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「がんばろう、日本!」国民協議会
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Index 
□ 消費者民主主義の破局からどこへ向かうのか
 「静かな全体主義」か、多様性と自由に支えられる民主主義のイノベーションか

●「表現することの自由」と 
  無関心・自発的隷従が招き入れる「静かな全体主義」 

● 自己決定権だからこそ必要な支えあいの社会

□囲む会(東京10/23)のお知らせ
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消費者民主主義の破局からどこへ向かうのか
「静かな全体主義」か、多様性と自由に支えられる民主主義のイノベーションか
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【「表現することの自由」と 
 無関心・自発的隷従が招き入れる「静かな全体主義」】

 「あいちトリエンナーレ」に対して、文化庁はいったん決定した補助金を不交付とした。これに抗議して、参加アーティストによるプロジェクトReFreedom_Aichiが、不交付決定の撤回を求めるネット署名を開始。半日で5万を超えた署名は、さらに日を追って増え続けている。

 同プロジェクトは、「展示中止を迫った中には市長などの公人も含み、そして過熱したのはテロ予告や恐喝を含む電凸など。作品の取り下げを公人が迫り、それによって公金のあり方が左右されるなど、この一連の流れは、明白な検閲として非難されるべきもの」だと批判。「これまで先人たちが作りあげてきた日本の文化政策、公的助成制度の根幹を揺るがす暴挙」だとしている。

 文化庁は不交付の理由として(1)審査段階で具体的な計画がなかった(2)電凸や脅迫が続いた時点で報告がなかった(3)展覧会中止によって事業の継続が見込まれにくくなった、などをあげている。展示内容に言及することなく、(巧妙に?)「手続き」を理由にしているようにみえるが、いったん決定した補助金を後づけの理由で不交付にするのは前例がないと、文化庁も認めている。

 今回の事態が「検閲」にあたるかについて、法律論上の議論はあるだろう。しかし「これがまかり通ると、補助金を盾にした、事実上の国家による検閲につながる。これからの申請団体は、自主規制(自己検閲)せざるを得なくなるから。そして、芸術に対して脅迫行為を行った者達に対して、国がその正当性を認めるかのようなメッセージとなりかねない」(日比嘉高 ツイッター)。

 署名に賛同した為末大氏は、「茶色の朝を思い出す」とツイッターでつぶやいている。「茶色の朝」は、20年前にフランスで刊行されベストセラーとなった短編。「茶色以外のペットは処分するように」という法律を皮切りに、主人公と友人の身の回りで次々に「茶色」以外の存在が認められなくなっていく。「ごく普通の」国家が、日々の生活に知らぬ間に忍び込み、人々の行動や考え方を支配するようになるという寓話だ。

 無関心・怠惰と、忖度・自発的隷従との間に確固たる境界はない。「見たいものしか見ない」「何をしてもムダ」という空気≠ェどこへ向かうのか。私たちは大きな岐路に立っているのではないか。こうした状況は「民主主義」にも大きく関わる。

 「『民主的』な選挙で選ばれた権力によって、立憲民主主義のルールや仕組みが死に追いやられていくプロセスが先進各国でも繰り広げられていますが、わが国におけるその起点は、低投票率にあるといってもいい。『安倍一強』を支えているのは、熱烈な支持というよりも、低投票率に表される『無関心』という『空気』です。この問題を外して統一地方選、参院選の総括はできません」(戸田代表 2―6面「囲む会」参照)

 「(新たな全体主義は)かつての全体主義のように確固とした思想や理念を持つわけではないし、唯一絶対の党組織があるわけでもない。が、社会の既存の組織が力を失ってすべてが流動化するなかで、共通の意味が解体することで指針を失った個人は、メディアがたれ流す大量のパッチワーク的な情報の洪水に溺れてしまう。そこで個人は、政治参加を馬鹿にしながらも、相互に対立するイメージの断片に目を奪われ、踊らされる。〜中略〜
 もし多くの人が、社会の動きは個人の力の及ぶところではなく、残されているのは、社会の大勢のおもむくままに流されていくことだけだと考えているとすれば、それはトクヴィルの「民主的専制」や、ルゴフの「新たな全体主義」に近いのではなかろうか。危険なレベルにまで低下した投票率と「政党の座標軸」の融解は、私にそのような危惧を抱かせる。
 換言すれば、「静かな全体主義」が日本で進行している。そして、それこそが特定の個人や組織の思惑を超えた、日本社会の趨勢(すうせい)である。
 とはいえ、そのような現状の(ママ)ただ追認するのであれば、それもまた「静かな全体主義」に対する従属に過ぎないだろう。諦観(ていかん)に身を委ねる余裕は、今の日本社会に残されていないように思われる。民主主義の立て直しのために、声を上げねばならない。「静か」になってはいけないのである」(宇野重規 論座 9/1)

