民主統一 230号 1998/6/1発行
平成日本、挫折の十年間を直視し、グローバリゼーションの推進をテコにナショナル・アイデンティティーをうちたてよ
アジア情勢の不安定化とわが国が直面する状況をどう見るか
アジア情勢の不安定化は円安に拍車をかけ、それがアジア経済危機を増幅させるというシナリオが現実味を帯びつつある。インドネシアの次には、ロシアのデフォルトの危険が取りざたされ始めている。円安とアジア経済危機によって大量のマネーが流れこんだ米国経済のバブル化とその崩壊も、単なる「脅し」ではなくなりつある。「日本発の恐慌はひき起こさない」どころか、アジア経済の危機に続いて、米国のバブルも、改革にもたつく日本の責任とされ、そのバブル崩壊の損失も負わされる事態になりかねない。「日本問題」の決着は、このようにしぼりこまれつつある。
今日、わが国が直面しているのはこうしたシビアな状況である。
数年前まで、東北アジアの不安定要因として挙げられていたのは、@北朝鮮A中台B中国CロシアD日本というものであった。自国が不安定要因であることすら「他人ごと」のように受け取ってきた日本に比べて、中国はアジア経済危機では「防波堤」としての存在感を示し、インド・パキスタン核実験でも「大国の責任を引き受けてみせた」(ワシントン・ポスト)。自国の不安定要因を除去する戦いの中で、「アジアの責任大国」としての存在感を着実に獲得してきたのである。この差はもはや、自己切開する以外にはなく、「中国脅威論」や「国際金融資本の陰謀」などと騒ぎ立てても、自ら墓穴を掘るだけである。
まさに構造改革とは、グローバル化時代の新たな国益やナショナル・アイデンティティー確立の戦いのことである。韓国しかり、インドネシアしかり。
アジアが構造改革の「原風景」を共有し始めたことによって、わが国の「改革」の迷走は、あれこれの政策レベルの失政ではなく、「政治的意思の喪失」「統治の弱体化」以外のなにものでもないことが明らかにされた。先行する経済のグローバル化には、一国主義の枠内での統治から脱却する新たな政治哲学、イデオロギーの確立で応えなければならない。
一国主義の時代の国益、その貫徹形態から脱却する新たな政治哲学をいかに手にし、それに照応した構造改革をおしすすめるのか。グローバル時代の国際政治は、そのことをめぐる「生き残りをかけた」激しい攻防戦である。日米欧の三極のなかで、それが見えない最も弱い環は日本であるという歴史の趨勢が、一連のアジア情勢の不安定化の中で最終的に確定されたということが、先に述べた事態の推移の意味である。
一方のアメリカにも、「一国覇権主義」の惰性という統治哲学領域の「弱さ」があるが、好調な経済と日本の迷走によってそれがカバーされている。しかしアジア経済危機でも、インド・パキスタンの核実験でも、もはや従来の延長での(統治活動の戦略的刷新なき)日米同盟関係では、事態に対処するいかなる機能もはたせないことが、一方的に明らかにされたのである。
その意味で、湾岸戦争での百三十億ドル拠出以来の「援助外交」が、インド・パキスタンの核実験の前に無力化したことは、象徴的である。統治活動のメルトダウンを「改革」と勘違いし、ナショナル・アイデンティティーの消失をグローバル化と勘違いしてきた平成日本の十年間の総括は、こうしたシビアな環境の下での自己切開として、その糸口をつかむ以外にないところにしぼりこまれた。
グローバリゼーションの推進を、一国主義国家形成の下での主体性から脱却するためのテコとして使い切り、地球益ー国益ー郷土愛をむすびつける新時代のナショナル・アイデンティティーを獲得せよ
平成日本の「改革」論議を席巻しているのは、一言でいえば「グローバル・スタンダード」ということである。しかし、そんなものは現実のどこにもない(伊東光晴・京大名誉教授/This is 読売五月号)のであり、あるのは「社会、制度、文化がいかに各国によって違うか、しかもその制度が進化する、変化する」(同前)ということなのである。金融や技術のように、標準化とグローバル化が不可避の分野はあるが、経済と不可分の関係にある政治や社会、ましてや文化までが標準化されるのではない。問題は、一国的な国民国家原理の時代に形成された政治や社会、文化、総じて言えばナショナル・アイデンティティーを、グローバル時代に通用する開かれた個性へといかに発展させていくのかということなのである。
グローバル時代とは「国単位の発想が意味をもたなくなる」のでは全くなく、「国家の再浮上」を意味する場合もある(中西輝政・京大教授/文芸春秋六月号)のであり、問題の本質は、それが一国主義的な国民国家原理の時代とは異なる形態であるということにある。グローバリゼーションとは、国益の再定義と貫徹形態の歴史的な脱皮のことであり、構造改革とはこのことをめぐる政治・経済・社会全般の再編と、新たな国民合意形成のための社会革命の推進なのである。
