日本再生 336号 2007/5/1発行

マニフェスト・サイクルの蓄積と“気づき”の連鎖
自治分権・民主主義の集積と成熟をめぐる終わりのないムーブメントが始まった

 
お願いから約束へ
マニフェストが標準装備となったからこそ、
継続と蓄積が問われる

 この統一地方選は、マニフェストが標準装備となった選挙として刻印されるだろう。マニフェストは単なる選挙ツールやブームの段階から、継続・蓄積をめぐる格差が明らかになる段階へ入ったといえる。付け焼刃のマニフェストや旧来型「公約」の体裁を変えただけのマニフェストなどを見抜く有権者の目も、確実に生まれている。だからこそ「言い放し」にならず、実行・検証がどう担保されるのか、説明責任がどのように果たされていくのか―継続と蓄積をめぐる格差(自治分権・民主主義の主体格差)が、より鮮明になっていく。
 こうした継続と蓄積をめぐる格差が鮮明になればなるほど、それをめぐる組織戦も、まがいもののマニフェストや未熟なマニフェストを排除する「純化」路線ではなく、「それらの価値を高めるか低めるかは、当選した市長や市会議員そして新たにスタートする市議会がそれをどのように受け止めて、現実の行政にどのように活用されるのかにかかっている。何人の当選者がマニフェストを自分のやるべき義務が書かれている契約書として大切に保存しているでしょうか。マニフェストの価値が問われるのはこれからです」(選挙戦に関わった会員の感想から)という、気づきの連鎖による絶えざるプラス・ゲームとして展開されるところに、変わらなければならないだろう。
 
  継続と蓄積がマニフェスト・サイクルとして定着した

 首長選挙では、文字通りマニフェストが「標準装備」となったからこそ、一方で俗化は避けられない。中途半端なマニフェスト、まがいもののマニフェスト、未熟なマニフェストがいくらでも出てくるが、有権者もそれによって鍛えられる。お願いから約束へ―実行と検証の責任性がどこまであるのか、目をこらして見極めると同時に、四年間かけて自らの選択を検証することも問われる。未熟なマニフェストを「その場かぎり」のものに終わらせるのか、「ホンモノ」に生まれ変わらせるのかは、バッジをつけた側、バッジをつけない側が、「お願いから約束へ」をどう実行するかにかかっているからだ。
 だからこそ、マニフェスト・サイクルが定着した意義は大きい。マニフェスト・サイクルを選挙戦としてもっとも推し進めたのは、おそらく松沢・神奈川県知事だろう。四年間でマニフェストを80パーセント達成したことを具体的に示すとともに、次期マニフェストを十一本の条例案としてボードを使って説明、市民ニーズがどのように政策形成に反映されていくかを示す、という演説のスタイルをとったと伝えられている。福井の西川知事、佐賀の古川知事も、一期目の検証・業績評価を示して二期目の課題を提起し、四年後の県のあり方や県民生活を描いてみせた。いずれもこの四年間、マニフェストの検証・評価を毎年行い、公開してきたという継続と蓄積が選挙の結果となってあらわれたのであって、単純な「現職有利」という話ではない。増田・岩手県知事は今期で退任したが、検証大会で四年間を検証した。退任する首長マニフェストは選挙での検

証の機会はないが、別の形でしっかり検証することも、定着させていくべきだ。
  「数値目標」「達成期限」「財源」「工程表」がマニフェストの必要条件だといわれる。旧来の「公約」が検証不可能な「言い放し」のものであったことから、このような具体的に検証できる指標が必要であるというのは、そのとおりであろう。しかしそれにとどまれば、マニフェストは行政計画と大差のないものとなる。選挙で有権者が選択したいのは、マニフェストの向こうに見えるはずの「自治体の生き方、生活の質」といったものであるはずだ。
 増田前知事は「数値目標」「達成期限」「財源」「工程表」のしっかり入ったマニフェストで県政を規律化した。その基礎の上に達増新知事は、「公正、自立、共生」という理念から「自立可能な地方自治の確立」という目指すべき方向を提示したというべきだろう。市民参加で増田知事が行ってきた検証が、達増知事の下でどのように定着・深化していくか。それに注目すべきであって、「数値さえ示していない」というところからだけでは、マニフェスト・サイクルの深化は見えてこないだろう。
 実行―検証というところで、さらにマニフェスト・サイクルを深化していくためには、議会の役割が決定的になる。岩手県議会では自民、民主がそれぞれ二回目の会派マニフェストを掲げて選挙を戦ったのをはじめ、今統一地方選では各地で会派マニフェストが掲げられた。首長と議会、そして有権者が協働してマニフェスト・サイクルを回していくという、新たな継続と蓄積のステージが幕を開けた。
   
