「がんばろう、日本!」国民協議会第三回大会(04.5.23)基調

日本再生の戦略と政治意思を
〜リーダーの矜持、フォロワーの決断〜

□マニフェスト政治文化と二大政党の定着にむけて
「底を打つ」ことこそが問われている
―小泉政権三年間の総括―

  小泉政権の三年間をどのように総括すべきか。
 小泉政権が誕生した〇一年、「がんばろう、日本!」国民協議会第一回大会(01年9月23日)は、小泉「疑似」改革政権を誕生させた国民の選択は歴史的意味で誤りであること、そして有権者自らが「主権者としての自覚と責任」からこの誤りを問い、そこから脱却するための舞台として小泉「疑似」改革をめぐる諸分解を使いきろう、と提起した。
 小泉改革の「疑似」たる所以は、命脈が尽きつつある自民党政治=依存と分配・政官業の癒着構造=が、自らの延命のためにも「改革」の看板を掲げざるをえなくなった、ということである。言い換えればこれが「疑似」の枠に収まらなくなるのは、ひとつはこの改革が「棄民」という性格に帰着し、従来の自民党政治の基盤からも「これではやっていけない」という離脱が始まるときであり、いまひとつは有権者が主権者としての自覚へと脱皮するときである(「疑似」から脱皮する主権者革命)。
 三年を過ぎた小泉政権をめぐる風景は、どのようなものか。
 「景気は回復しつつある」といわれるが、「構造改革なくして景気回復なし」というスローガン一辺倒―不作為の政治(政治が為すべきことをしない)が生み出したのは、「雇用なき景気回復」に象徴されるような二極化ではないのか。「改善」した失業率の数字の裏には、もはや仕事に就くこと自体をあきらめてしまった人々(とりわけ若年層)が存在している。国民年金の未納率四割の本質も、「就職も決まらないし、五年先のことさえわからないのに、五十年先のために今からカネなんか払えませんよ」という次世代の問題である。
   ここに届くような改革論議が、この三年間、どれほど行われてきただろうか。ネッセという社会学者は「希望は努力が報われるという見通しを持つとき生じ、絶望は努力が無駄であるという見通しを持つときに生じる」と主張している。「努力が報われない」と若者が感じてしまう社会を一方に生み出す政治を、失政・棄民政治と言わずして何と言うか。
それにもかかわらず、小泉政権の支持率は相変わらず高い。新聞各社の世論調査によれば、小泉政権の支持構造は「政策は評価しないが、内閣は支持する」という“奇妙な”ものである。ここに、「疑似」から脱皮する主権者革命のカギがある。
 「疑似」から脱皮する主権者革命の組織戦としてこの三年間を総括するうえで、きわめて重要な画期となったのは、昨年の総選挙が曲がりなりにもマニフェスト(政権公約)による政権選択選挙の形式となったことであった。その意味するところは、政党の政策を判断基準として投票する有権者が生まれたことであり、政党の公約とは「何を言っているか」以上に「全党が一致して約束を守るか」にあることが、理解され始めたことである。つまりマニフェスト(その政治文化)が問うのは、政策を軸にした責任(政党には政策による紀律化を、有権者には脱無党派の試練を求める)なのである。
 だからこそ「政策は評価しないが政権は支持する」という小泉支持構造の性格は、より鮮明になる。これは「政策がわからない」とか「政策なんか関係ない」という性格ではもはやなく、「責任を問わない」ことを自覚した構造である、ということになる。(政策の評価はきわめて低く、答弁についても「すりかえ、ごまかしが多い」と50パーセントが感じ、憲法など基本政策が異なる自公の連立は「問題だ」と55パーセントが考えているにもかかわらず、「小泉政権を支持する」が60パーセント。読売4/24)

