民主統一 227号 1998/3/1発行
政党政治の岩盤が動きはじめた/構造革命をおしすすめる政党政治を確立する闘いを可能にする情勢
「明るいドラマ」と「暗いロマン」/政党文明なき日本社会の二極分化はどこから始まっているのか
長野オリンピックでの日本選手の活躍は、さわやかな感動をもたらした。同じ時期、新聞では官僚や金融機関の不祥事、疑惑政治家の自殺、ナイフを使った少年犯罪の蔓延などが連日、報じられた。日本社会の明・暗の二極分化が、鮮やかなコントラストで浮き上がった。時代の問いや世界への飛躍に対するあくなき挑戦から生まれる「明るいドラマ」と、「内なる欲望」の肥大化の狂宴の裏にへばりついた「寂しい」存在という「暗いロマン」。二つの人間模様の対比は、戦後日本社会が抱え込んできた根本的な矛盾の象徴である。
長野で弾けていたのは、世界に挑戦し、時代の先端で自己を確立していこうとする前向きの、開かれた自己主張の笑顔であった。「日の丸」は、世界に向かって開かれたアイデンティティーから包摂されていたのである。国家にしろ個人にしろ、アイデンティティーは戦いとるものであって、安易に与えられたり、そこらへんに転がっていたりするものではない。より高い次元へ、時代のもっとも鋭い問いに、その領域では最も先進的な基準へと不断に自らの主体を問い、持てる力の全てを出して挑戦するからこそ、結果は「解放感」になる。破れてもそれは、より主体を問うための挑戦の課題が鮮明になったものとして受け止められる。そこには卑屈な敗北感も、歪んだ重圧感も、暗いロマンの孤独感もない。
「憂国」や「武士(もののふ)」というシンボル操作を必要とするのは、時代の問いに挑戦する戦いなき「後ろ向き」の自己主張である。そこにあるのは「内なる欲望」の肥大化(政治権力闘争として公開し、大衆化できない「政治」)と表裏一体の自己閉塞的な「暗いロマン」である。それに同調するのは戦後物欲世代を軸とする、一度の挑戦もなくして自信喪失する「存在の限りない軽さ」である。実生活での戦いや苦闘の裏打ちなきバブル人間形成では、破綻の痛みすらわからない。「やさしさ」と「甘やかし」のもたれあい、後ろ向きの自己主張から生じる歪んだ「競争」の陰惨さが、日々、未来の可能性を絞殺している。この「日本」に埋没する主体と、突き抜ける主体という二極分化が、極めて非政治的な形態で始まろうとしていることの象徴である。
政党政治の復興にむけて日本社会そのもののあり方を問う戦いは、ここから始まる。
金融ビッグ・バンをめぐる混乱は、政府と政治による権力の放棄にほかならず、政府そのものが信用不安に陥っていることが最大の問題であるが、こうした中から、国民の一部にも「自己責任」という概念が実生活で入りはじめようとしている。ここから護送船団方式、横並びという「日本型翼賛社会=主義」の政治経済社会構造に亀裂が入りはじめていくのである。
日本の「政治」は国家のマクロ・コントロール(国家としてのありかた、その政治的経済的枠組み)を「他人任せ」にしたままで、「不公正な平等」を維持するための分配に専念してきた。右肩上がりの中で国民もまた、「政治」に分配を要求してきた。しかし「大競争時代」の到来とともに、政治経済社会の構造改革なしには生き残れないという時代の荒波が、実生活をも容赦なく洗いはじめている。「生き残りの挑戦」にかけるのか、「死んだ者」に縋りついて延命を図るのか。実生活の主体分岐は、このように進行しはじめている。
自助努力、自己責任、健全な競争、公正な格差といったことが生活の一角に入りはじめたところから、永田町ー霞が関が照らしだされている。「公費助成」にますます依存する永田町、官金私消が後を絶たない霞が関。「リスクなき成長」の下での分配を謳歌してきたバブル社会。既得権益の維持に全力を傾ける「政治」の諸関係(永田町・霞が関と国民の関係)は、いまや「生き残りの挑戦」にかけざるをえない国民の生活の対極にある。
開かれた自己主張、夢を実現するための主体をかけた挑戦、時代の問いの中で生き抜こうとする力や希望繙こうしたエネルギーを糾合しうる政党政治なのか、それとも「生きる力」にいかなる意味でも立脚できない、「死んだ」ものに縋りつく「政治」なのか。ここから政治の実際が問われている。
政党政治の岩盤が動きだした繙「生き残りの挑戦」にかけざるをえない実生活の力と行動の中から、構造革命をおしすすめる政党政治を確立するための闘いを可能にする情勢が形成されはじめている。
「日本型翼賛社会=主義」の組織論と決別した変革の政党の組織論を
冷戦の終焉を前後するところから開始された人類的な戦いは、「国家相対化の時代」における国家・社会・人間の新しいありようをいかにして獲得するのかという性質のものであった。ヨーロッパにおいてはEU統合を軸として、アジアにおいては近代化や民主主義の発展をめぐって、アメリカにおいては「大国の自画像」や公共政策をめぐって。これらを貫いているのは、国家相対化の時代における国益のありようとは何であり、そこにおける国家および政府の役割と社会・国民の役割はどう規定されるのかといったことである。それらは社会のありよう、民主主義や市場経済のありようをめぐる国民的論議と政治権力闘争(政権交代や政党再編)として展開されてきた。
