日本再生 331号 2006/12/1発行

賢明な政策判断を下せる有権者になろう
国民主権の共有地―守るべきものがあるからこそ、「何を変えるか」が具体的になる

独立変数としての主権者の胎動
―その生活の変化に、どこまで近づき、とらえられるのか

 安倍政権が発足して二ヶ月が経過した。マスコミ各社の世論調査からは、数字のばらつきはあるものの、内閣支持率の構造的・傾向的な変化が伺える。ひとつは、「小泉人気」を支えてきた若者世代(20〜30代)と「無党派」層で支持率が急落していること。また小泉政権時に他世代に比べて低かった支持率がいったんは回復した40代、50代でもここにきて支持率が急落、全体としての支持率も10数ポイント急落している。(朝日11/25)
 有権者は小泉政治に比べて「おもしろくない政治」に飽きたのか? 国民は劇場型政治が恋しいのか?  
 ポスト小泉の課題を、「政権選択選挙の定着と深化―観客民主主義からの脱却」に置く場合と、「小泉政治の行き過ぎ、やり過ぎを是正する」(「衆愚政治批判」「格差反対」など)ところに置く場合とでは、見えてくる光景は大きく違ってくる。「復党問題」は、その分りやすい例となった。
 郵政造反組の復党が自民党の「お家の事情」で収まらないのは、極めて一面的・表面的ではあったが「選択肢を示して国民に問う」という政権選択選挙を行った結果を、(身内の事

  情で)変更するという点にある。さらに悪いのは、「来年の参院選のために造反組の力が必要だ。憲法改正などに本格的に取り組むためにも、ここで政権を安定させたい」と言えばまだしも、「政治には情も必要だ」というわけの分らない話になったので、「誓約書」などというみっともないことになった。(「理を通すためには情も必要」ということと、「情を持ち出して理をチャラにする」こととは全く違う。)
 「あの選挙は何だったのか」―これを評論屋が言う場合と「一票の重み」を例えその瞬間だけでも実感した有権者が言う場合とでは、意味が全く違ってくる。郵政選挙はそういう有権者を構造的に作り出した。議員の「造反」は誓約書一枚で「なかったこと」にできるかもしれないが、これは「なかったこと」にはできない話だ。
 中選挙区時代と違って、同じ党の候補者が全く反対のことを言う選挙はおかしい、ということを有権者は常識にした。すなわち、政党とはマニフェストによって紀律化された集団であるはずだ、ということだ。それゆえに、政権選択選挙における一票の重みを、瞬間的にであっても実感した有権者は、かつてのような「政治不信」「政党不信」には戻らない。求めているのは、マニフェストによって紀律化されることで蓄積される「政党の信用」である。こうした有権者とどのようにコミュニケー

