日本再生 317号(民主統一改題47号) 2005/9/1発行

政権選択選挙の新たなステージを
「政権のあり方は選挙で有権者が決める」という当然のルールを実感する好機

白紙委任の政治文化から
政権選択選挙の政治文化へ

 九月十一日の投開票に向け、選挙戦がスタートした。郵政民営化関連法案をめぐる自民党内の内紛に端を発し、「刺客」騒動や一連の新党結成と、序幕は目まぐるしい展開の小泉劇場が注目を集めたが、公示前から次第に潮目が変わり始めた。公示直後の各地では各党党首や候補者の演説に、真剣な表情で耳を傾ける市民の姿が目立っている。
 公示日の有権者の反応を、時事通信(8/30)はこう伝えている。
《東京都豊島区のJR池袋駅。郵政民営化に賛成と語る男性会社員(23)は、年金問題にも関心を寄せる。「若い世代が老人を支えられるか、今後も年金をもらえるか心配。改革しなければ日本社会がつぶれてしまう」。練馬区の主婦(28)は、郵政民営化が最大の争点になることに「それだけでいいのか」と懸念を示す。「子育てや育児後の再就職を支援してくれる党を選びたい」。東京は出生率低下で、全国で最も少子化が進む。
 地域経済の低迷が続く北海道。札幌市の女性パート従業員(70)は「年金がどんどん下がって腹が立つ」。旭川市の男性(72)は「郵政は旧国鉄同様、無駄遣いをしてきたことは事実。野党はあら探しばかりしているように見える」と語り、小泉改革を支持する姿勢を見せた。
   自動車産業に支えられる格好で、好況が伝えられる愛知県でも将来に不安を抱く市民は少なくない。年金暮らしの名古屋市の男性(66)は「減額続きで見通しが立たない。年金のことをしっかりやってくれる政党に一票を入れたい」。同市の男性会社員(35)は「郵政民営化は財政再建の入り口。郵政だけでは困る。その先をどうするのか見極めたい」と話した。》
 産経新聞のルポも、有権者の分岐を伝えている。(8/31朝刊より抜粋)
《東京18区のJR吉祥寺駅前で小泉純一郎首相が第一声。バスロータリーが人で埋まる満員電車並みの見物人の多さに、女子高校生グループが「こんな混雑初めて見た」と、すかさず携帯電話を差し上げて写真撮影。「そこどいて。見えねーぞ」「足踏むな」。怒号も飛ぶ中で十五分以上も絶叫した小泉首相を見て、武蔵野市の主婦(37)は「なんだか小泉さんに洗脳されそう。でも、ほかの人の話も聞いて判断しないと。郵政より身近な問題もありますから」。》
《小泉首相が登場したJR吉祥寺駅の隣、三鷹駅の前では、麦わら帽子をかぶった民主党の菅直人氏が地元候補とともに演説。吉祥寺の喧噪に比べて見物人は格段に少ないが、三鷹市の男性(70)は、「いいんですよ。首相のとこはただのヤジ馬だから。投票に結びつくのはこっちですよ」と余裕の表情。主婦(50)は「小泉さんがいくら郵政だけに争点を絞っても、そうじゃないと思う人がたくさんいる」と応援していた。》
《千葉県浦安市の東京ディズニーランド。夏休みもあと一日に

