民主統一 233号 1998/9/1発行
がんばろう!日本!!10・10集会へ
「国家衰亡の危機」に立ち向かうホンモノの改革派の総結集構造を
小渕政権をめぐる攻防を媒介として実践的に見え始めてきた、
国家衰亡の危機に立ち向かうホンモノの改革派総結集の道
「経済再生内閣」をかかげ、「火牛となる」決意を表明した小渕内閣は、発足後一ヶ月で、はやくも立ち往生しつつある。ロシア経済の破綻をきっかけにした世界同時株安という「恐怖の連鎖」が、さらにそれに追い討ちをかけている。
小渕内閣が掲げる「ソフトランディング」路線は、長銀問題ではやくも破綻をきたしている。長銀が政府の言うように債務超過でないのなら、なぜ税金をつかって救済する必要があるのか。大手行は潰さないというのであれば、ブリッジバンクは、いったい何のためのものなのか。これらの問いに、政府は「長銀を潰せば大変なことになる」としか答えない。
眼前の金融危機が、市場原理を「一時停止」し、「超法規」的にでも対処しなければならないほどのものであるなら、なぜその危機管理を正面から提起できないのか。日本という国家の危機なのか、自民党というムラの「危機」なのか。同じ「危機」という言葉を使っても、その意味、中身が全く違っており、そのことが具体的な行動や組織論の違いとして明らかになりつつある。
破綻が明らかとなっている護送船団方式、五十五年体制の政治経済システムを、このままとりつくろい続けるのか、それともそのウミを出し切って断ち切るのか。小渕政権をめぐる攻防を、ここから構えきれるのか。それとも「是々非々」「◯◯批判」の範疇以上は踏み込めないのか。この違いの本質は、五十五年体制に替わる、ホンモノの改革派の政治的結集ー政党をつくるということが軸に座っているのかどうかにある。
前者の立場は、「長銀を潰せば大変なことになる」という政府・自民党の言う「最悪シナリオ」を論破し、もたれあいシステムの打破・自己責任・市場原理の確立こそが日本経済再生の道であると言い切る。後者の立場では、「大蔵省・金融行政批判」はできても、「最悪シナリオ」の前には不断に是々非々路線に転じていくことになる。
前者と後者とでは、その立脚している社会基盤も組織論も大きく異なってきている。前者は、五十五年体制のシステムに依存しない社会層が、具体的な支持基盤としてイメージ化され始めている。後者は「危機」を意識すればするほど、さらに固定化された既得権益層に立脚する。
前者は、綱領的結集を軸とする組織論であり、その基礎は(階級的社会の要素が後景に退いた)新たな構造社会の社会再編までをとらえた政党再編論である。後者の再編論は「数合わせ」「ポスト争い」という政界再編であり、その組織論は利益誘導の枠内に収まる。
小渕政権との攻防を、綱領から規定された政権構想(自らの政策を実現していくための社会基盤づくりまでを含めた構想)から構えられる度合いに応じて、「解散・総選挙」を能動的に受けてたつことができる。反対にそれが希薄な度合いに応じて、「解散・総選挙絶対回避」という小渕政権のアイデンティティーに収斂していくことになる。小渕政権の立ち往生がズルズル続くことを断つことができるのは、前者の力である。
この点で言えば、一番立場が明確なのは、自由党と共産党である。共産党は連合政権構想を積極的に展開しており、自由党・小沢党首は「今すぐ政権を共にするというのは受け入れられない。自民党の旧体制を壊すという意味での協力はいいが」と述べている。ここではそれぞれ、政権の性格、目的ははっきりしているので、自民党システムの延命に手を貸すという余地は断たれている。
