電子瓦版(転送はご自由にどうぞ) ━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━ メルマガ♯がんばろう、日本! №261(20.4.30) ━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━・━ 「がんばろう、日本!」国民協議会 http://www.ganbarou-nippon.ne.jp ================================== Index □ パンデミックと大災害の時代に問われる民主主義の復元力と社会のあり方 ―〝いのちとくらし〟そして政治 ●「コロナ後」にむけて問われる「いのちとくらし」のあり方 ●「緊急事態に人間を家畜のように監視する生権力」か、 緊急事態にこそ「民主的な参加と自発的行動」を高める社会か □ 5/9総会はオンラインで開催 □ コロナ禍を生き延び、「コロナ後」を考えるために ================================== パンデミックと大災害の時代に問われる民主主義の復元力と社会のあり方 ―〝いのちとくらし〟そして政治 ================================== 【「コロナ後」にむけて問われる「いのちとくらし」のあり方】 新型コロナウイルスは依然として、猛威をふるっている。最初に感染が確認された中国・武漢では都市封鎖は解除されたものの、健康診断なみのPCR検査によっても把握できない無症状感染者が存在するなど、地雷原を行くような状況だという。強力な都市封鎖を行ってきたヨーロッパでも規制の緩和が検討され始めているが、「出口」についてはきわめて慎重だ。ドイツのメルケル首相は、少なくともワクチンが開発されるまでは「ウイルスと共存する」ことが必要だと述べている。 第一次大戦末期からのパンデミックであるスペイン風邪は足掛け三年、二回の波を経て感染拡大が収まったという。「ウイルスと共存する」長期戦を生き抜く準備はあるか、が問われている。 一方アメリカでは、再選にむけてトランプ大統領が経済活動の再開を急いでいる。強制を伴う都市封鎖を行ったヨーロッパでは、さまざまな生活保障がセットになっていたが、アメリカでは都市封鎖が直ちに失業に直結する。感染症の脅威によってあらわになった、医療体制や保険制度も含めた社会の脆弱性は、長期戦に耐えられるものではないだろう。 まさに「ヒト社会のあり方が感染症を選択する」(長崎大学熱帯医学研究所教授・山本太郎 中央公論4月号)。コロナが危機をもたらしているのではなく、元々あった社会の脆弱性がコロナによってあらわになっている。その脆弱性を直視しないままコロナ以前に戻すのでは、「ウイルスと共存する」長期戦を生き抜くことはできない。 「長期戦は、多くの政治家や経済人が今なお勘違いしているように、感染拡大がおさまった時点で終わりではない。パンデミックでいっそう生命の危機にさらされている社会的弱者は、災厄の終息後も生活の闘いが続く。誰かが宣言すれば何かが終わる、というイベント中心的歴史教育は、二つの大戦後の飢餓にせよ、ベトナム戦争後の枯葉剤の後遺症にせよ、戦後こそが庶民の戦場であったという事実をすっかり忘れさせた」(藤原辰史 朝日4/26)。 コロナ禍をどう生き延びるのか。その生き延び方が、「コロナ後」の社会のあり方を左右することになる。 封鎖下の武漢での人々の生活や死の悲しみを「武漢日記」というブログにつづった作家・方方は「武漢の人々のこの惨状を見ていると、強い憤りと悲しみを感じます。この事態が収束した後、彼らの死が無駄になってしまうのではないかと不安に思っています。私は生きている人々が、(自分たちの)利益のために、死者が何のために亡くなったのか軽んじてしまうのではないかと心配しています」と、中国メディア「財新」の取材に答えている。 しかし感染拡大を抑え込んだとする中国政府は、国民に対して感謝を求め、医療支援をした外国にも称賛を求めているという。それに呼応するかのように、ネットでは「武漢日記」の海外での出版が決まった方方に「売国奴」との罵声が浴びせられている。 朝日新聞編集委員・吉岡桂子は、北京に住む作家・閻連科の香港科技大学での方さんに触れた講義を紹介する。 「新型コロナとの戦争に勝利したと、国家がドラや太鼓を鳴らし、大騒ぎを始めるとき、そんな空っぽな歌を一緒に歌うような物書きではなく、自らの記憶を持つ偽りのない人間でいてほしい」(朝日4/25「多事奏論」)。 コラムはこう結ばれている。「おぼえていよう。目の前で起きていることを。コロナ禍の中で編まれつつある歴史の手綱を、握りしめておくために」。 コロナ禍は「いのちとくらし」そのものを直撃するがゆえに、どう生き延びるかは、それぞれの人や地域の「いのちとくらし」のあり方そのものを問う。