日本再生 353号 2008/10/1発行

日本の民主政治のためには、政権交代が必要だ
―官僚内閣制の”終わりの終わり“から、「政権交代が当たり前」の議院内閣制の”始まりの始まり“へ―

日本の民主政を前に進めるのか、
閉塞と先送りの悪循環を続けるのか
主権者の選択の質が問われる

 解散総選挙へのカウントダウンが始まった。来る総選挙はまさに、日本の民主政を一歩前へすすめることが出来るのかどうか、国民主権の真価が問われる選挙である。
 〇五年の郵政選挙は、「政権のありかたは、選挙で有権者が決める」ことを垣間見せた。しかしその後の三年間、二代にわたって総理が政権を放り出し、総選挙で民意を問うことなしに政権がたらい回しされた。気がついてみれば、「改革政党」に変わったはずの自民党からは「改革」のスローガンが消え、閣僚の六割が世襲という麻生内閣が(党内の圧倒的支持を得て)誕生した。「自民党は変わった」と叫んだ小泉氏も息子を後継にした。〇五年の選択は何だったのか。
 ようやく国民は、主権者として意思表明する機会を得る。小選挙区制の導入、マニフェスト選挙と(十分とはいえないまでも)政権選択選挙のツールを整えてきたにもかかわらず、政権を選択したはずの一票が選択した覚えのない政権にすり替わる―この悪循環を断ち切って、日本の民主政を一歩前に進めることができるかどうか。それはひとえに、(〇五年の選択
  の質を超える)主権者としての選択の質にかかっている。
 新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)は九月二十五日に発表した「総選挙に向けての緊急提言 〜来る総選挙を歴史的な政権選択選挙とするための条件整備〜」の中で、次のように「基本認識」を提起している。
「日本の政治はきわめて厳しい状況にある。政策課題は内外で山積している。にもかかわらず、政権は実績をあげる暇もなく相次いで崩壊している。先送りによって事態がさらに厳しくなるのは明らかである。
 この悪循環を断ち切る望みの綱が今度の総選挙である。政党政治への信頼は大きく傷つき、しかも財政は大赤字で『逃げ場のない』状態に追い込まれている。国民の生活もかつての余裕を失い、『逃げ場のない』悲鳴が随所であがっている。その意味で『逃げ場のない総選挙』に向けてカウントダウンが始まっている。
 しかし、騒々しい総選挙を行うだけでは先の悪循環を断ち切ることはできない。ここで立ち返るべきは『政治は頭脳でおこなうものである』という原点である。状況が厳しいことを踏まえてぎりぎりまで頭脳すなわち判断力を研ぎ澄ますこと、そして、優先順位を明確にして一つ一つ課題を解決していくこと、この政治において言うは易く行うは難い実践を、政治家と国

民双方が今回の総選挙を通して行わなければならない。
 その意味で、来る総選挙はまさに『日本の民主政治の真価を問う総選挙』である。失敗した時のダメージは限りなく大きい。
 幸い、消化試合のような総選挙とは違った環境が整いつつある。そうした環境をさらに一層入念に整備し、政治家にとっては悔いのない、国民にとっては精神的にずしりと手応えのある総選挙、一言で言えば、『歴史的な政権選択選挙』を行うことによってのみ、『新しい日本』への展望が開かれる。今こそ、そのために必死の努力をすべき好機が到来したのである」
 福田政権も安倍政権も「ねじれ」国会に直面して、機能不全を露呈させた。与野党対立を「政治の空白」と表現し、その空白を作らない・長引かせないことを辞任の理由に挙げた。「ねじれ」という表現には、国会が正常ではないという言外の響きがある。衆参の多数党が同じで、与党が決めたことがそのまま国会を通るのが当たり前、という前提だ。しかし、これが政治の安定だろうか。ここには談合はあっても、討論を通じた合意形成はない。ここには野合・なれあいはあっても、競争原理はない。競争原理が働かないところでは、「白紙委任」はあっても選択はない。これを、まともな民主政治といえるだろうか。
 「ねじれ」国会こそ、(民主主義の基本である)政党間競争の始まりではなかったか。主権者が与えたこの舞台で、政党間競争の新しいルール(国会改革、官邸主導など)を創りだす
  ために、どれだけ知恵を絞り、試行錯誤し、教訓を得たのか。それともこれを「異常事態」ととらえ、なすすべもなく官僚内閣制の惰性にひきずられたのか。福田政権、安倍政権の相次ぐ行き詰まりは政治の混乱ではなく、今の日本では民主主義の原則に逆らう政治運営はできなくなったことを明らかにしたというべきだろう。
 だからこそ小選挙区、マニフェストという初歩的基盤整備のうえに立って、さらに日本の民主政治を前に進める、その大きな一歩を踏み出すときだ。
 「筆者は、今の日本の政治状況に関する、こうしたネガティブな評価や解釈は、根本的に誤っていると考えている。福田首相の辞意表明も含め、昨今の政治の流れが物語るのは、戦後六十年を経ていよいよ日本の民主主義が本格的に成熟しようとしている、むしろポジティブな予兆だ」(河野勝 日経「経済教室」9/10)
 「そもそも民主主義とは、大著『資本主義・社会主義・民主主義』でJ・シュンペーターが定義したように、政権獲得を目指し政党間で繰り広げられる『終わりなき競争』のプロセスである。競争原理が働くことで、各政党は能力ある政治家をリクルートし、多くの有権者が支持する政策を打ち出す。選挙で政権についた与党は、次の選挙でも有権者に見放されないように、政治倫理を高め、公約した政策を実施しようとする。他方、破れた野党は、与党政府よりさらに洗練された政治の実現を掲げ、次期選挙で回生を期すべく努力を続ける。

