日本再生 335号 2007/4/1発行

自治分権の時代を拓く「強い一票」を!
マニフェストと社会的市場による規律化に支えられた自立・自尊の地域を築こう

 
選挙は「お願いから約束へ」

 この統一地方選は、「お願いから約束へ」というマニフェスト政治文化を定着させる組織戦だ。前回〇三年の統一地方選で登場したマニフェストは、公職選挙法の改正で地方選においても、首長選挙に限ってであるが配布が解禁された。この四年間でマニフェストは「標準装備」になり、国会ももはや無視することができなくなったということだ。だからこそ、マニフェストを媒介にしてどのような政治文化の入れ替え戦・定着のための組織戦を展開・蓄積しているのか、がより具体的に問われる。
 今期で退任する片山・鳥取県知事は、「『改革派知事』待望は水戸黄門幻想だ」として、議会こそ改革の本丸だと述べている(「中央公論」4月号)。また市民自治の先駆的な取り組みを展開してきた福嶋・前我孫子市長も、次のように述べている。
「これまでは全国的に見て、首長が分権改革をリードして来たと言われています。まず改革派の知事が国と対決して突破口を開き、さらに市長が加わりました。市長が加わることによって、国との関係だけではなく地域の自治、市民の自治と結びつけていくという役割を一定程度果たしてきただろうと思います。いずれにしても知事や市長といった首長が、これまでの分権改革を引っ張ってきたと言えると思います。
 しかしこれからの時代はむしろ議会が改革をリードするよう
  にならなければ、本当に豊かな自治を地域に作っていくことにはならないと思います。強いリーダーシップで仕組みを大きく変えていくということは、首長の方がやりやすいかもしれません。しかし所詮、首長は一人なんです。議会には何十人も市民の代表者がいるわけですから、その議会が改革をリードしていくようになってこそ、本当に豊かな自治が地域に生まれてくると思うんです」(本号七―十面参照)。
 自治分権への確かな一歩を踏み出すためには、議会の改革こそが本丸であり、そのために議会選挙を「お願いから約束へ」変える組織戦が決定的となる。これまでの「公約」は一般的抽象的スローガンの範疇であり、実現できたかどうかの検証は不可能なものであった。言い換えれば「私の人柄、私の志向性に白紙委任してください」ということであり、有権者のほうも「好き、嫌い」で白紙委任すればよかった。では検証可能な具体的政策を掲げるということは、どういうことを意味するのか。
 「いままでは、仮に政策を掲げていたとしても、それは一議員としてのものですから、実現されたかどうか、ということよりは、実現に向けてどれだけ努力したか、で評価されてきたと思います。
 先ほどの例で言えば、『議会改革』のような一般的な政策はもちろんですが、『議員定数削減』といった具体的な政策であったとしても、どちらかといえば『私は議員定数を削減すべきと考えます』という意味合いが強かったのではないでしょうか。
 これに対し、二十名の候補者がマニフェストとして掲げた『議

員定数削減』という政策は、単に二十名がそういう考え方をしているということではなく、一歩進んで『実現できたのかどうか』が厳しく問われることになるということです。
 今までであれば公約として『議員定数削減』を掲げたとしても、議場で発言をしたり、駅頭宣伝やちらし等で訴えればよかった。これがマニフェストとして提示した場合は、仮に条例案を作成して提案するところまでできたとしても、否決されてしまえば意味がない。まさに結果として実現できたのかどうかが、最終的な判断の基準となります」(堀添健・川崎市議のニュース「高津発 日本改革!」より)。
 まさに「何を言っているか」ではなく、「約束を実現する責任性」が問われ、それを基礎にして信頼や信用が蓄積していくことになる。会派内あるいは会派間の合意形成も、実現を担保できるのか、その責任を共有できるのかということが最大のポイントになる。ここで作られる信頼関係の蓄積は、「何を言っているか」の共有性よりもはるかに地に足のついたものである。(議会マニフェストの組織戦については、この間の「一灯照隅」や本号三面「一灯照隅」ならびに四―六面を参照。)
 マニフェスト―政策で会派を規律化する、とはまさにこのような「責任の回復」の組織戦にほかならない。これを会派内・会派間のマネジメントとしてまで展開できるのか、今回は個人戦の範疇からしか始められないか、という違いはあるが、いずれにしてもこのような基礎のうえにはじめて、地域の課題に対する一定の政策的志向性が蓄積されていくことになる。そしてここから、パーティーマニフェストでは見えてこなかった「あろうべき政党」の姿が見えてくることになる。
 有権者との関係も変わってくる。どの選挙でも、すでに有権
  者は第一に「マニフェストで選ぶ」となっている。「お願いから約束へ」ということは、有権者との間でも、約束が実現されたかどうか、その検証と責任性によって信頼が築かれるということだ。支持者・後援会との関係も「約束を実現する」ための関係へと再編していくことになる。個人後援会の集合であれば、「自分党」という選挙互助会の枠を脱することはできない。統一政策を掲げ、その実現のために過半数(あるいは多数派形成が可能になる議席数)をめざす選挙戦を展開するということは、個人後援会の集合という枠を超える戦いを、「バッジをつけた主権者」はもちろん、「バッジをつけない主権者」も担うということだ。
「地元のことをやってくれる○○議員」というだけではなく、「このマニフェストを実現するには、このグループの当選が必要だし、それをまとめるためには○○さんが必要だ」という支持―信頼関係づくりの突破口が、ローカルマニフェストの組織戦のなかから見え始めている。
 ローカルマニフェストの組織戦は、議員・候補者―会派・議会―有権者・支持者の関係を「お願いから約束」へと不断に規律化し、深化していく絶えざる運動にほかならない。これを点から線へ、線から面へとさらに力強く展開していくこと、これがこの統一地方選の課題である。
「地方自治に完成はない。ましてや一人のトップがそれを目指すべきものでもない。住民による、住民のための、絶えざる運動だと、私は信じている。〜略〜『後戻りさせたくない』と思うならば、一人一人が行動し、良質の首長を選び、見識の高い議員を選んでゆくことが必要だ。地方自治は、終わりのないムーブメントなのである」(片山知事 前出)


