日本再生 318号(民主統一改題48号) 2005/10/1発行

政権選択選挙を支える政治文化の定着と、
政権選択を可能にする政党配置の基礎インフラの整備を


政権選択選挙の新たなステージ
白紙委任から政権選択選挙の政治文化へ

  九月十一日投開票の第四十四回総選挙の意味はなによりも、小選挙区制度による政権選択という意味が、この制度の導入から四回の総選挙を経て定着したという点にある。いいかえれば、総選挙が「政権のありかたは選挙で有権者が決める」という当然のルールを実感できる場となってきた、ということである。ここから出発しなければ、事実を事実としてとらえることさえできないことになる。
 巨大与党に対する危惧、小泉自民党の手法やそれを大きく報じたメディアに対する批判、あるいは有権者の未熟や「選択の誤り」への評論…こうした視点からは、現実をありのままにとらえることはできない。まして、「得票率では負けていない」(小選挙区での自民党の得票率は47・8%、公明党とあわせても49・2%)というような「総括」からは、「野党としての敗北ではない、『政権準備党』としての敗北だ」という意味は、逆立ちしても分からない。
 小選挙区制の導入、そしてマニフェスト(政権公約)の定着という「政治改革の十年」は、言い換えれば五十五年体制の政治文化の解体過程であり、〇五総選挙はその最後の仕上げとなった。「派閥」「族議員」「自分党」といった旧来の自民
  党政治を象徴するシステムは大きく力を失い、少なくともこれまでと同じ形で再登場することはできなくなった。一方で惨敗した民主党には、五十五年体制崩壊のきっかけとなった細川政権とともに誕生した、五十五年体制の政治文化を知らない世代のリーダーが生まれた。
 五十五年体制の土台ともいえる田中政治―経世会的な「依存と分配」に対する批判(いわゆる「しがらみがないから改革ができる」式)の延長で「政権交代」や「改革」を語れる余地がなくなったということでもある。「政権選択という意味が入っていない『政権交代』論」ではかぎりなく「(五十五年体制的)反自民」の枠に収まる、というのはこの意味である。田中政治―経世会的な「依存と分配」の「本丸」であった郵政を踏絵に、身内を切ってみせた小泉総理の手法は、民主党の側にあったこの「スキ」を巧みに突いたものだったといえる。五十五年体制を壊す、その壊し方を小泉総理と競うということでは、政権準備党とは言えないだろう―これが有権者の判断であった。「野党としての敗北ではない、『政権準備党』としての敗北だ」という意味は、ここにある。
 白紙委任(「依存と分配」の政治文化)から政権選択選挙の政治文化へ。これが、五十五年体制解体のなかから準備されてきた新たなステージだ。政権選択選挙を支える政治文化の定着と成熟、そして政権選択を可能にする政党配置の基礎インフラを整備すること。ここで政党も有権者も試される。

 「ぶっ壊れた」後の自民党に、マニフェストに照応した新しいマネジメントはあるのか。前原民主党は「小泉さんが改革するというから自民党に投票した。ちゃんとやらなければ次は民主党だ」という民意に応えることができるのか。有権者は怠け者にならずに、政党の政策をしっかり監視し続けられるか。野党が選挙で政権を取るという、民主主義では当たり前のことを実現する―そのための政治改革は新しいステージに入った。(これにともない、次頁のように「図」も更新しました。)

