日本再生 315号(民主統一改題45号) 2005/7/1発行

お願いから約束へ 白紙委任から選択・責任へ
主権者の"気づき"と参加で、政治選択の現場=選挙を構造的に変えよう

お願いから約束へ
選挙を変えよう!

 今回の都議選は、「小泉旋風」や「石原人気」という“風”が吹かないなか、〇三年総選挙、〇四年参院選と積み重ねてきたマニフェスト選挙の蓄積と、それをさらに深める課題が問われるものとなった。
 「小泉旋風」に沸いた前回に比べ、無所属候補が半減したことにも見られるように、無党派主義―政治不信を決め込む余地はもはやない。「お願い」選挙の延命力が逃げ切るか、それともマニフェスト選挙(政策で選択、有権者との約束)の地力が突破するか。前々回の投票率は41%、前回の小泉ブームの時が50%、今回は「小泉旋風」や「石原人気」という“無党派の風”が吹かないので投票率の下落が予想されるが、それに代わってマニフェスト―「お願いから約束へ」という選挙の転換を、どこまで投票率に結び付けられるか。
 国政選挙では、マスコミなどを通じても争点が見えやすい環境が作られるが、地方選挙はそうではない。「争点が見えにくい」なかで当然、投票率も国政選挙より低くなる。しかしここで民主党が、「投票率が高ければ…」という投票率頼みの選挙戦を克服する地力をつけないかぎり、政権交代は望めない。
 あるいは有権者のなかにマニフェスト選挙の政治文化がどこ
  まで蓄積され、それがどのように行動にまで転化するのか。(北川正恭・前三重県知事は定例講演会で、「北京の蝶々」という例え話から、一人ひとりの小さき行動がマクロを変えていく、と述べている/二―五面参照)。言い換えれば、マニフェストが単なる流行に終わることなく、有権者の意識と行動を確実に変えつつあることが「見える」ところまでいくのか。知事とのツーショットよりもマニフェストのほうが「効果がある」ということになれば―有権者の行動がそれを示せば―次期総選挙は「小泉マニフェスト」のようなものではダメだということを、自民党に対しても示すことになる。
 小選挙区制とマニフェスト(政権公約)によって、二大政党(二大政治勢力)による政権選択の場へと、国政選挙は変わりつつあるが、ローカル・マニフェスト運動は、さらに地方選挙においても構造的に選挙を変え、政権交代可能な政治をわが国に定着させる重要な一歩である。都議選に続いて秋にも(合併による)「ミニ統一地方選」が予定されている。
 選挙はお願いではなく約束へ! さすればマニフェストを配れない/きわめて制限されている=公約、政策を競うことができない、現在の仕組みに気づく。国政選挙には関心があるが地方選挙には無関心という「政治意識」が、じつは国が何でも決めるという中央集権の裏返しでしかないことに気づく。(分権や自治に関する主体性、責任性がなくての「国家政策」とは何か?)。主権者の気づきは即、行動に転化する。

気づいた人から羽ばたいて―誰かがやってくれるだろうではなく―他者にそれを伝えていく、その波動、共振のうねりを燎原の火のごとく広げ、地域からのエネルギーでさらにパーティー・マニフェストを押し上げていく。都議選の総括から今秋へ、次の転換にむけて着実な足場を踏み固めていこう。

