日本再生 328号 2006/9/1発行

小泉政権5年間を国民主権の教訓として総括し、政党政治・マニフェスト型選挙のさらなる深化として
次期政権選択選挙を準備する主権者運動を

ポスト小泉 ――次期政権選択選挙に向けた
攻防の幕は切って落とされた

 幕が上がる前に芝居は終わっていた。ポスト小泉の大きな結節環となるはずの自民、民主の党首選は、一言で言えばこういうことだろう。いやむしろポスト小泉というよりも、次期政権選択選挙にむけた攻防の幕が、安倍・自民党と小沢・民主党との間ですでに切って落とされているというべきだろう。今秋の補選、来春の統一地方選そして夏の参院選をいかに戦うか。その組織陣容、求心力が問われる。
 福田・元官房長官の出馬見送りを機に、有力議員が次々と安倍氏支持に舵を切る様相を、「季節はずれの“なだれ”」と評することもできるし、総裁選が始まる前にすでに安倍政権を前提にした動きからは、ポスト小泉の政策課題を明確にするエネルギーは生まれてこないとも言える。
 しかし言い換えればこれは、派閥単位で総裁選を戦うことで「疑似政権交代」を演出してきた中選挙区時代の権力闘争の残影が、そのエネルギーを失ったということでもある。振り返ってみれば小泉総裁が誕生した〇一年の総裁選は、一般党員票が(永田町の)派閥の力学をひっくり返すという展開だっ

  た。この流れが権力闘争として決着づけられたのが昨年の総選挙であり、この総裁選であるといえる。
 安倍氏の組織戦を一言で言えば、「安倍派はいらない」ということだろう。派閥内を固めてというのではもちろんないし、派閥横断的に若手が集まって、というのとも次元が異なる。逆に問題になるのは、バスに乗り遅れるなという“なだれ”的支持が急速に広がる今、どのようにして安倍政権の求心力を作り出していくかである。派閥均衡・総調和という「過去」に戻ることはできないし、「仮想敵」を叩いて求心力を作り出すという手法も(党内マネジメントにおいては)とれない。
 派閥という次元での組織マネジメント、組織綱領はすでに力を失ったが、それに替わる新たな組織マネジメントは未だ確立されていないという「過渡期」において、マニフェストによる政党の紀律化=マニフェストに基づく組織マネジメントを実践的に蓄積していけるのか。あるいは党首の人気頼み、風まかせとなるのか。この踊り場である。
 「ポスト小泉の条件」について、安倍氏の下で党改革に取り組んできた世耕弘成参院議員は次のように述べている。
 「これまでの日本の政治は、内部でうだうだと言うだけで、決まったのか決まっていないのか分らないことが多かった。国民はそれに飽き飽きしていた。

