日本再生−国家的転換の時代を回す、主権者の自覚をさらに!
「がんばろう、日本!」国民協議会運動を興そう!
「がんばろう、日本!」国民協議会の呼びかけ ――9.19シンポジウム報告集より
自らに対する信念と矜持なくして、日本再生はありえない!
国家と政党政治に対する忌避と歪みを是正する戦いからこそ、日本再生への糸口は開かれる
9・19シンポジウムの主催者あいさつ(民主統一同盟・戸田代表)は、「国家と政党政治に対する忌避および卑俗化を是正せずして、日本再生の大道はありうるか」と問うた。
そして国家観念を過度に強調した戦前の国家至上主義も、「国家=悪、個人=善」として国家を忌避した戦後も、自立した国民を生み出さなかったという意味で、どちらも歪んでいること。そして「無条件降伏後遺症」とでもいうべき戦後の呪縛に、主体的にケジメをつけるところからこそ、日本再生の原動力たる“自らに対する信念と矜持”が生まれること。この誇りある生き方をもって、国家的転換の時代を回す主権者運動たる「がんばろう、日本!」国民協議会運動を興していこうとよびかけた。
会場には、「まさにそのとおり」という、打てば響くような一体感が醸し出され、続く森本敏氏の講演、パネルディスカッション、さらには懇親会へと、その一体感は多様性をもって拡がっていった。
まさにそれは、「戦後」の歩み方は違えども、基本的に社会・家庭を支え、まじめに働いてきた人々が、その歩み方の違いを越えて、日本再生に向けた「精神的起点」を共有した場であった。シンポジウムのタイトル「がんばろう!日本!!」はそのエール交換であり、サブタイトルの「問われる日本国民」は共通の土台であった。
国家や社会が衰退する究極の要因は、あれこれの外的な条件の変化やシステムの不調にあるのではなく、自らの「内なる虚ろ」にある。それゆえに、日本再生のためには何よりも、自らに対する信念と矜持を獲得することが不可欠なのである。
主催者あいさつではこのことを、戦艦大和で散った若き士官の「負けて目覚める。それ以外に日本が救われるか」との言葉を、「第二の敗戦」に際して再び聞く(聞かざるをえない)ところから、日本再生への国民的覚醒が始まったと述べた。そしてその覚醒の基軸を、「負けて目覚める」ことによって自覚した自由と民主主義を血肉化すること、すなわち戦後日本の、国家と政党政治に対する歪みと忌避を是正する―国民主権に「魂を入れる」こととして提起した。
「負けて目覚める」ことによって自覚した自由と民主主義を血肉化するとは何か。それは自由や民主主義を無国籍的なものとして取得し、欲望民主主義に行き着いた戦後の呪縛にケジメをつける(清算すべきものを清算する)とともに、伝統的文化共同体としての日本、世界に開かれた独立自尊の国民精神を獲得する(守るべきもの、継承すべきもの)、さらに二十一世紀にむかって付け加えるべきもの―地球共生国家日本―を明らかにするということである。
本報告集「総括」の章にも明らかなように、戦後社会を支えてきた人々の層が、「第二の敗戦」を契機に、“大人としての責任の取り方”“大人としての生き方”を自らに問い始めた。その過程は、「戦後」の歩み方の違いに照応して十人十色であるが、日本再生に向けた精神は、前述した内容に統合されよう。
そしてこうした“時代の課題と格闘する”大人の姿―生きざまを見せることでしか、平成日本の「虚ろ世代」の若者に、何かを教えることはできないのも、事実である。
『この時代の戦場で、いかに生き、いかに死すべきか』。会場の中軸を占めた責任世代の一体感は、このようにも表現されるであろう。
かくして、日本再生のための国民的覚醒をおしすすめる「がんばろう、日本!」国民協議会の国民運動は提唱された。
日本再生にむけた国民的覚醒をおしすすめる、平成の時代精神を創造しよう!