 ここにマニフェストの政治文化をいかに定着させていくか。「疑似」から脱皮する主権者革命の組織戦は、この渦中にある。重ねて言えば、マニフェストを軸に「自らの判断の根拠とその責任を自覚する」という有権者が生まれてきたからこそ―国民主権の責任意識が一歩前進したからこそ、この無責任構造を問うという課題がわれわれの前に提起されているのである。
 年金国会はその「格好の」舞台となった。「格好の」という意味は、マニフェストの政治文化を定着させていくための教訓が、きわめて具体的に見えてきたということである。
 年金問題は昨年の総選挙で、有権者の関心がもっとも高いテーマであった。しかし与野党のマニフェストは、国民に選択肢を示すにはほど遠かった。その第一義的責任は与党にある。連立を前提に選挙を戦った自民党と公明党は統一したマニフェストを提示せず、年金に関しては公明党が前面に掲げながら、自民党は最後までマニフェストにすることを逃げた。その結果、選挙後の短時間に予算編成に間に合わせる形で「改革案」がトタバタとまとめられ、しかもその程度のものを「百年安心」と大見得を切ってみせるということになったのである。ここから、年金審議における与党の答弁はきわめてずさんなものとなり、論理破綻を取り繕うだけのものとなっていった。
 さらに閣僚・議員の「未納・未加入」問題が、事態を根底から揺るがした。本質的に問われたのは、立法に携わる公職にある者が一国民としての義務を果たしているのか、ということである。同時にここには、「年金には関心があるが、政治には無関心」(自分はトクかソンかで全てを見ている)というマニフェストの政治文化には縁遠い人々も、大量に参入してくることになった。
   これは旧来の政策論争の枠では統治不能であり、「底が抜けた」「騒動」としかとらえられない事態である。与党はもっぱら、「トクかソンか」「いくらもらえるか」に終始した。どういう層を対象に訴えているかは明らかである。しかし少なくない国民は「『トクかソンか』ではなく、これは国民としての義務でしょう?」と問い返し、「だから政府や国会議員としての責任はどうするんですか?」と問うた。国民の分岐は、自己責任と国民主権の線に沿って走り始めたのである。
ここで、国民主権・マニフェストの政治文化の定着という側からのガバナンス能力が即座の実践として問われ、二大政党の一翼を担うべき民主党自身の「備えのなさ」(マニフェストの政治文化が定着しきれていない)が露呈することになる。
 「未納・未加入」問題は本質的に一国民としての義務を問うものであるから、「あなたは一国民としての義務をはたしているのか」という問いが、国民にも跳ね返ってくる。「だから政治家なんて信用できない」という政治不信を正当化することは、「選挙で政権を選ぶ」という一国民の務めを放棄することではないのかと。われわれはこのように、前述したような小泉支持基盤の構造に問いかけていった。
(「がんばろう、日本!」国民協議会の要綱の第一項は「国民主権の必要条件は投票権を正しく行使することである。リーダーの真似事をしたり、リーダーを評論したりすることだと勘違いしているところには、国民意識は育たない。またリーダーを選ぶ『フォロワーとしての責任』に立脚せずして、被選挙権を正しく発動することもできないのは当然である」となっている。この意味を繰り返し、確認していただきたい。)
 

 マニフェストとは「国民との契約」である。一国民としての義務を果たすという共通の土台に立ってはじめて、選挙での公約は意味をなすし、マニフェストに基づいて政権を選択する有権者としての責任が可能になる。いいかえれば、「政策は評価しないが政権は支持する」という構造では、こうした有権者としての責任は生まれないし、その基礎では一国民としての責任が「底抜け」になってはいないか、ということである。
 ここにマニフェストを持ち込んでも、無党派対策以上のものにはならない。現に「小泉マニフェスト」の効用は都市部の無党派の支持を獲得したところにあり、このスタイルは「しがらみのない素人の私が自民党を変えます!」という埼玉8区での補選=若い公募候補=でも有効に機能している。そして民主党のなかにも、これと同等の理解が少なくない。無党派対策というレベルでは、「政策は評価しないが、政権は支持する」という構造が大量に生まれてくるということである。
 昨年の総選挙はマニフェスト元年であったが、半年を経て今、ここを問うところから、マニフェストの政治文化を定着させるための「底を打つ」ことこそが問われている。年金ドミノ政局が、リクルート事件のような政界総ぐるみの政治不信に発展していないのは、やはりマニフェストを自覚した有権者が生まれ、二大政党という枠組みができたからこそである。問題はこれをいかに定着させていくか。参議院選挙を、その第一関門として迎え撃つことである。
   年金にかなり関心があり、昨年の総選挙では与野党のマニフェストも見たことがあり、与党が年金でマニフェストを出していないことも知らないわけではなく、それでも「小泉マニフェスト」に一票を投じ、そして今の年金改革には「納得できない」と考えている有権者には、それをマニフェストに基づいて説明するように求め、またそれを援助し促進していかなければならない。
 小泉政権を支持するにせよ、支持しないにせよ、それをマニフェストに基づいて説明する。そのような政治文化を定着させていく主権者運動の組織戦によって、国民主権の「底」を打つこと、これが「バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者」の協働の課題である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