 そこに、小泉総理という強烈な個性が出てきて『こっちだ、ついて来い』とバンとやった。その姿勢に国民は、各論への賛否はさておいても、好感を持ったわけだ。ところが、ポスト小泉にこれが出来るかというと、必ずしもそうはいかない。〜略〜
 だからといって今後の総理が小泉総理のリーダーシップを引き継がず、またコンセンサス型の政治に戻ったら、国民はがっかりしてしまう。がっかりさせないためにはどうすればいいのか。それは組織でカバーするしかない、と私は思っている。
 今は小泉総理の個性の下で官邸によるリーダーシップが保たれている。これを一過性のものにしないためには、システムを構築して組織として定着させる。単に官邸だけでやるのではなく、党も参画する仕掛けを作っていく。〜略〜
 私は常々、国民にアピールすべきは、政策の内容よりもむしろ、政策を進める体制ではないかと思っている。体制をドラスティックに変えることで、『政治主導で日本を引っ張っていこうとしている』ことをわかってもらう。
 強烈な個性でやり過ぎなくらい推し進めていく小泉総理のやり方は、前述の通り余人が真似しがたいものであるし、少しずつ抵抗感や飽きを感じている人が多い気がする。だから今度は、政権全体でチームとして、リーダーシップをとっていくようにするのだ」(『自民党改造プロジェクト650日』世耕弘成・著より)
   同じ性格の問題は、小沢・民主党にも言える。「小沢しかいない」と誰もが認めるなかで、「次は絶対に政権交代」という目標にむけた求心力をどのように作り出し、また維持し続けていくのか。ここでも「政党としての凝集性をいかに高め、涵養していくのか」が問われる。政権党には政権という求心力がイヤでも働くし、政権運営という形でこれをこなしていくことができるが、野党の場合はそれをはるかに上回る工夫が必要になる。
 護送船団の組織なら調整型のリーダーでよいし、フォロワーの参加は画一的でよい。組織文化は上意下達、同心円的拡大ということになる。これでは「リーダーの問題設定に反応する」というフォロワーの必要条件すら、意識されることはない。この延長で目先の分配の利害というタガが外れれば、無責任な無党派主義の全面開花となる。これに依存すれば、人気のある党首を選挙の度に消費していくということになる。
 こうした「マニフェスト『以前』問題」を克服すること。安倍・自民党と小沢・民主党の次期政権選択にむけた攻防の重要なカギのひとつは、マニフェストに基づく政党の凝集性、紀律性をいかに作り出していくかであり、そのためのリーダーシップとフォロワーシップのありかたということになる。
 「政策の内容よりもむしろ、政策を進める体制ではないか」(世耕氏)という意味は、リーダーの問題設定に行動的に反応し、それを組織展開していくフォロワーシップの重層構造をい

かにつくれるか、ということだろう。政策という意味も、「何を言っているか」ではなく、「どういう行動提起をしているか」がポイントになる。大学のゼミや政策コンテストなら「何を言っているか」でよい。しかし「何を言っているか」では評論家はつくれても、フォロワーシップは生み出せない。政策実現のためのチームをつくり、それをマネージできなければ、どんな「立派な」政策も、ただの言いっぱなしでしかない―政策論争はこのレベルでの勝負になりつつある。
 小沢氏に対しても「強面」「壊し屋」など、そのリーダーシップへの論評はいろいろあるが、問われているのは小沢氏の問題設定(一言で言えば「次は絶対、政権交代」)に対するフォロワーシップのありかただ、ということになる。
 現状を変える、と言っているリーダーは、そのための行動を提起している。それを「何を言っているか」で受け取ろうとするところからは、変革のためのフォロワーシップは生まれない。リーダーの問題設定に行動的に反応する、そのフォロワーの重層構造(チーム)をどこまでつくれるか。こうした政党文化を一歩一歩蓄積していくことが、次期政権選択選挙の土俵を整備していくことでもある。
 安倍・自民党と小沢・民主党の攻防のなかから、変革のためのフォロワーシップの型、その糸口をいかにつかむか。これが主権者運動の問題設定であり、課題である。

  独立変数としての主権者運動
そのフォロワ−シップを鮮明にしよう

 小泉政権はポピュリズムという問題を、日本の現実政治の問題としてはじめて提起した。すなわち民主政治におけるリーダーとフォロワーのあり方が、ようやく実践的な課題となったのである。
 大衆の軽信無知と「上手に」戦うことができなければ、民主主義はいつでも衆愚政治になりうる。単なる啓蒙や啓発では、大衆の軽信無知と「上手に」戦うことはできない。それは時代の変化を生活のなかで追認し、学んでいく普通の人たちに「たかが一票、されど一票」「あなたの一票が政府のありかたを決めるんです」ということを、どれだけ実感的に伝え続けていけるかということだ。
 イギリス病に苦しめられた英国では、「うちは代々労働党支持だけど、国が危機に瀕している今回はサッチャーに投票する」という有権者がおり、ドゴール政権末期のフランスには、「ドゴール将軍の下で対独レジスタンスを戦ったからずっと支持してきたが、フランスの民主主義のために、今回だけはダメだ。彼は王朝を築こうとしている」という有権者がいた。民主主義が賢明に機能するためには、このようなパブリックのフォロワーシップが不可欠なのである。


