日本再生 349号 2008/6/1発行

政権を選ぶ権利は国民にあり、これを代行することはできない
主権在民の方程式で、民主主義の新たな歴史的一ページを開こう

選挙で示された民意で政治を動かす、
そういう「堂々たる政権選択選挙」を準備しよう

 「ねじれ」国会も六月半ばで閉会となる。旧来型の日程闘争・国対の出番はなくなり、「堂々たる政権選択選挙」(21世紀臨調)にむけてどのように時間を使うのか、それをめぐる競争に入らなければならない。
 「『ねじれ』で政治が動かない」とたびたび言われてきたが、そもそも与野党が対立しているので国会でものごとが決まらない、というのは奇妙な話だ。議会政治は、多様な意見や利害を討論や採決を通じて何らかの結論へと集約していくシステムである。衆参の多数派が異なるので国会が機能しないというのは、議論を通じた合意形成ではなく議員の頭数でしか考えないという、官僚内閣制の非常識にほかならない。議論を通じた合意形成が機能するための国会改革は、今や急務である。
 とはいえ政権交代が現実味を帯びるなかでは、与野党の対立はさらに激しくなり、「党利党略」になることは避けられない。求められるのは、それが政治の停滞や消耗戦につながることを避ける知恵だ。
   「むしろ『党利党略』は民主政治と組み合わせることで、意味が変わってくることに注目したい。自分のことばかり考えているという意味での『党利党略』なら、いずれ有権者から愛想を尽かされる。例えば『党利党略』で野党が政権を総選挙に追い込んでも、その選挙でそうした政党が負けることになって、意味をなさない。しかし、選挙で勝とうとすることを根本に据え、そのために有利な状況を作ろうと各党が励むことは、それほど悪いことではない」(飯尾潤「中央公論」6月号)。
 むろん、総選挙は「政治の閉塞を打破する一発勝負」ではない。だが仮にねじれが解消しなくても、国民の信認を得た側の発言力は確実に増す。選挙で示された民意によって政治を動かす、その出発点となるような「堂々たる政権選択選挙」をいかに準備するか、そのための障害をいかに取り除いていくか。この問題設定から閉会中の時間を使っていこう。
 「堂々たる政権選択選挙」のためには、「有権者の選択が明確になるマニフェスト」「それを作成して首相候補、政権枠組みとともに示しうる政党」「既存政党をそこへ迫り出していく輿論の力」が三位一体で必要になる。言い換えればそれぞれ、その障害を取り除いていく主権者運動の組織戦が不可欠となる。

何をあきらめるのか、その選択を
主権者に問うマニフェストを

 「堂々たる政権選択選挙」のために求められるマニフェストは、「何をあきらめるのか」の選択を主権者に問うものであるべきだ。「ねじれ」によって、これまで族議員と官僚が国会外で牛耳ってきた道路財源論議が、国会のオープンな場でできるようになった。そこで明らかになったことは、道路をあきらめて資源配分を変えるのか、それともこれまでどおり道路資本主義を続けるのか(その枠内での「手直し」)、その論点整理にほかならない。道路特定財源の一般財源化という閣議決定が今後、骨抜きになるのかどうかもこの観点から問うべきだろう。
 「暫定税率を廃止する、その分は(地方には)もう来ない、ガソリンが二十五円下がるとはそういうことだと、はっきり言うべきなんです。(それで地方もどう覚悟をするか。)ある意味でこれは、これからの日本の政治の練習なんです。こういうことを本当に言える政治家、政党を信用すべきで、何となくバラ色みたいなことを言っているのは嘘だと。〜中略〜苦い薬を飲みながら、それでも前に進むか、それとも今のままぬるま湯につかっている方がいいか、そういう判断を迫られる」(小川淳也・衆院議員「日本再生」三四八号)。
 代議制民主主義が機能するための起点は、主権者が「何を
  付託したのか」が明確になることだ。今の日本では、「何をあきらめるのか」の選択を主権者に問うてこそ、それが明確になる。
 すでに厳しい財政状況に向き合わざるをえない地方では、ローカルマニフェストで「何をあきらめるのか」の選択を市民に問わざるをえない。行財政改革を徹底して推進してきた首長は「次の選挙では『何をやめるか』をマニフェストに書く」と言い、あるいは「何を削るか、その決定で責任を分かち合えるのか」と議会に問いかけている。こうしたなかで培われてくる輿論は、「何をあきらめるのか」の選択を問わない政権公約はニセモノだと見抜いている。逆にいえば、このような輿論に立脚しなければ「何をあきらめるのか」の選択を問うマニフェストは作成できない。
 「道路特定財源一般財源化」の閣議決定の力学は、自民・民主の改革派の政策競争と「生き残るためにはそれに乗るしかない」という官邸の判断だ。それを可能にしたのは(世論とは区別される)輿論の力である。公務員制度改革も基本的には同じ構造で、どこまでは一致し、どこは妥協し、折り合いがつかない点はどのように政権公約に入れるか、という整理で与野党協議が決着した。うまれつつある輿論が、「郵政民営化、是か非か」の時とは「政権選択」「政策選択」の土俵を決定的に変えつつある。この土俵に乗れる政権公約でなければならない。

