日本再生 351号 2008/8/1発行

主権者運動の力で、「何をあきらめるか」の選択を問う
堂々たる政権選択選挙のうねりをつくりだし、既存政党を迫り出していこう

「逃げ場のない選択を問う」ステージへ
既存政党を否応なく迫り出せ

 この九月で衆議院の任期はいよいよ残り一年を切り、解散・総選挙にむけたカウントダウンが本格的に始まることになる。「内閣改造」「臨時国会召集時期」をめぐる駆け引きは、その幕開けだ。
 内閣改造を行えば、福田総理の下で解散総選挙を行う決意を示すことになる。しかし改造が求心力アップにつながらなければ、「これでは選挙は戦えない」という自民党内の「福田降ろし」に弾みがつくリスクもある。また改造で「福田カラー」を出すとすれば、財政再建優先か「上げ潮」か、改革の続行か見直しか、といった党内の論争にも一定の方向性をつけることが必要になるが、その場合にも対立の火種は残る。万が一、「福田カラー」の方向性を出さずに、各派閥の入閣待ちリストから選ぶような改造を行えば、世論からは完全に見放される「自爆」に等しいことになる。
 さまざまな問題をあいまいにしたまま逃げ切りを図ろうという「何が何でも政権維持」では、いよいよニッチもサッチも行かない局面に立ち至っている。
   「政治が動かない」のは、ねじれのせいではない。衆参の多数派が逆転してから一年、いよいよ「選挙で示された民意で政治を動かす」という以外の選択肢はなくなった。大連立の軽挙妄動は封じられたし、「政界再編」という幻想の余地も(総選挙前には)ほとんどない。三分の二による再議決も行ったし、問責決議も出した。総選挙で民意を問う、という以外に政治を動かすすべは、もはや残されていない。
 「何が何でも政権維持」vs「何が何でも政権奪取」のすくみ合いから、「逃げ場のない選択にどう向き合うか」というステージへ、既存政党を否応なく迫り出していかなければならない。
 与党は選挙を恐れて、国民負担を伴う政策を軒並み先送りさせている。〇九年から基礎年金の国庫負担率を現行の三分の一から二分の一に引き上げることは、〇四年の「百年安心」プランで決まっている。このためには約二・三兆円の財源が必要になる。与党内では「選挙前に増税はできない」として、開始を〇九年四月からではなく半年以上先にずらして財源負担を抑えよう、という話さえ出てきている。強行採決までした「百年安心」の前提そのものを、与党がチャラにしようとしているのだ。これでは「政治が動かない」のは当たり前だ。
 一方の民主党も政権交代に大手がかかる状況を前に、「党

を割らない」ことにばかり腐心している。総選挙の結果次第では、この九月の代表選で選ばれた党代表が次の総理になる。その代表選が堂々たる政策論争によってではなく、「党を割らないように」という身内の論理で行われるようでは、政治を動かすエネルギーはいったいどこから生まれてくるというのか。
 こうしたなかで連立を組む公明党は、ジワリとフリーハンド的スタンスを取り始めた。洞爺湖サミットでも内閣支持率がほとんど上がらなかったという世論の動向が、決定的に舵を切らせたといわれている。
 「――『自民党は泥船だ』という声も党内にあります。
 泥船になるかどうかは、選挙結果による。公務員の不祥事や無駄遣いに切り込むべきだ。立法府として役人の側に立つのか、国民の側に立つのか、問われている。負担の前に、希望が先だ。自民党には夢もないし、自己改革もない、負担もない。このままの自民党だったら、選挙に勝てないどころか、政党としてもダメになってしまう。
 ――それでも自民党との連立を維持するのですか。
 自公両党で過半数を取れば、三分の二の議席を失っても自公政権だ。ただ、何のために政権に入るのかを明確にするこ
  とが次の選挙では必要だ。今まで(連立を)八年やってきたから、次も自公政権が当然だ、というのは違う。
 ――自公両党の議席が過半数に届かなければ?
 野党として、政策実現のために交渉する。連立野党(という選択)はない。政権を取った民主党が『この政策を一緒に実現しましょう』と言ってきたら、話し合いだ。『民公』か『自公』かではなく、自分たちの政策を実現するため政権に入るという『錦の御旗』を掲げることが大事だ。公明党の原点である福祉、平和の旗を堂々と掲げる」(高木陽介・公明選対委員長 朝日7/25)」
 各種世論調査によれば、内閣支持率は二割台からぎりぎり三割、不支持率は六割台。政党支持率こそ自民、民主に大差はないが、「次にどちらに勝ってほしいか」という設問には、民主が自民を大きく上回る状態が続いている。民主党の対立候補が決まっていないにもかかわらず、自民現職が10ポイント負けている選挙区さえあるという。
 この傾向は底固いものがある。経済社会の大きな構造転換に対応できない五十五年体制の惰性、これを止められない官僚内閣制の機能不全。社会保障(年金、医療、介護)の崩壊に端的に表れているのは、個々の政策の失敗というよりも、こ

