日本再生 345号 2008/2/1発行

健全な政権選択選挙を準備するために、
その障害物を取り除いていく主権者運動の知恵を

内外政治の激動的動きが始まった
「内政ごっこ」に明け暮れているヒマはない

 〇八年は文字通り、激動の幕開けとなった。米国のサブプライムローン問題を発端に、冷戦体制崩壊後、未曾有の拡大基調を続けてきた世界経済に大きな動揺が走り始めた。サブプライムローン自体は住宅バブルの一種にすぎないが、その債権が複雑に証券化されて世界中にばら撒かれていることが、事態をより深刻なものとしている。金融工学を駆使したリスクヘッジという、アメリカ主導のグローバリゼーションそのものに内在する問題をどうマネージするか。この課題に世界が直面することになった。
 今年のダボス会議では、このサブプライム危機への対処が緊要の課題となる。従来日本からの参加者が少なかったこの会議に、今年は福田総理が出席するが、スピーチ内容は洞爺湖サミットを意識して「環境問題とアフリカ支援」であるといわれている。温暖化ガス削減の数値目標で画期的な提案をするならいざ知らず、世界の金融が大荒れの時期に、これでどれほどの存在感を示すことが出来るのか。総理も蔵相も早々とこの危機に対して「何もしない」と表明していることからも、まさに「内政ごっこ」のなせるわざである。(福田総理が提案した削減目標の積み上げ方式は、それさえ抵抗している国内向けには「決断」でも、京都議定書からの後退である。)
   今回、危機に瀕した欧米金融機関に「救いの手」を差し出したのが、湾岸産油国や中国といった新興国の政府系ファンドであったという点も、大きな歴史的転機を意味している。軍事力・政治力においても経済力・金融においても、冷戦後の世界を主導してきたアメリカのパワーに陰りが見えてきたと同時に、新たな国際的枠組みづくりはもはや先進国主導ではありえない、という新たなステージの本格的幕開けである。
 イギリスのブラウン首相は「戦後の秩序から生まれた国際機関をグローバル化に適応するよう大胆に改革する必要がある」と述べ、国連常任理事国や国際通貨基金、世界銀行、サミットなどの各機関においてインドや中国にいっそうの発言力を持たせ、G8では両国を正式メンバーとすべきとの考えを示している。ここでも日本は「素通り」である。
 この激動は、アメリカ主導のグローバリゼーションが大きな転機を迎えているのみならず、さらに大きな意味で、二十世紀型の工業文明の時代からポスト工業文明の時代への転換が本格的に始まっていることを意味している。時代の転換とは方程式が大きく変わること、ゲームのルールが大きく変わることである。旧い時代の方程式やゲームのルールでは、新しい事態に対応することはできない。
公論」1月号)
 戦前、独ソ不可侵条約締結(1939)に対して、平沼騏一郎内閣は「欧州情勢は複雑怪奇」との声明で辞任した。まさにベ

ルサイユ体制をめぐる方程式の変化に対応できなかったわけだが、それでもまだ「対応しよう」との意思はあったと言えるだろう。翻って今「ガソリン国会」ということでは、この激動する情勢に対応しようという意思さえうかがえない、ということではないか。これでは Japan Passing どころか Japan Nothing へというのも当然だろう。「内政ごっこ」に明け暮れている間に、国富はさらに毀損されていくことになる。
 方程式が大きく変わるときに、なぜ「内政ごっこ」になるのか。「内政ごっこ」にならずに、方程式の変化に対応しているところとは、何が違うのか。
冷戦体制の終焉は、人類史上初めての単一の世界市場の登場を意味している。同時に、十九世紀から台頭してきた工業文明から、ポスト工業文明の時代への転換でもあった。
 二十世紀半ばから、ローマクラブ『成長の限界』(1972)に見られるように、工業文明の限界はさまざまな形で顕在化してきた。時代の変化は、生活を通じて表れる。つまり経済の変容として表れ、それに対処するためのさまざまな試行錯誤を
  経て、制度化され、続いてそれに対応する社会システムの再設計が試みられる。八〇年代の自由主義的改革は、単なる民営化ではない。サッチャー改革が掲げたのは、「公共」の担い手の再構築である。またそれは、EU統合プロセスともシンクロしたプロセスである。最後に政治が、こうした市場経済や社会の変化への対応、その試行錯誤の肯定的側面をとりあげ、制度化する。「内政ごっこ」にならずに時代の変化に対応する、とはこういうことにほかならない。
 市場経済への移行において、「政権交代の一発勝負」をかけたロシアは停滞し、「社会主義市場経済」の漸進的改革を進めた中国が、この移行過程をそれなりにマネージできているのはなぜか。経済の転換は生活の転換であり、まず政治権力ありき、政権を握りさえすれば、市場も社会も生活もいかようにも設計できる、という「一発勝負」の政治権力論では、それはマネージできない。経済の変化・生活の変化、それに根ざした新しいシステム、社会変革の試行錯誤、その集大成として政治改革が可能となる。逆ではない。