□主権移譲を控えて混迷を深めるイラク情勢、北朝鮮カードを切る小泉総理の危険な賭け
―アメリカ単独主義の行き詰まりのなかで、大局を見誤らないわが国の道を―

 国際秩序形成をめぐる風景は、「大きな粉塵に包まれ」(中西寛氏「中央公論」6月号)たままである。9.11同時テロ直後に開催された第一回大会においてわれわれは、グローバル化の“影”をいかに再統治するか、ここにおけるわが国の役割とは何かと提起し、「地球共生国家日本」としての国家戦略が必要であると提起した。
 今われわれが立ち向かっているのは、十九世紀から二十世紀にかけて、国民国家を基本単位として構築されてきた国際秩序や価値観のある種の「崩壊」である。テロと大量破壊兵器の拡散が、新しい時代の世界共通の脅威であることは合意されつつあるが、これに有効に対処する枠組みを、まだわれわれは持っていない。それどころか、イラクにおける米軍の虐待は、戦後国際社会で維持されてきたアメリカの威信の崩落さえ予感させる。テロと大量破壊兵器の拡散に対抗するという、きわめて長期にわたる戦いの時代の最初の一歩をわれわれは踏み出したにすぎないのである。
イラク戦争が「やむをえない戦争」であったのは、テロと大量破壊兵器の拡散の脅威に対する他の対処方法はありえたのか? ということであり、それと占領統治の失敗(とても「なんとかうまくやっている」とはいえない)とは別の問題である。地獄の扉を開けなければならない時に、「大義があるか」「最善の方法か」と言って、扉を開けること自体を先送りするのは、あまりよい知恵とはいえない。先制攻撃という方法で地獄の扉を蹴
  破ったことがよかったのかどうかは、歴史的スパンからしか判断できない問題である。
 イラク統治では本格的に、アメリカの単独主義の行き詰まりが露呈している。だが問題は、アメリカが撤退すれば済むというものではないことは明らかだ。イラクに安定した秩序と正統な政府をつくりだすために、何が必要なのか。戦争の正当性や大義、占領統治への参画の是非(わが国では自衛隊派兵の是非)をめぐる段階から、問題設定は大きく変わっており、これに対応した論議がどれほど展開できるのかが、バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者に問われる。(「自衛隊派兵の是非」という窓からのみイラク問題を議論したつもりになる、という空間を終わりにする) 
 アメリカ単独主義の行き詰まりという問題は、ケリーが大統領になったら…というレベルの問題ではなく、アメリカという図抜けた超大国が世界と安定的に関わりをもつようにするためには…という、新しい時代の「難題」である。ここが見えて「日米同盟」を言うのと、ここが見えずに「日米基軸」をいうのとでは、国益の定義も国家戦略も全く違ってくる。当然、「中国の台頭」に対する戦略対応も全く違ってくるし、FTAを始めとする東アジアの経済統合に対する戦略も違ってくる。
 アメリカという図抜けた超大国が世界と安定的に関わりをもつようにすることと、わが国の国益とを結びつける戦略は当然、日米同盟の再設計であり、同時に東アジアの経済統合を視野に、ここで日中関係の再設計もリンクさせるということになる。わが国は米中の間に割り込んだり、大国として競うという道(戦前の「国策の誤り」)をとらない以上、それは外交経済戦略ということになる。このことが分かって防衛・安全保障を再構築するのと、それがなくて集団的自衛権をあれこれいうのとでは全く