ローカルマニフェストの組織戦に、
既存政党はどう向き合うのか

 世論調査では、自民、民主両党への支持率が低下し、「支持なし」層が五割を超えるまでに増加している。十三知事選のうち、自民・民主が推薦候補を立てて戦うのは二県だけという現状からは、「無党派のほうが選挙に有利」という候補者と「当選を有利にしたい」という政党の思惑が透けて見える。
「無党派」層の増加は一回り前の亥年の選挙にも見られ、この時には「青島ノック現象」となったが、今回はそれとは明らかに様相が違っている。マニフェストが標準装備になったからこそ、政党が地方選挙で本来果たすべき役割が明確になり、そこから政策不在の現状を批判するという流れが明確に生まれている。
「地方選挙で勝つことだけが政党の目的となってしまっている。本来は『この政策を実現できるのはこの人だ』という観点でやらなければならない。地域の課題を点検し、解決策をまとめるのは政党の役割だ」(片山鳥取県知事 読売3/16)
「首長選ならば、政党が地域課題のマニフェストをまとめ、候補者と政策協定を結ぶことが望まれる。地方で起きていることを集約し、国政に生かすのは、行政ではなく、政党であるべきだ。地方選にどう向き合うのか、政党は今こそ、真剣に考える時に来ている」(高坂晶子・日本総研主任研究員 読売3/16)。
 「お願いから約束へ」。有権者も白紙委任ではなく、「何を選択するか」を意識しているからこそ、自治体選挙への関心が
  これまで以上に高まっている(「関心がある」が八ポイント増加)。こうしたなかでの無党派選挙は、既存政党が「白紙委任」になだれ込んだ結果であるとも言える。
 「政党には本来、『経済成長を優先するか、格差の縮小を優先するか』というように、一定の政策体系を有権者に示す役割がある。政党が政策協定を結んだ上で候補者を推薦すれば、有権者にとっては、どんな政策体系に立つ候補者かを判断する手がかりになる。地縁や血縁が薄い大都市ほど、政党推薦が候補者の『品質保証ラベル』のような機能を果たせるといえる。逆に、政党が機能しなければ、有権者は人気やムードで選びがちになるだろう。〜略〜地方に権限と財源を増やす時代に、住民同士の顔が見える町村ならともかく、大都市など規模の大きな自治体になればなるほど、責任ある政党間の論争に基づく政治判断が必要だろう。そうでなければ、首長の暴走や議会の衰退を招きかねない。自民・民主両党が結果的に無党派選挙を容認するツケは大きいようにみえる」(青山彰久 読売3/8)
 地域の課題を点検し、解決策を提示し、合意形成をはかり、実現に責任を負うという「本来の政党の役割」を、誰がどのように担っていくか。ローカルマニフェストの組織戦は、その具体的な進行であり、このなかで人材も能力も組織も集積されつつある。だからこそ、がんばっている地方からすれば、都知事選で「白紙委任」になだれこんだ党本部は「困ったもんだ」ということになってくる。
 ローカルマニフェストをめぐる現実の組織戦にどう向き合えるのか、どう関われるのかという観点から既存政党の現状をマネージする、というところへ、既存政党との付き合い方の転換も始まってくる。