国家が鳴らすドラや太鼓に惑わされないだけではなく、コロナ禍で問われる「いのちとくらし」の記憶を持つ、偽りのない人間であるとはどういうことか。 戦時下でも少なくない人は、大本営発表を信じていなかった(ジャーナリズム2019/6 辻田真佐憲)。しかし、そうやって生き延びた後の焼け野原から始まった戦後は、消費者民主主義の爛熟と破局―失われた30年に帰結した。「国家が鳴らすドラや太鼓」への不信だけでは、社会を変える力にはならなかったということだ。 3.11でも「コンセントの先」に気づかされ、暮らしのあり方を変え始めた人も一部にはいるが、社会を大きく変えるまでには至っていない。 感染拡大を防ぐためには、人との接触を抑えることが必要になる。しかし例えば学校を休校にして子どもを家庭で見なければならなくなれば、多くの場合、母親が仕事を休んだり減らしたりしなければならず、女性の比率が高い医療や介護、保育、小売などのいわゆるエッセンシャルワーク(社会生活の維持に不可欠な業務)に支障をきたすことになる。じつは「コロナ前」から、学校も病院も保育園も介護も物流も、ギリギリの状態で何とか回していたのだ。 あるいはテレワークが推奨されているものの、それができるのは正社員だけで、派遣社員は出社を求められるという構図もある。飲食店が「自粛」すれば、アルバイト学生が小遣いではなく、ただちに学費や生活費に困って学業を続けられなくなる。風俗店での仕事を失った若者がネットカフェからも締め出されて路上生活となった挙句、所持金も尽きて強盗を働いたという事件は、コロナとの長期戦を生き抜く社会のあり方を問う。(「コロナ後」には生活に困った女性が新たに風俗で働くから、それを「楽しみ」に今は自粛しようと有名タレントがラジオで発言した。こんな「地獄」を、「コロナ後」の常態にさせるわけにはいかない。) それまで「常態」と考えられていたことが、コロナ禍で社会の脆弱性としてあらわになっている。そのなかで問われる「いのちとくらし」のあり方。最前線で献身的に働く医療関係者はもちろん小売や物流、農水産業者、外国人労働者など、私たちの日常生活は多くの人々に支えられている。その自分たちのくらしが、どれだけ他者を犠牲にせずに成り立っていけるかを考えることでもある。その自らの記憶をしっかり見据え、そこからコロナ後の「いのちとくらし」のあり方、〝私たち〟のあり方を模索していこう。 製造した東南アジアでは衛生用品としての基準を満たしていないため「布製品」扱いだったものが大量に混入した「布マスク」を、466億円かけて配布するという無能な政府(しかも公共調達にもかかわらず、その随意契約の情報も明らかにされない)。しかしその政府に対する不信だけでは、俗耳になじむことを声高に叫ぶポピュリストや違う形の「やっている」感に、お任せ先を変えることにしかならない。 「いのちとくらし」のあり方を問うことを基盤にした、民主主義の復元力が問われている。 内田樹は「月刊日本」のインタビューの最後にこう述べている。 「(カミュの)『ペスト』では、猛威を振るうペストに対して、市民たち有志が保健隊を組織します。これはナチズムに抵抗したレジスタンスの比喩とされています。いま私たちは新型コロナウイルスという「ペスト」に対抗しながら、同時に独裁化という「ペスト」にも対抗しなければならない。その意味で、『ペスト』は現在日本の危機的状況を寓話的に描いたものとして読むこともできます。 『ペスト』の中で最も印象的な登場人物の一人は、下級役人のグランです。昼間は役所で働いて、夜は趣味で小説を書いている人物ですが、保健隊を結成したときにまっさきに志願する。役所仕事と執筆活動の合間に献身的に保健隊の活動を引き受け、ペストが終息すると、またなにごともなかったように元の平凡な生活に戻る。おそらくグランは、カミュが実際のレジスタンス活動のなかで出会った勇敢な人々の記憶を素材に造形された人物だと思います。特に英雄的なことをしようと思ったわけではなく、市民の当然の義務として、ひとつ間違えば命を落とすかもしれない危険な仕事に就いた。まるで、電車で老人に席を譲るようなカジュアルさで、レジスタンスの活動に参加した。それがカミュにとっての理想的な市民としての「紳士」だったんだろうと思います。 ~中略~「コロナ以後」の日本で民主主義を守るためには、私たち一人ひとりが「大人」に、でき得るならば「紳士」にならなければならない。私はそう思います」 http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html 【「緊急事態に人間を家畜のように監視する生権力」か、 緊急事態にこそ「民主的な参加と自発的行動」を高める社会か】 新型コロナウイルスにどう対処するかは、各国の民主主義や社会の強靭さをはかるものともなっている。