違ってくる。
 アメリカの単独主義が本格的に行き詰まるとは、こうした東アジア戦略―日米同盟・日中関係の再設計―外交経済統合戦略を、日本再生のための行動に移す舞台の幕が開くということにほかならない。
 冷戦の終焉とは、人類史上初めて、単一の世界市場―グローバル市場が生まれたことを意味する。それは同時に大変な格差―光と影の二極化の進行でもあった。グローバル市場のなかで一身に光を集め、一人勝ちしていたかに見えたアメリカに深い影を落としたのが9.11である。そしてグローバル化の恩恵を最大限に引き出している中国も、光とともに深刻になる一方の影を抱え込んでいる。この両方と、上手に付き合うことができなければ、わが国の国益は確保できない。このような時代環境のなかで、日本を再生させていくことが問われている。
 これはグローバル化の影をいかに再統治するか―国内的には二極化をいかに是正するかという問題であり、新たな公正(社会的公正)・公益を国境を超えていかに共有していくのか、という問題にほかならない。よい市場にはよい統治が必要である。国境を超えたグローバル市場が弱肉強食では、“影”を再統治することはできない。グローバル化のなかにおける新たな社会的公正とは何か、市場の秩序や社会的市場とは何か、市民社会のモラルや価値観とは何か。東アジアにうまれつつある経済統合のなかでは、こうしたことが問われてくる。
 それは欧米において、国民国家の枠組みとともに蓄積されてきたものとは、歴史的な様相を異にしつつ、自由、民主主義、市場経済といった価値を「近代」の枠組みを超えて成熟させていく挑戦である。このような国境を超えた課題へのアプローチ、グローバル化の“影”を再統治する試みは、アメリカの単独主義に「自制」を促し、戦略的な対話を行っていくための重要な仕掛けでもある。
   東アジアにうまれつつある経済統合、その基礎にある市民社会の形成を視野にいれること抜きに東アジア戦略はありえないし、そのことが見えなければ、日米同盟を維持することさえ難しくなるだろう。「恐怖との戦争」の時代(中西寛氏)にアメリカの圧倒的な軍事力が必要であるのは言うまでもないが、重要なのはそれと「上手に」付き合う知恵とすべである。
 あるいは年金問題を始めとする、少子高齢化、環境と経済発展の問題など、「持続可能性」や「定常化」といった、これからの社会ビジョン・制度設計にかかわるモデルをわが国が提示できるかどうかは、わが国の再生にとってはむろんのこと、わが国が「課題先進国」としてのポジションを東アジアにおいて獲得できるか、ということにも大きく関わってくる。これらは、パイの拡大を競うという近代の発展(俗に言う右肩上がり)とは異なる時代の課題である。ここで「国家観」「歴史観」が試されている。旧きよき時代の島国的国家観では、こうした課題にはとても対応できない。
 また日本はもちろん、台湾や韓国、さらには中国も含めて、対外関係において民意の成熟・その社会の質がより鮮明に問われる時代になっている。グローバル化はアイデンティティーの模索と不可分であるが、自国の近現代史を再解釈することによってアイデンティティーを確立しようとすれば、北東アジアではゼロ・サム・ゲームになり、他者のアイデンティティーを否定して自己のアイデンティティーを確立しようということになる。近代の枠内の国家観、歴史観(旧きよき時代の島国的国家観)では、この隘路を打開することはできない。
 ここでもまた、新たな時代の課題―グローバル化の影を再統治する―新たな公正とは何かというところから、東アジア戦略と日本再生の課題を行動に移すことが問われている。
 (李鍾元・立教大学教授の講演参照)
 