 二大政党・マニフェスト型選挙の定着のなかで、日本でも「既存政党の党員や支持者になる意思はないが、政党政治が機能するために、有権者としてやれることがあればやる意思はある」という、フォロワーとしての当事者意識が生まれてきた。A政党を支持する、B政党を支持するという範疇よりも上位のパブリックの価値観(政党政治をまっとうに機能させる)が、フォロワーとしての行動基準となりつつある。
 次期政権選択にむけてここからさらに、時代や国、社会あるいは自由、民主主義、市場経済にかかわるパブリックの基礎は共有したうえで、当面の政権選択にかかわる問題設定を鮮明に提起していくというリーダーシップとフォロワーシップの発揮―相互発展が必要になる。そのための舞台として秋の補選、統一地方選、参院選を使いこなしていくことである。
 ポスト小泉では、「改革」の絶叫の影で先送りされ、あるいは放置されてきた問題に正面から取り組まなくてはならない。そのためにもパブリックの問題設定を鮮明にする必要がある。
 例えば財政再建。「政党は消費税率を上げると、正面から言えますか」と、フォロワーの側から問う。
 とにもかくにも、歳出削減という改革は「遅々として」進んできたが、参院選をめぐっては、これすらもブレーキがかかるかもしれない。後戻りのベクトルを最終的に断ち切って、この踊り場から次のステップへ移行しきるためには、そのための明確な問題設定が必要となる。それをフォロワーの側から明確
  にしよう。「政党は消費税率を上げると、正面から言えますか」と。
 これを明確にしたうえで、そのための具体的なシナリオ(歳出改革の目標設定など)を提示するのと、これをあいまいにするためにあれこれの前提(成長率の予測やら歳出削減リストやら)をこねくり回すのとでは、マニフェストに書かれた数値目標や工程表の意味はまったく違ってくる。
 あるいは「アジアに自由と民主主義を定着させるために、日本は何をなすべきか―これを正面から政党は提起できますか?」と。日米同盟がわが国の外交の基軸であることは、当然の前提であるが、それに寄りかかって思考停止になっていれば、外交政策を体系化し制度化していくということは金輪際、わが国に根付かないことになる。ブッシュ・小泉時代とロン・ヤス時代(レーガン・中曽根)との落差は、端的にこれを示している。わが国外交の目標は何か、これを政党は正面から提起できるのか。
 「アジアに自由と民主主義を定着させる」ということは、自由や民主主義という原理を振り回して特定の国を非難することではない。外交は対決型のゲームやパフォーマンスではない。「アジアに自由と民主主義を定着させる」という目標のために、日本に何ができて、何ができないのか、あるいはどういう利害関係を張り巡らせる必要があるのか。
 例えば北朝鮮のミサイル発射事件は当面の脅威のみならず、朝鮮半島の中長期的な将来像ともからむ問題であるが、