「第二の敗戦」―国家的危機意識と有権者の一部の覚醒は、わが国の政治に新しい局面を開きつつある。すなわち「国のありよう」「日本の再生」をめぐる、政治家・政党と有権者との、これまでになかった緊張関係―リーダーとフォロワーとの関係である。
昨年の10・10シンポジウムではこのことを、「国家の命運に責任を持つべき政治家の職責に対して『日々の生活のことしか考えない庶民と同じに考えるのが民主主義』と信じて疑わない戦後日本の国民こそが問われている」(同シンポジウム報告集)と述べた。
そして今回、9・19シンポジウムでは、「国や社会が危機に瀕している時には、自分の主張や好き嫌いではなく、全体の利益のために投票するのが有権者の務め」とするところから、日本再生のために次期政権で何をどこまで、どう問うのかという政権問題への能動的参加が促進された。
「国のありよう」「日本の再生」をめぐる、政治家・政党と有権者との緊張関係―キャッチボールができる以前と、それが生まれはじめた後とでは、政治の風景は大きく変わる。
例えば九月十九日をはさんで展開された自民党総裁選、民主党代表選では、憲法や安全保障など、戦後のタブーにかかわる問題が論点となった。未だに不十分さは否めないが、それに踏み込むことによって、旧来の「政策の違い」はむしろ大幅に狭まってきた。
じつは今日、先進国において重要なのは、単なる政策提示能力ではなく、明確な国家像の提示能力であり、この国家ビジョンと現実の政策がどのようにつながるのかを説得できる能力であると言われている。自民党総裁選、民主党代表選は、曲がりなりにも「国家像」を提示することなしに、永田町のリーダー選びはできないところまで、ようやく到達したということでもあった。
だからこそ、われわれはこう問わねばならない。
国家像・国家意識は、明確な歴史意識なしにはありえない。歴史意識なき「国家像」とは所詮、「無国籍」的な「虚ろ」なものでしかない。
しからば歴史意識とは何か。それはその民族、国家、社会に連綿と連なる「変わらぬなにものか」であり、一度や二度の戦争での勝ち負けによって暴発したり、喪失したりするようなシロモノではない。「右」とか「左」という、歴史から見ればほんの一時のモノサシで測れるような「歴史」は、時々の力関係で御都合主義的に書き換えられるだけである。時流に合わせて復古趣味に走ったり、「最新の」変化に迎合したりすることのない、確固たる歴史意識の根を持つものだけが、開かれた自立した主体性を持つことができるのである。
人間社会には、直接の利害や個人の生存を越えた、目に見えない偉大な価値や権威が存在している。そのために個人が時として犠牲を甘受し、社会はその価値を畏敬して、社会の安定と秩序と発展が導かれる。個人はもとより、長い歴史から見ればほんの一時でしかない、それぞれの時期の「国家」をも超えて、連綿と受け継がれる“変わらぬなにものか”。それこそが、“日本の日本たる所以”である。
“日本の日本たる所以”を、平成の時代精神―日本再生のための国民意識の覚醒として呼び起こすことができるのかどうか。改革のフロンティアはそこにある。
憲法問題の核心も、ここにある。「頑迷な護憲」「頑迷な改憲」のいずれをも超えて、国民主権の発揚として憲法改正を論じる(創憲)ことは、すでにコンセンサスとなりつつある。主催者あいさつでも述べたように、ある憲法秩序を根底的に否定・転覆する革命憲法を制定するのでないなら、憲法の定める基本秩序を擁護し発展させるためには憲法改正が必要とされる、ということは「常識」となりつつある。言い換えれば、憲法改正を論じることの是非が問題なのではなく、現行憲法の基本秩序・原則をより発展・整備するものとして、いかなる憲法を創るのか、という段階に入っているということである。
ここで重要なことは、条文の形に集約される部分のみならず、より決定的には条文の形にはならない「運用の指針」としての時代精神の創造―国民意識の覚醒を伴って憲法を論じるのでなければ、いかなる憲法を創るのかという論議に入らないための「論憲」に止まる結果となるだろう、ということである。
逆に言えば、国民意識の覚醒が広範に起これば、敗戦の廃墟の中から今日までを、曲がりなりにも支えてきた日本国民の中に、自由や民主主義、平和の価値観は血肉化されていること、その上にたって地球共生国家としての公正な国家運営にあたることができることを、自己証明できるはずである。
自らに対する信念と矜持。それこそが問われている。それを、あれこれの目の前の力関係を理由にあいまいにするところから(例えば、憲法改正内容についての国民合意ができていない、とか、中国あるいは米国の不信、警戒を招くから等)、「内なる虚ろ」が肥大化していくのである。
国家に対する忌避と依存の表裏一体の構造に、
政党政治の領域でケジメをつけずして、国家的転換は可能か?