なり、小中学生のグループが目立つ。母子三組で横浜から来たという主婦(35)は「ワイドショー的には結構面白いですよ。刺客とか美人候補とか言っちゃって」と選挙を楽しむ構え。「神奈川県内に造反組がいないのが残念。だって対決があった方が面白いじゃない」。郵政民営化にはまったく関心がないそうで、投票には行くが、「開票日は家でビール飲みながらテレビの選挙速報を見るのが楽しみ」。小泉劇場の観客になるつもりのようだ。》
《東京・丸の内のビジネス街。インターネットのプロバイダー会社に勤める男性(33)は、パーティーで見たことがあるというライブドア社長の堀江貴文氏(広島6区)に“職域代表”として期待を寄せる。「IT業界は政治と無関係のように見えますが、実は規制だらけ。新事業に挑もうとすると、必ず役所の規制、政治の壁に当たるんです」
 外資系証券会社勤務の男性(29)は、「郵政民営化大賛成です。直接、間接どちらでも必ず新しいビジネスチャンスになるから。同世代として堀江さんにも期待してますが、あまり暴走しすぎないように。後見人が必要かも」》
 今度の選挙は面白い! それは「政権のあり方は選挙で決める(政権選択選挙)」という当然のルールを実感する、またとない好機だからだ。国民は主権者であり、観客ではない、「こういう理由、こういう基準でこの政権を選んだ」ということを実感する絶好の機会だ。
 「政権のあり方は選挙で決める(政権選択選挙)」という当然のルールがこれまで実感できなかったのは、総選挙が政権選
  択の場となっていなかったからにほかならない。しかし小選挙区制度―二大政党化に加え、マニフェスト選挙が定着していくにつれて、総選挙が政権選択の場であることを実感できる環境は、じわりと整ってきた。
 〇三年総選挙は「マニフェスト元年」となった。白紙委任のお任せ政治から脱し、政党が政権公約(事後検証可能な、という意味で数値目標、行程などを示した体系的な公約)に責任をもち、有権者は政策で選ぶ最初の試みだ。マニフェストそれ自体が争点として注目を集め、民主党が二大政党の一翼としての地歩を確実なものとした。それから二年、参院選、今年の都議選とマニフェスト選挙の政治文化は確実に定着しつつある。
 この点で郵政民営化をめぐって自民党がもはや政党の態をなさない状況となったのも、(マイナスからの)マニフェスト効果といえなくもないだろう。なぜならマニフェストは政策による政党の紀律化である以上、いわゆる「造反組」を切るという小泉手法は当然のものだからである。だからこそ(民主党のように)全公認候補がマニフェスト実現に対する連帯責任を負うことを明確にすべきであり、そのためにこそリーダーには徹底した説明責任と、マニフェスト実現に向けたマネジメント能力が求められる。これが欠けた「俺が総理だ、いやなら出て行け」式のやり方は、「義理人情」と表裏一体の組織文化にほかならない。つまり、白紙委任からマニフェスト・政権選択の政治文化への脱皮が、じわりと進みつつあるなかで、自民党は「ぶっ壊れた」のである。

 マニフェスト選挙―政策本位をめぐる攻防は、「義理人情」「族議員」「既得権」―総じて五十五年体制の政治文化に対するアンチテーゼ・破壊というステージから、政権選択選挙をめぐる政党の組織文化およびマニフェスト検証に象徴される有権者の責任文化を創造する、新たなステージへと移りつつある。それがこの総選挙の風景だ。
 マニフェストは有権者との約束である以上、それが実現できたのか、できなかったのか、できなかったとすれば責任はどこにあるのか、これを有権者が検証できなければならない。
 21世紀臨調メンバーの曽根泰教・慶応大学教授は、こう指摘している(読売8/15)
 「もともと予算計画や事業計画があいまいで(マニフェストがあいまいで/引用者)、そのうち一部の役員が『この計画ではいかん』と言い出し、決算できなかった。それを社長の小泉さんが『俺は悪くない』と言っているようなものだ」
 「『我が社はこういう製品をだします』と世の中に訴えておいて、『途中で開発できませんでした』という時に、ライバル会社(野党/引用者)のせいにしますか。あくまで社内問題を解決できなかった経営者に責任がある」と。
 ビジネスの世界では当たり前のこうした責任感覚が、マニフェスト選挙の定着にしたがって、じわりと効き始めている。だか
  らこそ「白紙委任」ということも、単なる「棄権」という意味ではなく、「郵政以外は白紙委任でいいのか?」としてスッと有権者の中に入るようになる。「郵政民営化こそ改革の本丸ぅ〜」と繰り返すだけの候補者に対して「郵政は財政再建の入り口のはず、その先はどうなのか?」「郵政民営化で改革が進むというが、例えば年金はどうなるのか?」という有権者からの検証が入るようになる。
 すでに有権者の争点設定は「改革に賛成か、反対か」「改革を進めるのか、止めるのか」ではなく、「いかなる改革なのか」「どういう優先順位で改革を進めるのか」へ移っている。それに対して政党が(党首が、候補者が)説明責任をどのように果たすのか。有権者はそこを注視している。だから党首の街頭演説でも、十数分の小泉総理の絶叫にむらがる風景と、岡田代表の話をじっくり聞こう、この点はどうなのか確かめたいという集中度とが、きわめて対照的になってくる。
 郵政民営化で党内に踏絵を迫る、という小泉総理の手法は、たしかに一面では「義理人情から政策本位へ」と言えなくもない。しかし既得権・族議員を「仮想敵」に仕立てて改革を叫ぶというステージは、もはや幕を下ろしつつある。有権者の基本勢力(マニフェストを生活実感で受け取れる層)は、「郵政民営化に賛成か、反対か」という単品メニューの選択ではな