先進諸国と言われるなかでの唯一の例外は、他ならぬ日本である。今日の事態が示しているように、日本では抜本的改革ー構造革命を論じることが政治の自滅として帰結している。橋本改革の惨憺たる状況(その他の「改革派」の自滅も含めて)は、利益分配のみを自らの領域としてきた「政治」の総破綻であり、国家運営に係わる責任領域を突破しないかぎり、いかなる「改革」も実質あるものにはなりえないところに到達したことを示している。
株価の二極分化に見られるように、明らかに実生活の一角では、すでに「横並び」は崩壊している。いま問題となっているのは、生き残るために挑戦しようとするものに立脚するのか、それとも命の尽きたもの内部での再分配なのかということである。
昨年のAPECで日本に対しては、「アジア経済安定の防波堤」としての役割が求められた。それは二十一世紀にむけたこのアジア太平洋地域でのわが国の存在感は、このことを外してはありえないということを意味していた。しかし今回のG7蔵相・中央銀行総裁会議では、日本がアジア経済改革の足を引っ張っていることが名指しで明らかにされた。
アジア通貨危機の顕在化によって、わが国の財政・経済政策は、平時の改革問題から「危機管理」の問題へと移行したと同時に、国際的責務の一環ともなった。しかし景気対策や貸し渋り対策、金融システム安定化対策など「日本発の恐慌は引き起こさない」とする政策のどれもが、「リスクなき改革」という枠組みの中でのものである以上は、死せるもに生命維持装置をつけるための再分配へと帰結するのは当然である。
破綻という形であれ、「改革」という形であれ、「日本型翼賛社会=主義」の政治経済社会構造にはすでに亀裂が入りはじめている。問題はそこから生じる混乱や不安に「譲歩」して、「リスクなき改革」という虚構で合意形成をはかるのか、それとも「戦略的リスク管理」の合意形成をはかるのかである。
前者はいうまでもなく、死せるもの内部での再分配である。その道は、戦後築いてきたはずの「経済大国としての」位置や役割、「貢献」を、わずか半年足らずでアジア太平洋の「お荷物」へと変えてしまう道である。大胆な政治的リーダーシップの下で抜本的改革の合意を取り付け当面の局面打開をなしとげた韓国が、北東アジア安定の六カ国協力を呼びかけ(日本との間ではなく中国との間で)、中国が深刻な構造的不安定要因を抱えつつ元切り下げ回避に努力していることと対比すれば、そのことは明らかである。
この間の長期にわたる低金利にもかかわらず不良債権問題が一向に改善せず、巨額の財政出動が経済の体力強化に結びついてこなかったのは、「日本型翼賛社会=主義」の「マイナスのスパイラル」に手をつけない彌縫策だからである。この繰り返しでは、当面の景気対策も、抜本的な構造改革も一歩も前に進まず、生き残りのための挑戦すらも死せるものの延命のために再分配されるというのが、現在の閉塞状況である。
金融ビッグ・バンを前にして、わが国ではレース開始前にけが人続出というのが実情である。だが金融ビッグ・バンはほんの始まりにすぎない。さらに大きな、国際的な金融再編レースがすでに展開されている。当面の金融安定化対策を、ここまでの生き残りと挑戦のためのリスク管理として使いこなせるか、それとも日本社会の「安定」の維持(日本型翼賛社会=主義の維持と読め)のために食いつぶすのか。はっきりしていることは、この大再編での生き残りに挑戦すること抜きに、どんな「攘夷論」をぶったところで、投機的国際金融資本に対するいかなるコントロールの主体性も獲得できはしないということである。
市場経済における社会的セーフティーネットとは、政府の「リスク保証」のことではない。それは本質的には、「信用」や「信任」にかかわる社会自身の自己管理のことである。この点での自助努力が欠落した経済社会が、市場から淘汰されている。
国民のすべてを納得させるような「改革」の合意はありえない。「リスクなき改革」は虚構であることを言い切れるためには、政治は自己責任や自助努力が生活では前提になっている国民を基準にしなければならない。そこから「日本型翼賛社会=主義」の構造にどこからどう手をつけていくのか、その過程でのリスク管理をどう行っていくのかということなのである。このリスク管理は当然のことながら、わが国一国内部の事情だけからではなく、アジア太平洋の「希望の見える不安定性」におけるリスク管理とも連動する。
構造改革の戦略的な目的、方向はどこにあるのか、そのための構造的なリスクはどこに存在しているのか、希望の見える不安定性と出口の見えない危機の峻別、生き残りの挑戦のためのリスクと死せるものの延命のための「ムダ金」の峻別といったことがはっきりすればするほど(政治がそれをはっきりさせればさせるほど)、抜本的な改革は自己責任が前提になった国民に新たなチャンスを提供し、構造革命をおしすすめる政党建設の闘いの基礎をつくりだすはずである。