とくに今回はIT技術をどう使うかが、「コロナ後」の民主主義のあり方にも大きくかかわってくるだろう。 中国はコロナ前から、街中の監視カメラで交通ルール違反者をチェックし、それを個人の「信用スコア」に反映することで違反が減る、といったような「幸福な監視社会」を築いてきた。今回も都市封鎖とともに、こうした監視システムを徹底活用して人の移動を管理することで、感染拡大を抑え込んだ。治安や安全、効率が向上するならOKと、国家による市民の監視・統制の強化はコロナ前からおおむね受け入れられていた。 だが新疆ウイグル自治区では、こうした監視システムは民族弾圧に「有効に」使われている。また人権活動家などの監視や摘発にも活用されている。自分たちさえ安全なら、今さえよければ、という消費者主義は「緊急事態に人間を家畜のように監視する生権力」(東浩紀 AERA.dot 4/16)と地続きだ。そしてこれは中国だけの話ではない。 韓国は当初、感染者が中国に次いで多く対応に苦労したが、徹底した検査と隔離、ITを活用した感染者の追跡を行って感染拡大をコントロールし、コロナ下でも総選挙を予定どおり実施した。今のところ選挙を契機とした感染拡大は起こっていない模様だ。 韓国政府の原則は「開放性と透明性、民主的で自発的な参加」。スマホの位置情報やクレジットカード、交通カードの利用履歴、街頭の監視カメラなどの情報を組み合わせて、(個人が特定されない形で)感染者の動線を瞬時に公開することで、市民の自発的行動を促した。 IT技術によって監視と統制を強めるのではなく、徹底した情報公開による市民の自発的参加が促進された形だ。背景には、現在の政権が民主化運動によって誕生した政権であり、いろいろ不満はあっても透明性に対しては一定の信頼があるということがある。(本号・李鍾元教授インタビュー参照) 台湾も早期の対応によって感染拡大の防止に成功している。ここでもITが活用されているが、よく知られているように、行政府として積極的にITテクノロジーを活用しているのは、「ひまわり運動」にも参画した唐鳳氏だ。 「偽情報の多くは中国本土から配信されている。にもかかわらず、台湾では独立派の政治家の支持率が上昇している。唐氏はここに政治家と市民の相互関係があるとみている。政治家が一般市民の政治への直接参加の機会を広げれば、市民は政府への信頼をより強めるのだ。ソーシャルメディアが『偽の敵対感覚』を生む以上に、台湾では分散化技術を通じて人々が『現実を共有している感覚を持てる』ようになってきたと唐氏は言う」(ラナ・フォルーハー 日経2/21) 政府に対する信頼とは、単なる「お任せ」ではないし、自分さえよければ、今さえよければという消費者民主主義でもない。韓国、台湾はともに民主化の歴史が世代をこえて受け継がれている。その社会の記憶によって、政府や政治家と市民との相互関係(批判と信頼)が成り立っている。 コロナの対応をめぐって政府への信頼が高まっているのは、西ヨーロッパ諸国も同様だが、ここでもスペイン風邪やレジスタンスをめぐる社会の記憶――「国家が鳴らすドラや太鼓」に対する不信にとどまらない「いのちとくらし」の記憶――がある。 先進国では唯一、日本だけがこの危機でも政府への信頼は高まるどころか低下している。政府の無能さのゆえではあるが、社会の信頼はどうか。同調圧力や忖度、隣組的発想に抗する、「いのちとくらし」のあり方を問うところからの連帯は可能なのか。 ITを活用した感染対策としては、シンガポールが開発した技術も注目されている。位置情報を使うのではなく、近距離無線通信を使って至近距離にいた人を感知、記録することによって、感染者と接触した人を追跡して隔離することができると期待されている。このアプリは強制ではないが、四割の人がダウンロードすれば効果を発揮すると言われており、オーストラリア政府が導入を決定、日本でも実証実験を始めるという。 やはりここでも課題は、政府に対する信頼だ。オーストラリア政府は導入にあたって個人情報の暗号化をはじめ、保健衛生当局以外はアクセスできないなど、厳格な個人情報保護策を講じるとしているが、それでも市民からの懸念が生じている。ましてや日本のように公文書の破棄や偽造、隠蔽、身内の利権・縁故主義がはびこる、「やっている」感さえ演出できなくなった政府では、誰が進んでアプリをダウンロードするのか。 またシンガポールは3月までは、台湾とともに感染拡大を防いだ優等生とみなされていたが、いまでは東南アジアで最悪の感染者数となっている。政府は早くから感染対策を進めてきたが、人口580万人の都市国家に100万人以上いるといわれる外国人出稼ぎ労働者は、その対象ではなかった。 