ションを取り続けていけるのか。これが安倍・自民にも小沢・民主にも問われている。ここでの組織戦が〇七年統一地方選、参院選そして次期政権選択選挙の行方を決することになる。
 安倍政権にとっては、来年度予算がまずその第一関門になるだろう。好調な企業業績のおかげで税収増は七兆円ともいわれ、与党内では早くも参院選をからめた歳出要求が激しくなっている。小泉改革の下で封印されてきた「バラマキ」が(再チャレンジやイノベーションなどの名分で)復活するようなことがあれば、それこそ「あの選挙は何だったのか?」ということになる。あるいは、小泉政権がやり残した道路特定財源の一般財源化を明確にできるのか。
 「小泉政権は、おそらく戦後史上初めて、市場経済システムそのものを政治が目指すべき価値であると(暗黙に)宣言した政権だった」(小林慶一郎「論座」10月号)という地点から後退しないというところで「官邸主導」が発揮されるか。ここで政策による紀律化が図れるか。それがあいまいなまま参院選対策で予算をバラまいたとして、どういうところから集票することになるのか。
 未だに交付金にぶら下がろうという地方自治体首長・議員の支持基盤に、活力ある有権者がいるだろうか? 補助金に頼ろうとする新旧業界団体のところに、生活で市場経済が分っている有権者がいるだろうか? 公共事業費は減りつづけ、交付金や補助金も次々とカットされるなか、人口の75パーセントが住んでいる地方においては、それらに依存せずに
  自立・自治をやっていこうという生活実態が、「層」として形成されようとしている。こうした活力ある・意欲ある有権者をとらえることができずに、都市部において政策選択が分る有権者にアプローチできるだろうか。
 それができなければ、東京の税収は(大企業の本社が納めたもので)自分たちが納めたものではないという意味さえ分らずに、「バラマキ批判」で分ったフリをするという都市部の根なし草をターゲットに、瞬間芸のパフォーマンスを繰り返すしかなくなるだろう。
 どういう有権者、どういう社会層、どういう生活実態を組織対象としているのかということがなくて、政策による紀律化ということはありえない。これは民主党も同様である。この間の補欠選挙で見て取れるのは、「民主党の現状は現状として、日本の民主主義のために政権交代可能な構造が必要だから民主党に一票を投じる」という民意の存在だ。民主党に対する「バラバラ批判」もその本質は、五十五年体制の右・左といったものではなく、議員・候補者の活動や自治体選挙における対応が、どこまで政策で紀律化されたものになっているのかという点にある。
 これに「政党不信」の側から対応すれば「所詮、自民党も民主党もバラバラ。政党ではなく個人を見て」という話になってしまう。しかしすでに有権者のほうがそれに巻き込まれずに「政権選択なのだから、私たちは政党のマニフェストと党首を選ぶんですよ」「その観点からの品質管理を聞いているんです」と詰められてしまうことになる。

 あるいは沖縄県知事選の結果は、五十五年体制的革新・野党共闘という構造が、基地問題を抱える沖縄でも、有権者のなかでは清算されたことを示した。言い換えれば「基地問題か経済振興か」という選択肢で有権者は判断したのではない、ということだ。基地を押し付ける代わりに「公共」投資をバラまくという旧来型の経済振興ではなく、観光産業で食っている(観光業の復調で沖縄の景気は良くなっている)という現実の市場経済(東アジアを視野に入れた市場)が生活で見えている層が流れを変えたはずだ。
 「政治とは生活である」ということには誰も反対しない。問題は、それはどういう生活なのかである。われわれの生活はグローバル市場を前提としている(せざるをえない)。富の源泉、蓄積、分配のシステムが、国民国家を前提とした時代とは様変わりしたなかでの生活なのである。FTA(自由貿易)のなかでさらに発展できる農林水産業とはなにか。高付加価値のモノづくり―知価社会の時代を担う人づくりとはなにか。住民自治を競い合う自治体間競争とはなにかetcといった視点から、言い換えればグローバル市場を前提とした生活のありようから「政治とは生活である」という論戦をどのように展開できるのかが問われている。逆に、市場経済に政治を対置する要素に目をつぶったまま「政治とは生活である」と言えば、どういう組織戦を展開することになるか(どういう集票構造になるか)。
 〇七年統一地方選、参院選では、安倍・自民党も小沢・民主党もここでマニフェストによる紀律化がどこまでできるのか、が問われている。
 
   
賢明な政策判断を下せる有権者になろう

 マニフェストによる紀律化が問われるのは、有権者も同様である。財政破綻した夕張市では、市税や上下水道料金、保育所料金などが大幅に値上げされ、十一ある小中学校もそれぞれ一つに統廃合されるなど、市民に大きな負担を求める再建案が提示された。市民の怒りはもっともだが、赤字を垂れ流し続けてきた市長、その予算を承認し続けてきた市議会を選び続けてきたのは市民である。「お任せ」で首長や議員を選んでいるような地域は倒産する、そういう時代になったのだ。まさに自治の力が試されている。
 岩手県藤沢町は徹底した自治によって総合的な地域改革を進めていることが知られているが、その出発点は高度成長期に過疎化が進み、消防団も作れないほど地域社会が崩壊した時に「残ったものが自分たちの責任でやっていくしかない。誰かがよくしてくれるだろうという安易な期待を持とうにも、そんな人は誰もいないのだ」という危機感を住民が共有するところからであるという。そして、国のいう対策は全てやったけれども過疎は止まらなかった、という教訓から、自分たちで考えるしかないと。(東京経済大学会誌 第二四九号「真の住民自治こそ地域再生・創造の原動力」)
 行政に自分たちの要求を通すことが「市民参加」だ―これが右肩上がりの時代の「参加意識」だろう。この延長に、これからの住民自治の担い手が生まれないのは当然だ。「お任せ」から約束へということは、談合や汚職に対する「ノー」のレベ


