日本再生 325号 2006/5/1発行

政権選択選挙の共有地をつくろうという主権者意識の台頭、パブリックの主権者運動で
国民主権・政党政治の“次のステージ”へ

「がんばろう、日本!」国民協議会第四回大会(6月18日砂防会館)へ

 
「既存政党の党員や支持者になる意思はないが、政党政治がきちんと機能するために、有権者としてできることがあればやる意思はある」という主権者意識

 四月十四日、21世紀臨調幹事会は「政党は政治をどう守るのか〜マニフェスト『以前』問題を問う〜」との声明を発表し、政党政治の現状について政党、政治家はもとよりマスコミ、有権者に対しても警鐘を鳴らし、問題提起を行った。
 「日本の政党政治は大きな転換点に立っている。
 古い支持組織は崩壊し、官僚制は昔日の力を失い、政党はいよいよ自らの足で立つしかなくなっている。そのためには政党がマニフェスト『以前』問題を解決し、組織実態として一定の水準に到達していることが絶対に必要である。
 この間に見られた野党第一党の自壊現象とでもいうべきものは正にこの水準問題がなお大きな課題であることを明白にした。そこが克服できなければ全ては砂上の楼閣であろう」と提起して、マニフェスト「以前」問題として以下の四点を問うている。
 「政党政治は集団である政党を主体とする政治であるが、政党が候補者を集め、選挙を行うことは当然として、それ以外に集団としての凝集性を高め、涵養していくどのような方策を採っているのか。およそ政党が一つの主体であろうとする限り、その構成員を教育し、それを通して一定の紀律化をはからなければならないが、それはどう行われているのか。政治のこれまでの経験はどのように継承され、蓄積されていっている
  のか。一言で言えば、政党はメンバーの品質管理と政治的英知のストック化という問題をそもそもどう考えているのか」
 「政党活動を密室で行うわけには行かず、説明責任を果たすことへの要望がますます高まり、一部にはポピュリズム現象を指摘する見解もある。こうした中で、政治家たちが『どのように』それを果たすかについて政党として何かルールが設けられているのか。それとも事態を全く放置し、成り行き任せにしているのか。それを果たす一つの場としての政治家のメディア等への登場について何か政党としてのルールがあるのか。各政治家たちはそうした場での発言についてどのような責任を負っているのか」
 「政治を『面白いもの』として印象づける試みが政治の周辺を含めますます活発化している。政治をこうした形で『消費』の対象とする動きに対して政党はどのように対処するつもりか。こうした動きと説明責任を果たすことと同じなのか、それとも違うのか。こうした傾向に対してどう政治と政治家を守るのか、守るとすればどのような処方箋があるのか。そもそも政治という活動は俗な意味で『面白いもの』なのか。政治をどのようなものと考え、それをどう社会に対して発信するつもりなのか」
 「これらの諸点に与党は政権の運用という日常活動を通してそれなりに対応しているように見える一方、野党はこうした枠組みなしにいわば自由に活動することになるが、しかし、与党以上に徹底した創意工夫をこらすことなしには政権交代は望むべくもない。野党は自らの役割と任務をそもそもどのように設定し、それを実行に移す態勢をどう整備するのか。党首を頻繁に代えることで済むような話でないとすれば、どのような仕組みや制度が与党以上に政党としての凝集性を高め、