 そのためにも国民意識の成熟が不可欠である。民主主義国家においては、外交も一部のエリートだけがコントロールするものではなく、「世論」に左右されるのは当然である。だからこそ今回の小泉総理再訪朝のような、国内政局をからめた外交はきわめて危険である。これが政権の支持率上昇につながるのか否か、民意の成熟こそが試される。
 わが国の二大政党制の最初の試みは、戦前、1920―30年代の民政党と政友会の時代であった。もちろん当時の普通選挙権は男子のみであり、主権は天皇にあったが。第一次大戦後の国際秩序形成をめぐって国際社会が激動のなかにあったこの時期、わが国は戦後の不況と国際恐慌のあおりをうけ、政党が民意を集約できない閉塞感から台頭してきた軍部によって、「国際協調」路線と政党政治が否定され、大東亜戦争へと続く道を転がり落ちていくことになる。
 当時と今とをアナロジーすること自体にはさほど意味はないが、しかしわれわれは歴史の失敗には繰り返し学ぶべきであろう。当時と今とで、民意はどれほど成熟しているのか。主権者運動というからには、ここをしかと問い、「底を打つ」ことが求められることは言うまでもないだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  □マニフェストの政治文化を定着させる主権者運動の力で参院選を! 
―政権交代への「胸つき八丁」はここから拓ける―

 総選挙においてマニフェスト(政権公約)が導入され、政党政治が新しい時代に入ったことによって、来る参院選は政権の「中間評価」という位置付けがなされるべきである。過去においては参議院選挙の結果によって首相の交代(自民党総裁の交代→首相の交代)や連立政権の組み替えが行われることがたびたびあった。しかしこれでは、第一院である衆議院選挙で政権を選ぶという議員内閣制本来の原則を定着させていくことはできない。マニフェストの導入はまさに、こうした議院内閣制の原則を機能させるためのものである。
 それでは参議院選挙において、民意はどのように反映されるべきなのか。衆議院の総選挙が政権選択選挙であるなら、参議院選挙は政権選択選挙から次の政権選択選挙までの「中間選挙」として位置付けることが適切であろう。つまり「小泉マニフェスト」の中間評価であって、政権交代を争う選挙ではないということである。
 したがって与党には、先の総選挙で掲げた「小泉マニフェスト」の進捗状況の真摯な検証が求められる。「93パーセント動きはじめている」(自民党ポスター)と言うが、民間の研究機関の評価は軒並みもっと低い。評価に大きな開きがでる原因のひとつは、掲げられた公約が達成度を測りにくいものが多いことである。参議院選挙にむけて新しいマニフェストをつくるよりも、総選挙の「小泉マニフェスト」であいまいだった点、抽象的だった点について、どれだけ検証可能なものにできるか。これが与党の課題である。

 典型的には「年金」で、自民・公明は統一したマニフェストを提示しなかった。これだけ国民の関心が集まっているのであるから、参議院選挙に際しては最低、年金については与党の統一マニフェストを提示すべきである。そうでなければ(一元化を視野にいれるとした)「三党合意」を履行する意思は、与党にはないということになる。
 そして与党のマニフェストの達成度は、どのような形の法案になったのかによって図られるべきであって、「総理がこう言った」「審議会ができた」といったことでは、法案を成立させられる与党としては責任逃れというべきである。
 野党にとってはどうか。野党の第一義的な役割は、「小泉マニフェスト」の徹底した検証である。とくに今国会は、これまでスローガンでしかなかった「小泉改革」が具体的な法案として提出されたものであり、これを検証し問題点を国民に提示することが求められた。
これは五十五年体制の万年野党のような「批判のための批判」や「敵失を突く」ということではない。イラク問題では開戦の是非(第一段階)、自衛隊派兵の是非(第二段階)を超えた統治のあり方をめぐる論議(第三段階)での問題設定と統治能力が問われ、年金問題では先に述べたような、国民主権の「底を打つ」ための問題設定と統治能力が問われた。これを通じて、野党第一党の政権担当能力が試されていくのである。
そして政権をとれなかった野党のマニフェストは、どこが不十分だったのかを徹底して検証すること、それをすべて国民にオープンにしていくことで深化していくことである。それは単に政策の書き方の問題ではなく、それを訴える人や組織のありかたを含めた検証である。
   与野党とも、選挙向けに何か新しいマニフェストを作る、というような小手先の奇策を弄するべきではない。目新しいことで耳目を集めるという手法(びっくり箱方式)は、有権者を愚弄するものでしかない。
 マニフェストの政治文化を定着させていくためには、さまざまなインフラ整備が必要である。21世紀臨調が提唱している民間機関によるマニフェストの検証もその一環として重要であるが、われわれはマニフェストの政治文化を定着させるための主権者運動として、その一翼を担うものである。先述したような「政策は評価しないが政権は支持する」という国民意識の構造に、マニフェストの責任意識(有権者の責任意識)を植え付けていく主権者運動であり、マニフェストの政治文化にふさわしい候補者や議員(バッジをつけた主権者)を育成し、そうした主権者の顔が見える逆マニフェストを提唱するまでの主権者運動の力が必要であると考える。
たとえば埼玉8区の補選では、若い公募候補が「しがらみのない素人の私が自民党を変えます」と言って当選した。これは三年前の総裁選・参院選での「自民党をぶっ潰す〜」という小泉総理の絶叫と同じ光景である。ここではマニフェストは、無党派対策でしかない。これが今の自民党の延命策(公明票でも足りない分を補う方法)である。
 これが可能になっているのは一方で、「ただの人をただの人として国会に送り込むことが改革だ」という勘違いが、とくに都市部の有権者のなかにはまだあるからだ。ここは「政策は評価しないが政権は支持する」という層とかなり重なるはずである。
 「ただの人をただの人として国会に送り込む」ことの誤りを自覚する―マニフェストの政治文化の定着は、それを体現する

