日本再生 354号 2008/11/1発行

「景気対策」に名を借りた「失われた十年」の再現を許すな
―国民の富を毀損する官僚内閣制の惰性の逃げ道を断って、「政権交代が当たり前」の民主政へ―

解散を決断できない政権に、
危機対応ができるのか?

「選挙に勝ってはじめて天命を果たしたことになる」と、解散総選挙を使命と明言して誕生した麻生内閣。だが解散を打つために選ばれた総理は、今や解散が打てない総理に変わりつつある。総裁選の勢いを借りて早期に解散という当初のシナリオは、総裁選も期待したほど盛り上がらず、政権発足直後の支持率も低迷するなかで揺らぎ始める。オバマ勝利が確実視されるアメリカ大統領選(11月4日)以降の投票日は何とか避けたい、との思惑を吹き飛ばしたのは「自民大敗」との予想をはじき出した調査結果だ。そして解散に二の足を踏む政権に格好の「口実」となったのが、アメリカ発の金融危機だった。
 「危機に際して政治空白は許されない」「国内の政局よりも国際的な役割」との発言が繰り返される。だが、解散を先送りしたからと言って先の見通しが立つわけではない。解散総選挙をほぼ唯一の存在理由とした政権が「解散を決断できない」となったとたん、レームダック化するのは必定だ。これで市場の暴風雨に対処できるわけがない。
 解散を先送りすれば、参議院で野党が過半数を握る国会運営は厳しくなる。二代にわたって政権を投げ出した安倍・福田政権の行き詰りは、今の日本では民主主義の大原則に逆ら
  う行動はできないことを物語っている。衆議院の任期(来年九月)を超える来年度予算を組むのは、総選挙で民意を得た政権であるべきだ。危機の震源地である米国では、まさにこの危機に対処するのはオバマか、マケインかを国民が選ぶ。それが民主政治だ。「百年に一度のような危機」を前に、機能停止に陥ってしまう程度の民主主義なのか。それこそが問われている。
 リーマンの破綻で顕在化した経済危機は、まさに週代わりで情勢が変動している。このなかで、すでに危機対応能力は検証され始めている。
 危機の発端となったリーマン・ショック。当時、自民党は総裁選の真っ最中だった。与謝野候補は一日だけ遊説を取りやめたが、日本への影響を「ハチに刺された程度」と述べる。与党がようやく「金融市場の動向とその影響への対応に関するプロジェクトチーム」を設置したのは、それから十日余り経った十月一日のことだった。アメリカ下院で金融安定化法案がまさかの否決となり、ニューヨーク・ダウが史上最大の下げ幅を記録した後、緊急のG7金融・蔵相会議が予定されているなかで配信されたのは、首相就任後初の休日でゴルフに興じる麻生総理の姿だった(十月四日)。異例の深夜の緊急会見を開いた日銀の白川総裁の危機感との落差は、あまりにも大きいといわざるをえない。

 民主党はリーマン破綻の翌日にすぐ「金融対策チーム」を発足、連日検討を重ねた。前述のとおり、与党の対策チーム発足は二週間後の十月一日。ここにも認識と対応の落差は歴然としている。ようやく自民党のプロジェクトチームが初会合を開いた翌日、十月十日には民主党プロジェクトチームは対策を取りまとめた。その内容は、地方銀行や信用金庫などの経営基盤強化のため、公的資金の投入ができるようにする「金融機能強化法」を二年間の時限措置として復活する、また中小企業対策のため十兆円の特別保証枠を準備するといったもの。中川大臣が会見で政府の市場安定策を発表したのは、それより四日後の十月十四日だった。
 金融危機への対応では(実体経済への対策とは違って)対策の選択肢に大きな違いがあるわけではない。問題は時間との勝負だ。市場への政府の介入についてある種のイデオロギー論争で時間を浪費したブッシュ政権に比べて、いち早く公的資金投入の枠組みを作って対処したイギリス・ブラウン政権をみてもそれは明らかだ。総選挙を「政局」と見る程度の政権に、金融市場における政府の危機管理能力がどれほどあるのか。世界の株式市場のなかでもダントツの下落率で、見る見るうちに二十六年前の株価を割り込んだ姿は、政治決断のできない政権には国民の富を守ることはできないことを示している。
 国民の富と生活を守る、その仕組みを国民が選び、税金の集め方と使い方を国民自身が決める。それが民主政治の基本だ。われわれの民主主義は、金融危機を前に機能停止・思
  考停止する程度のものなのか。今こそ、国民主権の底力が問われている。