 「何が何でも政権維持」vs「何が何でも政権奪取」では、現実の経済の変化、生活の変化、社会の変化はいっさいとらえられない。変化に対応できない閉塞を、政治の一発勝負で打破しようというのは、最悪の下策である(「大東亜戦争」の結末を見るまでもない)。健全な政権選択選挙を準備するためには、こうした「内政ごっこ」ではなく、選挙を平常心での選択としなければならない。そのためには、まず「立ち位置」をしっかりと自覚すること。そこから、何ができるかの知恵を発揮していくことである。そのなかにある現実の経済の変化、生活の変化をとらえつくす中からこそ、政治を変える知恵は生まれてくる。
 日本はすでに経済大国ではない。〇六年の一人当たりGDPはOECD加盟三十ケ国中十八位である。(比較可能な)一九八〇年に十七位、ちょうど福田赳夫内閣直後の水準に戻ったということだ。当時はまだ一千兆円にも上る財政赤字はなく、サミットでは経済成長著しい日本とドイツが西側経済の「機関車」役と位置づけられた。八〇年代後半から九〇年代を通じて二位、三位だった一人当たりGDPは、〇一年の五位から〇六年の十八位へと急転落した。〇八年の日本は、少子高齢社会へ突入するなかで膨大な財政赤字を抱えている。この「立ち位置」に、へたり込まずに向きあう知恵をこそ出
  し合っていかなければならない。
 日本は大国ではない。領土、人口、資源、軍事力、経済力など、世界秩序を左右する大国としてのパワーの要件を、日本は備えていない。小国ではないが、「中軸」国家である。アメリカ、中国、インド、ロシアあるいは一部の産油国のようなグローバルな政治経済を左右する大国は、一方ではそれぞれ国内に問題を抱えており、後退したとはいえ当面、アメリカがリーダーシップを発揮するにしても、いずれも単独で世界を引っ張っていくことはできない。そうした状況のなかで、大国ではない日本が、新しい国際秩序形成のために不可欠な「中軸」として、いわばベアリングのような役割を果たすことは十分可能であり、またそれこそが国益となるはずだ。とりわけアジアは米、中、ロ、インドなどの大国が関わる地域であり、そこでの「中軸」の役割を、同じような国(ASEAN、オーストラリア、韓国など)と協力して担っていくことこそ、わが国の国益にほかならない。「内政ごっこ」では、この立ち位置は絶対に見えない。
 健全な政権選択選挙を準備するために、「内政ごっこ」の空間を与えない主権者運動の知恵を出し合っていこう。
(「激動」の性格ならびに日本の立ち位置については、10-11面掲載の中西寛氏インタビューも参照)
 