単なる政策人の集まりを超えた政党経営のノウハウを蓄積する上で不可欠であろうか」(声明の全文は21世紀臨調ホームページ
http://www.secj.jp/)
 既存政党の現状に対して、バッジをつけない“市井の賢人”の側が「あろうべき政党政治とは」という観点・価値観から警鐘を鳴らし、叱咤する―これはこれまでにはなかったことだ。「あろうべき政党政治」「あろうべき主権者」ということが、抽象的一般的なこととしてしか理解できなかった時と、これが具体的行動提起として入るようになった時とでは、見えてくる風景が大きく変わってくる。
 例えば千葉7区の補欠選挙。ここでの民意を、単なる「有権者のバランス感覚」(自民党に勝たせ過ぎた)ととらえるのか、それとも「日本の民主主義のためには二大政党が機能する必要がある」というものととらえるのか。前者のなかには、小選挙区、政権選択選挙という判断・その当事者意識はいっさい入っていない。これでは、昨年の911総選挙で「自分の一票が政権のあり方を決める」と実感した有権者にアプローチすることは到底できない。「有権者のバランス感覚」と評した小泉総理、チルドレンを始めお寒いパフォーマンスを繰り出した武部幹事長。自民党の敗因はまさにここにある。
 これを「やはり『風頼み』ではダメだ。来年の参院選には支持組織との関係を修復しなければ勝てない」と総括してしまえば、小泉総理が「ぶっ潰した」はずの「旧い」自民党に先祖帰りすることになる。「小さな政府」という新綱領で紀律化された政党への脱皮の糸口がつかめるのか。あるいは「劇場」型へ
  さらに走り、政党政治の基盤を弱体化させるのか。自民党の正念場であるとともに、民主党にも「政党としての水準問題」(21世紀臨調声明)が厳しく問われる。
 政党が一発勝負やセンセーショナリズム、人気の高い党首が全てなどという「出たとこ勝負」の体質から抜け出せなければ、小選挙区、マニフェストという(政党政治・政権選択選挙の)道具は「宝の持ち腐れ」となってしまう。メール事件でガタガタとなった民主党、ポスト小泉をめぐる自民党ともに、ここが問われている。これにどう答えるか。「バランス感覚」とか「無党派」といっていたのでは、有権者のなかに芽生えつつある当事者意識は見えてこない。
 有権者は、民主党がしっかりしているから、あるいは民主党候補のほうが自民党候補より有能で即戦力になるから、といって投票したのではない。「日本の民主主義のためには二大政党が機能する必要がある」という価値判断、二大政党―政権選択選挙の当事者意識、そうしたものが有権者の投票行動の基準となりつつある。
 有権者の政党を見る目線、距離感は明らかに変わりつつある。(党首や議員が)好きか嫌いか、(政策にしろ議員にしろ)支持するかしないか、というのでは「政治を面白いものとして消費する」ことと本質的には違わない(その意味が生活実感で分かる)。この五年間で形成された「小泉さんは支持するが、自民党は支持しない」という独特の中間項を媒介として、「既存政党の党員や支持者になる意思はないが、政党政治を否定するものではない。むしろ政党政治がきちんと機能するために、有権者としてできることがあればやる意思はある」

という(疑似主権者の時とは明らかに違う)「バッジをつけない主権者」の空間が生まれている。既存政党から相対的に独立した、(政権選択選挙における)有権者としての当事者意識とでも言うべきものである。
 この「共有地」をさらに発展させるために、何をなすべきか。この「共有地」を自分の保身や功名のために食い散らそうとするもの、「面白おかしく」消費しようとするものと、いかに戦うか。主権者運動の役割はこのようになるだろう。この主権者運動の豊かな土壌のうえに〇七年統一地方選挙、そして参院選を準備できるかが、「あろうべき二大政党」へ向けた次のステージを切り開くうえでの決定的な鍵になる。

ポスト小泉をめぐる攻防を、パブリックの主権者運動から検証しよう

 小沢民主党の誕生と補選での勝利は、ポスト小泉と〇七年参院選をにらんだ政局に、さまざまな影響を及ぼすことになる。それを永田町劇場のドラマとして「面白おかしく」消費するのか、それとも既存政党に従属しない独立変数の主権者として検証していくのか。主権者運動の問題設定はこうなるだろう。
 例えば小沢氏が民主党代表に就任すると、「政界再編」という話が手を変え品を変えて出てくるようになった。政党の水準問題=マニフェスト「以前」問題=が放置されたまま、すなわち政党の紀律化、組織化がなされないまま、この手の話が横行すれば、それは文字通り政党政治の自滅にほかならない。
 同時に来年の参院選は、自民党が十五議席を失えば与野党の議席が逆転するという「自民党政権をかけた選挙」(青
  木・自民党参院議員会長)である。二十九ある一人区で「非自民」候補を立てて戦うというのは、リアリティーのない話ではない。しかも小泉総理が誕生した〇一年参院選での自民党比例票は二一〇〇万票だが、〇四年の参院選(民主党は岡田代表、年金が争点)には一六〇〇万票にまで落ち込んでいる。政権交代のリアリティーへのターニングポイントとなるかどうか、参院選が鍵であることは間違いない。
 問題は「非自民」選挙協力のような話を、政党の水準問題とどのようにリンクさせて進めるのか、どのように進めてはならないのかということだろう。その点からも参院選の前に行われる統一地方選が決定的である。
 民主党が地方議会選挙において、政党としての凝集性、メンバーの品質管理、マニフェストによる紀律化といった問題をどれだけクリアして公認候補を立てられるか。首長選挙においても自公候補に相乗りではなく、マニフェストで説明できる候補をどれだけ立てられるか。こうしたハードルを越える戦いなしに「非自民」選挙協力の話が進めば、政党としての根を張れないまま(根なし草、風頼み)、党としての存続が危うくなる局面を迎えることになるだろう。
 小選挙区なら候補者個人でもカバーできなくはないが、全県一区の参院選は組織力が不可欠となる。それを既存の支持団体、組織に頼るのか、マニフェスト・綱領で紀律化された政党の組織員(地方議員、候補)の活動と凝集性で支えるのか、それとも「劇場型」で政治をさらに消費の対象とするのか。自民、民主ともに政党の組織実態、水準問題が問われる。
 いまひとつ重要なのは、九月の党首選である。自民、民主ともに「次の政権選択選挙」にむけた本格的なマニフェストが全

