日本再生 326号 2006/6/1発行

「あろうべき政党」とパブリックの主権者運動、
その深化・発展のためのロードマップを共有しよう

「がんばろう、日本!」国民協議会第四回大会へ(6月18日砂防会館)

ポスト小泉をめぐる攻防を、
パブリックの主権者運動から検証しよう

 小泉自民党総裁の任期が、いよいよ残り三ヶ月となった。本来なら「小泉改革」の総括・検証(功と罪の仕分け)から、「ポスト小泉」の方向性をめぐる論議が活発に行われるべき時期だ。しかし、永田町―既存政党は奇妙なエアポケット状態にある。ひとつは野党民主党の“自滅”によって、小泉改革の検証をすべき今国会の論戦が低調なままであったこと。二つ目には、総裁候補に改革を競わせるという舞台設定がきちんとなされていないために、「次の方向性」が打ち出されないまま、圧倒的な人気の総理に対して「様子見」状態にあることだ。骨太の政策論が打ち出されない中では、総裁選をめぐる動きは「永田町のウワサ話」、政局ネタ、ワイドショー・ネタになっていく。
 21世紀臨調幹事会は「政党は政治をどう守るのか〜マニフェスト『以前』問題を問う〜」との声明(4/14)でこう問うている。
 「政治を『面白いもの』として印象づける試みが政治の周辺を含めますます活発化している。政治をこうした形で『消費』の対象とする動きに対して政党はどのように対処するつもりか。こうした動きと説明責任を果たすことと同じなのか、それとも違うのか。こうした傾向に対してどう政治と政治家を守るのか、守るとすればどのような処方箋があるのか。そもそも政治とい
  う活動は俗な意味で『面白いもの』なのか。政治をどのようなものと考え、それをどう社会に対して発信するつもりなのか」
 ポスト小泉とは単なる自民党後継総裁の話ではない。外交上では〇一年同時多発テロ以来の「〇一年体制」ともいうべき国際情勢と外交スタンスをどう総括するのか。内政上では「官から民」「小さな政府」を標榜してきた「改革」をどう総括するのか。いずれも、次の政権選択選挙の重要なテーマである。言い換えれば、次の政権選択選挙で国民に問うべき政策課題と選択肢を整理する、その方向性を打ち出すことが、この秋の自民、民主それぞれの党首選に課せられた任務だ。これがあいまいにされるところから、「政治を『面白いもの』として消費する」動きがはびこることになる。
 小選挙区制の導入から十年、マニフェスト型選挙から三年、私たちは今、国民主権の発展のための「次のステージ」へと向かう“踊り場”とでもいうべきところに差しかかっている。政党や政治の現状に対する批判が無党派・政治不信・組織解体の方向に流れる道は、政権選択選挙の共有地をつくろうという主権者運動によって断たれつつある。既存政党の党員や支持者になる意思はないが、政党政治がきちんと機能するために、有権者としてできることがあればやる意思はある、という主権者意識の芽生えは確実にある。これをさらに「層」として組織表現、運動表現するために何をなすべきか。そのロードマップから、ポスト小泉(次期総選挙における政党配置)、さらには〇七年統一地方選、参院選の問題設定を共有していくことが必要だ。