「バッジをつけた主権者」と「バッジをつけない主権者」が具体的な“人”として見えてくるに応じて可能である。だからこそ、「バッジをつけない主権者」も「バッジをつけた主権者」も“人”の要素、パブリックの人間性が問われることになる。
 とくに二大政党制で政権交代が機能するためには、こうしたパブリックの人材を広く育成し、擁立していく政党自身の自己改革―新陳代謝が行われていくことが必要であり、そうした公正でオープンな党運営がますます求められることになる。
世襲議員が多数を占める自民党では、公募候補が「自民党をぶっ潰す」と言えば党改革になるが、民主党ではそうはいかない。二大政党で政権交代ということが少し見えてくると、有権者のほうが、民主党は本当に統治能力があるのかというところから見るようになってくる。「統治能力はどうなんですか」「年金のマニフェストはどこが自民党と違うんですか」と。それに答えられない候補者や現職がいる。ここが固定化されるようでは、二大政党で政権交代という政治のダイナミズムは働かない。
 「バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者」が協働して、政党本位・政策本位のドブ板活動を継続・蓄積し、マニフェストの政治文化にふさわしい人材を育成していくことによってこそ、政権交代への「胸つき八丁」に向かう道は拓ける。「バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者」の公共性とガバナンスをめぐる協働関係を創造する場の育成として、「がんばろう、日本!」国民協議会のいっそうの役割をはたしていこう。
  (注1)
 「年金」については、「本来論議されるべきこと」が今回はほぼ飛んでしまったが、これは文字通り、マニフェストの政治文化の定着がどこまでか、という現状としてとらえる以外にはないと考える。どんなに「高尚」で「先を見通した」政策論であっても、国民に届かなければ政治的には意味はないし、年金のような全ての国民の人生設計にかかわる問題は、国民の納得が得られなければ、どんなに立派な完成度の高い制度設計でも失敗するであろう。その意味でも、「国民としての義務」という底を打った上で、与野党の問題設定の違いを選挙で決着をつけることが必要であろう。その上で、国民に開かれた真摯な議論が求められる。その際には、「人口減」「定常化」といった次の時代のパラタイムから十分な議論がなされるべきであろう。
この視点については、配布資料にある第55回定例講演会での枝野幸男議員の講演を参照されるとともに、第58回定例講演会にその内容を引き継ぎたい。

第58回定例講演会 「人口減時代の社会保障のありかたと定常型社会」
広井良典・千葉大学教授 
7月27日(火)午後6時30分より     総評会館 203室