党的に(永田町内に限定されずに)議論され、合意されることが不可欠だ。ここで合意されたマニフェストとそれで選ばれた党首によって次の総選挙を戦う。これが大前提とならなければならない。ここがクリアにならなければ、「自民か非自民か」という選択肢は、政権選択選挙の基盤を壊すものになる。
 その意味でも、主要な対立軸が明らかにされなければならないが、その際には市場を前提にしない二者択一的発想(「右か左か」「官か民か」「○○ではダメだ」など)に先祖帰りする道を断ち切ることが不可欠となる。例えばここにきて「格差拡大」が大きな焦点になっているが、「非自民」を「格差反対」でやってしまえばどうなるか。社民、国民新党の足し算は出来るかもしれないが、それ以上に肝心の主権者意識を持つ有権者にはそっぽを向かれるだろう。
 千葉7区補選で民主党候補は「負け組ゼロ」をスローガンに掲げたが、それは旧来の「弱者対策」「結果の平等」を訴えたものではない。週刊誌にキャバクラ勤めと書かれて、「事実です」「社会的に否定されることではない。寝る時間を惜しんで働いている人もいる」と堂々と答えられる実生活のバックグラウンドがあるからこそ、「チャンスが平等にある社会を」という訴えが届くのだ。
 俗的に言ってしまえば、「ニートの代表」を売りにするチルドレン議員と「負け組ゼロ」を訴える元キャバ嬢議員というように、格差問題の風景も大きく変わったのだ。「負け組」「ニート」「下流社会」といった言葉で表現される格差問題に対して、「あなたたちは小泉改革の被害者だ」という感性からアプローチして「非自民」の選択肢をつくろうというのでは、生きた生活の実際がまったく見えていないことになる。
   格差があるのは当たり前、格差があるから目標もできるし、がんばることもできる。問題は「選択の機会」や「選択する能力」を身につける場において、格差があるのかどうか、それは社会的に不公正なものかどうか、ではないか。選択するからこそ責任が生まれる。持ち場で責任を負うからこそ連帯できる。そうした選択―責任―連帯の社会原理を機能させるために社会的公正を追求する。「格差問題」の扱いをここへ転換していくことが必要ではないか。それが、政権選択選挙の共有地をより豊かなものとすることにもつながるはずだ。

積みあがった外交赤字をどうするか ポスト小泉を何を転換すべきなのか

 ここにきてポスト小泉の争点としてクローズアップされざるをえないのは、「外交赤字」である。首脳会談がもてないままとなっている中国、韓国との関係のみならず、日米関係にも膨大な赤字が積みあがっている。
 海兵隊のグァム移転経費の負担、普天間基地の移設などでもめている米軍再編は、単なる個別対策の問題ではない。〇一年同時多発テロ以前から構想されてきた「二十一世紀型米軍」の最終仕上げであり、テロとの戦争におけるアジア太平洋の拠点として日米の司令部機能を日本に一本化するというものだ。これは、日本はカネを出しアメリカは軍を出すという旧来の協力関係ではなく、アメリカの世界戦略の一翼を日本も担うことを意味する。だからこそ戦略対応が求められ、またその対応ができないところから「赤字」が積みあがっていくという構図になる。