したがって、自民党システムがさらに窮地に陥った際には、民主党が焦点になる。自由党・小沢党首は民主党について、「お互いにある程度仕方ないことだが、彼らも五十五年体制の残滓を背負っている」と述べている。問題なのは、そのことを自覚し、いかに自己改革するのかという意味である。連立によって五十五年体制延命の道を具体的に一つでも断つ、という成果を挙げられる保証は、こうした党の革命ー自己改革にある。自社さ連立が、五十五年体制延命のドロ沼にどっぷりとつかることになったのは、新しい国民政党に脱皮するという自己改革ー公約を「忘れた」からでもあった。
「日本政治の再生と国家的な金融・経済危機の突破、そして新たな改革へ向けての国民的なエネルギーの結集、この三つの差し迫った課題を全て満たしうる答えは一つしかない。それは、自民・民主・自由の『改革大連合』を結成し、与野党のいわゆる大連立による文字通りの挙国内閣の樹立である」(中西輝政・京大教授 7/30「毎日」)
小渕政権は、「幕藩体制」延命のための総力戦である。五十五年体制に替わる新たな政党ー政治システムをつくる主体勢力の成熟が、これそのものを断ち切ることによってこそ、大連立から一方では幕藩体制の「幕引き人」を生み出し、他方で国家衰亡の危機に立ち向かう政治の再生への一歩を踏み出すことができる。
参院選、そして小渕政権をめぐる攻防を媒介として、国家衰亡の危機に立ち向かう改革派総結集の構造を、どこからどうつくっていくのかが、永田町の中からも、有権者の中からも実践的に見え始めてきた。この情勢を、日本再生ー政治の復興への確固たる一歩とするべく、「がんばろう!日本!! 10・10集会」に総結集を!
地球益・国益・郷土愛をむすびつける、
開かれたナショナル・アイデンティティーを
国家衰亡の危機という歴史的情勢は、ある人々を愚鈍にし打ちひしぐが、他の人々を啓発し鍛え上げる。ある人々にとって政治は目の前の利益分配と同義だが、他の人々にとっては自ら自身も責任を担うべき共同体の生存の問題となる。こうしたエネルギーを引き出すことができるのは、新たな国家目標であり、そのナショナル・アイデンティティーである。
10・10集会で講演していただく中西輝政・京大教授は、著書『国まさに滅びんとす』のなかで、大英帝国衰退の根本要因を、大衆民主主義における合意形成の失敗―改革の大衆的基盤の形成の失敗とポピュリズムの台頭、とともに知的・精神的活力の衰えを挙げている。すなわち新しい時代の「趨勢」と思えるものを無批判に受け入れ、それまで自分たちがやってきたやり方を、新しい環境の中でいかに積極的に適応させていくのかという精神の強さ、社会のバイタリティーを失ったということである。そこには「変わるもの」ばかりを追いかけて「変わらぬもの」について考える視野と感性を失ってきた、高度成長以来の日本の「負の遺産」が大きく影を落としていると。
「平成日本の挫折」とは、言い換えればグローバリズムという時流に追従した根なし草の改革論の破綻であり、国家という共同体を考えずに経済的利益だけを追及してきた戦後の社会・人間形成の集大成でもあった。大国や覇権国家としての道を断った国と国民が、国家存亡の危機を「他人ごと」「腑抜け」としてしか迎えられないとすれば、それこそが亡国の道である。五十五年体制のドロ沼とはこのことでもある。
「日本とは何か」「われわれのナショナル・アイデンティティーとは何か」を正面から問わずして、ホンモノの改革のエネルギーを呼び起こすことはできない。変革への有権者の覚醒や責任意識は、このような問いなしには生まれない。
この問いは、一国平和主義や一国繁栄主義、復古主義的国家主義とは無縁であり、この間の政治経験からグローバリズムへの追従やアンチとも手を切ってきた自覚であり、覚醒である。グローバル時代の中での国家衰亡の危機、そしてアジアの構造改革という「共通の原風景」という歴史的情勢が、近代日本の国家論からの総総括のための客観的条件と主体的条件を準備しつつある。
われわれはこれを改革派の共通の基礎として、地球益・国益・郷土愛をむすびつける、開かれたナショナル・アイデンティティーを確立していこう。