東京都知事選の「マニフェスト以前」問題と無党派選挙
 
 マニフェスト・サイクルが定着・深化する一方で、都知事選は改めて東京が自治分権の最後進地域であることを示すものとなった。都知事選では、有権者も既存政党も候補者も「自治分権」を争点にする力は持ち合わせていなかった。よって「反石原」という設定からしか始まらなかった。
 ただし俗論を多大に含みながらも、「マニフェストで選ぶ」が東京でもトップになっている。石原知事の危機感は、直接は「都政の私物化批判」によるものだが、同時にマニフェスト型選挙の浸透が自らに有利ではないことへの危機感でもあったはずだ。
 それに対して浅野陣営はあまりに軽すぎた。「反石原」の雰囲気に乗ればいけるという判断では、都政をめぐる骨太の政策テーマにはかすりもしない。選挙戦の戦術は「反石原」を煽る以外にはないということになる。また「青島・ノック現象よ、もう一度」とでも言わんばかりの「勝手連」的選挙戦は、普通の無党派市民も違和感を感じたのではないか。
マニフェスト型選挙を構えるのであれば、石原都政に替わるべき二十一世紀型の「東京構想」を打ち出し、だからこそオリンピック招致活動に使うカネをこっちに回すという組み立て方になる。元東京都副知事の青山・明治大学大学院教授は、「『オリンピックか福祉か』という議論をする候補者もマスコミも時代遅れだし、勉強不足だ」と指摘している。二〇一二年の開催地が戦後二回目のロンドンに決まったのは、ロンドンが

オリンピックの開催によって交通網の整備や教育、雇用対策などを行い貧富の格差解消(ロンドン住民の三割が移民で、東部地域に集中している)を図る都市政策を推し進めたからだ、と。
 都知事選では、無党派のほうが当選に有利という候補者と政党の思惑が露骨に見えた。しかし無党派選挙では、「マニフェストで選ぼう」という有権者の意識を見誤る。「政党不信というのは、政党政治に対する不信じゃない。今ある既存政党に対する不信感だと思います。それをぶち壊すような新しい政党が出てくるべきですが、僕は無党派層というのもひとつの政党じゃないかと考えているんです。何のしがらみもなく、誰にも強制を受けずに、自らの意思で投票行動するわけです」(東国原・宮崎県知事/毎日3/29)。
だからこそ、本来の政党の役割が問われる。「地方選挙で勝つことだけが政党の目的となってしまっている。本来は『この政策を実現できるのはこの人だ』という観点でやらなければならない。地域の課題を点検し、解決策をまとめるのは政党の役割だ」(片山・鳥取県知事/読売3/16)。「首長選挙ならば、政党が地域課題のマニフェストをまとめ、候補者と政策協定を結ぶことが望まれる。地方で起きていることを集約し、国政に生かすのは、行政ではなく、政党であるべきだ」(高坂晶子・日本総研主任研究員 読売3/16)ということになる。
「マニフェスト以前」問題たる無党派選挙を終わりにする糸口を東京でどこからつくっていくかは、参議院選挙の課題となった。
   
「言い放し」「任せ放し」から
合議―決定機関としての議会へ

 
 「そもそも論」からすれば執行権、予算権のない地方議会がマニフェストを書けるのかという議論は当然あるが、この統一地方選で、マニフェストによって地方議会は「言い放し」「任せ放し」から合議―決定機関へと大きく変わる一歩を踏み出したことが刻印されたというべきだろう。
 まず会派マニフェストである。この間の同人会員の取り組みとして、京都における「京都スタイル」、川崎の「川崎マニフェスト」そして越谷市議会議連の統一政策の取り組みを折に触れて紹介してきた。今号では、京都と川崎の「総括」の第一弾を掲載しているが、いずれも「気づきの連鎖」の宝庫である。
 一言で言えば、一人の議員が自分の思いや志向性を訴えた「公約」と、会派が一致して有権者と約束したマニフェストとは、その重みがまったく違うということだ。個人の思いなら、どんなにがんばっても「努力しました」で終わる。多くの場合、検証の義務からも説明責任からも自由だから、「言い放し」で何でも言えるということになる。しかし会派マニフェストはそうはいかない。約束の実現には、会派として責任を負わなければならないし、それを有権者と約束するのだから、議員にとっての重さは明らかに違う。
 それを明確に意識して訴えていけば、有権者からも、個々の議員の主張から議員団としての主張に変えていき、議会が