 ゆえに、民主主義政治の一つの理想の姿は、政党がより多くの得票・議席を求め、切磋琢磨し、選挙を戦うことにある。この理解にもとづけば、今の日本の政治は、民主主義政治の本質を見事に体現している。各政党の切磋琢磨の結果、衆議院では自民党、参議院では民主党が、それぞれ第一党の地位を占めるようになったのだ。〜中略〜『ねじれ』国会ほど、政党間の終わりなき競争という民主主義の本質を象徴する政治状況はないともいえる」(同前)
 小選挙区、マニフェストは、有権者の選択に基づく政党間競争のツールとして機能しつある。そこから、「ねじれ」があって当たり前という民主政治の新しいステージが拓かれた。「ねじれ」を異常事態ととらえていては、安定した政治運営さえできないことがはっきりした。そこからもう一歩、政権交代があって当たり前の民主政治へ、踏み出そうではないか。政権交代こそ政党間競争をルール化する基軸であり、それによって民主政が安定的に運営される―そういう「普通の」民主主義のステージを拓こう。
 来るべき総選挙の争点は、「自民か民主か」「麻生か小沢か」という次元のものではない。日本の民主政を一歩前に進めるためには政権交代が必要だ―これこそ、総選挙の最大の争点だ。
  官僚内閣制の“終わりの終わり”
「政権交代があって当たり前」という
議院内閣制の“始まりの始まり”

 麻生内閣の発足を受けた世論調査では、総選挙の比例区投票先で自民36%、民主32%(9月2、3日の調査では自民28%、民主32%)と、昨年末から続けているこの質問ではじめて、自民が民主を上回った。一方で、「ときどき政権交代があったほうがいい」が73%、「そうは思わない」が21%で、自民党支持層でも約六割が「あったほうがよい」と答えている。同時に「首相にふさわしい」のは麻生氏54%、小沢氏26%で、「政権交代があったほうがよい」という人のなかでも、麻生氏47%、小沢氏33%となっている。(朝日9/26)
 「政権交代があったほうがいい」は、すでに民意となったといってよい。この間の世論調査で、自民・民主の政党支持率にかかわりなく、「次期総選挙の投票先」として民主が自民を一貫して上回ってきたことにもみられるように、「自民か民主か」「民主党に政権担当能力があるか、ないか」ということとは別の次元での判断基準を、有権者は持ち始めている。この民意を俗論に流さずに、いかにしてパブリックの輿論へと収斂させていくか。ここに民主政治を安定的に運営していく鍵がある。

