日本再生 324号 2006/4/1発行

ポスト小泉をめぐる政策論争を、社会的不条理と戦うパブリックの主権者運動から検証しよう
―草莽崛起の闘争精神を―

 
独立変数としての主権者運動

 平成十八年度予算が成立し、ポスト小泉への動きが本格化してきた。本来であれば、この予算委員会は小泉政権五年間の業績を評価し、次の政府の方向をめぐる論争軸を提示すべき場であったが、既存政党のなかにはその主体性がいっさいないことが露呈した。ユーザー(有権者)がメーカー(既存政党)の従属変数にとどまっているかぎり、市場(政治市場)の発展は望めない。ユーザー発のイノベーション―独立変数としての主権者運動として、ポスト小泉をめぐる政策論争をどのように検証するか。その主体性がなければ、ポスト小泉をめぐる自民党内の政策論争を健全に発展させるエネルギーもうまれない、ということである。
 21世紀臨調は自民、民主の党首選に対する緊急提言で「『誰を選ぶか』より、『どのように選ぶか』が最大の争点」として、次期マニフェストの出発点となるべき全党的な政策論争を提起しているが、今国会の実状にかんがみれば、これを自力で行う主体性は永田町の内部から生まれてこないことは明らかだ。
 一方でこうした永田町の現状にもかかわらず、国民の政治不信は大きくは煽られていない。あろうべき政治とはなにか、そのイメージを持ちつつあるからこそ、永田町の現状を「不信の目」ではなく「醒めた目」で見ているというところではないか。ここから永田町の現状を媒介とせずに、一票が政権のあり方を決めることを実感する有権者として、政策論争を検証する主体
  になれるか―ユーザー発のイノベーションとはこのことである。既存政党の従属変数ではない、独立変数としてのパブリックの主権者運動の旗は、これを展開するなかから打ち立てられる。
 

ポスト小泉で問うべきこと

 ポスト小泉で問うべき課題はいくつもあるが、少なくとも「財政再建」「外交戦略」「格差社会」を外してはないだろう。
《財政再建》
 ポスト小泉をめぐる自民党内の政策論争の軸は、間違いなく「財政再建」(経済政策)である。〇一年自民党総裁選の構図は、「財政再建より景気対策を」という亀井氏と「構造改革なくして成長なし」という小泉総理というものだったが、この五年間でその決着は付き、ポスト小泉は「小さな政府」という方向性は一致したうえでのスタンスの違い、という性質になった。一方で民主党はこの間に「小泉でもなく、亀井でもなく」という軸を提示しようとしたが、それにふさわしい力・組織を獲得することには失敗した。
 そこで永田町内的には、「歳出削減」を重視する側(竹中・中川)と「増税不可避」に力点を置く側(与謝野・谷垣)という構図になる。経済政策をめぐる論争軸が、分配をめぐるもの(「バラマキの是非」や「分捕り合戦」)から、成長率や国債管理などを含めて「市場」を視野に入れたマクロ経済政策の舞台に移ったこと自体は、大きな進歩だ。しかし、経済政策をめぐる論争軸はこの枠にのみ収斂されるものではない。

 例えば「歳出削減」は必要であるが、年金や医療などの社会保障制度改革は目下のところ、もっぱら財政的観点から行われている。しかしその観点だけでいいのか。他の価値軸(医療の質、人生設計の多様化)からの政策構想はどうなのか。あるいは国有資産の売却で赤字を少しでも埋めるというが、売れるのは都心の一部であろう。都心バブルに便乗し、あるいは煽るような行動が、果たして望ましいものなのか(東京一極集中、人口減少社会に求められる社会資本とは何か等)。また「増税は不可避」であるにしても、市場の規律を歪めるような分配は淘汰されるのか。
 「現在の様々な経済問題は、市場経済システムの持続可能性が、今後の大きな政策課題であることを示している。市場の持続可能性についての課題には、財政、安全、環境など、いくつかの側面がある。これからの政治を考えると、『市場システムの持続可能性をどの側面から追求するか』ということが、基本的な対立軸になるのではないだろうか。
 小泉政権は財政再建という資金循環の面での持続可能性に大きな力点をおいている。これに対抗する勢力は、お金以外の面(安全や環境など)で、市場システムの持続可能性を追求する政策構想を打ち出すことになるだろう」(小林慶一郎『論座』3月号)
 後者の軸は、永田町内には自力で立たなかった。それを欠けば、自民党内の財政再建をめぐる論戦も「片手落ち」のものにならざるをえない。
 市場経済=金がすべて、ではないことを実生活で知ってい
  る人なら、「お金以外の面(安全や環境など)で、市場システムの持続可能性を追求する」という政策感覚は、言われれば何となく分る、だろう。その生活実感から、財政再建をめぐる論戦を永田町の枠組みに従属せずに検証するすべを手にすること。そこからの問題設定や論点整理が必要になってくる。
《格差社会》
 市場システムの持続可能性という点では、格差社会は大きな論点であるが、格差を問題視する側にも、問題ではないという側にも大きな陥穽がある。格差を問題視する側は、行き過ぎた競争や構造改革が原因だと考えがちだが、既得権によってあるべき競争や市場規律が歪められていることが格差を生んでいるとも言える。既存正社員の終身雇用を確保しながら、新規雇用は契約社員や派遣社員にしてきたことは、それを端的に示すものだろう。
 一方で格差は問題ない(経済局面が変われば解決する)という側は、格差の固定化や「失われた世代」(中央公論4月号 三浦・本田)が放置されれば、市場システムの基盤である社会の安定が損なわれる可能性があることを見過ごしている。「失われた世代」が発生した背景には、人口構造と長期不況を原因として企業が新卒採用を絞っていたという、若者自身の咎とは言いがたい事情があり(同前)、「勝手にフリーターになった人間もいるけれど、正社員になりたかったのになれなかった人もたくさんいる。景気がよくなってきたのだから、彼らをちゃんと雇用しよう。そのためのコストを分かち合おう」ということは、民間企業の論理で自然にできるものではない(同前)。

