日本再生 332号 2007/1/1発行

改革を止めるな!
市場経済を生活で共有する有権者を、
政策選択市場の形成へ再編していく有権者再編の地力を!

二〇〇七年は「変化」の年
 二〇〇七年の干支は丁亥(ひのと・い)。『丁』は、新しいものの伸長「|」が「―」に阻まれている様子をあらわし、「新旧勢力の激突」を意味するとされている。『亥』は、骸(骨ぐみ)や核(シン)などの原字で、「核」、「極」、「革」などに通じ、「起爆的なエネルギーを孕む」とされている。
 ひとつ前の丁亥は六十年前(一九四七年)、日本はまだ戦後の混乱期にあった。日本国憲法、教育基本法が施行され、農地改革が行われ、六三三四制と男女共学が始まり、戦後日本の出発もここから始まった。この年から三年間に生まれた「団塊の世代」が今年からリタイアを始め、わが国は本格的な人口減少・少子高齢社会に歴史上はじめて突入することになる。
 二〇〇七年は、《「次のステージ」への転換を誰が、どう準備するか》という性格の攻防戦となるだろう。言い換えれば、「新しいステージ」の綱領―組織―戦術をめぐる〇七年の試行錯誤と蓄積の度合いが、「次」への転換の主導権を握る度合いや存在感を決することになる。
 春の統一地方選の帰趨(組織戦の実際)は夏の参院選を決する(逆ではない)のはもちろんのこと、それがその後の政権運営を大きく左右することは言うまでもない。この意味は、市場経済が生活で共有されている改革の基盤(政策選択が分る基盤)を構築する組織戦をどこまで構えられるのかということであって、参議院の議席の数合わせでどうこうというレベルの話ではない(後者のレベルで考えられるほど、「与野党逆転」は甘いものではない)。
   また〇七年末から〇八年にかけて、東アジアは大きな政治の交代期を迎える。〇七年秋には五年に一度の中国共産党大会があり、胡錦涛政権が本格的に権力基盤を固めると予想され(日中関係に本腰をいれるチャンス)、十二月には韓国大統領選挙が予定されている。〇八年に入れば米大統領選がスタートし、三月には台湾総統選、ロシア大統領選、夏の北京オリンピックと続き、秋には新しい米大統領が決まる。こうしてみると、〇七年に何をどう準備するか(しなければならないか/してはならないか)によって、イラク問題、北朝鮮問題といった「難問」の出口戦略や、安全保障や経済をめぐる東アジアの新たな枠組みの行方が決せられ、またわが国の存在感が形作られていくことが見て取れる。(本号掲載の各インタビュー参照)
 〇七年は「変化」の年である。守るべきもの―国民主権の共有地が見えている人にとっては、「何を、どう変えるか」「誰とともに変えるか」が、さらに実践的に鮮明に見えてくるだろう。市場の変化を生活で追認できる人々には、生き残るためにも「変化一般」ではなく、「どう変化しなければならないか」がより具体的に見えてくるだろう。他方で無党派主義―すべてを「消費の対象」とする人々にとっては、「サプライズの乏しい」年となるだろう。丁亥の年の「新旧勢力の激突」は、もはや小泉劇場のような形では進行しないのだから。護送船団・右肩上がりの既得権にぶら下がってきた人々には、こうした変化は「勝ち組」「負け組」としか表現できないだろう。
 〇七年は〇六年以上に、問題設定の違いによって見える風景が全く違ってくる、ということになるはずだ。

 
改革を止めるな! 
どうした安倍政権、小泉路線を放棄するのか!
●「あいまい」ではなく「優柔不断」?

 安倍政権は、小泉政権から市場重視の改革路線と高い支持率を遺産として引き継いだはずであった。しかし「復党問題」以来、「道路特定財源の一般財源化の先送り」「社会保険庁改革、公務員制度改革の骨抜き」「郵政民営化の先延ばし」など、改革の後退イメージが前面に出てきた。〇七年度予算での「新規国債発行、過去最大の減額」は、景気回復による税収増によるものにすぎず、歳出削減にむけた政権の意気込みはうかがえず、小泉政権の「遺言」でもある行革推進法も骨抜きが懸念される。
 支持率も低下している。小泉劇場に沸いた無党派層の離反のみならず、小泉政権が「ぶっ潰した」旧来の支持基盤も戻らず、市場が見えている層の期待も冷めてくる。こうなると、どこにも支持基盤が見えないまま、参院選の思惑(とりあえずカウントできる組織票の動きと世論の動向とやら)に振り回されることになる。その姿勢は「あいまい」というよりも「優柔不断」に見え、ますます「ぶれない」前総理とのギャップが目に付くことになる。
   本来ならここで野党第一党が「改革の不徹底」を批判して、改革競争を挑むべきであるが、小沢民主党は「国民年金を含む一元化」はかろうじて維持したものの、財源に消費税増税を充てるという〇四年参院選のマニフェストを「国民の理解が得られない」として封印したことに見られるように、「改革疲れ」に参院選の組織戦の照準を合わせている。したがって野党からの改革圧力は、ほぼ消えていると言わざるをえない。
 このままでは、「改革を止めるな!」という有権者の選択肢は、国政選挙においては失われかねない。(自治体選挙においては、自治分権・自治体経営をめぐる選択肢は鮮明になりつつあり、逆に既存政党がそれにどこまで対応できるのか、という構図になってくる/この間の『一灯照隅』ならびに首長インタビューなどを参照)
 どうした安倍政権、小泉路線を放棄するのか! と叱咤するところから「仕切りなおし」をするほかはないだろう。二大政党による政権交代が機能する前提は、あくまでも(自由や民主主義の土台である)市場経済である。市場経済を「単なる金もうけの道具」とみなせば、市場の原則を無視した政策(バラマキ)にためらいはない。これでは二大政党による政権交代=政治市場における政策選択は機能しない。
 

