日本再生 310号(民主統一改題40号) 2005/2/1発行

とば口が開きつつあるローカルマニフェスト
―住民自治の組織戦とリンケージでき る政権奪取へのマニフェスト運動 平成の薩長同盟を

十年後の日本を見据えた政権選択の争点を鮮明に

 通常国会が始まった。「改革の本丸」と自ら位置付ける郵政民営化こそが今国会の最大の焦点、という小泉総理の施政方針演説は、国民の関心とは大きく乖離している。議場では与党からの拍手もほとんどなく、来年九月の任期を控えて早くも小泉丸は失速気味の様相である。棒読み、他人称が一転して熱を帯びるのは、野党民主党に対する挑発と自民党内「抵抗勢力」との茶番劇だけ、というのでは40%の支持率も、「他にいないから」ということでしかない。
 逆に言えば政権交代のためのハードルは、野党の政権担当能力、政権運営能力をいかに示せるのかに尽きるということだ。つまり「自民党ではダメだから」「小泉政権ではダメだから」ということをどれだけ言えるかではなく、「われわれが政権をとったら、これとこれをこう変える」「そのための能力、人材、チームはこのように揃っている」ということをどれだけ示せるか、それによって「民主党に政権をとらせれば、これをこう変えるのか」「それを実行するチームはこういうメンバーなのか」「それならやらせてみよう」というところまで、「期待票」を「(政権交代)確信票」に、「自民批判票」を「固い期待票」に変えていくことだ。
 その意味でマニフェストの深化とは、網羅的に細かなことを詰めていくことではなく、「これとこれ」という政権の柱を鮮明にし、政権選択の争点を明確にすることである。「○○をぶっ潰す」という反○○発想や「民営化」という反政府のレトリックで「改革」一般を抵抗勢力に対置するという次元では、もはやない。この手の小泉劇場の出し物に、国民はもううんざりしている。新しい出し物は、「マニフェスト(政権公約)」に移りつつあ
  るが、これを「パンとサーカス」の国民向けにやっていたのでは、何も変わらない。
 国民が「何を選んだか」、「どういう理由でこの政権を選んだか」をはっきりさせる(選択には責任が生じる/白紙委任なら不信で終わる)ようにすること。マニフェストを深化し、政権選択の争点を明確にするとは、そういうことだ。そのために論戦では、権力闘争として徹底して戦うこと。「正しいこと」をどれだけ言えるかが、権力闘争ではない。それによって「ここは政権が変わらなければ変わらない」「どちらを選ぶのか」という政権選択の争点を、国民に明確にすることだ。
 自民党がダメだから、戦後体制がダメだから、右肩上がりの配分ではダメだから、「だから改革」「だから政権交代」ということではなく、「十年後の日本をこうするために今、AからBに変える」「Aのまま続けるならこういう社会になる」という選択肢をはっきり示すということだ。
 二〇〇四年の日本の総人口は、前年比〇・〇五%増。これはデータを取り始めた一九五〇年の調査開始以来、過去最低である。人口減少社会は目前に迫っている。終戦時七千万人の人口が一億三千万のピークを打ち、二〇五〇年には八千五百万になるというサイクルの、ピークから下り坂へ向かう転換をわれわれは迎えつつある。しかもそれは、これまでどの国も経験したことのないような少子高齢社会である。二〇二〇年には七十歳以上の人口は二〇〇〇年に比べて一・七八倍に増えているという。現在のシステムの延長に、十五年後のこうした社会を支えられるのか? 出生率が一・三を切る世界とは、単純化して言えば今ある住宅の二軒に一軒は空家になるということだ。このままの社会資本整備や国土計画を続けていてい