ポスト郵政の構造改革に問われるもの

 圧勝によって小泉政権は、「党内の反対」や「官僚の抵抗」を言い訳にはできなくなり、この間先送りしてきた政策課題に否応なく取り組まざるをえなくなった。財政再建を始めとして残された改革は、郵政や道路のように一部の勢力を敵にしたてて叩く、という方法では進まない。国民各層に目に見える負担(痛み)を伴わざるをえない改革には、これまでのような(劇場型政治)手法は通用しない。
 まずは、公約実現のための体制整備である。「郵政民営化」が支持されたのは、それに続いて「構造改革を断行する、その入り口である」という総理の主張に対する期待からである。したがって「郵政後」の改革をどのように進めるのか、その実行責任の体制をどう担保するのか、それは果たしてこれまでと同じやり方でもできるのか、といったことが問われる。どんなに議席が多くても、公約実現に責任を持つ体制が整備されなければ、数の力は意味を持たない(巨大な烏合の衆と化すか、「与党の専横」となるか)。
   小泉政権の下でこれまでも族議員や派閥の力は相対的に小さくなり、政策や予算の決定はかなり官邸主導で行われてきた。しかしその実態は多くの場合「官僚への丸投げ」であった。そうではなく与党と内閣が一致して、公約の実行に責任を持つという体制―公約による紀律化がなされなければならない。新人議員の教育も、これが最大の課題でなければならないはずだ。与党内部の離反・造反を根拠に総選挙を行うというのは、マニフェストの失敗であって、本来なら総理のリーダーシップが問われるべきものである。こうした不正常な状態を繰り返すことは、許されない。
 第二に、任期中に財政再建の道筋を示さなければならない。端的に言えば、増税論議に道筋をつけることである。「無駄遣い一掃なくして増税なし」というのは「正論」ではあるが、わが国の財政状況は「無駄な歳出を削減する」という程度でどうにかなるものではないことは、国民も気づいている(国と地方の長期債務残高は一〇一五兆円、一人当たり八一二万円の計算になる)。民主党が無駄遣い一掃―政官業の癒着を断つ、というレベルで政権を争うなら、「身内を切って見せた」小泉自民党に期待しよう、ということではなかったのか。(与党の言う「無駄な歳出削減」は、増税論議を先送りする口実としてしか機能してこなかったからこそ、「身内を切ってみせる」手法に効果があった。)
 選挙中にはまともに答えずに、選挙が終わってから増税の議論をすれば、国民は「騙された」と受け取るのは当然である。そのツケは、マニフェストでこの問題を逃げた与党が払うのも当然である。問題はこれに対する「政権準備党」としてのあるべき対応とは何か、だ。

 財政再建に伴う痛みを国民に納得してもらうためには、「公平・公正」さの担保が不可欠である。民主党の年金改革案が「増税」(年金目的消費税)を伴うものであるにもかかわらず、かなりの支持を得ることができたのは、「いくらもらえるか」「トクかソンか」ではなく、「公平・公正」さがより担保されると考えられたからにほかならない。したがって、政府与党の「無駄遣い」を追及することと同時に、「騙された」という世論も巻き込んで、「公平・公正」な財政再建の道筋を示せるかが、「政権準備党」として問われることになろう。五十五年体制発想が残っていると、「与党と増税を競うのか」という「野党批判」に足をとられることになる。
 「小さな政府」は避けて通れないし、「右肩下がり」の時代であれば当然のことである。ようやく選挙後、「政府の規模を十年間で半減させる」との目標が示されたが、本来ならこれは工程表とともに、マニフェストにきちんと示されるべきものであった。政権準備党としては、この実行を厳しくチェックすると同時に、前述した「公平・公正」さをいかに担保するのか(いいかえれば「政府の役割とは何か」)について、自らの価値観を国民に示すべきだろう。この点で「コンクリートからヒト、ヒト、ヒトへ」(民主党マニフェスト)は一定の方向性を提示していると思われる。
 ただしここで問われるのは、「小さな政府」にとっては必然である公務員改革への対応である。ここで明確な対応が示せなければ、郵政の二の舞となる。五十五年体制・右肩上がり・護送船団の「大きな政府」の残影を引きずったままでは、「新しい時代の政府の役割」を明確に示すことはできない。その意
  味でも、公務員改革に対して(「野党」ではなく)「政権準備党」としての対応が、民主党には求められる。
 同時に、「小さな政府」のポイントは分権(地方分権)にあることを重視すべきだろう。与党マニフェストの実行(補助金改革)を厳しくチェックすることと同時に、ローカル・マニフェストの浸透と合わせて、ここでは本当の意味で「民の力」「民の知恵」が試され、発揮される。それと結びついてこその政権選択選挙であり、その基礎インフラ整備である(〇七年には統一地方選挙が行われる)。
 第三に問われるのは、小泉政権の下で膨らんだ「外交赤字」(村田・同志社大学教授の講演参照/10―13面)の改善である。とりわけ戦略環境が大きく変化した東アジア(とりわけ北東アジア)外交である。五十五年体制の残滓を残していればどうしても、「日米関係をどうするのか」を軸とした外交政策論に引きずられる。しかし外交戦略をめぐる現実は、「日米基軸を認めるのか、相対化するのか」で動いているわけではない。現実は、東アジア戦略をどう持つのかによって、日米同盟の使い方・生かし方が違ってくるということだ。
 言い換えれば、中国脅威論や中国の不透明性を東アジア共同体へ踏み込まないための“口実”とし、日米同盟を“逃避港”とするのか(*)。それとも東アジアの安定と繁栄のアンカーとして日米同盟を強化するのか、ということである。
(*「東アジア共同体、東北アジア共同体、太平洋共同体といったコミュニティーをつくろうとする運動は、全部並存し得ます。そういうものを重層的に積み上げていくことが、日本の戦略になる。それを何もかも全部、日米関係のバスケットにぶち込むの