●政策決定過程における
 権力と責任の関係を明示

 「小泉政権は、おそらく戦後史上初めて、市場経済そのものを政治が目指すべき価値であると(暗黙に)宣言した政権だった」(小林慶一郎)。この「功」を明確にせずして「罪」を論じることはできない。「格差」や規範意識の後退などの負の側面も、市場原理の否定によってではなく、市場の持続可能性をより高めることによって解決すべきである。今日の格差拡大は、搾取や抑圧といった不当な要因や、特定の失政によって生じたものではなく、市場の変化によって生じた構造的なものである以上、その是正は「市場をより持続可能なものとする」ことによって解決すべきである。「弱者救済」の名の下に、既得権者と「弱者」が連携して、補助金をばらまいたり、官僚統制を強化するような改革の後退を招いてはならない。(教育基本法改正で文科省の権益が強化される道が開かれたことについて、まともな論戦が行われなかったことは、政治の空洞化というほかはない。)
 小泉改革の核心は、政策決定過程を政官業の癒着構造から奪い取ったことである。ここでこそ「官邸主導」が発揮されたのであり、それを有利にするために「抵抗勢力との対立」が演出されたのである。安倍政権がなによりも継承すべきは、この点である。この核心を外してしまえば、官邸主導を個人技から組織戦へといっても、政治の空洞化に歯止めはかからない。
   加藤寛氏は、小泉改革の背景には「公共選択」という考え方があると指摘する(日経「経済教室」06/8/17)。市場の失敗を調整するはずの政府が政治の失敗=慢性的な財政赤字=に陥るメカニズムは、独占的な既得権益を追求しようとするグループによる政策決定過程への介入であること、したがって公共的な意思決定にかかわる選択のメカニズムを改革する、この領域で政官業癒着を打破するということである。
 じつはこの直接的な起点は、橋本行革(省庁再編、内閣府の創設など)にあり、小泉政権の「功」は「逆風に耐えて」その方向を曲げなかったところにある。安倍政権はそれを継承できるのか、ということだ。経済財政諮問会議や政府税調、首相補佐官など、官邸主導型政策決定の仕組みは一応出来ている。問題はその実効性である。それを担保するためにもっとも必要とされているのは、首相のリーダーシップだ。「小泉流」である必要はないが、政治主導とは政策決定における権力(決定)と責任の関係を明確にするシステムである以上、「優柔不断」は即、改革の後退につながる。
 いうまでもなく政治主導の最大の力の源泉は、この政策で政権が選ばれたという政権選択選挙にほかならない。その弱さを補完するために「劇場型政治」を演出する道は、もはや二番煎じにすぎない。
 
 
 

政府はどんなに進歩しても楽園をつくる能力はない
より社会的な市場を創り出すための政策転換を! 