 あいちトリエンナーレを契機に始まった「表現の自由」をめぐる議論は、新たなステージに移りつつつあるのかもしれない。
 「静かな全体主義」に身を任せるなら、アートに求めるのは「心地よさ」や教養、誰もが認めるような名作としての価値などだろう(ただし今日「名作」とされる作品でも発表当時は駄作とされたものは少なくない)。
 「表現の不自由展・その後」に対しては、「税金を使うべきではない」「自由というなら補助金を頼るな」という非難もある。しかしアートに対する公的補助は表現者への援助というより、より多くの市民が自由な表現にふれることを可能にするためのものだ。「表現の自由」は民主的な社会のインフラのひとつなのだ。

 今回のあいちトリエンナーレがモデルとしたのは、ドイツで行われているドクメンタという美術展だという。現代アートを退廃芸術として弾圧したナチスの歴史を踏まえた現代アートの世界的なイベントのひとつ。2017年のドクメンタをリポートした藤幡正樹(メディアアーティスト)は、フランス人の友人の「アートがなかったら、考える時間がなくなってしまうじゃないか」という言葉を紹介しながら、ドクメンタに通底している姿勢は、戦中と対比的に「表現することの自由について考える」ことだろうとしている。
 そして政治的な匂いのする作品の展示が可能なのは、説明してもらうのではなく、自分自身で作品のコンテクストを読み解き、他の人とコミュニケーションすることができる観客との信頼関係―ドクメンタの集積の成果―があるからだろうとしている。
(http://realkyoto.jp/review/documenta14-2/?fb_comment_id=1445558558813387_1452996998069543)

 表現の自由の担い手は、送り手と受け手の双方であり、両者による情報の伝達と交流の場が必要だということだ。「表現の自由」は、言いたいことを言い散らかすことではない。ReFreedom_Aichiに参加している小泉明郎(映像作家)は、こう述べている。「作家が、政治性を抜いた無菌状態で中立的な普遍性を見せるのがアートではなく、個人が矛盾を表現し、シェアすることにアートの意味がある。なぜ作家がこの作品を作ったんだろうと考える一歩を踏み出すことで、政治的立場を超えた、より豊かで普遍的なコミュニケーションが可能になる」(バズフィードジャパン 9/10)。

 ReFreedom_Aichiは、アーティストと観客との協働による「表現の自由」の獲得をめざしている。「私たちの自由を自ら勝ち取るために、私たちは奇跡を起こさなければなりません。ボイコットを表明したキューバ人アーティスト、タニア・ブルゲラは、『これまで数々の検閲を受けてきたし、見てきたが、一度検閲された作品が再び再開された経験は一度もない』しかし日本の関係者と話すうちに、『今回はそれが可能なのではと感じている』と話しました」(https://www.refreedomaichi.net/blank)

 「表現の不自由展・その後」を中止に追い込んだのは、シンボル化によって作品解釈の多義性を塞ぎ、単純化することで同質化しようとする社会の空気≠フ暴走であるともいえる。そのきっかけを与えた政治家の発言(犬笛)は厳しく問われるべきだが、より本質的なことは、自分自身で作品のコンテクストを読み解き、他者とコミュニケーションできる観客との信頼関係という、民主主義の基盤ともいうべき社会関係資本への糸口をどう作り出すか、ということだ。

 他者への想像力を欠き、違いを怖がり、「見たいものしか見ない」社会から、「静かな全体主義」と自発的隷従へと移行していくのか、あるいは表現の自由や民主主義を、自ら担い手として再構築していくか。私たちは歴史的な分岐点に立っているのではないか。

【自己決定権だからこそ必要な支えあいの社会】

 文化庁の補助金不交付決定に対し、大村愛知県知事は、国・地方係争処理委員会をはじめとする法的な措置をとると発言した。この問題は「表現の自由」に対する侵害であると同時に、地方自治のあり方にも大きくかかわる。現行制度の下で、地方財政の少なくない部分が国からの補助金でまかなわれている。いったん決定された補助金が、政権や政治家の意向で取り消されることがまかり通るなら、現状でも多々制約を受けている地方自治は、さらに成り立たないことになる。