 「政権交代があったほうがよい」という判断基準は、どこから来るのか。それは政党支持/支持政党なしに関わらず、日本の民主政治を発展させるためには「政権交代があったほうがよい」ということだ。政権交代によって、民主党には政権運営の責任を厳しく問い、自民党には健全な再生の糸口を与える。こうして政党間競争の質をレベルアップさせ、そこから次の選択の質を高めていく。そういう民主政の発展サイクルを回そうということだ。
 この民意に届くメッセージを政党、候補者はどう発するのか。政権交代が前提になっている有権者に「政権交代」をいくら叫んでも、足は止めない。そこにとどまれば、「麻生か小沢か」という個人の人気投票に持ち込んで延命しよう、という俗論の空間が派生する。その裏返しは、政治不信や官僚不信を煽り立てて「だから政権交代」と訴えることになる。これでは民意を輿論へ収斂し、選択の質を高めていくことはできない。
 選挙の宣伝戦のなかでは「自民党ではもうダメだ、だから政権交代を」「政権担当能力のない民主党に任せられるわけがない」というレトリックは、ありうるだろう。しかし政権交代が必要だという輿論の核心は、自民か民主か、どちらに政権担当能力があるか、ということではなく、ようやく始まりつつある政党間競争のレベルアップをどうやって図るか、という点にある。選挙後の状況を考えれば、このことはさらに明確になる。
   選挙後の状況でひとつだけ明確なことは、与党(自民・公明)は衆議院での再議決を可能にする三分の二の議席を失うということだ。つまり自公が過半数を得た場合は、再議決が封印されたうえで、「ねじれ」という政党間競争をいかにルール化していくかが、待ったなしに問われる。官僚内閣制の惰性ではいよいよ立ち行かない。
 民主党が過半数を制した場合には、「ねじれ」は数のうえでは解消される。ここでの問題は、民主党がどこまで従来の自民党政権と異なる多数党としての振る舞い(健全な政党間競争を可能にする政権運営や国会運営)ができるのか、そして自民党が民主政に不可欠な「健全な野党」にどれだけ近づけるのか、である。民主党は無責任だ、スキャンダルばかり追及するというが、細川政権で下野したときの自民党も相当にひどかった。これを繰り返したのでは健全な再生は難しい。また政権を維持したとしても、この体質を残したままでは、これまで以上に行き詰るだろう。
 いずれにしろ総選挙後のステージで求められているのは、政党間の対立と競争のレベルアップであり、そのルール化による民主政の安定的発展にほかならない。政権交代は、この課題を自民、民主にストレートに突きつけることになる。自公が過半数を維持した場合は、「ねじれ」に直面して二度にわたって政権を放り出した前歴を繰り返すリスクを、相当程度覚悟

しなければならない。
 この課題がスムーズに進まないところから生じる閉塞を、政界再編や大連立で回避しようとする試みは、民主主義の自殺行為に等しい。政権交代の場合は、このリスクは相対的に低くなる。その意味でも、日本の民主政の発展のためには政権交代が必要だ。(少なくとも直近の選挙で政権を争った政党が、それを「なかったこと」にするようなことは有権者に対する背信行為だ、というくらいのモラルは共有すべきだろう。政界再編が可能になるとすればそれは、政党間競争がある程度ルール化され、対立軸と共有軸が仕分けされたうえでの話だ。)
 総選挙後には、政党間の対立と競争をルール化した国会運営のための国会改革が不可欠だ。国会改革はまさに官僚内閣制では扱えない、議員、政党自らの力で議院内閣制を運営していく課題である。憲法調査会が議事録に残る議員同士の討論を通じて、国民投票法を仕上げた先例もある。そのような国会が当たり前になるために、政権交代が必要だ。


議院内閣制を機能させる
チームとしての政党力を競え

 政党間の「終わりなき競争」によって民主政を安定的に発展させるためには、官僚内閣制の惰性を断ち切り、議院内閣制を機能させる国会の活性化や政治主導を確立しなければなら
  ない。総選挙では与野党ともに、この課題に取り組む選挙後の舞台で「使いものになる」役者(議員)を選出しなければならない。そして少なくとも、この舞台で「邪魔にならない」「妨害しない」ものを選ばなければならない。官僚内閣制の惰性は、ここでの最大の妨害物だ。
 そこからすれば、週一回の党首討論にさえ耐えられないような総理と総理候補では話にならないし、失言連発の大臣を任命するようなことは許されない。また委員会で役所のメモを見ながら「質問」するような議員や、役所の振り付けどおりに動く大臣や副大臣は、お役御免にすべきだということになる。あるいは、法案に賛否をしたら後は役所にお任せ・丸投げ、という議員では与野党ともに使いものにならない。「小骨一本抜かせない」ように、制度設計から運用の細部まで執行過程を検証することができてこそ、政治主導の意味がホンモノになる。そして官僚にはできない切り口から議員立法を作り上げる、また議員同士の討議を通じて法案修正ができる、そういう議会活動ができてこそ議院内閣制の政治主導が可能になる。
 日本の民主主義のためには政権交代が必要だ、という主権者運動の観点からの投票基準は、来る総選挙においては以下のようなものになるだろう。
@委員会で「政策棚卸し」(*)の議論ができる者、役所に頼らずに議員立法の活動ができる者、そういう候補者を国会に送る。
A小選挙区で、自民、民主の候補者がどちらもその資質、実