ポスト工業文明の時代に向けた
社会政策の転換の糸口へ
「ねじれ」の功を生かした実質的な審議の知恵を

 内政上の課題も、工業文明の時代からポスト工業文明の時代へという大きな文明史転換というところからこそ見えてくる。工業文明の時代には、大量生産・大量消費によって「豊かな中間層」を形成することが社会政策の基本となった。その典型が「戦後福祉国家」である。二十世紀後半、冷戦の終焉と前後して工業文明の限界がいろいろな角度から明らかになっていくなかで、新しい社会政策への転換の挑戦が始まる。そのひとつは、グローバル化にともなう格差と社会的公正の実現であり、今ひとつが「低炭素社会」への移行、それにともなう市場のルール化(炭素に価格をつける)である。
 格差や二極化は、日本だけの特殊事情によるものではない。だからこそ各国は、グローバル化のなかで社会的公正を実現するための社会政策の転換に、知恵をしぼってきた。日本はエネルギーの96%、食料の69%以上を輸入し、かつそのためのカネを海外から稼いでいる。国内の格差問題のためと称して反グローバル化、鎖国型の配分政策をとれば、そのツケは結局、国民に回ってくる。地方再生や労働市場の改革、社会保障制度などの「格差」問題は、ポスト工業文明に適応した社会政策への移行として取り組むべき問題にほかならない。
   ここから、「ガソリン国会」の本質的論点も明らかになる。戦後復興期に策定された「道路特定財源」、一九七四年に緊急措置として制定された暫定税率を、この先十年間維持し続けるのかどうか。同じ社会資本でも、教育や社会保障、医療など道路整備以外の国民的ニーズは厳しい財政事情の下で抑制が求められているときに、なぜ道路だけが特定財源として聖域化されるのか。
 道路特定財源の一般財源化は、小泉改革の時からの「宿題」だ。小泉改革の下で「無駄な道路は作らない」と決定したときの建設計画は九、三四二キロ、ところが暫定税率を十年間維持するとした今回の計画では、いつの間にか一万四千キロに膨れ上がっている。また安倍政権では、「道路事業費を上回ったガソリン税収は一般会計に回す」ことが閣議決定された。にもかかわらず国交省は、余剰分を一般会計に回さず翌年の道路事業費に回せる法案をつくり、所管大臣も後押ししている。道路特定財源を一般財源化し、少子高齢社会、グローバル化に対応した社会資本整備へと配分を改めるのか。それともこの先十年間、さらに道路資本主義を続けるのか。これが論戦の本質にほかならない。
 暫定税率を廃止すれば地方の道路整備ができなくなる、福祉や教育にもしわ寄せがくる、というが、「道路資本主義」の資源配分をこのまま続けることが、地方の再生につながると本気で思っている地方議会、首長、住民がどれだけいるのか。既に必要な国直轄の道路計画は九、三四二キロのなかに含ま

れている。それ以上、一万四千キロの道路をつくるために暫定税率を「死守」することが、本当に地域の利益なのか。
 例えば、過疎地では住民の高齢化が進んでいるのに、域内にバスが走っていないため、車に乗れないお年寄りは移動の足に困っている―道路は立派なのに、住民の移動は不便という事態が起きている。何が本当に必要なのかは、その地域が考えればよいことだ。そのためにも一般財源化して、地方が自分の裁量で使えるようにすればよい。地方は国に頼るのではなく、自らの知恵で地域を運営すべきではないか。
 またこれだけ経済情勢が不安定になっているときに、暫定税率の問題がマクロ経済政策―減税措置として議論される視点がまったく出てこない、というのも不思議な話だ。まさに「何が何でも政権維持」vs「何が何でも政権奪取」という構図では「ガソリンが一リットルあたり二十五円安くなる!」「その分の財源はどうする!無責任だ!」の応酬以上はでてこない。与野党が、国民生活を人質にとって税制を政争の具とする―これこそ最悪の「内政ごっこ」だ。戦前、天皇主権下ではあったが二大政党制の骨組みが出来かけてきたときに、政党間の足の引っ張り合いで政党制そのものが頓死した一九二〇―三〇年の愚を、繰り返すわけにはいかない。
 道路族と自民党税調が牛耳ってきた議論を、国会でオープ
  ンにできるようになったことは「ねじれ」の功にほかならない。「ねじれ」国会で政治を動かそうとすれば、まとめて一本の法案とするのではなく、与野党で意見の相違がない項目と、相違があって国会での慎重な審議が必要な項目とに仕分けする、という手法が不可欠ではないか。まとめて一本の法案として年度内に通す、そうでないと国民生活が混乱するというやり方は、「私たちにも異論のない税制改正項目を人質にして、政府・与党と考え方の違う税制改正項目に関する国会での徹底的な議論を封じ込めようとしているとしか思えません」(古川元久衆院議員の代表質問より)といわざるをえない。
 「十年間、五十九兆円、一万四千キロ」を聖域化するのはおかしい。同時に、道路はすべて無駄だという議論もおかしい。道路予算は年間十五兆円。このうち一般会計は七兆円、特定財源は八兆円。八兆円のうち暫定税率分は国が一・七兆円、地方が一兆円。暫定税率を廃止すればこの二・七兆円がなくなり、特定財源は五・三兆円になる。このなかで、地方が主体となって道路に優先順位をつければどうなるか。さらに言えば、「道路より教育だ」という地方だってあるだろう。あるいは「国の規格外の道路でいい」というところだってあるだろう。そういう実質的な議論を、国会も地方議会もすべきではないのか。「つなぎ法案」では国会の責任放棄だ。