く、「郵政民営化」が年金や財政再建、少子化などの重要政策とどのように関連しているのか、優先順位はどうなっていて、手法や行程はどうなのか、これで選択しようとしている。政策本位という意味は、そのステージを五十五年体制の政治文化の破壊から、新たな(政権交代可能な政党政治の)政治文化を創造するステージへと進めようとしている。
 だからこそ、この総選挙を「政権のあり方は選挙で有権者が決める」という当然のルールをしかと実感できるものとしよう。
 

民営化=反政府のレトリックで
改革を語るステージは終わった
新たな時代の政府の
役割・公共のありかたを問おう

 郵政民営化一点だけで小泉政権に「白紙委任」をするのか、年金・財政再建などのマニフェストの総合性で岡田政権に任せるのか。総選挙の争点は、このように設定されるだろう。「郵政民営化一点突破」がなお一定の劇場効果を持つにしても、かつてのような熱狂にならないのは、次時代の社会はどういうものか、そこにおける優先課題とは何か、そのための公的なものの役割とは何か、といったことが、有権者にもそれなりに見えはじめて来たからにほかならない。
 例えば二年先からと予想されていた人口減少社会に、今年から入ることがほぼ確実となった。あわせて少子化は加速する一方である。右肩下がりの時代がもう始まっているという時に、はたして「郵政民営化」が最重要・最優先課題なのか、と。
  「郵政民営化、賛成か、反対か、反対するのは既得権勢力だぁ」では、もはやこうした有権者との対話はできない。
 民営化という反政府のレトリックで改革を語るというのは、五十五年体制の既得権との関係では一定程度の有効性はあっても、そこからは「次の時代・社会の政府の役割、公共のありかた」は見えてこない。五十五年体制からの脱皮に替わる、政党政治をめぐる新たなステージへの移行に際して求められている選択肢は「小さな政府か大きな政府か」ではなく、「小さな政府」は前提のうえで(右肩下がりである以上、小さくなるのは当たり前)、「政府の役割」「公共のありかた」をめぐるものではないのか。そしてその基本方向が、この総選挙を通じて見えてくるのではないか。
 言い換えれば、「新たな時代の政府の役割」を語らないまま「民営化」を振りかざす小泉「改革」の先に見えてきつつあるのは、「小さな政府・小さな公共」ではないのか、ということだ。それに対して民主党がどのように、「小さな政府・大きな公共」のありかたを示すのか。ここから政党政治の次のステージへと舞台が回り始めているのではないか。
 例えば小泉・郵政民営化の支持層は、ここまでくるとかなり明確になってくる。ひとつは小泉劇場の観客。「主婦層&子供を中心・シルバー層/具体的なことはわからないが、小泉総理のキャラクターを支持する層」と、郵政民営化の広告を請け負った広告屋がターゲットとして分析してみせたという層だ。もうひとつは、いわゆるヒルズ系と言われるような新興ビジネス層。ここは規制緩和・民営化=新規ビジネスチャンスという小泉改革の「勝ち組」、小泉・竹中・ホリエモンと並べると分かりやすいだろう。