もう一つ、明確にしておかなければならないことは、国家と政党政治に対する忌避と歪みは、国家への依存・政治へのタカリと表裏一体だということである。
無条件降伏後遺症は、「一億総懺悔」によって統治の責任、政治の責任を上から下まであいまいにするということでもある。現在の国家的な危機は、国家意識(日本の日本たる所以)の空洞化であると同時に、過度の国家への依存によるものでもある。
しばしば「日本型社会主義」と言われたり、「省庁連邦国家」などと言われたりする日本のシステムを改革しなければならないと、誰もが言う。しかし多くの場合、ここで論じられている「国家」「国家像」というのは、行政権力のことである。ここでいう「国家」には、伝統的文化共同体としての国家や国民意識(アイデンティティー)という側面は抜け落ちており、したがって国家意識の強調に対してはつねに「国家主義の危険性」を指摘するとなる。
だが、「内なる虚ろ」にケジメをつけ、開かれたナショナル・アイデンティティーを獲得することなしに(国民意識の覚醒なしに)、本当の意味で自立した国民と経済社会を再構築することはできないことは、ここまでに述べてきたとおりである。改革は、そのエネルギーをどこから、どうつくるのかということなしには、どんな立派なプランでも、現状との妥協・癒着に帰結する。そして中途半端な「改革」は、むしろそれ以前よりも事態を悪化させかねない。
一方でつねに、「国家主義の危険性」は存在する。それは戦前回帰的な復古趣味の問題からではない。「省庁連邦国家」と言われるような統治機構をそのまま受け取って、それに「国家的アイデンティティー」を接木するような改革のシナリオから、それは生まれる。すなわち、国家統治と政党政治の領域で、戦後の虚ろおよび戦前の「国策の誤り」にケジメをつけるということを「忘れる」ところから、それは派生するのである。
よい統治とは何か。二十一世紀に向かって、ヒト・モノ・カネ・情報はますます国境を超えて移動するだろう。しかし国家至上主義の時代は終わりつつあるとは言えなお、国家は死滅も消失もしないし、その役割は確固たるものがある。
なぜなら、よい市場にはよい統治が必要であり、よい統治を担保することができるのは、今のところ国家以外にないからである。つまり国家の役割は、治安の維持や安全の確保および基本的な国民生活の保障と同時に、公正な秩序の担保者でなければならないということである。(公正な秩序という中に、市民的自由と法に基づく秩序のほかに、新たに地球共生とか、国際協調などが加えられうるし、ますます「地球益と国益をむすびつける」公正さが要求されるだろう)。
市場の原理は競争と自己責任(リスク管理)であり、国家ができるのはそのための公正なルールを担保することだけであり、逆に言えば、それ以外は市場に任せるべきなのである。「日本型社会主義」は、その逆であったことはすでに明らかである。
そして市民社会の原理は、市民的自由と法に基づく秩序を維持するための権利と義務、および共同(協同)である。市民社会の自立ではなく、依存を育成するのは、「わるい統治」である。
したがって、「小さな政府がいいか、どうか」(表向き「大きな政府」を主張する政党は基本的になくなったので)、ということではなく、よい統治とは何であり、わるい統治とは何なのかということなのである。
きわめて乱暴に言えば、(1)国家像、憲法、国のありようを論じるところに入ったが、それが歴史意識や伝統的文化共同体としての国家・国民意識というものに根ざしているのかどうか。それが抜けて、行政権力としての国家を論じているにすぎないのかどうか。
(2)これに照応して、いかなる意味で「国家主義の危険性」が意識されているのか。歴史意識や国民意識を覚醒させ、時代に合わせて発展させることを論じ、提起できるものが、政党政治の主体である。その型は持たないが、政治決定の方向に従って行政権力を運用するものが、行政である。
歴史意識や国民意識を覚醒・発展させる型を持たずして、その弱さを「国家主義の危険性」と言いくるめる者は、肥大化した行政権力批判の「空文句」とは裏腹に、実際にはそれとの妥協へと帰着する。
歴史意識や国民意識を覚醒・発展させることを意識しながらも、その型までを確立していない者は、国民意識の覚醒と改革の戦略・戦術、政権交代可能な政党政治の確立の具体的な道すじ・型が見えるに応じて、「国家主義の危険性」は解消されていく。
そしてここに、われわれがなぜ日本再生の改革戦略を、「地球益・国益・郷土愛をむすびつける」としてきたのか、なぜ「政党政治の領域で総括―決着をつける」としてきたのか、ということもある。
(3)国家像、国家意識を明確にすることが、公正なルールに基づく市場の育成、および自立した市民社会の形成とリンクしているのかどうか。別の言い方をすれば、さまざまな領域で国民生活・国民経済の桎梏へと転じている肥大化した行政権力を、社会自身の自己統治に委ねることである。これは権力闘争であり、したがってそのための権力基盤(改革の権力基盤)を形成する方法論がともなわなければ、単なるオアソビにすぎない。
全体主義国家でない以上、新しい社会づくりの試みは―人づくり、共同体の再生、新しい社会的市場づくりなど―可能である。それをやり抜く上でのさまざまな困難を自力で突破するところから、自立した市民社会の主体性は形成される。行政はそれを援助することができるだけである。こうした自立した市民こそが、政権交代可能な政党政治を支えうる。その困難を自力で突破する道を放棄し、行政権力の分配に頼ろうとすれば、NPO云々も行政権力の補完物という以上にはなりえないし、もちろん自立した市民も生み出しえない。
自自連立から自自公連立という舞台が、かような意味で日本再生への一歩を踏み出し、それを方向づけえるのか、それとも(「第二の敗戦」ゆえの)緊急避難という枠から、財政的には「大きな政府」、外交・安保は「普通の国」、決定システムは「国対・官僚主導型」へと場面転換していくのか。
これは決定的には権力基盤の移し替えであり、緊急避難的財政出動(これ自身は必要)によって息をふきかえしつつある既得権構造にとって替わる、改革の権力基盤をいかにつくるのか―国民主権に政党政治の領域から「魂を入れる」ことにかかっている。
そしてここに、「がんばろう、日本!」国民会議を提唱する意味もある。
日本再生のための国民運動を今こそ興そう!
