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「がんばろう、日本!」国民協議会
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▼ Index
□「まかせる政治」から「参加する政治」へ そのスタートラインに立った

● 政権選択・政権交代の政治文化、選挙文化 そのスタートラインに立った
● 脱官僚政治の実現は、政党と国民の共同作業 そのスタートラインに立った
● 政権交代で民主政を安定させる そのスタートラインに立った

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「まかせる政治」から「参加する政治」へ そのスタートラインに立った

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●政権選択・政権交代の政治文化、選挙文化 そのスタートラインに立った 

第45回総選挙は、明治以来の憲政史上初となる、国民の投票による政権交代を実現した。民主党の三〇八議席は単独政党の獲得議席としては戦後最多、自民党は一一九議席という歴史的大敗を喫した。投票率は、小選挙区比例代表並立制となってから最高の69.28%、前回より1.77ポイント高くなった。

今回の総選挙の意義はなによりも、政権交代が「普通のこと」になったところにある。「民主党が支持されたのではなく、自民党が見放された結果だ」といわれるが、現政権がよければ続けさせ、悪ければ交代させる(だけ)、という「普通の」民主主義の政権交代のメカニズムが働くようになったということだ。それは、有権者の固定的な「所属」や「支持」(いわゆる固定票の囲いこみ)ではなく、マニフェストを軸にした「選択」による参加をどれだけ組織できるかが、選挙はもとより日常の政治活動、政党活動の軸になるということでもある。

政権交代で何もかもがハッピーになる、というおめでたい話ではないことは、有権者は百も承知である。民主党の三百議席は予想されていたが、郵政選挙の時のような熱狂はどこにもなかったことからも明らかだ。有権者は人気投票に流されたり、「一発勝負」を期待していたわけではない。例えば民主党に投票する、という人の80%が「選挙情勢によって投票先を変えることはない」という意志の固さを示している(8/27朝日)。「白紙委任」の「任せてみよう」では情勢に左右される。情勢に流されない意志の固さは、それぞれの基準をもって判断しているからこそである。前回の一・六倍といわれる期日前投票の多さも、そうした意志の表れといえるだろう。「冷静になって投票しよう」とよびかけた識者や、「政権交代という、何かよくわからないものと戦っている」といった閣僚には、こうした有権者の意志は見えていなかった。

 マニフェストも単なる選挙のツール、政策集というレベルから、政権および政党をマネージする、政党と有権者の関係をマネージするものへと深化していく、そのスタートラインに立った。政権政党のマニフェストと野党のマニフェストを同列に並べて比較することがマニフェストの検証だと思っているのは、政権選択・政権交代の政治文化が何ひとつわかっていないということだ。

(付記。浜矩子・同志社大教授は、有権者の選択について、日本人が国民や社員ではなく「市民」になった、と指摘(9/1朝日「座談会」)。「予想を上回る自民パージ」とか「風」といった見方しかできない「識者」とのギャップは、今後さらに明確になるだろう。)

マニフェストは「何が書いてあるか」も大事だが、それ以上に「国民との約束を守る」ということが大事で、それがあるからこそ「いいかげんなことは書けない」ということになり、それが「信頼できる政治」へのスタートラインになる。したがって野党のマニフェストは期待値でいいが、政権政党のマニフェストは、政権の実績・業績評価から検証される。これが政権選択・政権交代の政治文化の常識である。
政権の実績・業績評価を国民に問う―これができない時点で、すでに自民党は政権政党たりえない。そこから出てくるのは、野党に対する批判(というにも値しないようなネガティブキャンペーン)のみということになる。当然マニフェストの冊子は「やっつけ仕事」、役所の出してきたものをホチキスでとめただけ、ということになる。

民主党のマニフェストに書かれた重点政策について、賛否はあるだろう。しかしひとつだけはっきりしていることがある。前回の小泉マニフェストでは、「国民との約束は何なのか」がきわめてあいまいだった。そのため「復党問題」に端的なように、執行部も大量に当選したチルドレンも、どこで責任が問われるのかが不明だった。今回の民主党マニフェストは、その点はかなり明確になっている。

それは〇三年以来のマニフェストの集積と、議員立法をはじめとする活動の集大成としての裏打ちがあるからでもある。したがって「果たすべき国民との約束」をどう実行していくのか、という一点で、政権および政権政党と国民との緊張関係を継続的につくっていく、そのスタートラインにわれわれは立った。

大量の新人を抱え込んだ三〇八議席という数は、下手をすればそれまでのマニフェストの集積を変質させる可能性さえ持つ。だからこそ有権者は「民主党に任せてみるか」ではなく、「マニフェストでの約束を実行しろ」と迫る緊張関係を積極的につくっていかなければならない。選挙で投票するだけではなく、自分たちが選んだ政権を持続的に検証し、評価していくことは、政治参加の重要なステップである。
また自治体政治においては、選挙での選択とともに、ローカルマニフェストを毎年検証し、改善していくPDCAサイクルは「当たり前」の常識になりつつある。それをさらにレベルアップさせるとともに、国政でのマニフェストによる規律化(政党の自己統治、有権者との緊張関係)を図っていかなければならない。そのスタートラインに立った。

●脱官僚政治の実現は、政党と国民の共同作業 そのスタートラインに立った

政権交代の一番の意義は、明治以来続いてきた官僚主導の政治をリセットし、国民に選ばれた政治家が説明責任を果たす政治へと転換する(脱官僚政治)ことである。自民党が作った仕組みはそのまま、政権政党が入れ替わったというだけでは、政権交代の意味はない。自民党が作ってきた仕組みをスクラップして、新しい政官関係をルール化する、そのスタートラインに立ったということだ。言い換えれば、ここからは「壊す」段階から「作り変える」作業に転換しなければならない。