は危険です」田中明彦・東大教授『論座』8月号)
 残念ながら総選挙において、外交は争点にはなりえなかった。総理が外交に関心がないのに加え、民主党も外交をほとんど議論の俎上にのせられなかった。郵政一点争点化という総理の手法もさることながら、これだけ外交が行き詰まっていて、しかもこれからのわが国が一定の経済水準を確保していく上でも「生命線」とも言える東アジアにおいてどん詰まっているときに、その失政を追及できない「政権準備党」とは何か、ということではないか。前原新代表の下では、「日米基軸を認めるのか、相対化するのか」というような、五十五年体制のシッポを残したところでの党内論議(少なくともそう見られている)が完全に払拭されることを期待したい。
 総じて言えば「構造改革」は、一部の既得権を敵に回してそれを壊す段階から、国民全体で負担と痛みを分かち合う段階へ移行しつつある。だからこそ、誰かを「敵」にしたててそれを叩いてみせる、切ってみせるという手法では、この先には進めない。受益と負担を明確にし、「トクかソンか」ではなく「公平・公正さ」で納得を得、合意を形成するという、本来の政治のリーダーシップが小泉自民党にも前原民主党にも試される。国民にも、それを要求し検証するフォロワーとしての役割、作法が求められる。
  破壊から創造へ
二極化社会における政府の役割を問う政党間の政策競争を

 今回の総選挙では、自民=地方、民主=都市部という「神話」も崩れた。この背景にはグローバル化の下での社会の二極化という、大きな構造変化が存在する。こうした社会の構造変化に政治がいかにアプローチし、また政治表現をするのか。これが「次のステージ」にむけた、(来るべき)二大政党の基軸形成の問題であろう。
 この点で、宮台真司氏が「旧保守=農村型保守」「新保守=都市型保守」「都市型リベラル」というカテゴリーを示唆しているのは興味深い。
(http://www.miyadai.com/index.php?blogid=1&archive=2005-9-3)
 綿貫氏や亀井氏の支持基盤は旧保守、つまり集権的な再分配(五十五年体制的依存と分配)を目指す。この点では左派的(社会主義的)でもある。それに対して小泉氏の支持基盤は新保守=都市型保守であり、過剰流動性と生活世界空洞化で不安になって「断固」「決然」の言葉に煽られる「ヘタレ保守」である。