「がんばろう、日本!」国民協議会の結成に向けて
改革の戦略の最も重要な要諦のひとつは、改革の権力基盤をいかにつくるのかということである。平和な時代に形成された膨大な既得権層に、改革一般を対置することほどオロカなことはない。
戦争や革命という激烈な形での改革がありえない以上、「知らず知らずのうちに改革をすすめて破断界を超える」(堺屋太一・経済企画庁長官)という“巧妙な戦術”が要求される。
同時にこうした“静かなる革命”への参加主体(支持基盤形成)には、「圧政からの解放」を超える、自由・民主主義の発展のための主体性・意識性が求められる。「負けて目覚める」ことによって手にした自由・民主主義を、虚ろな欲望民主主義の沼に棄てる道を断って、国民主権に「魂を入れる」―「がんばろう、日本!」国民協議会がめざすのは、こうした主権者運動にほかならない。
今ようやく、日本型社会主義にぶらさがっている層と自立している層、あるいは日本型社会主義に(自立を)妨害される層や今後はぶらさがれなくなる層などといった、国民内部の利害の亀裂が顕在化しつつある。これは単なる経済的な利害の相違にとどまらない。
介護保険や年金をはじめとするこれからの社会保障をどう考えるのか、地方分権や地域社会の再生、働きかたなどの「国民生活の再構築」から、憲法や安全保障、あるいは人づくり、産業構造転換など、あらゆる領域において、国民内部の利害の亀裂が顕在化していると同時に、その相互の関連とトータルな集約方向が、次第に一定の「国家像」を結び始めようとしている。
きわめて粗い言い方であるが、例えば、経済生活における自立と依存の区分は安全保障における姿勢の違いにも対応し、人づくりに対する責任の取り方の違いとも連動し、憲法問題のスタンスの違いにも反映してくる、というように。
こうした国民内部の利害の亀裂を、政治の舞台に登場させ、再編・統合するものこそ、政党政治の力である。
「第二の敗戦」を再び、「一億総懺悔」(だれも責任を取らないままの、上から下までの「公的資金」バラマキへの総依存)へと帰結せしめるのかどうか。その道を断って、顕在化しつつある国民の中の利害の亀裂を、政治の舞台に登場させ、政党政治の領域で再編・統合しうるのか。自自公連立が、緊急避難措置の延長に止まるのかどうかは、こうした問題でもある。
無条件降伏後遺症は、七年間の占領統治に起因するのみならず、「独立」後、占領下での緊急避難体制を自ら問い直すことをしなかった、われわれ日本国民自身の問題でもある。冷戦体制の成立という外的条件に大きく規定されたとはいえ、もしその国民精神を放棄しなければ、情勢が変わった時に「後遺症」を是正する試みはできたはずである。少なくとも佐藤内閣の沖縄返還までは、政治にその意識の片鱗は残っていたのだから。
この総括をどう、「第二の敗戦」からの「戦後処理」に生かすのか。金融危機から立ち直りつつあるアジアは、不安定さを増す中国、核保有国となったインド・パキスタン、苦悩するインドネシアなど、構造的な問題を抱えつつある。ポスト冷戦期の「安定と成長」の枠組みが、そのぜい弱さを露呈する中で、ナショナリズムが今後もさまざまな形で噴出する趨勢は、不可避である。この難しい局面だからこそ、日本再生のために何をなすべきか、わが国の国益は何なのかを正面から語らずして、国民精神の覚醒はありえない。
政治が、国民内部の利害の亀裂を顕在化させればさせるほど、こうした政治の統合力が求められる。「国益」「国家」というものを、いかに語るのか(語れるのか)。リーダーの資質が試され、フォロワーの責任が問われる。
日本再生のための国民運動を今こそ!
「がんばろう、日本!」国民協議会をともに創ろう!
(文責・民主統一同盟、「がんばろう、日本!」国民協議会(準)事務局長 石津美知子)