うした構造的な問題である。それを感覚的に察知するからこそ、有権者は「ここまできたら、一度民主党にやらせてみたら」という意識になる。もちろん民主党の政権担当能力への疑問もあるが、それ以上に現状打開を求めているということだ。明治維新だって、できもしないことを承知で「攘夷」をスローガンに、政権をとった後は「文明開化」に舵を切った、という見方もできるのだから。
 このうねりを恐れるな。選挙で民意を受けた政治にしか動かせないものがある、ということは「小泉郵政選挙」でも明らかだ(選択の中身は別として)。さらに言えば、自民党が歴史上はじめて野党に転落した九三年の政権交代も、それまで永田町の力学ではどうしても動かなかった選挙制度改革を行い、今日に続く政治構造改革の起点となった。政権交代というエネルギーを得てこそ、時代の変化に対応した構造的な改革を動かす政治が可能になる。
 自民党は野党になることを恐れるな。政治の安定には「良い野党」の存在が不可欠である。変動期には、なおさらそうだ。「何が何でも政権維持」vs「何がなんでも政権奪取」というすくみ合いの与野党対立から脱皮できれば、日本の議会制民主主義は大きく前進する。野党になることで党改革も大胆に進む。野党になる勇気を持てば、国民負担を求める政策でも堂々と正論を打ち出すことができる。〇四年参院選で、年
  金一元化とセットで財源に消費税アップを掲げた民主党が自民党を上回る得票(比例)を得たように、国民はそれほど愚かではない。
 民主党は野党のメリットを徹底して活用すべきだ。与党が政権運営にとられる時間を、役所の手を借りずに自力で政策をつくり、有権者との対話を通じてマニフェストを作成するために使えるのは、野党の優位性だ。だからこそ「あれも、これも」ではなく「何をあきらめるのか」の選択を問うマニフェストが作れるはずだ。どんなに精緻に負担と給付を計算し尽くした年金の制度設計でも、国民の信頼がなければ成り立たない。財源問題とは、数字のつじつま合わせの話ではなく、信頼できる政府をつくれるか、という問題なのだ。
 現状打開を求める世論を「一発勝負の政権交代」に流し込んで、信頼できる政府を作れるわけがない。国民はそれほど愚かではない。
「何が何でも政権維持」vs「何が何でも政権奪取」のすくみ合いから、「逃げ場のない選択にどう向き合うか」というステージへ、既存政党を否応なく迫り出していくための主権者運動のうねりを作り出していこう。
 政治を動かすのは、ほかでもない主権者の一票だ。どんなに立派でも政党や議員に主権はない。ましてやどんなに優秀でも、官僚に決定権はない。「逃げ場のない選択」に主権者と