地方分権で国と地方は対等とされ、地域経営の自由度が高まったはずだ。しかし地方創生・地方版総合戦略をはじめ、補助金の要件としてさまざまな行政計画の策定を義務づけるような集権化の構造も強化されている。さらに言えば、基地問題で「ノー」の民意を示し続ける沖縄県や、「ふるさと納税」で意に沿わない泉佐野市などに対する制裁的な意味合いの措置も目立つ。

地方自治とは地域の自己決定権であり、その基本は住民・市民の議論を通じた合意形成だ。先の参院選での沖縄県や秋田県、新潟県、青森県などでは、地域の自治―自己決定権が争点化されたといっていいだろう。

「『地方からの課題を無視する国政』と、レジュメには書いてあります。石垣市に自衛隊の基地を作るというときに、まず住民投票をやりましょうと市民が提案しました。直接請求で出されたのですが、議員の多数が反対しました。その理由として、『基地問題は国政問題、防衛問題なんだから地方は発言できない』と議員の方々は言うわけです。
住民投票運動をした金城さんという方は、『国政だから、国防問題だから関われないということなら、思考停止になる』と。『国防』と言っておけば、あるいは『国の仕事なんだ』と言って地方が関われなかったら、自分たちは何もできなくなるんじゃないか。とりわけ生活に密接に関わる問題について、『国防』と言った途端に何も言えなくなったら思考停止でしょう、それが民主主義なんですか、ということなんですね。(石垣島の自衛隊基地建設予定地周辺は水源にあたるため、島民の生活や農業に大きく関わる/編集部)

私たちは地域や自分の生活に関することについて、発言する権利があると思います。基地問題は生活に関わることで、安全保障とか自衛隊について、いいとか悪いとか言っているわけではない。自分たちの生活にとって問題だと思うことについて提言しましょうよ、ということです。もちろん、自衛隊や日米安保について問題だという人たちもいるかもしれませんが、まずはその水準で議論しましょうということです」(江藤俊昭教授 484号参照)

自分たちの生活や地域に関わることについて、「国防だから」といった途端に思考停止になるところから「茶色の朝」までは、そう遠くない。自分たちの生活や地域に関わることについて発言し、議論することは民主主義の基本だ。当然そこには異なる立場、利害がある。その違いを怖がるのではなく、想像力を働かせることこそが、豊かな社会につながる。

アートと地域自治に共通するのは、異なる他者との「摩擦」に対する耐性―目先では損をするかもしれないコミュニケーションの力―を育む場となりうることではないか。そうしたコミュニケーションの担い手をうみだすことのできない社会は、「行政に頼っている田舎の限界集落は消えたほうがいい」という短絡的な思考が幅を利かせる貧しい社会だ。こうした「選択と集中」の価値観は、選択されない可能性を恐れるところからの画一化と自発的隷従へとつながる(7―11面 山下祐介教授「囲む会」参照)。
 そこに、イノベーションを生み出すような創造性や活力は育まれるのか。

 消費者民主主義の破局の果てに見えるものは何か。
 「『くらしとせいじ』と言ってるのは、『自分の生活は自分でなんとかするしかない。政治って、それができない人のためのものでしょ』という感覚が当たり前になったところで、日々の生活で感じる問題を、個人で解決する問題ではなく社会の問題、そして政治の問題として争点化―再政治化することができなければならない、ということです。
 〜中略〜今やみんながレールに乗れるわけではない。『依存と分配』が破局するなかで、もうレールはないんだ、自分の人生は自分で自己決定していくしかない、という分解が始まっている。そこから一方で『個の多様性』ということが体現され、自分の生きかたや自分の問題を、個人の問題ではなく社会の問題、政治の問題として語り始めている。今度の参院選では、その一端が可視化され始めたということでもあるわけです」(戸田代表 前出)

 自己決定だからこそ、お互いの支えあいが不可欠なのだ。民主主義のイノベーションの担い手を!

(「日本再生」485号 一面より)
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□第203回 東京・戸田代表を囲む会
 「平成外交を振り返りながら、これからの日本外交を考える
  〜沖縄を糸口に」(仮)
 10月23日(水) 1845から
 ゲストスピーカー 宮城大蔵・上智大学教授
 「がんばろう、日本!」国民協議会 事務所(市ヶ谷)
 同人1000円  購読会員2000円

□第39回 戸田代表を囲む会in京都
 「財政民主主義ってなに? 〜アベノミクス(量的緩和策)の検証から」
 11月14日(木) 1830から
 ゲストスピーカー 諸富徹・京都大学教授
 コープイン京都201会議室
 参加費 1000円(学生 500円)回 東京・戸田代表を囲む会
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-- 石津美知子
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