 給油法案が「ねじれ」国会の練習問題であったとすれば、税制は「ねじれ」国会の功を活かせるかどうかの正念場といえるだろう。健全な政権選択選挙は、実りある国会論戦のなかからこそ準備される。「何が何でも政権維持」vs「何が何でも政権奪取」という「内政ごっこ」を乗り越える知恵が試される。
 少子高齢社会、グローバル化に対応したポスト工業文明の時代の社会資本整備、社会政策への転換をいかに図るのか。欧米においてはそれが、政党の綱領的脱皮(「新自由主義」「第三の道」など)と政権交代によってなされたように、結局のところ統治システムとしての政党政治、議会制を機能させることによってのみ、この転換は可能になる。それは、抵抗勢力との攻防を演出することで改革を進めようとした小泉改革の総括でもある。道路族と自民党税調が牛耳ってきた議論を、国会でオープンにできるようになったという「ねじれ」の功を、本当に生かすためにどうするか。有権者にもその知恵が試されるのは言うまでもない。
 
 
 
  政府は国民が選ぶ、つくる、変えられる。
―これを実現しよう

 昨年末「新しい日本をつくる国民会議(21世紀臨調)」は、「堂々たる政権選択の年に〜すべての政党政治家と有権者に訴える〜」というアピールを発表した。「堂々たる政権選択選挙」を行う条件は整っており、政党や政治家、国民がそれを実行に移せるかどうかにすべてはかかっている、として次のように訴えている。「政治家と国民双方が『あれが足りない』『これが足りない』とお互いに愚痴を口にし、自らの責任を回避する時代は終わった。〜中略〜巷ではなお、『あれが足りない』『これが足りない』という声があるが、それは着実な努力によって新しい現実を創造していくことを忘れた人々の声ではないか」と。(http://www.secj.jp/)
 まさに『永田町、既存政党に「あれが足りない」「これが足りない」』という発想自体が、ないものねだりだということだ。政党政治の知恵、その本質とは、根っこのフォロワー、バッジをつけない主権者の中に、知恵の糸口を回復するという問題にほかならない。「既存政党の党員や支持者になる意思はない

が、政党政治が機能するために有権者としてできることがあれば、やる意思はある」という有権者の自覚は、いささかも後退していない。だからこそ永田町の迷走、輿論との乖離にもかかわらず「政治不信」とはなっていない。同時にローカルマニフェストや議会改革など、地方における統治システム―二元代表制を市民自治の原則で機能させる歩みは着実に蓄積されている。
 この確かめられた基盤をさらに打ち固め、また広げること、それをもって健全な政権選択選挙の障害をひとつずつ取り除いていくことこそが、主権者運動の責務である。だからこそ「大政党がそれぞれに入念に準備した政権公約を掲げて、総選挙で正面から堂々と国民の信を問う以外に日本の政治に考えるべきことがあるとは思えない。この基軸をおろそかにした奇手、奇略の類」(21世紀臨調)は、健全な政権選択選挙の妨害物にほかならないと、主権者の側から明言しようではないか。そして「首相候補」「政権公約(マニフェスト)」「政権枠組み」を一体のものとして国民に問えと、政党、政治家に要求し続けよう。
 まさに、政府は国民が選ぶ、つくる、変えられる―これを真に実感できる選挙にするために、その障害物を主権者の力で取り除いていこう。
 おりしもアメリカでは大統領選の予備選がスタートした。一年近くかけて大統領候補を選び、さまざまなハードルを通じて
  鍛え上げていくのは、派手な宣伝戦でもなければ、選挙参謀の巧妙な戦略でもない。それは文字通り草の根の民主主義のチカラである。
 全米トップを切って行われたアイオワ州の党員集会では、候補者ごとに支持者がグループをつくり、そこで15%に満たない候補のグループは「足きり」される。それに対する説得と勧誘が、基準を満たしたグループによって行われ、最終的な数が決まる。州全体、二千近い選挙区ごとにこうした集会が行われる。まさに近隣住民、職場の同僚、友人といった人間関係のなかで、住民同士が政治的立場を明らかにし、討論していく組織合戦である。むずかる子どもに対して母親が、「これが民主主義にとっていかに大切な手続きであるか」を言い聞かせる。(久保文明氏のレポートより。http://www.tkfd.or.jp/research/sub1.php?id=47)
 こうした基盤があってこそ、民主主義は機能する。政権選択選挙のツールは基本的に整った。それを実行に移せるかどうかは、健全な政権選択選挙を準備するための障害物を取り除いていく主権者運動にかかっている。「がんばろう、日本!」国民協議会第五回大会は、かような意味で、新たなステージにおける「バッジをつけない主権者」の主体性と役割について明らかにし、その行動指針を提起したものである。パブリックの輿論の力で、健全な政権選択選挙へと迫り出そう!
(第五回大会報告集 二月初旬刊行予定)