政策でまとまっていかなければ市民の声は届かないということが、見えるようになってくる。「個々の議員は見えるが、議会が何をやっているのか見えない」というところから、合議―立法機関としての議会が見えるところへ。マニフェストの実行・検証を通じて「議会が変わった」ことが、はっきり見えるようにしていかなければならない。この過程から、真に意味のある議会条例を議会自身が市民とともに策定していくことも必要だろう。
 二元代表制をまともに機能させる合議―立法機関としての議会。このパブリックの共有地が見えてはじめて、議会改革についても気づきの連鎖が回り始める。この共有地が見えなければ、例えば政務調査費問題は「無駄遣い」「流用」「特権」批判に終始する。議会の本来の役割が見えてくれば、領収書の添付などは当然の前提とした上で、「議会の役割は何か」「真っ当な議員活動、政治活動とは何か」というところから問題が整理されていく。「入り口」はバッシングからでも、モデルが見えれば、議会の役割に気づく連鎖を回すことは可能になる。
 また議会マニフェストの実行―検証サイクルと首長マニフェストとの連動も、より意識的に追求されることになる。議会選挙での「約束」―中間評価と新たな課題設定としての首長選挙―最終検証と新バージョンのマニフェスト―選挙での評価、
  という形での継続・蓄積のサイクルが回り始める。会派構成や議会人事、さらには首長との距離や首長候補選びなどをマニフェストで規律化し、政策を軸に動かしていくというマネジメントが蓄積する条件が出来てくる。
 地方議員の個人マニフェストが可能かどうかも議論のあるところであるが、議会をまともなものにしていく一歩として「隗より始めよ」という点では、大いに意義のあるものだといえる。自分の公約が四年間でどうなったのか、自己検証をオープンにして、次の課題を提起するという形で「お願いから約束へ」を実態化する試みが、多様に展開された。個人レベルでもマニフェストによる規律化を目指すものなのかは、四年間の活動をみていれば分かる。新人でもその可能性があるのか、その場かぎりのパフォーマンスでしかないのか、そのくらいは有権者に見抜かれるまでになってきたといえるだろう。
 議会活動を規律化する、合議―決定機関としての議会への糸口としての議会マニフェストのモデルは見えてきた。しかも、それぞれの個性が生かされる形で。モデルが見えてくれば、未熟なマニフェストを鍛えていく「気づきの連鎖」も生まれてくるというものである。マニフェストの真価は、まさにこれから本格的に問われる。
 
 


自由・民主主義・市場経済の発展、蓄積に対する
阻害要因としての「戦後」を清算せよ

 国民主権の真価は自治分権のところで問われる。国政なら、劇場型やワイドショーで評論してわかったつもりになることもできるが、自治ではそうはいかない。「地方自治に完成はない。ましてや一人のトップがそれを目指すべきものでもない。住民による、住民のための絶えざる運動だと、私は信じている。〜略〜『後戻りさせたくない』と思うならば、一人一人が行動し、良質の首長を選び、見識の高い議員を選んでゆくことが必要だ。地方自治は終わりのないムーブメントなのである」(片山知事 「中央公論」四月号)。
 自治分権のところで「底」が入ることによって、「戦後民主主義」から「戦後」とカッコが外れ、成熟した民主主義への新たな蓄積のサイクルが回りだす。自由、民主主義、市場経済は普遍的価値であるが、国民が自ら選択し、社会の中に蓄積してはじめて機能するものである。その内発的な蓄積がある社会・時代では、改革は体制転換―断絶ではなく継承―発展として展開されていく。まさに「守るべきもの」を明確にしてこその改革、ということだ。ここから、「戦後民主主義」の欠陥や機
  能不全をバネに論じる「改革」「戦後レジュームの見直し」と、自治分権=国民主権の現実の蓄積が見えて論じる改革との根本的な違いが見えてくるようになる。
 「開かれた保守主義」「戦後レジュームの見直し」を掲げ、憲法改正を政治アジェンダに設定し、教育基本法や憲法解釈(集団的自衛権)の見直しを推し進める安倍政権をめぐる攻防は、この土俵に移る。
 「約六〇年前に制定された憲法や教育基本法が時代に即さなくなったなら、その修正を提起することには文句のつけようがない。しかし連合国の占領の正当性を否定するところから議論を始めるなら、首相は激しい国際的抵抗を覚悟しなければならないだろう。現在世界で進んでいるのは、連合国が作り出した戦後秩序の修正ないし再編ではあっても、否定ではないからである。日米同盟を対外政策の基礎とする安倍首相にとって、首相の『保守主義』も前者の範囲内でのみ可能であることを、今回の慰安婦決議問題は改めて示したといえよう」(中西寛・京都大学教授 中央公論5月号)。
 自由、民主主義、人権を「戦後の否定」という自国内でだけ通用するロジックで語っていれば、戦後の国際秩序および国境に規定されない市民社会と衝突することを、今回の慰安婦決議問題は示している。