「景気対策」に名を借りた
「失われた十年」の再現を許すな

 「選挙よりも景気対策」という世論は、株価の暴落や急激な円高への緊急対策を行った後は、すみやかに政権選択を問えということだ。「危機」の前に思考停止になれば、目先の緊急対策とその後の経済対策の仕分けさえなくなり、景気対策に名を借りた「失われた十年」が再現されることになる。解散を先延ばしするのであれば、追加の補正予算案も含めて、景気対策について徹底した国会論戦を行い、改めて国民の前に選択肢を提示すべきだ。〇五年郵政選挙の一票は、補助金と公共事業バラマキという過去の自民党政権の「景気対策」を再現することへの白紙委任ではない。
 「日本経済を立て直すという意味からも、金融危機を脱するという意味からも、この局面で求められていることは何か。経済で最もウエートが大きいのは、個人消費です。日本では個人消費、投資、政府支出、輸出というなかで、個人消費が六割を占めています(欧米は七割)。ただでさえ欧米に比べてウエートが小さいうえに、ここが元気がない。理由はふたつあって、ひとつは可処分所得が増えないこと。もうひとつは将来不安があること(所得があっても消費に回さない)です。この二つの要因に対してダイレクトに働きかける対策を行わなけれ

ばならないのです。
 にも関わらず、自民党政権では可処分所得を増やすという政策は取っていません。おまけに将来不安に対しても、社会保障関連費を毎年二千二百億円ずつ削るという方針を変えていません。さらに医療や年金、介護などの個別政策についても、むしろ将来不安を増幅する方向になっています」(大塚耕平参院議員 七―九面インタビュー参照)。
 景気対策に必要なことは、国民生活の現在の不安(雇用、職場)と将来の不安(年金、医療など)に直接届く政策だ。それがバラマキになるかどうかは、一時的な彌縫策(バンソウコウを貼る程度のもの)なのか、政策構造・財政構造の転換につながるものなのか、にかかっている。有権者はここを見極めるべきだ。
 例えば与党がまとめる追加経済対策には、定額減税や住宅ローン減税の延長・拡充などが含まれているが、一年限定で一世帯六万五千円程度の定額減税では、その効果はたかが知れている。道路特定財源の一般財源化に伴って地方への配分額を一兆円増額というのも、既存の補助金構造(国の指示、基準に地方が従う。地方の自由裁量はない)がそのままでは、たいした効果は期待できない。そもそも霞ヶ関で作った全国一律の景気対策など、機能するはずはない。何よりも一般会計のみならず特別会計、特殊法人も含めた国の総予算を組み替えることなく、官僚内閣制の惰性にまかせた財政構造のままなら、何をやってもバラマキになる。
 「だから争点は景気ではなくて、日本の財政構造を変える、予算の使い方を変えるということです。政策には財源が必要
  です。それをどこから持ってくるのか、ということです。与党は定額減税をやるといいますが、その財源はどこから持ってくるのか。
 われわれは特別会計も含めた予算の総組み換えをすると言っていますが、自民党と民主党の違いは何かといえば、既存の財政構造、既存の無駄遣いを温存したまま、赤字国債も視野にいれて、これまでどおりのバラマキをやる自民党なのか。特別会計も含めて徹底的に無駄遣いを省くとともに、すでに景気対策として機能しなかったことが明らかな事業ではなく、国民の生活に直接届く予算の使い方をする民主党なのか。これが最大の違いなんです」(福山参院議員インタビュー 九―十面)。
 解散を先延ばしにするなら、こうした経済政策をめぐる違いを、論戦を通じて徹底的に明らかにし、国民に改めて選択肢を明示すべきだ。国民の選択を得ない政権に、衆議院の任期を超える予算編成を白紙委任するわけにはいかない。
 日本経済は今回の危機が顕在化するより前から、官製不況などのホームメイド要因で不況感が漂っていた。今回の危機のなかでも、日本の株価下落率はダントツである。これは「サブプライム問題以上に、日本経済には解決すべき構造的な問題がある」ことを、市場が示しているといえる。
 世界経済フォーラムが発表した「二〇〇八年版世界の競争力報告」によれば、日本の総合順位は昨年より一つ後退して九位、中でも「政府債務の水準」は調査対象となった百三十四カ国・地域のなかでもワースト6となり、同フォーラムは「日本は政府部門が民間の足を引っ張っている」と指摘している。