 政権選択選挙の政治文化を確立するために、この秋の党首選に求められる課題は鮮明である。21世紀臨調が提言するように、党首マニフェストを作成し、全党的な政策討議と合意形成を行って、次期総選挙における政権公約の中身と実行体制を国民の前に明らかにする、ということである。
 しかし既存政党の主体性だけでは、それを実行する力がないこともまた「マニフェスト『以前』問題」(21世紀臨調)に明らかである。だがこの現状を嘆くには及ばない。小選挙区の導入もマニフェスト型選挙も、既存政党の主導性で行われたものではないのだから。ここまでを引っ張ってきたのは圧倒的に、「バッジをつけない主権者」の主体性と成長による。次のステージもその深化・発展によって開かれる、それ以外にないというだけのことだ。
 十年前なら政治の現状に対する批判は、圧倒的に政治不信・政党不信(政党解体)をバネにして語られた。しかし今では「既存政党の党員や支持者になる意思はないが、政党を否定するものではない。政党政治がきちんと機能するために、有権者としてできることがあればやる意思はある」というところまで、主権者の蓄積はできてきた。
 既存政党のなかではどうなのか。政権選択選挙の政治文
  化はどこまで蓄積されたのか、あるいは五十五年体制の資産をただ食いつぶしてきただけだったのか。五十五年体制批判が、単なるアンチや「ぶっ壊す〜」の絶叫、自分がバッジをつけるためだけのパフォーマンスだったのか、それとも新しい政治文化を創るため、政党政治の共有地を耕すための戦いだったのか。ここから政党政治をめぐる現実の主体形成の仕分けと再評価を、バッジをつけない主権者の側から行っていくことだ。
 党首選の全プロセス、あるいは地方選、参院選の候補者選びなどにおける「人の評価」を、この基準に変えること。言い換えれば、政党が持つべき一定の組織水準をクリアするというところからの評価基準を持つということだ。政党は単なる個々の議員の集まりではない。「自分党」の集まりでは選挙互助会にすぎない。これで五十五年体制を批判していれば、その政治資産を食いつぶすだけにしかならないのは当然だ。そこで露呈するのは、数さえそろえばいいとか人気の高い党首がすべてといった、粗雑でうすっぺらな存在である。ここを転換させる、そのためにバッジをつけない主権者の側が「政党の」評価基準・検証基準を明確に持ち、この十年の蓄積の実際を仕分け―再評価しようということだ。

 次期政権選択選挙にむけた政党配置を再構築していくための陣容を、既存政党はどう整えるのか、どこまで整えるのか。これを政党に要求し、ここから秋の党首選を検証していこう。

ポスト小泉で問うべき外交戦略とは

 次期政権が直面する課題、そして次期政権選択選挙で示されるべき政策課題について、バッジをつけない主権者の側から方向性を整理していくことも必要となる。
 そのひとつである外交について。
 小泉外交の五年間は9.11テロ以降の、いわば「〇一年体制」ともいうべき国際政治情勢に日米同盟強化をもって対応してきた。これは九〇年代以降、ポスト冷戦・グローバル化という新しい時代に、日米同盟を再定義―強化することで対応してきたことの必然的な結果でもある。この十五年間ほどの現実の歩みを「なかったこと」にして、「これからはアジア外交だ」というような観点から、ポスト小泉の外交課題を論じることは誤りである。
 しかし「外交赤字」は、このように「絶好調」といわれる日米関係にも累積している。例えば米軍再編。九月の退任を前に官邸が押し切ったかたちで「合意」したが、普天間の移転など実質的な問題は先送りされたままであり、その進展によっては振り出しに戻る可能性は十分にある。だが米軍再編は、単なる個別対策の問題ではない。〇一年同時多発テロ以前か
  ら構想されてきた「二十一世紀型米軍」の最終仕上げであり、テロとの戦争におけるアジア太平洋の拠点として日米の司令部機能を日本に一本化するというものだ。これは、日本はカネを出しアメリカは軍を出すという旧来の協力関係ではなく、アメリカの世界戦略の一翼を日本も担うことを意味する。だからこそ戦略対応が求められ、またその対応ができないところから「赤字」が積みあがっていくという構図になっている。
 それが端的にアジア戦略の欠如―対中関係に反映される。米政権内では対中政策に関するスタンスは、「封じ込め」から「関与」まで五つあると言われる。「同盟国ではないが敵でもなく、友人ではないが、傍観者でもない。残ったのが『利害を共有するもの』(ステークホルダー)」という発想は「敵か味方か」「脅威か否か」という単純二分法・二国間関係の窓からはとうてい見えてこない。だからこそ米中は軍事的には脅威視しつつ、通商・経済関係では利害を共有し、価値観(人権など)では対立しながら、首脳が対話することができる。
 そこからすれば、日本への注文は「アジア戦略に包括的なビジョンを持て」ということになる。「日米同盟強化だけではなく、アジアでの日本の独自外交を支援することも、米国のアジア戦略の中心になっている。〜略〜日本では『脱米入亜』論が終わり、多くの人が『親米入亜』を正しい道だと認識していると私は思っている。強固な日米同盟は、日本独自のアジア外交を強化することにつながる」(マイケル・グリーン 米戦略国際問題研究所日本部長 読売3/22)