して向き合い、「堂々たる政権選択選挙」のステージへと、既存政党を否応なく迫り出していこう。


「何を選択したか」が明確になる
マニフェストを準備せよ 
そのための政策論争のうねりを
主権者の側からつくりだそう

 昨年秋の臨時国会(安倍総理の突然の辞任、テロ特措法、大連立騒動など)が「ねじれ」に対応するための「練習問題」であったとすれば、先の通常国会は「動かない政治」を動かすのは選挙で示された民意だ、という以外に逃げ場のないところへ絞り込んでいくために、「ねじれ」の功を生かす正念場であったといえる。いよいよこの秋は、堂々たる政権選択選挙に向けた広範な政策論争のときだ。
 「現在の政治の混迷は、政権交代可能な民主政が根付く通過点にすぎない。政権をめぐる政党の攻防が、政策の大きな選択肢を示すなかで、諸問題を解決してゆく可能性に目を向けたい。〜中略〜いまの日本に不足しているのは、問題に直面したとき、どうすれば打破できるのかという方向で物事を考える『政策型思考』と、一般有権者を巻き込んだ広汎な『政策論争』である。目前の難題をめぐって論争することなくして、政
  策革新はない。そこで『ねじれ国会』を活用し、国会論戦の活性化を通じて真剣な政党間競争を根付かせることを目指すべきであろう。そのうえで、合意に達しない問題は、政権公約を掲げ総選挙で決着をつける慣行を根付かせれば、『ねじれ国会』は怖くないのである」(飯尾潤 6/17読売)
 「失われた二十年」では、ポスト工業化社会・グローバル化に的確に対応できず、右肩上がりの惰性を続けた結果、国富(人材育成のための資源、時間も含む)を大きく毀損した。現在のわが国に問われているのは、その上に「この先の十年」をさらに失うのかということである。惰性で先送りを続けたため、転換に必要な時間も資源も限られ、難問も山積している。困難な課題を解くために何よりも必要な政治的合意は、選択肢を明確にした選挙での民意によって調達する以外にない。(「白紙委任」ではなく、「何を選んだのか」が有権者にも明確になる選挙にしなければならない。)
 そのためにも、国会における政策論争の活性化と、一般有権者も参画する広汎な政策論争を通じた輿論形成が不可欠になる。(週一回の党首討論にさえ耐えられないような総理と総理候補では話にならないし、委員会で役所のつくったメモを見ながら「質問」するような国会議員は、次の選挙で落とせということだ。また法案に賛否をしたら後は役所にお任せ・丸投げ、ということでは政治家として使いものにならない。立法の趣旨に基づいて「小骨一本抜かせない」ように、制度設計か

ら運用の細部まで執行過程を検証することができてこそ、政治主導の意味がホンモノになる。そういう議員こそ立法府に送り、仕事をさせなければならない。議会の決定に基づいて執行過程を検証することができないような政治家を何人役所に送り込んでも、所詮『お飾り』にしかすぎない。)
 この一年以内に必ず行われる総選挙において外すことができない政策課題、各党が必ずマニフェストで明らかにすべき課題、あるいは各党間でどこまでは合意を図れるのかを整理すべき課題について、主権者運動の側からのアジェンダ・セッティングを準備すべきである。
【外交 日米関係】
 臨時国会の召集時期は、来年一月に期限が切れるテロ特措法(インド洋での給油)をどうするのか、衆議院の三分の二を使って再議決するのか、見送るのかの判断に関わる。公明党や自民党選対幹部は「九月下旬召集・年末年始解散」を照準に合わせる。一方、自民党の伊吹文明幹事長などは新テロ対策特別措置法の期限延長のため「八月下旬召集」を主張し、「来春の解散」を念頭に置く。
 これが政局の駆け引きにとどまる話ではないのは、いうまでもなく十一月に行われる米国大統領選挙の時期と重なるからだ。ポスト・ブッシュの日本外交―対米関係をどうするかという問題を抜きに、インド洋での給油を継続するのかどうかを論じることはできない局面に、いよいよ立ち至ったということだ。イラク特措法も、七月には期限切れを迎える。緊密な日米協力
  なしに日本にとっての北朝鮮問題の解決は図れないが、テロ国家指定解除後の米新政権と、同盟関係の内実をどう築くのか。対米関係さえうまく行っていれば、日本の外交はオーケーだ、という時代なら「対米基軸か、対米自立か」というお気楽な話でもよかったが、もはやそういう時代ではない。ブッシュ政権八年間の外交をどう総括するかは、日本外交の主体性、軸足をどこに置くかを明らかにすることに直結する(本号・添谷教授の講演参照)。
 しかもそのアメリカは、ポスト冷戦時代の超大国ではもはやない。ドルの信認は、中国や産油国の存在なしには維持できなくなっている。食料や原油の高騰の一因は投機マネーの動きであるが、洞爺湖サミットで明らかになったのは、G8だけではそれを統御する当事者たりえないということだ。WTOにおいても、ポスト京都議定書の枠組みづくりにおいても、アメリカの拒否権はそれなりの意味を持つものの、BRICsやEUなどと並ぶプレイヤーのひとつにすぎない。
 グローバル・ガバナンスのレベルでも、オーソドックスな二国間関係のレベルでも、日米関係は新たな課題にすでに直面している。
【環境経済外交戦略】
 グローバル・ガバナンスのレベルからは、九〇年代以降の世界経済の拡大基調が、大きな転換にさしかかるなかでの国の舵取りが問われる。食料、原油の高騰は一時的なものではない。サミットは、七〇年代の石油危機とスタグフレーシ