このほかにも順位が悪い項目には「財政収支」(百十位)「政府の無駄遣い」(百八位)「農業政策のコスト」(百三十位)など政府部門ばかりが並ぶ。
 国と地方を合わせた一般会計のほかに特別会計や公益法人、第三セクターなどの予算規模は、あわせて六六八兆円となり、民間を中心に生み出すGDP五百兆を超える。この官民の比率は、「官から民へ」の小泉改革があったにもかかわらず、橋本行革のときよりも大きくなっている。まさに官僚内閣制の惰性が、国民の富を無駄食いしている。
 この構造を転換するのかどうか。特別会計や特殊法人をも財源論の俎上にのせて財源を論じるのか、その構造には手をつけずに、(埋蔵金の)一時的流用でつじつま合わせをするのか。ひも付き補助金をやめて地方に一括して自由に使える財源を渡すのか、補助金を配る仕組みには手をつけずに、ばらまく額を上乗せするだけなのか。ここをしかと見定めよう。

国民の富を守る 
独立国としての通貨主権、金融主権を

 今回最も深刻な危機に直面したアイスランドの首相は、「銀行もろとも国が渦巻きにのみ込まれ、金融立国はおとぎ話だった」と発言している。実体経済をはるかに越える規模のマネーが、瞬時にしてグローバルに動く市場のなかで、国民の富を守る独立国としての通貨主権、金融主権の確立がいかに大切かということだ。
   七十年代後半、先進国が同時不況に陥った際、新興勢力であった日本とドイツに西側景気のけん引役が負わされた。当時の日本は、大量の赤字国債を発行して大型公共事業を行った。旧国鉄の赤字も一部、これに起因している。八五年には、双子の赤字に苦しむアメリカを下支えするために円高で政策協調(プラザ合意)、それまでせっせと買い支えてきたドル資産は、円高で大きく目減りした。通貨主権の意識なき西側一員論の姿である。
 そして今、ふたたびドルの危機を国際協調で支えなければならない局面だ。この枠組みには中国までが参加せざるをえない。冷戦後、単一の世界市場が登場して以降の国際社会は、金融主権、通貨主権の主体性を持たずして安全保障の主体性を持つことはありえない、という世界になっている。だからこそ、金融危機対応をめぐる国際政治は、国益と国民の富の防衛をかけた熾烈な外交交渉の舞台となっている。「日米同盟さえ守っていればいい」ということでは、国民の富が不良債権の山に化けることになる。金融危機をめぐる国際協調においても、独立国としての通貨主権、金融主権をきちんと発動できる政府なのか。緊急金融サミットをはじめこのことを国会で厳しく検証し、国民の前に政権選択の争点を明確にすべきだ。
 サブプライムローンに象徴されるようなマネーゲームのビジネスモデルは、否応なく見直されざるをえない。この十年くらい、アメリカ発のグローバル化の波に押し流されてきたが、その波が凪いでみると、別の景色も見えてくる。利子や配当と

いう実業あっての金融か、値上がり益(とらぬ狸の皮算用)にレバレッジを利かせて、マネーがマネーを生むような金融ゲームなのか。金融主権のあり方を明確に論議すべきだ。
 日本の国民資産は一千五百兆といわれるが、これを年一%で運用すれば十五兆になる(消費税の総額は年十一兆円)。この国民の富をどう生かすのか。お上(官僚)が召し上げて使うのがいいか、アメリカに預けて使ってもらうのがいいのか、
  自分たちの判断で「天下の回りもの」として社会に回るようにするのがいいか(内需拡大、お金の地産地消)。経済は生活のあり方だ。だからこそ国民の富を守ることのできる金融主権、通貨主権とは何か、それを発揮できる政府とは何か。その選択肢を堂々と国民の前に示すよう要求しよう。
(10月28日夕刻記)