 米国の政策関係者が靖国問題で冷え切った日中関係の打開を求めるのは、世界の成長センターである東アジアの安定がアメリカの国益にとって重要であり、それをマネージするうえでの「ステークホルダー」であることが、同盟にとって必要不可欠であるからだ。言い換えれば、そうした利害の共有の上に「価値観の共有」があれば文句なしだが、そうでないなら価値観を共有できなくても利害を共有できる国との戦略対話を進める、ということだ。その意味で中国との関係もインドとの関係も、アメリカにとっては十分に戦略的である。
 あるいはイランの核開発問題でも、日米同盟に対する戦略的対応が問われることになるだろう。マイケル・グリーン米戦略国際問題研究所・日本部長は、「イランとの特別な関係」を慮る日本の対イラン融和策に対して、ひとつひとつ根拠をあげて反論した後、次のように畳み掛けている(5/22日経「経済教室」)。
 「日本の国益は、民主主義の欧米とともにあるのだろうか、それとも非民主主義国の中国や専制色を強めるロシアとともにあるのか。台頭著しい中国をにらんで、大きな戦略的見地から見れば、日本は他の民主主義国と共有する価値観に基づいた立場をとるべきだろう。
 これは中国を封じ込めるためではなく、むしろ中国に対して、世界の他の主要国はすべて共通した一連の規範を順守しており、中国もそれらに従うことが期待されているということを絶えず示すためである。イランの核問題などに対して、その場しのぎの自国の利益のみを追求する姿勢を容認すること
  は、中国もアジアで同じような自国中心主義的行動をとることにつながっていく」と。
 これはもはや、日米同盟を狭義の安全保障で行き着くところまで強化する、といった同盟強化論で対処できるレベルの話ではない。ここで「赤字」が積みあがっているというのが本質的な問題だろう。
 方向性としては、日米同盟を「自由、民主主義、市場経済」といった価値観を共有する同盟としていかに深化させるか。そして価値観を共有するからこそ現実の政策オプションの幅は広がる、という戦略的関係にどうもっていくのか、ということになる。言い換えれば、アジアにおいて日米の短期的利害が異なる場合は大いにありうるのであって、アジア戦略における日米の共有点をどうつくり、相対的に独自の判断領域をどこに設定するのかということになるだろう。
 付言すれば「靖国問題」について、そろそろ「中国が〜だから」「アメリカが〜だから」という言い訳をやめて、われわれ自身の決着をつけるべき時にきているだろう。「戦争遂行者の責任、その検証と追及を東京裁判の不当性、非合法性を理由に何もかもチャラにしてはならない」「日本人自らの手による責任の自覚と責任の追及を始まりとしないかぎり、そしてそれを全くしてこなかったことの意味を深く問い返さないかぎり、真の歴史の教訓を汲んだことにはならない」(石原慎太郎東京都知事「正論」05年12月号)という認識を共通の出発点にすべきではないか。
 