 政策決定過程を政官業の癒着から奪う―この第一ステージは、道路、財投、特殊法人、特別会計といった分野であった。行革推進法は、そこでやり残した「宿題」のリストである。これを継承し、やりとげることができるか。改革の継承か、後退かは、まずここで検証されている。(行政改革推進法:a国家公務員の5%以上純減s政府系金融機関改革d特別会計見直しf政府資産・債務改革 g独立行政法人見直しのそれぞれについて数値目標を設定)
 同時に次の課題が浮上している。それは「格差」に代表されるような、再配分をめぐる領域であり、医療、介護、教育、生活インフラなどいった社会的サービス分野の問題である。ここで「『弱者救済』の名の下に、既得権者と『弱者』が連携して、補助金をばらまいたり、官僚統制を強化するような改革の後退」を招いてはならない。
 ここでははまず、「政府はどんなに進歩しても楽園をつくる能力はない。相対的には市場の公正さのほうが勝っている」(小林慶一郎 日経12/14)という価値観に立つべきである。市場経済は自由や民主主義の前提である。だからこそ、政策競争を可能にする政治市場までをつくることができるし、有権者としてそこに参加することができる。市場経済を金もうけの手段としか理解していなければ、「市場の公正さ」は見えず、政府に楽園をつくる能力を期待して「お任せ」するしかない(批判はその裏返し)。
 再配分や社会的サービスの領域は、単純な市場原理では解決しないのは当然である。一般的にいえば「公正さ」が基
  準となる。問題はそれを、官僚統制―規制の強化によって担保するのか(担保できるのか)、より開かれた社会的市場によって担保・紀律化するのかということである。
 例えば、昨今問題となっている「談合」。政治腐敗は論外であるが、落札率の低下だけが追求されれば、「安かろう、悪かろう」ということになりかねないし、価格競争力で劣る地場の業者が淘汰されることは、地域経済にとってもマイナスにしかならない。公共調達の不透明なシステムをいかにして社会的に公正なものとするか、地域の主権者が納得できるものにするかであろう。地域のニーズに合致すると議会で合意されれば、随意契約でもなんら問題はなかろう。あるいは我孫子市の公共サービス民営化提案制度のような例もある。(市の全事業を対象に、企業やNPOから「より効果的に実施できる」という委託・民営化の提案を募るもの)。要は官と民の協同・連携のあり方を、より社会的に開かれた市場によって紀律化されたものにする、ということである。
 官僚統制の強化は規制逃れとのイタチごっこにしかならず、社会的活動は育たない。またこれでは本来の公僕は生まれず、税金による失対事業が垂れ流されるだけになる。
 あるいは労働市場においては、雇用者側と被雇用者側には圧倒的な非対称性があり、単純な市場原理は成り立たない。しかし保護規制という名目でこれを是正しようとすれば、正社員と非正規・低賃金・不安定雇用との絶望的な格差が生じる。労働組合という社会的組織が介在することで、労働市場をより健全なものにするというのは歴史の知恵であり(「日本再生」三二五号・野川忍教授 参照)、それを生かせていないことが問題だ。自分たちの問題を自分たちで解決するための

協同、ということができずに政府に問題解決を委ねるということでは、官僚統制を強化するだけだ。これは、教育再生におけるコミュニティースクールなどにも通じる。要は圧倒的な非対称性が存在する領域で、市場メカニズムを生かす仕組み、知恵を社会自身が持たなければならないということだ。
 また財政再建は、いよいよ社会保障の分野に切り込むことになる。三位一体改革では、生活保護費の見直しが攻防になったが、生活保護や年金などを含めたセーフティーネットのあり方が整理されなければ、削りやすいところから削ってつじつま合わせをするという最悪の下策になる。
 これもいわゆる再配分の裁量を、全面的に官僚統制に委ねるのか、それとも自立自助のインセンティブをどう効かせるのかということだろう。年金にしろ生活保護にしろ、現状が「公正」とは程遠いことは明らかである。その本質は「ズルをしている人がいる」ということよりも、複数の制度や算定方式が入り乱れ、所管官庁やら団体やらがバラバラに裁量権を握っているところにある。
 例えば先ごろ亡くなったミルトン・フリードマンは「負の所得税」という仕組みを提案している。仮に一人の基準所得を年収百万円、世帯単位では扶養家族が一人増えるごとにこれに百万円を加えた額を「税金ゼロ世帯」とする。夫婦・子供二人の世帯なら、年収四百万円が基準になる。税率を50%とすれば、年収が二百万円なら二百万マイナス四百万(基準所得)で、課税対象額はマイナス二百万円、税率50%なので百万円を「マイナスの所得税」として貰える形になる。逆に年収六百万円なら、六百万マイナス四百万=二百万円が課税対象となり、百万円の税金を徴収することになる。
 年収二百万円の家族の場合、税金清算後の手取り所得は三百万円だが、仮に年収が三百万円に増えると、手取り所得
  は三百五十万円となって使えるお金が五十万円増えるので、「もっと稼ごう」というインセンティブが保たれる点がこの制度の長所である。
 こうした基準所得という考え方に、年金、所得補助をはじめとするさまざまな補助をリンクさせれば、かなりフラットな制度になる。セーフティーネットを「弱者救済」ではなく、市場原理が健全に機能するための仕組みとするなら、どこに政府の役割をセットすべきかが見えてくる。
 住宅政策でも、欧米では家賃手当て(基準となる適正な住居費の設定)があって土地政策が可能となり、その基礎のうえで住宅や土地の市場が社会的に機能する。逆にそれがない日本では土地本位主義が幅を利かせ、廃墟となるしかないような野放図な開発が行われることになる(市場経済が金もうけの手段でしかない)。
 「政府はどんなに進歩しても楽園をつくる能力はない。相対的には市場の公正さのほうが勝っている」(前出)。だからこそ、より社会的な市場、そして政策競争までの市場を創り出すための政策転換を! 市場の生み出す「負」の側面は、官僚統制の強化によってではなく、市場の持続可能性を高めるための不断の改革によって解決する。それを競うことが政権交代の軸とならなければならない。
 市場経済が生活で共有されている有権者は、自民党の支持者にもいるし、民主党の支持者にもいる。もちろん、「既存政党の支持者になる意思はないが、二大政党が機能するためにやるべきことがあればやる意思はある」という有権者には、市場経済が生活でそれぞれ共有されている。官治分権から自治分権へ―春の統一地方選は、市場経済が生活で共有されている多様な有権者を政策選択市場の形成へと再編していく有権者再編の地力が試される。