区切りがつけられた。この時期、中ロ、米韓、中韓首脳外交も同時並行的に展開された。北東アジアを舞台にした一連の首脳外交から見えてくるのは、ポスト冷戦の“終わりの始まり”とも言うべきアジアの新展開であり、「ポスト冷戦後」のわが国に問われている役割、課題とは何かということである。
 日韓共同宣言は、六五年の基本条約を「実質的に修正する意味をもつ」(小此木政夫・慶應大学教授)ほどの、日韓新時代を開く歴史的文書となり、未来志向の行動計画も確認された。一方の日中共同宣言も、72年の共同声明、78年の平和友好条約に続く第3の歴史的文書と位置付けられるものであったが、首脳による署名が見送られたことに象徴されるように、「過去」の問題をめぐる後味の悪さが残った。
 金大中大統領は、韓国経済の再生とアジア経済安定化のための日本の役割および日韓協力の重要性を強調し、北朝鮮への「太陽政策」の一方で、日韓の安保対話と防衛交流に踏み込んだ。「過去」の重さを考えれば、韓国が日本との防衛交流に踏み込んだことは、北朝鮮問題という「当面の不安定要因」もさることながら、この地域における「苦難と挫折の近代」を克服するための歴史的な舞台が回りはじめていることを感じさせる。
 もはやこの舞台は、「苦難と挫折の近代」および「対立と分断の冷戦時代」「不確実性のポスト冷戦」という「過去」からとらえることはできず、現在の困難―構造改革の試練を“前に向かって跳ぶ”ための“原風景”として共有する以外にはない。
 日中首脳会談について、ニューヨーク・タイムズ紙は、「アジア経済危機や朝鮮半島で戦争がぼっ発する可能性ではなく、半世紀も前の出来ごとをめぐる論争が中心議題になった」と冷ややかに論評した。構造改革の試練を、「苦難と挫折の近代」を克服する“原風景”として共有する舞台は、日中間では未だ見えていない。そして中国との間に、この共通の舞台を見い出していくことこそが、東アジアにおけるわが国の対中関与政策(engagement)の核心であるべきである。
 ポスト冷戦の“終わりの始まり”は、アジアではアメリカニズムの限界と危機という様相をもって進行しているといえるだろう。アメリカニズムとは何かという問題はいろいろあるが、ここでは、NPTに象徴されるアメリカ主導の核管理体制と、ウォール街を軸にしたグローバル金融市場にあらわされるものとしておきたい。ポスト冷戦期のアジアはこれによって一定の成長と不安定要因の緩和をはかってきたのも事実であるが、その延長にはないということに今日、直面している。経済危機を契機として、わが国も含めた各国が直面している構造改革は、経済と政治の民主化(民主主義と市場経済をめぐる「よい統治」)と社会の多様性・自律的市民社会化という近代化の総総括として問われざるをえない性質となっている。
 冷戦時代は、わが国以外のアジア諸国にとっては分断と同時に、脱植民地化・近代化の苦闘の時代であったといえる。ポスト冷戦とは、この冷戦期の矛盾から生じる不安定要因を克服する新たな枠組み、方法の模索期でもあり、新たな地域多国間協力への歴史的方向性をふみだしつつ、それとアメリカ主導の秩序形成とが並存してきた。わが国の役割も、冷戦時代の「西側一員論」「対ソ戦略」の延長では語れない、「アジアの中の日米同盟」「東アジア地域協力におけるパートナーシップ」とはなにかとして実践的に問われてきた。
 構造改革の試練を、「苦難と挫折の近代」を克服する“アジアの原風景”として共有するための歴史的舞台は、このようにしてしぼりこまれてきたのである。
 この舞台で“前に向かって跳ぶ”ために、なにをなすべきか。わが国に求められている役割は何で、わが国の国益はどこにあるのか。このことの中からこそ、“平成日本の虚ろ”を埋める、開かれたナショナル・アイデンティティーを獲得する条件も形成されてくる。
 具体的な課題は明瞭である。すなわち東アジアの経済安定のための協力の仕組みと安全保障の多国間協力。これが一般的にではなく、極めて具体的に問われている。前者は宮沢構想をベースとして、後者は北朝鮮問題を媒介として。前者の課題は、ドルの相対化・円の地域通貨化であり、これをめぐる日米中の関係である。
 凌星光・福井県立大学教授は、将来のアジアの通貨体制について、@米・IMF主導型A米中主導型B日本主導型C日中主導型の四つのシナリオが考えられるとした上で、日中主導型が望ましく、他はさまざまな問題、疑問があるとしている。そのためには、先に述べたような日中間の共通の舞台が不可欠である。「過去」をそのための障害であるとし続けることが、はたして中国にとっても得策であるのかどうか。円が地域経済安定に一定の役割をはたすためには、内需主導型の経済政策が求められるが、それははたして「浪費のススメ」によるようなものでいいのか。アメリカ経済の好調にも潜むマネーゲーム経済・浪費経済への同調として、日本の景気回復を考えるのか(カーティス氏講演参照)。