意思決定は代行できない 
政権を選ぶ権利は国民にあり、
永田町には代行できない

 本号各紙面ならびにこの間の「日本再生」にあるように、「主権在民の方程式で政治を動かす」ということが、具体的な実践として多様に展開されつつある。自治体議会における会派マニフェストの取り組みから、個々の議員の「要望」(議場での陳情)ではなく「議会の総意」で政策を実現することに気づく。そこから、個々の議員としてではなく「議会として」市民と向き合うとはどういうことか、に気づく。同時に二元代表制における議会の「力」は首長との利害関係によるのではなく、「直接市民に立脚して市民の意思を代表している」ところにあることに気づく。市民の側も、議会を監視の対象とするのではなく、検証し向き合うことに気づき、討論と議決に責任を持つ議会へと「迫り出して」いこうとする。市民と議会との、自治をめぐる新しい緊張関係が生まれてくる。
 国会では「ねじれ」を奇貨として、税金の集め方・使い方は「お上が決める」のではなく議会で決める、それを選ぶのは自分たち国民だという議会制民主主義の原点が、教科書の話ではなく(ガソリン価格をはじめとする)生活実感の話になって
  きた。族議員と官僚が牛耳ってきた官僚内閣制の決定過程の非常識に気づくとともに、主権在民の方程式から決定過程が見えてくるようになった。
 決定過程が見えるとは議会が見えるということであり、「誰が決定権者なのか」が見えるということだ。税制を決めるのは族議員や官僚でないことはもちろん、どんなに立派な政府であっても、政府ではなく国会が決める。それを選ぶのは主権者たる国民だ。どんなに首長が市民参加を進めたとしても、自治体の予算や条例を決めるのは首長ではなく議会だ。だから議会は決定した責任を直接住民に対して負わなければならないし、市民の意思を代表しているかという緊張関係を常に持たなければならない。
 代議制民主主義では主権者の付託を受けた議会が決定を行うが、「本来、意思決定は代行できない」「どんなに立派でも政党や議員に主権はない、主権は国民にある」という原則で制度を運営する場合と、そうでない場合とでは、決定過程の方程式は大きく違ってくる。
 合宿では竹内芳郎の「ラブレターの例え」が披露された(四―五面参照)。ラブレターを書くこと(代筆)や渡すことは代行できても「誰に出すのか」「出すのか、出さないのか」という意思決定は代行できないように、執行は行政が代行することは

できても、決定は主権者自らが行うものである。
 官僚が意思決定を代行するほうが安上がりだというのが、「お任せ民主主義」にほかならない。決定を代行すれば無関心がはびこる。この相互関係が生み出したものこそ、土建国家・道路資本主義の歯止めなき肥大化であり、中央集権・官僚内閣制の不条理であり、巨額の財政赤字・自治体財政の破綻であり、社会的セーフティーネットの危機である。そして少子高齢社会、環境経済戦略、グローバル化など、官僚では意思決定を代行できない課題を先送りし続けた。
 その結果、われわれはもはや「あれか、これか」ではなく、「何をあきらめるのか」を意思決定しなければならないところに立たされている。この意思決定は官僚には代行できない。だからこそ政権公約で主権者国民の意思を明確にし、その付託を受けた議会が決定しなければならない。それが政権選択選挙だ。
 意思決定を代行しないということは、国民・有権者も脱中央集権、脱官僚、脱無党派へと、立ち位置を変えるということだ。すなわち、選挙の結果に白紙委任したのではない、ということを決定過程に対してはもとより、政策の立案過程においても、執行過程においても示す、そういうバッジをつけない主権者の行動的輿論を日常的に作り上げていくことだ。
   自治体議会をめぐっては、そういうバッジをつけた主権者とつけない主権者の協奏のモデルが、いくらか見えてきつつある。それをさらに深化・拡大していくこと、さらに多様なモデルを作り出していくことを通じて、「堂々たる政権選択選挙」の基盤整備を進めよう。
 同時にこれから本格化するであろうマニフェストの作成過程においても、主権者の意思決定・選択が明確になるように輿論を反映させていくことが必要になる。政権を選択する権利は国民にあるのだから、その権利を行使するに足りる政権公約を政党に促していこうではないか。
 役所の政策集で政権を選択することはできない。環境経済政策を「環境政策」と「経済政策」とにバラして、環境省、経産省、財務省などが何の連関性も統合性もなくそれぞれ立案し、果ては「環境対策」と称して道路特定財源まで使うということでは、「環境」という座標軸から市場システムそのものを再構築し、グローバルな炭素取引市場の制度設計で主導権を握ろうというEUに太刀打ちはできない。これでは日本の技術力も早晩、開発競争で後塵を拝することになるのは必定だ。永田町・霞ヶ関の政策立案枠組みを飛び越えた意思決定・選択を可能にするマニフェストでなければならない。
 分権についても、地方分権改革推進委員会が「地方政府」

と明言はしたが、それを実現する意思も意欲も永田町・霞ヶ関にはない。地方のほうも「国が音頭を取るから分権」では、今度は「国が言うから暫定税率維持」ということになる。ここからは、自治分権の意思も意欲も生まれない。まさに中央集権の相互関係の外から「迫り出して」いく、主権者の意思を明確にするマニフェストが必要だ。
 社会保障についても、財務省と厚労省の縄張り争いからは負担の押し付け合いにしかならない。まさに「何をあきらめるのか」の選択を主権者に問うことなしには、マネフェストにすらならないだろう。
 お願いから約束へ、として始まったマニフェスト運動を、マニフェストの検証と決定過程への参画(主権在民の方程式で議
  会を動かす)から、主権在民の方程式でマニフェストをつくる、立案過程も白紙委任しない段階へ深化させよう。政権を選ぶ権利は国民にあり、永田町には代行できない。まして官僚には代行できない。だからこそ政権選択選挙にふさわしいマニフェストを政党に要求し、首相候補、政権枠組みとセットで提示するところへと迫り出していこう。
 そしてこうした国民主権の共有地をさらに豊かなものとすべく、自治の現場における多様な取り組みをモデル化し、拡大していこう。
 「動かない」政治を前に動かすのは、主権者の一票だ。その意思、選択が明確になる政権選択選挙の歴史的な一ぺージを準備しよう。