白紙委任で劣化する自治体か、
マニフェストで規律化される自治体か

 三位一体改革によって、今年から多くの自治体で財源が増えることになる。国からいかにカネを引っ張ってくるか、という時代から、カネを何にどう使うのかという自治体の主体性が問われる時代だ。漫然と旧来どおりの「お役所仕事」に垂れ流すのか、「公共事業」に配るのか、「稼げるプロジェクト」や「まちのブランド化」に投資するのか、子育て・教育に投資するのか。自治体をどう経営するのか、が問われることになる。
 納める側から言えば、多くの人にとっては国よりも自治体に納める税金のほうが多くなり、自治体の質が生活の質に直結する時代になる。「三割自治」の時代なら「誰がやっても同じ」で済ませられたが、分権の時代には白紙委任は自治体の劣化を意味する。それを如実に示したのが、夕張市の破綻である。だからこそマニフェストで「何を選んだのか」を、有権者自身も明確にしなければならないし、「選んだ責任」も自覚しなければならない。
 分権の核心的意義は、自治体運営にかかわる権限、財源を市民のコントロールが効く身近なところに置き、市民の意思が反映されるようにするということである。だからこそ、意思決定機関である議会の役割がきわめて重要になる。決定機
  関を漫然と「白紙委任」で選んでいたら大変なことになる、ということがリアルになってきた。マニフェストによる規律化は、きわめて具体的に見えてくる。
 市民のコントロールが効くということは、自治体経営や議会運営を、市場経済の常識が生活で前提になっている世界に合わせるということだ。選挙で選ばれたマニフェストを業務目標・工程表に落とし込み、そこから業務管理を行い、評価・改善する。あるいは、行政評価や事業仕分けによって、「選択と集中」を図る。こうした当たり前の経営が可能になるのは、選挙で選ばれたマニフェストだからこそ、である。あるいは議員の議案に対する賛否を明らかにする、という当たり前の議会運営も、議会改革を約束するマニフェストが選挙で選ばれてこそ、可能になる。これが市民の意思だ、ということを明確に示す、そういう「強い一票」を投じる選挙こそが、自治体運営をマニフェストによって規律化するスタートとなる。
 財政問題はすべての自治体にとって避けて通れないが、ここでも規律化が大きな課題になる。ようやく地方債にもわずかながら格差がつけられるようになったが、長年にわたって日本の自治体は、「リスクが高ければ金利は高く、リスクが低ければ金利も低い」という市場経済の鉄則の「例外」でいられた。国が借金の面倒を見るという依存構造では、財政規律が働かないのは当然でもある。夕張の破綻は、自治体が財政に関して国に依存するしかない「禁治産者」の位置づけしか与えられてこなかったところに本質がある。

 これに「破綻法制」を適用することだけが、はたして市場による規律化といえるのか? 自治体向け融資で世界最大手のデクシア・クレディ・ローカル銀行は、市場による自治体経営の規律化のひとつの方向性を提示している。仏地方金庫を前身とするデクシアは、世界トップの公共金融専門銀行、財務格付けはAAと日本国債並み。その信用力をバックに低利で市場から資金を調達し、欧州各国の自治体に融資したり、地方債を買ったりして安定的なビジネスを展開する。融資は通常十〜三十年、最長七十年もの超長期で、債権も満期保有が基本である。巨額な資金を短期に操作したり、企業買収を仕掛けたりする外資系金融のイメージとは対極にあるビジネスモデルといえる。
 このデクシアが、借金財政で世界の自治体金融の四分の一をしめる巨大市場・日本に上陸した。デクシアから五十億円を調達した山形県の斉藤知事は、「地方分権型社会の実現には自治体が財政的に自立している必要がある。自治体はこれまで指定金融機関と持ちつ持たれつの関係だった。だが財政には効率性が重要。経済合理性を重視し、持続的な財政体質に改善していきたい」と語っている(日経3/21)。
 自治体の財政運営が市場によって規律化されるということは、知恵の働くものと働かないものとの格差を明確にするということであり、がんばったものが報われ、不正を働くものは罰せられることを明確にするということである。そのためには、公
  益を市場を通じて実現するという仕組みを作り上げるところまで、市場経済が成熟することが不可欠となる。(イメージ的に言えば、政府支出と営利市場と非営利的市場がそれぞれGDPの三分の一程度になるような経済社会。)
 「官から民へ」なら、肥大化した官僚機構を悪代官に見立てて叩くことでもよかったが、自治分権の時代の自治体経営には、公益を誰がどう担うのかが問われる。「カネがないからできない」で済ませるのか(財源が増えれば「垂れ流し」になる)、「カネがないならみんなの知恵を集めよう」となるのか。グローバル競争の荒波を生き抜くようなプレイヤーにはなれなくても、自分のメシは自分で食える、その範疇での生活の知恵はある、カネの使い方も分かる(すべてを消費の対象としか見ない「無党派」からは、生活の知恵は生まれない)という「普通の人」が公益の担い手として登場する―非営利的市場の発展と政治市場、有権者市場の発展をリンクして推し進めよう。
 このような自治分権の時代の進行にどのように向き合い、関わっていくのか―きたる参院選では、ここから既存政党との距離をマネージしていこう。自立的な非営利市場が見えるところには、グローバル経済のツートップとしての米中(ステークホルダー)も、市民社会が生まれつつある東アジアの市場も見えてくる。この基礎のうえに経済財政戦略や東アジア戦略をめぐる政治市場、政策市場を創りだそう。