低賃金の外国人労働者の多くは郊外の宿舎に密集して暮らしており、「社会的距離」を保てない宿舎で爆発的な感染拡大が起きかねないとの警告は、当初から発せられていた。医療へのアクセスも難しい環境だ。最近拡大する感染者のほとんどは、こうした外国人労働者だという。快適な日常生活を支えるうえで不可欠な外国人労働者を「不可視化」してきた結果にほかならない。 「シンガポールの現状は、パンデミックの際に疎外された人々を無視したらどうなるかを示唆している。積極的な濃厚接触者の追跡、広範な検査、しっかりした医療制度、厳格な隔離措置を実行できる効率的な政府──この国の新型コロナ対策は、他国から見たら羨ましくて仕方がない。それでも社会的弱者への目配りを欠いた状態では、十分な効果を発揮できない」(ニューズウィーク日本版 4/27 クロエ・ハダバス https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/04/post-93253_2.php)。 コロナ禍であきらかにされた社会の脆弱性を放置すれば、「コロナ後」には社会の底が抜けることになりかねない。長期戦を生き抜くなかでこそ、社会の脆弱性を克服するための「コロナ後」の社会を構想しよう。 (日本再生492号 一面より) ================================== □ 5/9総会はオンラインで開催 ================================== 5/9に予定していた総会は、オンラインで行うことにしました。 下記、よろしくお願いします。 【日時】 5月9日(土) 10時から13時まで Zoomというオンラインミーティングの無料ソフトを使います。(Yさんのご厚意です。) 参加はメールにて事前登録。登録されたメールアドレスにミーティング用のURLを送信しますので、それを使ってアクセスします。 必要なもの:パソコン(マイク、カメラ)またはスマホ ネット接続環境 スマホの場合はバッテリー、通信容量に制約があるのでご注意を 【How to】 ① 参加者は5月8日 18:00までに下記あてメールで連絡を。 ishizu@ganbarou-nippon.ne.jp 連絡先のメールに、5/9ミーティング用のURL、ID、パスワードなどを送信します。 ② 「活動報告」「感想 意見」などをメモ程度でもよいので事前に送っていただくと、当日の議論がよりスムーズに進むと思います。上記までお送りください。参加予定者に転送・回覧します。 ③ 5月9日9:45から会議室を開けます。メールにある「Zoomミーティングに参加する」というURLをクリックすると入室できます。(URLをクリックすれば、ID、パスワードは必要ありません。Zoomのアカウントを作成する必要もありません。) 参考 Zoomで会議に参加する方法 https://zoomy.info/manuals/what_is_zoom/ *5/9ミーティング用のURL、ID、パスワードは、5/8に送信します。 ================================== □ コロナ禍を生き延び、「コロナ後」を考えるために ================================== ●アベノマスク 不要だという方は寄付することもできます。 不要なアベノマスク寄付先まとめ https://cococarenote.com/4958.html ●給食がなくなり、飲食店が閉店。生産者を応援するために ポケットマルシェ https://poke-m.com/ 二本松農園 https://www.nihonmatsu-farm.com/ ●新型コロナウイルス支援情報まとめ https://covid19.moneyforward.com/personal/supports?page=2 ●「ペスト」が洗い出す凡庸な人間の非凡な強さ 最近話題のカミュ「ペスト」の書評(津村記久子)。 新潮社Webマガジン「考える人」より https://kangaeruhito.jp/article/14028 ●小川淳也議員のドキュメンタリー映画! 「なぜ君は総理大臣になれないのか」 6/13よりポレポレ東中野、ヒューマントラストシネマ有楽町などで公開予定 http://www.nazekimi.com/ 小川議員へのダメ出しのようなタイトルだが、見終わって気づく。 問われているのは、有権者である私たちなのだと。 (上西充子 国会パブリックビューイング代表/法政大学教授) ================================== -- 石津美知子 「がんばろう、日本!」国民協議会 http://www.ganbarou-nippon.ne.jp |