小泉改革に決着をつける、その組織戦の準備を

 郵政「民営化」の決着がつけば小泉改革の求心力はなくなり、党内へのグリップも効かなくなる。後はダラダラと延命を続けるのに対して、民主党が次の政権を窺うにふさわしい存在感を示せるか、ということになる。ポスト小泉の思惑・駆け引きにマスコミの耳目が集まるのは仕方ないとして、小泉改革にしっかりと決着をつけるにふさわしい「戦う布陣」をどこまで示せるか、ということになる。
 この秋以降は、郵政「民営化」で花火を上げている間に置き去りにされてきた構造的な政策課題が否応なく噴出する。その最たる例が年金をはじめとする社会保障であり、税制であろう。これらにどのような方向性―マニフェストの深化―を示せるか。そして、政局のハンドリングをそれにふさわしいものにできるか。さらに地方選挙におけるマニフェスト運動とリンクしながら、選挙の現場を変える(候補者の選抜・育成、スタッフの充実、有権者の参加など)ことがどこまで準備できるか。
 首相の諮問機関である政府税調は、給与所得控除や配偶者控除などの整理・縮小を柱とする、サラリーマンにとって増税色の濃い税制改革の報告書をまとめたが、まさにこれが小
  泉改革の決算と言うべきだろう。
 郵政民営化を「本丸」と位置付けた改革で、財政健全化の方向は見えたのか? ノーである。
 右肩上がりから「右肩下がり」の時代に対応した経済社会の方向性はつけられたのか? ノーである。
 グローバル化・東アジアとの共存と競合の時代にふさわしい/その時代を生き抜く道筋は見えてきたのか? ノーである。
 右肩上がりの時代の全国均一・標準モデルの垂れ流し(税金の無駄遣い)から、限られた税金を多様な住民ニーズに対して最適に配分しうる分権の仕組みは見えてきたのか? ノーである。
 高度成長―右肩上がりから定常化時代へのパラダイムチェンジ、そのための改革・転換がことごとく先送り、中途投げ出し、いいかげんにやり過ごされてきた結果のツケが増税にほかならない。しかも、いまや勤労者の三分の一が安い賃金、不十分な福利厚生に加えて、いつ職を失うかわからないという不安定雇用に追いやられている時代に、いまだに常用雇用者にすべてが寄りかかる、という仕組みを前提に財政を考えるという発想! まさに「取りやすいところから手っ取り早くとって帳尻を合わせる」ということにしかならない。これが、小泉改革の結果である。
 その決着をつける組織戦を、いかに準備していくのか。税金の無駄遣い、癒着などの追及、個別の政策領域における不合理、不条理、失政の追及などを徹底的に行い、国民の前に問題点を明らかにするとともに、政策転換(パラダイムチェンジ)に結びつけていくことが必要である。

 参院選で年金が争点になったのは、総理の「人生いろいろ」発言であった。「(国民年金も含めた)一元化」という政策体系の転換を、多くの人が理解したわけではなかったが、社会保険庁のむちゃくちゃも合わさって、「トクかソンか」ではなく「公正さ」ということが有権者の判断感覚に入った。つまり、政策転換の伝え方―伝達能力の飛躍が求められている。政府に対するさまざまな追及が、政策転換(パラダイムチェンジ)のエネルギーに結びついていくかどうかは、その追及を通じて「責任」や「社会的公正」という判断感覚が国民に伝わり、蓄積するかにかかっている。そういう伝達能力があれば、それを受け止め、蓄積する有権者はすでに相当いるはずだし、そこからさらに伝わっていくことになる。小泉改革に決着をつける組織戦の準備に、なによりも問われているのはこの点だろう。
 「正しい政策」一般はない。右肩上がりの時代のように「あれもします、これもやります」という公約は、それ自身がウソになる。「あれか、これか」の選択を有権者に問い、約束するのが選挙であり、国政選挙はもとより地方選挙もそういう場にしなければならないというのであるから、政策のターゲットは誰かを鮮明にしなければならないし、ある部分にとってはソンになるその政策を、社会的公正の価値観から説明して納得をえるという説明能力が、マニフェストでは問われることになる。
 例えば当面の少子化対策のターゲットは団塊ジュニア世代であり、そこに有効な政策―そのニーズに合致した政策ということになる。年配者の好みや価値観でこれが左右されたのでは、意味のある政策にならないのは当然だ。その不合理に対して「あきらめ」てしまっている人たちの耳とハートに届くような
  情感のある訴えが必要なのだ。同時に「子供を産みたいが産めない、育てられない」という層の「産めない」「育てられない」要因(ひとつだけではない複合要因)にアプローチする政策でなければならない。そうして、当事者世代だけではなく、他世代・層も「それなら納得できる」という負担のシェアを合意形成していかなければならない。
 さらに言えば本質的には、少子化対策とは「子供を産むことを奨励する」政策というよりも、集中的にこの世代の人生設計が立つようになった結果、子供を産んで育てることに躊躇しなくなる、ということではないのか? いいかえれば、少子化問題は狭い意味での「少子化対策」としてではなく、これからの時代の社会・経済システムに合わせた制度構築―それぞれの人生設計が見える社会・経済制度―の問題としてとらえるべきだということになる。
 こうしたパラダイムチェンジの全体像を描きながら、小泉改革の決算に対する国民の生活からの怒りを的確にとらえ、「責任」「社会的公正」という感覚を共有しながら、小泉改革に決着をつける組織戦を準備していこう。
 この八月は戦後六十年を迎える。村山談話で「過去の反省」「国策の誤り」は明らかにしたが、戦後日本の歩みに対するわれわれ自身の総括はいまだ明確になっていない。一九四五年に戻って「極東裁判は間違いだ」と言わないと語れない、そんな程度の六十年だったのか。それとも二十一世紀の東アジアの安定と繁栄のなかで新たな役割を果たす、その下準備をとにもかくにも蓄積してきた六十年なのか。それを明らかにすべき年でもあるだろう。