「アジアに自由と民主主義を定着させる」という目標からこの問題に取り組むのと、個々の出来事に条件反射的に反応するのとではまったく違ってくる。
 前者の場合には、「そのためにどのような国際協力関係を構築していくか」が課題となる。ここには理念まで踏み込んだ同盟もあれば、ステークホルダーという協力関係もあるし、場合によっては対敵共同もありうるだろう。いずれにしろ冷徹な分析が不可欠となる。
 しかし後者の場合には、個々の条件反射的対応を「自由」や「民主主義」というスローガンでオブラートに包んでいるにすぎない。これは基本的に国内向けのメッセージでしかなく、かえって選択肢を狭める結果を招く。
 こうした仕分けを鮮明にするために、そして外交を政争の道具とする道を断つためにも、「アジアに自由と民主主義を定着させるために、日本は何をなすべきか―これを正面から政党は提起できますか?」と問い、そこにスローガンではなく、どれだけ冷徹な分析があるのかを問うていくことが必要だ。
 あるいは格差問題については、「個人の努力や競争の結果、格差が生じるのは当然だ。問題は公正なルールに基づく競争なのか、そして不公正・不条理な格差の固定化・拡大をどう是正するかだ」という問題設定が必要だろう。
   右肩上がりの時代のバラマキの惰性を止めるだけで、総中流という外皮に隠されていた社会的責任意識の格差―当事者意識の格差が顕在化している。ここに本質問題がある。
 「結果の平等」は検証しやすいが、「機会の平等」はそれが実現されているのかどうか分りにくい。だからこそ当事者意識のある人々、社会と向き合うことや選択するという意味が生活で分っている主権者、フォロワーと対話しながら合意形成をはかっていく以外にない。当事者意識の欠如した部分―総中流・護送船団・無党派主義といった意識を組み込んで、「社会的公正」についての合意形成をはかることはできない。ここを鮮明に仕分けする問題設定が必要だ。
 (総中流・護送船団・無党派主義を組み込めばどうなるか。本社の納める法人税で潤っている、という意味さえ分らずに、「都会の税金を地方にばらまくな」と言うことが地方分権だとなり、「それは企業の納めた税金でしょう、あなたはいくら納めているんですか?」と問う候補者は、落選必至ということになる。)
 統一地方選についても「二元代表制とローカルマニフェストの深化、これを政党は政権公約(パーティーマニフェスト)の深化からマネージできますか?」と問うべきだろう。
 本来の厳密な定義から言えば、政権公約たるマニフェスト

は総選挙において政党(それも過半数以上の候補者を擁立する政党)が掲げるものに限定される。解釈を拡大しても、執行権のある首長までであって、地方議会選挙でマニフェストというのは「成立しない」ということになる。
 しかしローカルマニフェストが現に生まれつつあるパブリックの主権者意識、フォロワーシップを政治組織表現する媒介となっているのも事実である。「正しい」解釈で現実を否定するところからは、国民主権のリーダーシップもフォロワーシップも生まれない。
 例えば合併による議席大幅減や財政難から、地方議会の保守系会派にはさまざまな形で再編が始まっている。ここで言う「保守系」とは、時代の変化を生活で追認し対応していく知恵のある層ということだ。こうした動きは、統一地方選でのローカルマニフェスト(会派として、あるいは会派横断で「統一マニフェスト」を掲げるなど)の試みとして政治表現されつつある。「想定外」の結果となった滋賀県知事選も、こうした動きと無縁ではないだろう。
 また有権者のなかでも「Aさんの公約が理にかなっている」というだけではなく、「それを実現するためには、議会で過半数の賛成を得なければならないんですね。同じ公約を掲げる
  議員を増やすためにも、統一マニフェストを」という組織戦への参加が始まってくる。ここから、(官治分権を超えてさらに)自治分権を深化させるために二元代表制を使いこなす、という問題設定もリアルになって来る。
 ローカルマニフェストをめぐって多様な形で進行しつつある国民主権の発展を、政党は政権選択選挙の「共有地」としてとらえることができるのか? ローカルマニフェストにかかわるさまざまな取り組みと結びつくことなしに、政権公約(パーティーマニフェスト)の深化はありえるのか? 
 ローカルマニフェストのなかには、マネフェストも「マニフェストもどき」もいっぱい混じってくる。それをふるいわけるのも、フォロワーにとっての練習問題だ。こうしたことを通じて「軽信無知と上手に戦う」すべを心得てくる主権者(バッジをつけた主権者・バッジをつけない主権者)を、さらにどのように生み出すことができるのか。
 安倍・自民党、小沢・民主党には、リーダー個人の「個性」ではなく、チームとしてその重層構造をどこまで創りだすことができるかが問われることになる。その競争構造の力で、次期政権交代にむけたステージを大きく前へ回していこう。