 米中主導型は中国の国益にかなうようにも見えるが、下手をすれば米中経済戦争や、中国が第二のタイやインドネシアになりうるリスクも内包する。なによりも、米国と経済覇権を争う大国中国は、政治的にも軍事的にも社会的にも環境的にも周辺諸国にとっては脅威となりうる。
 すでに中国においてさえ、産業インフラは自力で整備することが可能になっている(渡辺利夫・東工大教授)。対中ODAの重点を環境保全に移すことは、中国の経済力を望ましい方向に発展させる上でも重要な「関与」政策であろう。環境保全は必然的に、地方政府・行政や産業技術ならびに社会国民レベルでの幅広い協力を呼び起こす。大気に国境はないからこそ、自らの健康と周辺諸国・社会との関係をリンクして考える主体性を準備しうるのである。「共通の舞台」は、このような条件なしには不可能である。
 地域安全保障協力においても、次第に問題はしぼられている。ひとつは中国が台湾に対する武力行使の可能性を放棄しないことが、地域の安保協議を困難にしている(カーティス氏講演参照)。同時にもうひとつの障害は、北朝鮮問題に対して、日本が何をするのか、何ができるのか、日米同盟はどう機能するのかということがあいまいなままであるということである。日本が何もできないままであることが、(わが国の安全にとってはもとより)この地域の安定にとって、はたしてプラスでありうるのか。こうした問題をリアルに真摯に考えるべき局面にきているのである。
 北朝鮮問題についても、核管理を主眼としたKEDOアプローチを維持しつつ、地域安定の枠組みにさらに北朝鮮を「取り込む」ための硬軟両面での仕掛けが必要であり、韓国と日本が共同で「六者協議」を呼びかけていくようなプロセスも重要であろう。中国がより鮮明に北東アジアの安定のために対北政策を打ち出し、この点においては日米韓中の間に北朝鮮が割ってはいる余地を与えないようにする上でも「六者」の枠組みは有効であろう。この枠組みのなかで、ロシアにも極東地域への責任ある関与を促し、日ロ関係についてこの側面からも促進していくことであろう。
 「アジアの中の日米同盟」をいかに機能させ、日米関係を運営していくのかという問題も、こうした枠組みから明らかにしていくべきであろう。一連の首脳外交は、このような意味での、ポスト冷戦の“終わりの始まり”と、わが国の役割、課題を明らかにしつつある。

国家衰亡の危機をくい止める一歩一歩を

 自民党と自由党の連立合意は、いろいろな意味で、「国家衰亡の危機」に対する肚のすえ方の一つであろう。
 これに対しては「自由党の自殺行為」「小沢自身の自己否定」から「沈没寸前の自民を助けた」「自民党の軍門に下った」というものの一方で「国家存亡の危機を早期に解消するための決断」「国を根本から変革していく一歩」「国家の一大事。薩長連合だ」まで、さまざまであり、どれも外れてはいないが、肝心なことは、今政治に問われているのは危機の時代の政権担当能力であり、そのための政権構想である。「国家国民のため」ということが、曲がりなりにもサマになる政治家・政党でないと、単なる「数合わせ」批判では、逆に「軽さと甘さ」を露呈することになる。
 こうした中で、民主党などの野党が(場合によって自民党の一部も)、「もうひとつの政権構想」「もうひとつの政権担当能力」をどのように示していくか。安全保障や対外関係といった面からだけではなく、社会保障や生活、街づくりといった面からも、国のありようを問う道すじは準備されている。この中から「国のありよう」を問う本格的な政党再編の舞台が準備されていく。
 通常国会では、本格的な経済政策と周辺事態法が論戦の軸となると考えられる。
 当面の景気回復とともに、税制や社会保障をふくめた抜本的な経済改革は、わが国の経済社会をどこにもっていくのかと同時に、アジア経済におけるわが国の位置・役割をどのようなものとし、米、中との関係をどうしていくのかにかかわる政策選択の問題である。
 またガイドライン・周辺事態法の問題は、わが国の安全保障および北東アジアの地域安保協力と日米同盟について、正面から論じることをこれ以上、避けて通るわけにはいかない。通常国会から本格的に開始されるのは、こういう性格の論戦である。
 こうした問題をあいまいなままにすることによって成り立っている政党や政権、こうした問題を正面から論議しないでもすんだ「過去」「観念」「感情」を捨てられない政党や政権では、「国家国民のため」とはウソでも言えないだろう。ここで「肚をすえる」ことが、政党・政治家にも有権者にも求められている。だからこそ、わが国の置かれた環境、位置を冷徹に歴史的に(近代の総総括として)見据えるところからのみ、“前に向かって跳ぶ”決断は可能となる。
 “平成日本の虚ろ”を埋める開かれたナショナル・アイデンティティーを獲得する戦場は、かくのごとく準備されている。「経済敗戦国」とはいえ、われわれが立っているのは焼け野原ではない。そして国際連盟を脱退した時とは違い、いまは欧米を軸とした国際社会から孤立しているのでもない。なによりも、アジア諸国は具体的に、わが国の主導的役割を求めている。
 ポスト冷戦後の、より深化された歴史的舞台の幕は、上がりつつある。