 「郵政票=既得権を守る勢力の票と、改革を訴えて出てくる票とどちらがプラスか」。既得権や族議員から脱却して新たな支持基盤を築く「新しい自民党」への模索は、昨年の参院選敗北後から始まっていた。首相直属の改革実行本部の本部長を務める安倍晋三氏は、ベンチャー企業関係者を招いた党主催のシンポジウムで次のように強調したという。(毎日8/19より)
 「米共和党は92年の大統領選で民主党に敗れてから、ベンチャー企業などを新しい支持者にした。それが昨年のブッシュ大統領再選にもつながった」。同本部の小林温参院議員は「一次、二次産業の支持だけでは先細りは確実。ITや介護、バイオなど新産業分野の支持を得ないと選挙は勝てない」と言う。造反組の切り捨て、対立候補の擁立で、ただでさえこの間弱体化してきた自民党の地方組織はガタガタになった。この総選挙は自民党の支持基盤を大きく変化させる賭けでもある。
 その先に見えてくるのは「小さな政府・小さな公共」の指向性ではないか。規制緩和・民営化=新規ビジネスチャンスという「改革」の論理は、「政府は何もしないでくれ、市場の競争に委ねることが最適の解だ」ということなら、それはそれでひとつの社会運営の原則だ。いわゆるアメリカ型の経済社会をイメージすればよいだろう。だが政府―与党の二重構造など、マニフェストで説明できない意思決定過程の不透明さを残したままなら、政官業の癒着の新旧交代・新たな猟官運動になる。後者の道は、旧ソ連や中国の民営化をイメージすればよい。膨大な国有資産が、民営化の名の下に私的に簒奪された。まさに「官から民へ」ではなく「官の私物化」が肥大化したわけだ。
   いずれにしろ民営化のレトリックでは、政府の役割・公共のありかたは見えてこない。確かに護送船団方式に象徴される官の過剰な関与は、「フェアな競争」を妨げている。だが「フェアな競争」と「フェアな社会」はイコールではないはずだ。拡大するグローバル経済の下では、かつてのような一国規模の国民経済と、それに基づく社会保障・社会運営では太刀打ちは効かない。「みんな平等に貧しくなるのか、アメリカのように金持ちを優遇して全体をかさ上げしてもらうのか、もはや選択肢は後者しかない」(99年経済戦略会議)というのが、「小さな政府・小さな公共」の方向性だろう。そこでは社会福祉の基本的な目的は、安定した市場競争環境を確保するための必要最小限の「治安の維持」となるだろう。勝ち組・負け組という二極化の進行が問いかけているのも、新たな政府の役割・公共のありかたにほかならない。
 例えば年金などの社会保障について、生活保護と同様の意味での最低保証を税で行う。後は市場における積み立て方式で、個人がいくら払っていくらもらえるか明確に、損のないようにすればいいという考え方になる。ここからは、新たな公共のありかたは見えてこないだろう。
 こう問うてみよう。「ある人が年をとってピンコロで亡くなったとする。この人はせっかく払っていた年金も医療保険も『払い損』だったのか。私はそうは思わない。その人は幸せだ。その人が払った分が誰かを助けたのだから。『いくら払えばいくらもらえるか』だけで考える社会というのは、裏を返せば『最後は税で見てもらえる』というただ乗りを前提にした社会。そういう社会よりも、保険料で助け合う社会のほうが『よい社会』だと私は思う」と。

 まさに社会保障は市場ではまかなえない―プラスアルファはできても、基礎的部分は公的にやらざるを得ない―からこそ、どこまで、そしてどのように政府が関与するのか(どこまで税金を投入し、どこからは自己責任なのか)、公のありかたが問われる。右肩上がりから右肩下がりという歴史的な転換に際して、どのような社会を念頭におき、どのような社会を目標にするのか―そのための政府の役割・公共のあり方とはいかなるものか。ここから本格的な二大政党へと脱皮するとば口の問いが始まる。
 「『希望格差社会』が拡大する中で政府の役割、公的部門の役割は何なのかということを、きちんと確認していかなければいけないと思います。〜略〜
 私が最近つくづく思うのは、会社は人を切り捨てられますが、社会は人を切り捨てられないということです。そういう認識に立った上で、今の競争社会にうまく適合できなかった人たちが希望を失わないように、絶望に陥らないようにしていくためにはどうしたらよいのか。この点に政策的なことは特化していかないといけないと思うのです。
   逆に言えば、ホリエモンのような能力のある人たちにはどんどんやってもらえばいいんです。もちろん市場のルールを作るというようなことは、政府がやらなくてはいけませんが。かつての護送船団方式のように、力ある者もそこそこにさせておいて、その代わりみんながそこそこでなんとかやれるようにしていこうということでは、もう社会は成り立っていかなくなっています。やれる人はどんどんやってもらえればいい。そこにいちいち政府が産業振興だとかそういうことはやらない。その代わり、そういう競争社会でうまくいかなくて切り捨てられた人たちが絶望の淵に陥っていかないような、そういう政策をきちんと打っていかないといけないのだろうと思っています」(古川元久・民主党成長会長代理 4/9シンポジウムより「日本再生」三一三号)
 右肩下がりというパラダイムチェンジのなかで、新たな公共のあり方を選択する―その意味を有権者は生活実感から体得しつつある。ここにマニフェスト選挙が集中的に集積している。この力で政党政治の新たなステージへの扉をあけるべく、この総選挙を「どういう判断基準で何を選んだのか」が明確に実感できる政権選択選挙としよう。