 それが端的にアジア戦略の欠如―対中関係に反映される。米政権内では対中政策に関するスタンスは、「封じ込め」から「関与」まで五つあると言われる。「同盟国ではないが敵でもなく、友人ではないが、傍観者でもない。残ったのが『利害を共有するもの』(ステークホルダー)」という発想は「敵か味方か」「脅威か否か」という単純二分法・二国間関係の窓からはとうてい見えてこない。だからこそ米中は軍事的には脅威視しつつ、通商・経済関係では利害を共有し、価値観(人権など)では対立しながら、首脳が対話することができる。
 そこからすれば、日本への注文は「アジア戦略に包括的なビジョンを持て」ということになる。「日米同盟強化だけではなく、アジアでの日本の独自外交を支援することも、米国のアジア戦略の中心になっている。〜略〜日本では『脱米入亜』論が終わり、多くの人が『親米入亜』を正しい道だと認識していると私は思っている。強固な日米同盟は、日本独自のアジア外交を強化することにつながる」(マイケル・グリーン 米戦略国際問題研究所日本部長 読売3/22)
 米の政策関係者が靖国問題で冷え切った日中関係の打開を求めるのは、世界の成長センターである東アジアの安定がアメリカの国益にとって重要であり、それをマネージするうえでの「ステークホルダー」であることが、同盟にとって必要不可欠であるからだ。言い換えれば、そうした利害の共有の上に「価値観の共有」があれば文句なしだが、そうでないなら価値観を共有できなくても利害を共有できる国との戦略対話を進める、ということだ。その意味で中国との関係もインドとの関係も、アメリカにとっては十分に戦略的である。
   今後はイランの核開発問題でも、日本は石油と核不拡散との間で選択を問われるだろう。イラン石油に大きく依存する日本は、核不拡散について独自の外交はいっさいしてこなかった(「日本再生」三二三号 大野元裕氏インタビュー参照)。そして今、アザデガン油田からの撤退をアメリカから迫られている。一方でイランに多額の投資をしている中国はアメリカに対して、いまや世界一となったドル保有をカードに揺さぶりをかけることもできる。イランが、中国には石油を出すが日本には出さないという「石油カード」を使い、中国が「ドル」を対米カードに使った場合、(ドルと一蓮托生の)日本経済はどうなるか。その最悪のシナリオを回避する戦術的対処という意味での「外交」すら、機能していないのが実情だろう。
 米中首脳会議が「ステークホルダー」をキーワードにし、米印首脳会談では「原子力協定」を結ぶという戦略外交の一方で、日本には米軍再編の費用三兆円の請求書が回ってくる(米側の負担は海兵隊のグァム移転費用の一部のみ)という関係は、いかなる同盟関係であろうか。東アジアの経済統合を有利にマネージするための日米同盟強化、という戦略を持たずしては言われるままにカネを出し、言われるままに牛肉を輸入し、言われるままにドルを支え続け、つけはすべて国民へということにしかならない。岩国市長選、沖縄市長選、あるいは名護市長選などで示された民意は、こうした戦略なき「同盟」への異議申し立てであって、単純な「基地反対」ではないはずだ。
 その意味でも外交赤字は深刻であり、ポスト小泉の転換をめぐる選択肢、対立軸を政党はどのように提示するのかをしっ

かりと検証していかなければならない。「日米同盟は順調だが日中関係は深刻だ」というレベルでは話にならないというべきだろう。
 最後に再び、パブリックの主権者運動「七つの原則」(案)を提唱する。「あろうべき政党政治」「あろうべき主権者」の価値観からポスト小泉の進行を検証し、政権選択選挙の共有地をさらに豊かな土壌にしていく国民運動を展開すべく、四回大会(六月十八日、砂防会館)へご参集を!
 
 
□パブリックの主権者運動 七つの原則(案)□
一、功名心ではできないこと、『バッジをつけたいだけ』の人間がやろうとしないことを、やれ。
二、まず『共有地』を手入れする、自分にプラスがかえってくるかどうかは世間さま次第。
三、『共有地』を手入れするために不可欠な持ち場は誰にでもある。務めを自覚した時からその人の持ち場はでき、かけがえのない存在になる。
四、目先の利益だけで人を見るな。今日明日の使用価値があっても功名心では信頼関係はできない。不条理と戦うなかで『公』にかかわる何かを共有していけば、人は集まり絆は広がる。
  五、手っ取り早い成果を求めるな。世直しは十年でダメなら二十年、それでもダメなら三十年。生きて功成り名を遂げる、ということでは、他人が手入れした『共有地』を私欲のために食い荒らすことになる。
六、政治評価なんぞは、時代が変われば変わるもの。時代を超えて変わらぬもの、真なるものを求めていけば、次世代に何かは伝わる。
七、世直しに定年はない。《創造性の程度は側頭葉に蓄えられた『経験』と前頭葉によって創られる『意欲』のかけ算で決まる。経験なしに創造性は生まれない》(茂木健一郎「中央公論」5月号)。経験を編集する知恵をつけよう。老害とか若害と言ってすりかえるな。