 市場経済が社会運営原理に組み込まれるようになったところから派生している問題を、日本型社会主義(総中流)に戻して「解決」することはできない。必要なのは市場を公正に運営し、あるいは市場の失敗をマネージするための知恵である。その意味でも、うまれつつある新たな格差を固定化させない、言い換えれば社会の流動性(機会の平等)を担保するための政策論争が求められる。さらに言えば、こうした格差是正のために必要な財源を考えれば、これからの時代の「稼ぎ頭」をつくっていくうえでも、格差拡大を恐れるなということになる。むしろ問題なのは格差の固定化=分断である。(六―十三面「格差社会とは何だろう」参照)
 この点で問題なのは、雇用の二極化にみられるような現にある社会的不条理やそれとの戦いということが、永田町の既存政党には反映されていないことである。政党は正しい意味でも、社会の一部にすぎない。現在の体制や社会システムが解決できない不条理に光を当て、問題を提起するのは“市井の賢人”(さまざまな社会運動の担い手)たちである。その問題提起が世論になって、あるいは社会問題化してはじめて政党がそれを受け止め、政策化する。このサイクルが機能しなければ、既存政党は社会の必要から生まれながらも社会の寄生物に転化しかねない。政党政治の危機はいつも(戦前も)ここから派生する。
 ここで決定的に重要なのが“市井の賢人”である。社会的不条理と戦うことなくして、公益や社会的公正の旗は立たない(あらかじめ用意された回答を探す、という発想では「公」の意味は分らない)。功名のために社会的不条理と戦うことは出来
  ない(フリはできても地が出る)。社会的不条理と戦うなかから、公益、社会的公正とは何かを問う―その社会運動(草莽崛起)と在野のリーダー(市井の賢人)がどれだけ存在するか。これが社会の民度を決定する。パブリックの主権者運動の豊かな土壌なくして、本来の意味の政党は育成されない、というのはこのことである。この意味で格差問題をどう扱うかは、既存政党に従属しない社会運動―パブリックの主権者運動の主体性を問う問題でもある。
 ポスト小泉で問うべき論戦のいまひとつの柱は「外交」である。東アジアでメシを食うことがわが国の死活問題である以上、東アジアの経済統合プロセスを有利にマネージすることを外してわが国の外交はありえない。この点が具体的に視野に入った日米同盟強化なのか、それが視野に入らない、あるいは「一般論」にしかならない日米同盟強化なのか。「日米同盟強化だけではなく、アジアでの日本の独自外交を支援することも、米国のアジア戦略の中心になっている。〜略〜日本では『脱米入亜』論が終わり、多くの人が『親米入亜』を正しい道だと認識していると私は思っている。強固な日米同盟は、日本独自のアジア外交を強化することにつながる」(マイケル・グリーン 米戦略国際問題研究所日本部長 読売3/22)
 こうしたコメントと正面から戦略対話ができるかが問われている。同時に「独自のアジア外交強化」にあたっては、ヒト・モノ・カネ・エネルギー・情報をめぐる東アジアの市場統合の制度設計をめぐるシビアな国益がかかっていることを忘れるわけにはいかない。
 

 
パブリックの主権者運動をいまこそ

 ポスト小泉をめぐる政策論争を、「次の政府のあり方」にかかわるものとして検証するためには、永田町の既存政党に従属せずに「公」「パブリック」を問う主権者運動が不可欠である。こうしたパブリックの主権者運動のあり方を以下に「叩き台」として提唱したい。
 また、こうしたパブリックの主体性に根ざした地方議会・首長の存在こそが、「官治分権」の枠をこえて「自治分権」を実現する力であり、その拡大と集積が〇七年統一地方選の鍵であることを銘記しよう。(二大政党・マニフェストの政治文化から二元代表制を使いこなす主権者運動)
●パブリックの主権者運動 七つの原則(案)
 「功名心ではできないこと、『バッジをつけたいだけ』の人間がやろうとしないことを、やれ」
 「まず『共有地』を手入れする、自分にプラスがかえってくるかどうかは世間さま次第」
 「『共有地』を手入れするために不可欠な持ち場は誰にでも
  ある。務めを自覚した時からその人の持ち場はでき、かけがえのない存在になる」
 「目先の利益だけで人を見るな。今日明日の使用価値があっても功名心では信頼関係はできない。不条理と戦うなかで『公』にかかわる何かを共有していけば、人は集まり絆は広がる」
 「手っ取り早い成果を求めるな。世直しは十年でダメなら二十年、それでもダメなら三十年。生きて功成り名を遂げる、ということでは、他人が手入れした『共有地』を私欲のために食い荒らすことになる」
 「政治評価なんぞは、時代が変われば変わるもの。時代を超えて変わらぬもの、真なるものを求めていけば、次世代に何かは伝わる」
 「世直しに定年はない」
 かような精神の主権者運動を確立すべく、四回大会(六月十八日/砂防会館)への参集を広く呼びかける。また会員各位は、その準備にむけた「総会」(四月二十九―三十日)への主体的参加を。