だからこそわれわれは、この時期の政党活動ー人間的変革活動を、「一国主義国家形成の道から、国際国家日本に向けた“海図なき嵐の中の船出”のとき来る」(「民主統一」一五三|一五五号・戸田論文 91・12|92・2)と規定し、グローバル時代の国益の貫徹形態と一国主義の枠内での政治・経済・社会・人間形成から脱皮する実践方向性を、「地球益|国益|郷土愛をむすびつける」として深めてきたのである。
一国主義国家形成からの脱皮をかけたこの十年間は、グローバル時代に適応するのみならず「航路指標になる」(ブレア首相の党大会演説)ようなナショナル・アイデンティティーを獲得する糸口を手にしたものと、(あったはずの)アイデンティティーすら解消し、「閉ざされたアイデンティティー」の自己愛へと逃避するものとが、国境を超えて分岐した十年でもある。その意味で、グローバリゼーションの時代とは、人間の主体形成と社会再編が「国境を超えて」進む社会革命の新時代でもある。
このようにして、「日本問題」とは統治構造の戦略的刷新、新たな政治哲学確立の戦いが欠落した「改革」の迷走として明らかにされた。今問われているのは、こうした十年間の決着が明らかになり、「日本問題」を処理する形態が絞り込まれてくることに対して、責任のなすりつけあいや見てみぬふりをせずに、正面から「平成日本の失敗と挫折の十年間」として自己切開することである。それが、われわれが誇りを失わずに生きる道であり、できあいの改革論の枠を超えて維新をなしとげた先達の矜持を持ちつづける道である。
参院選を前後してはじまる「日本問題」の処理をめぐる情勢のなかで、「構造改革」の仕切りをどう構えるか
インド、パキスタンの核実験強行は、断じて許されるべきものではないが、わが国にとって深刻なのは、ODA外交はその無力さをさらけだし、「金があっても誇りのない国にはなりたくない」と言われるに及んで、戦後日本の平和主義の「空疎さ」が言い逃れできないまでに露呈させられたことである。
彼らの自尊心を「愚かなもの」として批判することはたやすいが、それを批判している側が、国家及び国家間の関係が一切抜け落ちた私的体験の延長としての情緒的「平和主義」や、その裏返しである(歴史としては語れない)私的体験の正当化を『プライド』と勘違いしたいという情緒的「歴史観」では、そもそもこの時代に生きる人間として扱われないということなのである。それらはいずれも、欲望民主主義の「愚者の楽園」の中でのみ可能となる自己愛にしかすぎない。
そんな悠長な空間は、現実の世界にはどこにもない。安全保障の領域はもとより、経済の領域でも従来までの、五十五年体制の延長での言い逃れや辻つまあわせでは、もはやとりつくろうことができないシビアな局面が、参院選を前後する内外の政治情勢の中で、ますますあきらかになる。
円安の更新|アジア経済の回復の遅れ|米経済のバブル化という中で、人民元を切り下げないという公約を中国が守り続ければ、「日本の責任」はさらに厳しく問われることになる。一方でロシアの債務危機が欧米経済に与える影響と、ロシア支援の負担のシェアをめぐるかけひきは、きたるべきユーロとドルの角逐の前哨戦となるかもしれない。この中でも「日本問題」の処理がターゲットにされるだろう。そして警戒され始めた米経済のバブルの崩壊のツケも、確実に日本に回ってくる。ヨーロッパとアメリカの「強者連合」として展開されている経済再編でも、日本は非主体者としての位置しかない。
橋本訪米、クリントン訪中、江沢民来日、橋本訪ロ、APECや国連総会という参院選後の外交日程は、まさにこうした性質のものとして押し込まれていく。
戦後五十年の「経済大国」の結末が、(「政治的言い逃れ」のできない)生活次元の実際として、一国民まで見ざるをえないという情勢のなかで、「平成日本の失敗と挫折の十年間」を自己切開し、いかにして構造改革の仕切り直しを構えるのか。五十五年体制の枠をこえて進む ホンモノの改革のための政治・政党建設は、このような道すじの中から生み出していく以外にないのである。
それは同時に、構造改革を共通の原風景とし始めたアジアの不安定要因を除去していく「安定化要因」としての日米中の協調関係をいかにして構築していくのかという舞台でもある。アジアにおけるドル保有高から見れば、円と元の協調が、アジア通貨安定にはたす意味は大きいし、台湾もくわえた「共同基金」構想は、中台問題解決の全く新しい枠組みの基礎ともなりうし、日米中の協調は、東北アジア安定化にも寄与する。問題は、それをなしうる日本自身の政治的意思であり、その政治アクションなのである。
金融改革をとっても、アメリカ的グローバル・スタンダード一辺倒の「開放」なのか、アジアの通貨安定を視野にいれたものなのかによって、改革の具体策の力点は違ってくるはずである。その意味でも、構造改革は「総論」の段階から具体的な政策・行動の問題になっている。
このなかで「平成日本の失敗と挫折の十年間」として自己切開する勇気を持った主権者の主体形成とは何か。そこから構えなおす「ハラのすわった」政治家の形成とは何か。大失業時代に生き抜く生活力と価値観をもっている国民の形成はどうか等、というところから、ホンモノの変革の志士と草莽崛決ー主権者革命のエネルギーを結集していく組織・運動論を編み上げていこう。