官治分権から自治分権へ
さらなる深化を

 「官から民へ」「国から地方へ」というスローガンの下、小泉政権で改革は「遅々として進んだ」というべきだろう。地方分権、金融改革、税制改革などは、じつは橋本内閣、小渕内閣の時の決定からスタートしたものであり、小泉政権の功績はこれらを「後戻りさせなかった」ことだと言えるだろう。とくに財政の逼迫もあって、従来型の景気対策(大型公共、減税)は行わないとしたことで、民間部門の「自助努力」が否応なく促進され、地方にも「自助努力」が求められるようになった。
 これに対しては「格差が拡大した」という声もあるが、それよりも「補助金行政によって歪められていた面が是正された」ことのほうが大きいというべきだろう。地域格差はあっていい、格差があるからなんとかしてくれ、ということではない。問題は地域がどう自画像を描くかだ、というところに主権者意識がある。
 あるいは格差があるのは当たり前、格差があるから目標もできるし、がんばることもできる。問題は「選択の機会」や「選択する能力」を身につける場において格差があるのかどうか、それは社会的に不公正なものかどうかではないか、というところに主権者意識が生まれる。
 同時に「国から地方へ」とは、国と地方の行政内部の権限
  移譲の話である。それでも「やらないよりはまし」であり、「遅々として進んだ」結果、自治体の知恵と腕の見せ所は増えた。これをさらに、自治分権へといかに深化させるのか。これが次の課題となる。ここまでの「遅々とした歩み」を後戻りさせない制度的保証(次の一歩)が必要であると同時に、それを可能とするエネルギーとして、住民自治の多様な発展が求められる。
 制度的課題については、引き続き分権を推進していく場(地方自治体も参加)の法定化や法整備、また交付税制度も含めた税財源改革などが挙げられよう。しかし決定的にはそれらを推進するエネルギーを、いかに地域住民自身のなかから作り上げていくのかということである。三位一体改革が中途半端なものに終わってしまったことの原因は、もちろん小泉政権の取り組みにもあるが、もっとも総括しなければならないことは、自治分権―身近なことは身近なところで決める―への市民的エネルギーを呼び起こすことができなかった点にあるだろう。
 その意味でも、〇七年統一地方選は重要である。歳出削減の議論は「地方」にも及んでおり、交付税も聖域ではない。例えばこれを、国の赤字削減―地方への押し付けというレベルの話にするか、それとも交付税制度の抜本改革―地方共同税化=「国が配る」から「地方が分け合う」へ=の糸口とするか。地域が国に格差是正を要望するのか、それとも自己決定の権限を求めるのか。

 そこで本来の意味の「社会的公正とは何か」が問われることになる。例えば都心の税収が多いのは、そこに本社機能を置く企業が納めたものであって、地域住民の自助努力による部分は少ないだろう。「A区はすごい税収なのだから、すこしは手厚いサービスを受けてもいいのではないか」という区民に対して「でもみなさん、それだけの税を払っていますか、払っているのは企業じゃないですか」と答えた候補が落選するという構図は、はたしてどれだけ健全だろうか。
 あるいは都心に水を供給するために水没させられるダム予定地の村もある。電力を供給しているのは新潟県や福島県だ。人材を供給しているのも地方である。都心の富を都心だけで分かち合って「自治」と言えるのか――こういう問題に、中央政府ではなく地域住民自身が回答を出すことなしに、例えば「地方共同税」の議論は前に進まないことになる。
 国政は劇場型でも参加した気分になれる、地方政治は目先の利害でも参加できるというのは表裏一体の関係だ。必要な
  のは好き嫌いや目先の利害より上位の、パブリックに関わる判断基準である。それは政党のあり方やマニフェストにかかわるものであろう。マニフェストが“気づき”の道具であるという意味は、「公共のありかた」をめぐって議論する、その政治文化や作法を主権者自身が(バッジをつけたほうも、つけないほうも)不断に深化させていく運動の媒介とする、ということであろう。〇三年はマニフェスト型選挙の元年であったが、〇七年はローカルマニフェストをパブリックの共有地を耕す道具として使いこなそう。
 生まれつつある主権者意識を、政権交代可能な政党政治を育む共有地として、いかに発展させていくか。その豊かな土壌のうえに〇七年統一地方選、参院選を準備し、「あろうべき二大政党」への次のステージをどう開いていくか―パブリックの主権者運動をさらに深化発展させるロードマップを共有すべく、第四回大会(6月18日砂防会館)へ!