 「戦後民主主義」の欠陥や機能不全をバネに「戦後レジュームの見直し」を論じるのは、戦前の社会的蓄積を全否定した「戦後」の罰である。それはまた、江戸時代の社会的蓄積を全否定することで正統性を主張した薩長史観の裏返しでもある。社会の内発的蓄積を否定して普遍的な価値を掲げる「革命主義」という点では、「右」も「左」もコインの裏表の関係だ。「占領憲法の否定」から改憲を論じ、東京裁判の全否定から靖国を論じるなら、まさに革命だ。それとも自由、民主主義、市場経済の社会的蓄積を阻害する要因となっている「戦後」を清算せよ、というのか。ここの仕分けが問われている。
 マニフェスト運動の掲げる脱中央集権、脱官僚、脱無党派は、まさに自由、民主主義、市場経済の社会的蓄積を阻害する要因としての「戦後」を清算するスローガンといえるだろう。中央集権は地域を禁治産者にし、官僚社会主義は健全な市場経済の発展を妨げ、無党派主義は無責任連鎖を蔓延させた。その清算は、自治分権の内発的蓄積から始まった。これをいかにして、より成熟した民主主義へと不断に深化し、蓄積していくか。ここが問われている。
 ここから見れば、憲法改正の国民投票法案をめぐる論点も、大きく変わってくる。立憲主義は君主の独裁を規制するところ
  から始まり、近代においては国家権力の行使のルールを定めたものである、というのは教科書的には正しい。しかしナチスドイツが合法的な選挙によって政権に就いたように、普通選挙制度の下では「民意の質」が権力を大きく左右する。誰もが一票であればあるほど、代議制民主主義には、多様な意見・利害を「より高次のパブリック」の価値から再編・統合していく機能が求められる。政党には、世間の雰囲気たる世論に迎合せず、公論としての輿論を形成していく役割、能力が求められる。
 従来、「世論」というのは戦時中に「世論(せろん)にまどわず」などと流言飛語か俗論のような言葉として使われていた。これに対して「輿論」は「輿論に基づく民主政治」など建設的なニュアンスがあった。戦後、この区別は奇しくも憲法公布と時を同じくして「世論」に統合されることになる(佐藤卓巳・京都大学大学院准教授 毎日4/6)。輿論=公論の担い手たる主権者としての国民の自覚を問うことがなければ、「世論」は総無責任連鎖に転じる。国民投票がこうした「世論」の追認に終わらないようにする仕組み、知恵をこそ論じるべきではないのか。直接投票の大統領制において、有権者登録や決戦投票などを組み合わせているのは歴史の知恵でもあろう。

 またEU統合の国民投票が、たびたび思わぬ結果となって時の政権を揺さぶるのも「欧州人たちが国民投票というものの性格を熟知しているからだ」(浜矩子・同志社大学大学院教授 毎日4/6)。「国民投票は両刃の剣だ。民意を直接的に問う究極の民主主義ではある。だが、下手をすれば、懐疑派や反対派の声をもみ消すためのお墨付きに使われかねない。〜略〜使う側の思惑いかんで、民主主義の守護神ともなり、独裁者のアリバイづくり役ともなってしまう。国民投票が持つこの怖い側面を、極めて重く受け止めている国がドイツである。ドイツの憲法である『基本法』においては、国政に関わるすべての決定について議会決議を原則としている。ヒトラーという悪魔的ポピュリストの世論扇動に、ズタズタにされた人々の思いと決意の表れだ」(同前)。
 憲法改正の発議は国会の三分の二、さらに国民投票での過半の賛成という「ハードル」のなかに、衆愚政治に堕すことを未然に防ぎ、民主主義の質を不断に高めていく知恵と仕組みをどう盛り込むか―国民投票法案では、このことこそを論じるべきではないのか。
   世論(世間の雰囲気)ではなく、公論としての輿論を復権させる主権者運動―ここから「あるべき」本来の意味の政党の機能が見えてくる。「あれもやります、これもやります」の甘い「公約」ではなく「苦い薬」も提示するマニフェストとそれを選択しようとする民意の成熟から、その糸口が見えてきた。フォロワーの側も、世論・俗論に迎合するリーダーなのか、迎合せずに輿論を形成し、公論のうねりを作り出そうとするリーダーなのかを見分けられるようになってきた。ここからチェックし、意見する主権者を「煙たがる」のか、協働するのか。バッジ組の力量も問われてくる。これが、〇七年マニフェスト選挙の地平である。
 各地に点在するこの“共有地”を、マニフェスト・サイクルを蓄積するなかで、点から線へ、さらに面へとつないでいこう! 参院選はやはりマニフェスト勝負にするべきだ。まがいものであれ、付け焼刃であれ、舞台に上がらなければ、気づきの連鎖も始まらない。「ずれていた」「付け焼刃だ」という自覚からでも、気づきの連鎖は可能だ。“共有地”をめぐる気づきの連鎖をここまで拡げていこう。