いのか? これを転換するための政権選択の機会は、この一、二年にかかっている。
 国と地方を合わせた財政赤字は七百兆円を超える。これは一世帯当たりにすると千八百万とか二千万くらい。このままいけば十年後には一千兆円を軽く超えるから、一世帯当たり三、四千万円の借金を背負うことになる。これは増税か歳出カットでしか返せない、そういう性質の借金だ。
 わが国がこのようにピークアウトする時期、中国は高度成長の時期を迎える。昨年度、アメリカを抜いて中国がわが国の貿易相手国のトップとなった。WTO加盟―オリンピック―万国博という高度成長期に向かう中国と、わが国の輸出品目(稼ぎ頭)は否応なく競合する。このままの産業構造をズルズルと続けていっていいのか? 
 つまりこのままいけば、高齢化して中国に追い上げられた日本が、各家庭四千万円の借金を背負っている、というのが十年後のわれわれの姿ということになる。のぼり坂を上るところから下り坂への転換に、われわれは何を選ぶのか。「右肩上がり」の惰性―「標準モデル」の政策発想の継続なのか、それとも「選択と集中」による再編―選択・責任・連帯という運営原理への転換なのか。この政権選択の機会は、ここ一、二年にかかっている
 郵政民営化を「改革の本丸」とぶち上げ、「男子の本懐」と言う施政方針演説に対して、国民の感想が「政治生命をかけるなら、年金・社会保障にかけてもらいたい」というのは、本質的にはこの問題だ。すべての論戦は、この選択肢を鮮明にするように組み立てなければならない。そしてテーマは一に年金、二に年金ということだろう。
   年金問題では与野党協議が始まるが、与党のいう「一元化」とは「厚生年金と共済年金」の一元化、民主党のいう「一元化」は「国民年金を含めた一元化」(議員年金も廃止して一元化)であり、その本質的な争点も前記のところにある。ここで政権が変わらなければ変わらない―政権を変えればこれが変わる、という争点=選択肢を鮮明にすることだ。
 少子高齢社会、人口減少社会、定常型社会、あるいは東アジアの新風景(中国の台頭と新たな国際関係)。これらが目に入っていないところの「改革」劇の最終章、それが郵政民営化の茶番ということである。それが茶番であることは、「本丸の本丸たる所以」であるはずの、財政投融資や特殊法人にメスを入れることには何一つつながらないということだけで十分だろう。

自治体ベースの分権・責任の回復で、
マニフェスト(政権公約)と
ローカルマニフェストの連携を

 「変える」「変える」と言いながら、どちらの方向への一歩なのかがあいまいになり、いつの間にか既得権は形を変えて温存される―小泉改革はこのパターンである。道路公団民営化では抵抗勢力との派手な政治ショーを繰り広げたが、結果をみれば、採算無視で高速道路をつくり続ける仕組みは残り、ファミリー企業や天下りといった利権構造は手付かずのままだ(民営化で「自由」になった分、むしろ利権は増大した)。
  「これまではできなかったことが、とにもかくにも改革にむけ

て踏み出した」と言うが、どの方向にむけての一歩なのか。それが鮮明になったのは、三位一体改革である。三位一体改革の本旨は、地方財政自立改革とでもいうべきものであり、そのために国と地方の関係を見直すこと自体は、郵政民営化などをはるかにしのぐ「改革の本丸」である。補助金削減案の作成を小泉総理から「丸投げ」された全国知事会・市長会など地方六団体は、「地方分権推進」のためにこれに取り組んだ。しかし与党・官僚・政府は、これを相変わらずの「財布の分捕り合い」として扱った。結果、全体像では分権とは裏腹に、「赤字の押し付けあい」という方向性だけが、より鮮明に浮かび上がることになった。
 つまり抵抗勢力一般ではなく、「地方」という別のファクターが登場することで、「どの方向への一歩なのか」が問われざるをえなくなった。いいかえればマニフェストの検証―業績評価は、ここからなされなければならないということだ。道路公団も三位一体も(おそらく)郵政民営化も、「やった」という形式にはなるだろう。問題はそれが「どの方向への一歩なのか」だ。次期総選挙では、そのことが検証できないようではマニフェストたりえない、というところまで政治文化を成熟させていかなければならない。
 「地方」が改革のファクターとして登場しえたのは、いわゆる「改革派」といわれる首長が「自治」「自立」のための独自の具体的施策をすすめてきた蓄積があるからだ。そうした首長の多くがマニフェストを掲げたり、あるいはマニフェスト感覚のオープン・フェアな自治体運営を行っているのは偶然ではない。
 改革というのは、誰かがやってくれる(誰かにやってもらう)こ
  とではない。五年後、十年後の自分たちの生活や社会、あるいは子どもたちの時代をどうするのか、それを現在の責任において選ぶということだ。○○劇場の無責任な観客でいるかぎり、つまり有権者が「お任せ」でいるかぎり、ピークアウト後の負荷は増していく。マニフェスト感覚の自治体運営とは、住民自身の責任を問う―行政と住民の責任の分かち合いとしての協働のことである。
 別の側面から言えば、三位一体改革で明らかになったことは、国は地方に赤字を押し付けられるが、地方とくに基礎自治体はどこにも押し付けられない、つまり「逃げようがない」ということだ。ここでどうするか。責任を住民に投げる、という意味も含めて、赤字の実態(財政破綻の実態)を明らかにして、どうするかを住民に選択してもらう以外にないところに、少なくない自治体は遭遇している。ここで「責任の回復」が起これば、わが国はなんとかなる。「政治家は政策をつくれず・官僚は先送り・有権者は白紙委任」という無責任の三位一体を断ち切ることができれば、わが国再生の力はできる。これがローカルマニフェストの意義であり、都議選ならびに各地で行われる合併新市の選挙のポイントである。
 いいかえればこうだ。少子高齢社会、社会保障、教育、産業など、十年後の日本を見据えた課題はいずれも、地方自治の発展が焦点となる。国の制度や施策は重要であるが、いわゆる「標準モデル」や「国土の均衡ある発展」といった発想で、中央政府が地方を「指導」「監督」するのではなく、地方がそれぞれに工夫し、限られた資源と時間を有効に活用していかなければ、なかなか解決が難しい課題だということだ。