官僚主導とは、官僚が政府をガバナンスしていることを意味しない。自民党政治の機能不全とは、政治を官僚に任せっきりにしているうちに、政権政党は政府をコントロールする機能も能力も失い、ガバナンスが崩壊するなかで、各省庁・現場が既得権益を確保することが常態化していった(かつての関東軍のように)ことである。政治主導とは、ここにガバナンスを回復することにほかならない。これは「権力をとれば何とでもなる」という「壊す」作業ではなく、長い間に習慣や体質にまでなった旧い仕組みを「作り直す」地道な作業である。この作業を永田町の中だけではなく、広く情報公開して国民参加、国民との共同作業ですすめていけるか、である。

例えば予算項目が「雇用対策」となっていても、その実態がどんなものであるのか、与党議員もほとんど知らなかったのが官僚政治の現実だ。「事業仕分け」のような作業を通じて、「何がムダなのか」を国民に情報公開しながら、政治家が判断していく。そういう作業が必要になる。これは与党だけではなく、野党もそれができるのが「健全野党」の必要条件のひとつということになるだろう。そして官僚には、与野党分け隔てなく基本的な情報を提供するという、公僕としての立ち振舞いが求められる。

もちろんマニフェストで約束した政策の財源を捻出するに当たっては、「ムダ」とされる既得権と官僚機構をはじめとする抵抗勢力の抵抗、目くらまし、骨抜きは当然予想される。あるいは三〇八という議席は、官僚が擦り寄ってくるのに十分な数なので、民主党のなかにも「使いこなす」つもりが取り込まれる議員も出てくるかもしれない。こうした抵抗を克服するにも、また「取り込まれ」をチェックするためにも、なによりも重要なのは情報公開だ。それによって、国民の参加の糸口が確実に広がる。そしてそれこそが、脱官僚政治の核心的ポイントにほかならない。

「ねじれ」国会で、ガソリン税の暫定税率が廃止されたときのことを思い出そう。それまでは与党の族議員と官僚が国会外で、政府の外で内輪の都合で決めていたこと、正式な権限も説明責任もない与党の大物が談合で決めていたことが、国会というオープンな場で議論され、決定されるようになった。これこそがもっとも基本的な情報公開だろう。
政党と国民の共同作業で、官僚内閣制から議院内閣制へ。そのスタートラインに立った。

●政権交代で民主政を安定させる そのスタートラインに立った

政権交代が普通にある民主政、それが安定的に運営されるためには、政党の存在が不可欠だ。小選挙区制は議席の劇的な変動が起こりやすい制度である。カナダでもオーストラリアでも、与野党の大幅な議席の変動があった。それでも民主政が安定的に運営されるのは、政党が安定しているからである。

与党なら、誰でも政治活動ができる。バッジがついていれば、野党でも政治活動をしているつもりになれる。これが旧い政治文化の発想だ。そうではなく、野党になっても、落選していても政治活動を続けられる、そういう人たちがコアになってこそ、安定した政党ができる。
民主党は結党から十年を経て、曲がりなりにもそういうコアを蓄積してきた。官僚の手を借りずに、国民とのコミュニケーションを通じて政策をつくり、委員会の質問、追及から政策論争を展開し、否決されても否決されても議員立法をつくる。このなかで「政党力」を鍛えてきた。マニフェストはその集大成である。

今度は自民党の解党的出直しのチャンスだ。神奈川15区で当選を果たした河野太郎議員は、最終盤こう訴えたという。「残念ながら、ここ最近の報道を聞いていると、自民党が政権を担当するのは難しい状況のようであります。しかし、どの政権もまっすぐ進んでいるか、正しい方向に向かっているか、常に誰かがチェックしなければ、必ず曲がります。誤ります」「だから私が野党として、今度できる政権をきちんとチェックする役割を果たしていきたいと思っています。正しい方向であれば、それを全力で後押しする。違っているんだったら、政権に政策を変えさせる。そういう健全野党の役割を果たしてまいりたい」「そして、そういう役割を果たしながら、自民党の世代交代を進め、一から自民党を作り直し、4年後の総選挙で『もう一度、自民党やってみろよ』と国民の皆様から言われるような自民党を作ってまいりたい」(日経ビジネスオンライン8/31)

「まかせる政治」から「参加する政治」へ。政治のフィールドは大きく変わった。観客としてではなく、プレイヤーとして多様な有権者がフィールドに躍り出ている。こうしてわれわれは、政権交代時代の政党と向き合うためのスタートラインに立っている。

(「日本再生」364号 一面)

付記。新政権発足にむけた連立協議について。
報道によれば社民、国民新党は、「与党協議」の場を求めているというが、与党の政策決定は政府内に一元化する―これがマニフェストであったはずだ。自民党政権下での政府・与党の使い分け、二元体制は政治主導を阻害してきたからだ。「与党協議」の場を設ければ、政府とは別の場で、正式な権限もなく、説明責任も負わない人たちが政府の決定を左右することになる。これはマニフェスト違反であり、脱官僚政治はおぼつかないことになる。
また、308議席はマニフェストを実行するために与えられたもので、数議席の少数政党がこれをねじまげることが可能になるような場は、あってはならないはずだ。
民主単独では過半数に届かない参議院の状況を変更するチャンスは、来年夏に訪れる。そのためにも、新政権はマニフェストとその実行体制(脱官僚政治・政治主導の確立)という一点に立って運営されるべきだ。


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石津美知子
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