日本再生 305号(民主統一改題35号) 2004/9/1発行

マニフェスト政党創成期における、
バッジをつけた主権者とバッジをつけない主権者の協働の深化を

マニフェストと二大政党の定着
−政治改革10年が拓いた新たなステージ−

 九三年の小選挙区制導入からのいわゆる「政治改革十年」は、〇三年総選挙・今年の参院選を経て、マニフェストと二大政党の定着という新しいステージを拓いた。その核心は、国民主権の発展であり、責任ある主権者の育成というところにある。
 この点が抜けた二大政党論では、「(有権者不在の)政界再編で二大政党」(今なら「民主党と自民党の一部が大連合」論)とか「憲法を対立軸に政界再編」といった小話に迷い込むことになる。これではマニフェストも、単なる「精緻な公約の羅列」という以上にはならないし、「政党」は相変わらず政策に紀律化された組織ではなく「選挙互助会」以上のものにはならない。
 〇三年総選挙・今回の参院選でマニフェストと二大政党が定着したという意味は、国民主権の成熟の戦いが抜けた「二大政党論」や「政策本位論」の道は組織的に断たれた、ということにほかならない。
 国民主権とは一人一票の選挙制度に限定されるものではない。それだけなら開発独裁体制の下でも行われている。国民主権の核心とは、主権者を育成することである。
 目先の私的利益のみで一票を投じる有権者ばかりなら、「バッジ組」も政官業の癒着となり、国民主権は成熟しない。右肩上がりの時代にはそれでも、それぞれが目先の利益を追い求めることが「みんながハッピーになる」ことにつながったこともあったかもしれない。しかし二十一世紀、少子高齢社会におい
  てはそうはいかない。新たな社会的公正の基準が求められており、そこから「あれもこれも」ではなく「あれかこれか」を決めていかなければならない。そこで問われるのは政治の本来の役割である。これが小選挙区制導入の問題設定の基本であるというべきだろう。
 小選挙区制の導入によって何が大きく変わった(変わらされた)のか。中選挙区なら特定の業界や団体、シングルイシューの利害を代表するだけでも一議席を確保できたが、小選挙区では論理的には51パーセントの支持を得なければ議席は獲得できない。特定の10数パーセントの支持を得るための政策観、活動スタイル、問題設定と、51パーセントの支持を得るためのそれとは大きく違ってくる。
 十年、三回の総選挙を経てようやくここがマニフェスト=政権公約という形になり、選ぶほうの基準も大きく変わってきた。端的には参院選の争点となった年金問題について「自分がいくらもらえるか」よりも「将来の世代も含めて公正なのか」という視点が、有権者の基本勢力のなかでは前提になったことである。こうして、「バッジをつけた主権者」と「バッジをつけない主権者」が形成され始め、政権交代可能な二大政党制にむけた必要条件がクリアされた。
 ここから風景は大きく変わる。非マニフェスト政党の崩壊期は“終わりの終わり”を迎え、マニフェスト政党創成期の“始まりの始まり”の幕があく。
 例えば、「自民党と民主党の違いが見えない」とよく言われるが、五十五年体制―冷戦時代の対立軸の延長から見ていれば、次のような違いが見えてこないのは当然であろう。

 「今回の参院選のマニフェストを見ると、自民・民主両党の政策的志向の違いが現れ始めている。『羅列的視座』と『構成的視座』(岡義達)の違いというべきか、個別政策をとにかく並べる自民党と、大上段から理屈で割り切ろうという民主党の違いは明白となった。これを社会的な文脈に落とし込むなら、『義理やコネ、人情を重視する社会』と、『公平・公正なルールによる規律を重視する社会』という形になるのではないか」(飯尾潤・政策研究大学院大学教授 「中央公論」9月号)。
 あるいは自民党のなかでも敗北を総括できるのは、主権者意識のある有権者と対話し、その政策ニーズをとらえる意識性のある部分、その点において民主党に負けたと正面から言える部分であり、それ以外の要素(「永田町的かけひき」など)からはいっさい出てこない。無党派受けを狙った「目くらまし」や旧来型の利害調整で「崩壊期」を長引かせるか、国民政党としての再生にむけた“産みの苦しみ”に賭けるか――小泉後をめぐる自民党の党内闘争はこうした性格になるだろう。
 他方、民主党にはマニフェスト政党としての確固たる地歩を築くことが求められる。次の勝負は「国民主権の力で政権交代」(総選挙で政権交代)であり、ここ二、三年が政党政治の未来を決める正念場となる。ここまで整えた土俵(共通の基盤で政権を競って正面対決する政党政治の基盤整備)を傷つけることなく、その上で勝負できる体力・地力をどうつけるか。「(旧来の)自民党に対抗する選択肢」ということの延長ではなく、「あろうべき国民政党」のありようから、問題を整理していくことが問われることになろう。
  マニフェスト政党創成にむけた
バッジをつけた主権者と
バッジをつけない主権者の協働