 国も地方も歳出は増やせない。右肩上がりなら、要求のあるところに調整してばら撒けばよいが、お金がない以上は「あれかこれか」を選択しなければならない。誰が選択するのか。もっとも適切なのは、住民に一番近い基礎自治体であろう。地域によってそれぞれニーズは違う。限られた財源を何につかうのがもっともよいか―多数の利益になるのか。それを決めるのは国・中央政府ではなく基礎自治体であり、その首長・議員を選ぶ住民である。
 それゆえ地方分権とは、基礎自治体ベースの分権であるべきで、地方六団体の活動はその第一歩として引っ張っていかなければならない。住民自治における自己決定・選択、ここで責任の回復の「底」が入れば、わが国の再生力のメドはつく。パーティーマニフェスト(政党による政権公約)とローカルマニフェストの連携とはこのことだ。そして分権の流れを基礎自治体ベースでの分権―住民自治と責任の回復として引っ張っていく部分が、薩長同盟としてこれを主導することになる。
 十年後を見据えた政策転換のメニューそのものは、与党のなかでも分かっている部分はいる。しかし「正しい政策」では権力は変えられない。依存と分配の権力と戦うということ、これなしに権力は変えられないし、政策転換は効かない。依存と分配の権力と戦うためには、誰に立脚するか、自らの基盤をはっきりさせなければならない。
 たとえばこんなやりとりをどう思うか。
 「個人的には、教員の人事権は基礎自治体に移すべきだと思うし、教育費もバウチャー(注1)にして、子ども一人ひとりに直接渡せばいいと思う。それで公立に行くか、プラスアルファして私立に行くか、さらに言えばチャータースクール(注2)やNPOが運営する学校に行ってもいい。子どもと親が多様な学校を
  選べるように。でも、そのお金がちゃんと使われているかどうか、ここはやはり何らかの形で国がチェックしないといけない、税金なんですから」(政務官)
 「○○先生、それが余計なお世話なんですよ。教育委員会をどうするかなんて、全部地方に任せてくれればいいんです。教育委員会をつくるのか、別の形でやるのか、そういうことも含めて、われわれに任せればいいんです。いちいち国が口出しするから、おかしなことになる」(A市長)
 「地方が国からお金をもらって仕事をしている、ということになれば、首長は国に向かって説明責任を果たそうとしますよ。でも、市民からいただいたお金で仕事をしているとなれば、市民に対して説明責任を果たすようになるのは当然です。私たちは市民から直接選ばれて、毎日監視されて、それで審判されるんです。お金がどう使われているか、それをチェックするのは国ではなくて市民でしょう。市民がチェックして、自治体がちゃんとやっていないとなれば、市民がそれを変える。変えられるかどうか、そこが市民には問われる。お金や権限をもらっても使いこなせない自治体もあるでしょう。それも含めて自己責任なんですよ。そういう自治体を変えるのは市民の責任であって、国の監督や指示ではないんですから。」(B市長)
 教員の人事権や教育費のバウチャー制など、政策アイディアとしてはまことに結構な改革派の中身ではあるが、政務官氏の発想には住民自治―選択・責任ということがきれいに抜けている。おそらく市長の言っている意味は「国に対する地方の不信」としか伝わらないのであろう。まさにここが責任の回復―住民自身が自ら選ぶ・その首長や議会がちゃんとやらなかったらそれを変える責任までを負う―にかかわるキーポイントである。

 ローカルマニフェストとパーティーマニフェスト(政権公約)の連携とは、このような自治―選択・責任・連帯の主体を作り出すことである。依存と分配の政治から権力を奪う―自立と創造の側が政治権力を取るという政権奪取のマニフェスト運動は、ここから検証され、また鍛えられていく。
 十年後のわれわれの生活を見据えた選択は、この一、二年にかかっている。
(注1)バウチャー:利用券や引換券を意味する。個人を対象とする使途制限のある補助金の一種。この場合は「教育」に使途が限定されたものを意味している。
(注2)チャータースクール:特別に認可された公立学校。アメリカで普及。既存の公立学校が、親たちの望むような教育をしなかった場合に、他の学校を創って、それが公立学校として認可され、学校予算や教員などの支援を受け、また既存の学校関係規則にはとらわれないで自由に運営できる教育制度である。しかし成果が挙がらなければ、例えば五年後に評価され、閉鎖されるという制約も課せられる。