績を持っていた場合には、政権交代のために今回は民主の候補者は小選挙区で、自民の候補者は比例トップで当選するような「戦略的投票」を。
B@の活動の主体者ではないが、理解する、協力する、少なくとも妨害をしない、足をひっぱらない、という者を国会に送る。
 言い換えれば自民、民主どちらが政権に就いたとしても、総選挙後の国会の委員会審議では、自民党からは「政策棚卸し」のようなメンバーが、民主党からは議員立法を自力でつくってきたようなメンバーが、片や質問者となり、片や大臣・副大臣・政務官として答弁する、という構図に様変わりさせなければならないということだ。
(「政策棚卸し」自民党無駄遣い撲滅プロジェクト・河野太郎チームが行っているもので、省庁の政策事業についてゼロベースで検証、仕分けをしていく作業。8月に文部科学省、9月に環境省について実施。【参照】「日本再生」三五二号「政策棚卸し 傍聴記」/亀井善太郎衆院議員インタビュー)
 政治主導のツールは、十分とはいえないまでも準備されてきた。副大臣、政務官がマニフェストに基づいて役所に「これは違う」という時に、大臣が内閣の意思を体現し、総理が「これで行く」と言えば、政治主導は機能する。マニフェストがあいまいで、大臣も役所の振り付けどおり、総理もどっちつかず
  なら、例え副大臣ががんばっても政治主導は機能しない。あるいはパフォーマンスや思いつきで「役所批判」をするような大臣も、お飾りにすぎない。
 政治の意思を十分に貫徹しうる衆院の三分の二という圧倒的多数を持ちながら、自民党は(政党としては)こうした現にある政治主導のツールを使いこなすことは出来なかった。やはり官僚内閣制の惰性は、政権交代によってしか断ち切ることはできない。民主党は政権を取れば、百人程度の政治家を役所に配置するとしているが、政治主導を機能させるために「使いものになる」議員をそろえることができるか、そしてそれがチームとして機能するよう使いこなすマネジメントができるかが、問われることになる。
 その意味からも、問われているのはチームとしての政党力である。党首討論はイギリス議会でのクェスチョン・タイムに倣ったものだが、本家のそれは本会議での議員の自由討論であり、閣僚同士(野党は「影の内閣」)の討論であり、党首同士の討論はその最後の一部にすぎないという。21世紀臨調は先の緊急提言で、首相候補同士の討論に加えて、連立与党と民主党の閣僚同士の政策論争を呼びかけている。来る総選挙ではぜひとも、議院内閣制を機能させるためのチームとしての政党力を競うべきだろう。
 