ョンに先進国が協調して対処するために始まったが、今日における物価上昇、利上げ、株価下落、景気後退という悪循環は、もはやG8だけで対処できるものではない。
 WTOドーハ・ラウンド、ポスト京都議定書の枠組み合意をめざすCOP15、東アジア共同体構想とも関連するFTA、EPAなどで問われているのは、環境、農業、医療・介護、先端技術、それらの人材育成などにおいて、どのように国益を規定し、国富を保持していくか、にほかならない。
 「こうした構造変化が起きている中で、日本はどう対処すべきでしょうか。
 この局面を乗り切る鍵は、資源、食料、医療の三つ。言わば、成長の新しいエンジンです。この三つに関して、日本の各界リーダーがいかに的確な認識と果敢な行動力を持つかに日本経済の命運がかかっています。
 日本が資源小国であることは自他ともに認める事実。オイルサンド開発などを提唱する向きもありますが、それだけではインフレやエネルギー不足によって中長期的な価格高騰が予想される資源問題を乗り切れません。
 当面のポイントは、メルマガの前々回号(Vol.168)で最近の動向をお伝えした排出権取引での主導権獲得です。
 排出権は『新しい資源』という柔軟な想像力が必要です。鉱物資源、化石資源がない日本は、技術によって排出権という『新しい資源』を生み出し、これを輸出するという構想力が求められます。排出権は金融商品でもあり、排出権のサプライヤーとプライスリーダーの地位獲得に注力しなくてはなりませ
  ん。
 今後、各国の温暖化対策が進めば進むほど、排出権の供給量は減少します。一方、通貨(ポンド、ドル)や証券(株、債券)は、経済発展に伴って供給量が増加し、20世紀を通じて傾向的に価格(価値)を低下させてきました。21世紀型の金融商品である排出権と20世紀型の金融商品の対照的な点です。
 食料も今や単なる食料ではなく『新しい資源』であるという想像力が必要です。食料価格も中長期的に上昇が予想されますが、よく考えれば、食料生産は資源獲得よりも日本にとって容易なことです。こういう環境になって、まだ減反を続ける日本の農業政策は『愚の骨頂』と言えます」(大塚耕平・参院議員のメルマガVol.170より)
 二十世紀型の惰性を続けるのか、二十一世紀型の発想に転換するのか。それは何年も先の話ではない。COP15は来年末、温暖化対策の中期目標は二〇二〇年。この先の十年を失うのかどうかは、まさに一年以内の選挙にかかっているといっても過言ではない。その当事者意識、責任意識を主権者運動のなかから覚醒させよう。
 京都議定書から十一年、曲がりなりにもヨーロッパが試行錯誤を繰り返すなかから「脱炭素社会」への道筋を具体化しつつあるのは、さまざまな知見の蓄積とともに政策論争が集積される責任の構造が社会に定着しているからだ。それはエリート層だけの話ではない。地方政府、地方議会では、「バッジをつけない主権者」の顔が普通の市民のなかに見えるのが当