ルや、「郵政民営化に賛成か、反対か」というシングル・イシューの「政策選択」のレベルをはるかに超えたところへ、自治体選挙の質を大きく変えなければならないということだ。まさに自治の担い手たりうる、賢明な政策判断を下せる有権者になることが必要であり、ローカル・マニフェストをそのための組織戦のツールとして使いこなすことにほかならない。
 ローカル・マニフェストを、自転車で走り回ることに替わる選挙運動のツールという次元でとらえていれば、その場限りのパフォーマンスに終わる。しかしレベルの違いはあっても、現実の組織再編(会派での合意形成、議会の総意形成、行政のマネジメント、有権者との関係など)のツールとして使いこなしていく試行錯誤からは、二元代表制や住民自治を「教科書の話」ではなく権力実態としていくための教訓が飛躍的に蓄積されていく。ここでの二極化の進行はすさまじいものがある。
 また地方議会における無所属というのも、都市部では政党不信をバネにしたものがほとんどだが、地方では市場経済の変化(グローバル市場や東アジア経済圏、あるいは中国市場など)が生活実態として分り、それに対応することができる人たちが、いわゆる保守系無所属という構造を形成している。
 「依存と分配」の実感さえ知らずに「反自民」「バラマキ批判」で票をとろうというのでは、どうやっても根は生えない。根が生えないところでは、どんなにいい「政策」を書いても蓄積しないし、それではPDCAサイクル(Plan=立案・Do=実行・Check=検証・Action=改善)は回りようがない。
   「依存と分配」の実態を知っているからこそ「時代が変わった、これまでのようにやれるはずがない」と総括できるし、だからこそ時代の変化に対応してメシを食おうとすれば、ローカル・マニフェストでちゃんとやるしかないということになる。ここには、地域の問題を地域で解決するために必要な人材、知恵、ネットワーク、生活の実態に根ざした活動(経済活動、社会活動)etc がある。〇七年統一地方選では、こうした構造が地方政治の流れを変えるところまで成長することが必要になる。また参院選の焦点である「一人区」の攻防は、まさにこうした性格のものになる。
 相次ぐ改革派知事の退場は、「官治分権」の時代がその役割を終えたことを意味している。ここから自治分権へ、どのように歩を進めていくかが本格的に問われる。
 政府の進める地方分権は今後、歳入・歳出一体改革で財政再建圧力が強まるなか、「身の丈にあった自治」の名の下に、自治体に自己責任を求めるだけのものに終わりかねない。住民も「国と地方が権限と財源を奪いあっているだけ」と、他人称で見ていられる段階は終わった。自治分権―地域の問題は地域で解決する、そのための合意形成をどう図るのか、首長と議会をそれぞれ選ぶ「二元代表制」を機能させるとはどういうことかetc。自治の担い手として、賢明な政策判断を下せる有権者になろうではないか。
 問題設定が違えば、現状分析が違う(見える風景が違う)。当然、行動方針も違ってくる。これがフォロワーのなかできわめて具体的に見えるようになってきた。だからこそ、国民主権

の問題設定からのローカル・マニフェストとはどういうことか(パフォーマンスの道具になるのと、どこが違うのか)、政権選択選挙とはどういうことか(政党不信や無党派主義と何が違うのか)、二元代表制を機能させる議会改革とはどういうことか(「削る」「減らす」だけの「改革」と何が決定的に違うのか)etcが実践的に鮮明になりつつある。
   こうして国民主権の共有地が具体的に見えてきたからこそ、何を変えるのかが特定できてくる。こうした独立変数としての主権者のうねりを、日本の民主主義の歴史的ステージを大きく回す機動力として登場させる―〇七年統一地方選挙、参院選をその舞台として使いこなしていこう!