 アマルティア・センの言葉によればケイパビリティが低い。すなわち多様な仕事、多様な趣味、多様な家族、多様な性を、自由に選べそうで、実は選べない。制度的に選べないのに加え、主体の能力が低いので選べない。鬱屈と嫉妬が拡がるばかり。 そうした国民は、「決然」「断固」に象徴される小泉的振舞いからカタルシスを得る。
 しかし彼らは小泉流「決然」にカタルシスを得ても、そのあと幸せになれない。だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティであり、「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのだ。(論旨)
 これを借りて言えば、これからの二大政党の基軸は、グローバル化の下での二極化の進行に対する政府の役割とはなにか、イメージ的に表現すれば、「小さな政府・小さな公共」なのか「小さな政府・大きな公共」なのかということだろう。放っておけば二極化が進行し、格差が拡大する社会を、(多様な)選択社会への糸口に転化する「政府の役割」とは何か、ということだ。
 フリーターやニートという問題を、五十五年体制の右肩上がり・終身雇用の習慣からみて「解決」しようとしてもズレる一方である。フリーターがフリーターのまま幸せになれる社会とは、グローバル化の下での競争社会・二極化のなかで、それぞれに多様な選択が可能で、他人と比べてソンだと感じなくてもよい社会だろう。それは例えば税や社会保障が、多様な人生設計に対して中立的な制度設計になるということでもあるだろう。
  あるいは「競争社会で自力でやっていける人にまで、(護送船団方式のように)あれこれ口を出すべきではない。政治の役割は、競争についていけない人たちに(バラマキではなく)参加の機会を与えること。公的教育はその基本だ」ということになる。
 一方「見捨てられた」地方では、この十年間、政治のお世話にならずに自力で生き抜いてきた実績がある。農協の力をいっさい借りずに自力で商品を開発し(有機無農薬など)市場を開拓してきた農業者は、東アジアにまで市場を見出している。少子高齢社会にとっくに突入している地方は、(右肩上がりではなく)「定常型」経済社会の経験をすでに積んでいる。これらは「勝ち組」の論理とは別の世界・別の価値観を手にしている。「地方切り捨て」という後ろ向きの政治では、そこにアプローチすることはおろか、その存在を理解することすら不可能である。
 そして前原代表が五十五年体制の政治文化を知らない世代なら、マニフェスト―政策本位から政治経験をスタートさせた世代も、すでに大量に存在している。ローカル・マニフェストに主体的に関わる地方議員は各地に存在するし、マニフェストを読んで「年金・子育て」で民主党を選んだことが選挙初体験だという、子育て世代を軸にした若い有権者も「層」としてあるはずだ。彼らの政党評価は(「新しい自民党」に対しても、民主党に対しても)政策本位であり、「単一争点化」に巻き込まれないだけの主体性を獲得しつつある。
 こうした社会の地殻変動的構造変化は、すでに十年来のものである。グローバル化の下で、右肩上がり・護送船団・依存と分配の固定構造は過剰流動性にさらされ、二極化が進行したが、同時に多様な選択社会の糸口も生まれている。ここに政党

が本格的にアプローチし、政治表現へとすくい上げていくことから、来るべき二大政党の基軸(対立軸)を形成することが、政党政治の発展の次の課題である。
 「郵政=既得権を守る勢力の票と、改革を訴えて出てくる票と、どちらがプラスか」というのが小泉自民党の問題設定であり、さらにそれを進めてポスト小泉で「一次、二次産業の支持だけでは先細りは確実。ITや介護、バイオなど新産業分野の支持を得ないと選挙は勝てない」という方向を目指すことになるのか。(そのための規制改革という範疇なら、既得権の新旧交代という枠に収まる話になる。)
   民主党にとっては、選択社会にむけて生まれ始めた社会の“芽”へのアプローチに成功して脱皮することが、政権交代のチャンスをつくることになる。その意味でも、グローバル化の下での社会の構造変化をとらえつくし、政策形成にこうした民意を反映させる活動―政策本位のドブ板活動こそが決定的に問われるだろう。