たり前になっている。
 【ポスト産業社会のビジョン 「何をあきらめるのか」の選択を問え】
 年金、医療、介護の崩壊状況に端的に表れている最大の問題は、右肩上がり・工業化社会の成長モデルの惰性を断ち切らないまま、その場限りの「対策」を繰り返してきたこと、その結果「制度に対する信頼」「政府に対する信頼」が根底から崩れるに至っていることだ。「明日の仕事さえどうなるか分からないのに、何十年も先の年金のために払うカネはない」という若者を一方に生み出し、他方では「将来のために日本政府にカネを預けるより、新興国に投資したほうがまだ信用できる」という話になる。
 年金については新聞各紙がモデル案を発表するなど、論点の整理はそれなりに進んできたが、政府に対する信頼が崩れたままでは、負担と給付についてどんなに精緻な計算をしても、制度は成り立たない。政府に対する信頼とは何か。それは、右肩上がりの惰性の垂れ流しをストップするのかどうか、「何をあきらめるのか」、その選択肢を明確に示せるのか、ということに尽きる。垂れ流しの構造の上に、二十一世紀型の制度設計を打ち立てることはできない。
 「何をあきらめるのか」の合意は、まさに選挙での国民の選択による以外にない。それを基盤にしてこそ、制度設計をめぐる議論はスタートしうる。
   民主党の参院選マニフェストの財源は、十五・三兆円。
 天下り先への支出は、年間十二・六兆円。
 総裁派閥・清和研が打ち出した「改革の配当の国民への還元」は、今後三年間で五十兆円。
 民主党はいわゆる税金の無駄遣いを一貫して追及してきた。自民党にもようやく、「増税の前にまず無駄遣いを撲滅する」という動きが始まった。この競い合いのなかから、「何をあきらめるのか」を明確にする―資源配分を変える選択を、堂々と有権者に問うべきだろう。
 「道路特定財源、十年間、五十九兆円がケシカラン」「役人がケシカラン」だけでは、政策転換にはつながらない。「国際競争力の確保」として十年間で二十四兆円、その中身は空港、港湾へのアクセス道路の整備。これに対して、全空港の発着料が年間八百億円、十年間で八兆円。国際競争力の確保という政策目標から見て、どちらのカネの使い方が賢いか、という論戦から「何をあきらめるか」を明確にしていく。このようなアプローチが必要だ。
 当然、道路特定財源の議論で明らかになったように、地方の配分をどうするかも具体的になる。「暫定税率を廃止するということは、その分は地方には来ないということ」。そこまでを言い切ることができる政治家、政党なのか。それを問える有権者なのか。それとも「無駄を削る、だからみなさんの負担は増えない」という政治家、政党なのか。

 今や問われているのは、「無駄か、無駄でないか」というだけではない。「必要であっても、優先順位の低いものはあきらめる」という選択が問われている。どんなに立派で有能でも、それを決定するのは政党ではないし、官僚でもない。決するのは有権者の一票だ。だからこそ、「何をあきらめるのか」の選択が明確になるマニフェストを準備しなければならない。この先の十年を、再び失うわけにはいかないのだ。
 すでに厳しい財政状況に向き合わざるをえない地方では、ローカルマニフェストで「何をあきらめるのか」の選択を市民に問わざるをえない。行財政改革を徹底して推進してきた首長は「次の選挙では『何をやめるか』をマニフェストに書く」と言い、あるいは「何を削るか、ここで責任を分かち合えるのか」と議会に問いかけている。
   基盤は整備されつつある。この上に既存政党を迫り出していく主権者運動のうねりをつくり出していこう。「何をあきらめるのか」、その選択を主権者に問う堂々たる政権選択選挙を準備しよう。