政権党のマニフェストは実績評価を、
野党のマニフェストは「何をやめるか」
「何をあきらめるか」の選択を問え

 来る総選挙で主権者の選択の質を高めるためには、マニフェストの質を高めると同時に、その検証・評価の質を高めることが不可欠である。
 最善の策は、自民、民主それぞれが党首選挙において「堂々たる政策論争」を繰り広げ、そのなかから「党首」と「マニフェスト」を収斂させていくことであった。しかし民主党は無投票で小沢氏が代表に選ばれた。一方福田総理の政権投げ出しによる自民党の総裁選は、にぎやかに盛り上がりさえすればいいという「見せ物型」総裁選ではなかったか。
 次善の策はどうか。民主党は、基本政策、工程表(09年度実施、二年以内に実施、四年後までに段階的に実施)、財源などについて順次まとめている。また執行体制についても、「政治主導」を明確にするとともに、「次の内閣」の名簿を選挙前に発表するという。
 一方の与党は、小泉改革の継承か否定か(何を継承、何を修正)という安倍政権以来問われてきた政権の基本路線について、ここに至るも答えを出しているとは言いがたい。あえて
  言えば、改革の継承を掲げてきた「上げ潮派」が閣内からいなくなり、「財政出動派」と「財政再建派」のどちらに軸足を置くのか、といったところか。だがそれよりももっぱら、目前の総選挙をどう有利にするか、ということが政策においてもすべての判断基準になっている。(補正予算が重要だと言いながら、中山大臣の暴言辞任に直面するや、審議に入ると不利だから冒頭解散だと言い始める。)これでは本格的なマニフェストは期待できない(役所の上げてきたものをホチキスで綴じる、といった類になる)。
 次々善の策は、主権者の検証の質を高めることだ。その基本原則は、政権党のマニフェストは実績評価を、野党のマニフェストは「何をやめるか」の選択を問えということだ。政権交代を経験したことのないわが国では、「野党に政権担当能力があるかどうか」という問い自体が意味をなさない。それに対して政権党は現に政権を担当しているのだから、「何を言っているか」よりもまず「何をやったのか」という実績を検証しなければならない。
 例えば、よく財源が問題になる。民主党のマニフェストはばらまきだ、財源はどうするのかと。しかし財源に責任を持つべきなのは、まずは政権党だろう。年金一元化をマニフェストで掲げた民主党に対して、与党は「百年安心」と言った。その百

年安心プランの要ともいえる基礎年金の国庫負担増(三分の二から二分の一へ)は、来年度から実施されることになっているが、いまだに与党は財源をどうするのか、何も決めようとしていない。与党のマニフェストは、それを明示するのだろうか。
 民主党の政策はばらまきだと批判されるが、例えば農家への戸別所得補償は既存の農業関係補助金の廃止とセット、子ども手当ては控除の廃止とセットになっている。むしろ民主党は「何をやるか」と対になっている「何をやめるか」という部分を、もっと明確に伝えるべきだ。道路特定財源暫定税率の廃止論議の時もそうだが、暫定税率をやめればガソリン代は下がる、しかしその分、道路建設のお金は地方に回る分も含めて減るといって有権者の選択を問わなければ、意味のある選択にはならない。
 いまだ政権交代を経験していないわが国では、国民のなかに政権交代に対する必要以上の不安もある。民主党の政権担当能力への不安も、それによっている部分も少なくない。だからこそ民主党にとっては、「何をやめるか」を正直に、真剣に訴えて主権者の選択を問うことこそが、政権担当能力への不安を解消する王道ではないか。〇四年の参院選で、消費税率アップをともなう年金一元化のマニフェストに、自民党を上回る支持を与えた(議席、得票とも)有権者を信頼することではないか。
 わが国が置かれた環境は、かつてとは大きく違っている。右
  肩上がり・高度成長の時代から、人口減少・高齢社会へ。国際的な立ち位置も、かつてのようなキャッチアップから、新興国に「追われる」立場へ(アジアにおける課題先進国としてのポテンシャル)。国際競争の舞台も、工業化時代から環境負荷を内部化した環境経済戦略へ(低炭素社会、エネルギー革命、CO2本位制など)。そして官僚主導・中央集権から地域主権・分権型社会へ。
 政権交代なしに、この転換に対応することは可能か。右肩上がりを前提に設計された年金制度では、もはや社会の変化に対応できないことは明らかだ。しかし官僚内閣制では、方向転換はできない。「百年安心」というのは結局、負担増・給付減を繰り返せば「制度は百年安心だ」ということにほかならない。しかし社会はそこからどんどんこぼれて、制度不信だけが増幅していく。これを「百年安心だ」と言って強行採決までした政権党に、方向転換は可能だろうか。
 旧来の政策や制度の「何をやめるか」なしに、方向転換はできない。今回の総選挙のマニフェストで検証すべきなのは、「何をやるか」ということよりも、「何をやめるか」をどれだけ正直に掲げているかということだろう。
 それを選択する国民にとっても、「逃げ場のない」総選挙としなければならない。閉塞と先送りの悪循環を断ち切ることができるのは、有権者の一票だ。その延命のツケを払うのも国民だ。〇五年の選択の質を超える主権者としての選択を!