 マニフェスト政党の創成にむけた「バッジをつけた主権者」と「バッジをつけない主権者」の協働とは、いいかえれば国民主権のいっそうの発展・成熟を、政党の姿形として絞りこんでいくことにほかならない。当面する課題をいくつか整理したい。
●住民自治と結びついた国民主権の成熟
 マニフェストがそれなりに体系化されてくる(「構成的視座」)と、問われてくるのはそれを日常活動において実感的に有権者に伝え、またそれを集約してくる組織・人がどこまでできているのか、ということである。候補者の発掘・育成はもちろん、自治体議員や首長にマニフェスト感覚のある人材を選び、育成していくことと政権交代をリンクさせるロードマップが求められる。
 自治体議員の選挙は中ないし大選挙区であり、単純に国政の二大政党化に「系列化」されるものでないことはもちろんであるが、だからこそコミュニティーに根ざした多様な議員活動をマニフェストに結びつけていくガバナンス能力が求められることになる。政党の政策能力が有能な官僚と違うのは、最終的にはこの点における「説得力」に尽きる。住民自治と結びついた国民主権でマニフェストを深化させるとは、ここの問題につながる。

 別の側面から言うとこうなる。小選挙区制は、与党と野党第一党の公認候補の指定席として固定化される傾向を持つ。これを固定化させないためには政党の「新陳代謝」が不可欠であるが、それを支える大きな柱のひとつは、地域に根付いたマニフェスト感覚のある自治体議員の質と量である。〇七年(統一自治体選挙)にむけて住民自治と結びついた国民主権の成熟の組織計画を持つとは、ここの問題である。
●「憲法問題」と財政危機についての〈超党派的合意〉
 政策課題から言うと、「憲法問題」と財政危機についての〈超党派的合意〉を形成できるかが、政党政治を一歩成熟させるカギとなろう。
 「憲法問題」とカッコがついているのは、「九条」に代表されるような神学論争に明け暮れて、統治の道具として議論できていないことを意味しており、そうした土俵そのものを清算して「次の選択」の土俵を準備できるか、ということである。逆に言えば、「次の選択」の時にまだ、そうした五十五年体制の残滓がまとわりついていたのでは日本再生に間に合わない、という「時間感覚」を持つ必要があるということだ。
 財政問題についても、現状が持続不可能なことは合意されている。問題は長期にわたって一貫した財政規律が確立されていないことである。政権が変わる度に基本方針が変わったのでは財政再建はおぼつかない。政治論では、今日の財政赤字は明らかに自公政権の失政であり、その転換は政権交代でしか決着がつかないものである。
 しかし民主党政権になって増税となれば、野党となった自民党がそれを攻撃して、財政再建が政争の材料となるのは避けられない。これでは問題は解決しないのであり、自民党も「小
  泉任期中は消費税を上げない」と先送りを決め込むことは、逆に政権担当能力がないと見なされるというまでの状況を、主権者側からもつくりだす必要がある。(選挙で「増税/年金財源としての消費税アップ」を訴えた民主党が支持されたということは大きい)。
 勘違いすべきでないのは、こうした「超党派的合意」は「次の選択」のために土俵を整えるものであって、「大きな国政選挙がないからじっくり改革」ということではないという点である。年金問題のような課題は、総選挙でマニフェストによってきちんと民意を確認すべきである。そのためにも与野党で問題を整理して、どこまでは合意でき、どこで争うのかを明確にする必要がある。
 そしてこの論戦は、民主党が主導権をとって進める以外にないことも明らかである。ここで民主党は「疑似」自民党の道を断って、次の時代の社会像(社会的公正)からの政策体系と政党としてのありようを示すことが求められる。それが(自民党とは異次元の)政権担当能力を示すことになる。
 ひるがえってそのような論戦を展開できれば、自民党のなかにもそれに対応できる者がでてくるはずであり、ここから新しい次の時代の社会像をめぐる(政党間)競争の光景もみえてくるはずである。ここ二、三年でそうした光景を展開できるかによって、次の選択から本格的に政権交代可能な政党政治のステージを拓けるかが決まる。かような意味でも、この二、三年は正念場である。
●政策の支持から組織的参加へ
 自民党の支持基盤の論理は「自民党の政策は支持しないが、小泉さんは支持する(小泉さんしかいないじゃないか、も

含め)」というものである。一方、民主党の支持基盤の論理は「政策では民主党を支持するが、政党組織としての民主党を支持するかどうかは留保する」というものである。(非マニフェスト)「政党」崩壊とマニフェスト政党創成というベクトルは正反対であるが、ここに共通するのは無党派的組織観(組織は不自由、しばられる等)である。ここをどう越えるか。
 前出の飯尾氏の指摘するように、自民党と民主党の政策的志向の違いは、立脚する支持層の違いによるものである。福山参院議員はマニフェストに掲げた民主党の政策ストックが有権者のなかに浸透しつある状況のうえで、今後のマニフェストの深化について、都市政策、農村・地方経済政策など、さらに期待を支持へと固めていくことが必要だと述べている(10―14面講演会参照)。政策の深化は、支持基盤をいかに組織的に固めていくかという組織計画であるということだ。
 「日常活動が足りない」「足腰が弱い」というのはよく言われることであるが、問題はその「中身」である。一日何軒歩いた、何人と握手した、といっただけで日常活動という時代ではない(もちろん駅立ちなどの基本的活動は前提)。マニフェストによって、日常活動も「政党本位・政策本位」へと大きく変わらざるをえない。
 そのためには政策形成能力と政策決定過程への参加能力(有権者をまきこむ能力)が重要である。個別利益、「○○を何とかしてほしい」という声をそのまま、政策形成過程に取り入れることはできない(羅列的なものにしかならない。結果として「票がたくさん出る」順番に並べることになる)。個別利益、「○○を何とかしてほしい」という声から始まって、より高次の「公益」「公正さ」から合意形成していくという討議の場をどれだけつくれるか。それが「組織」というものである。
   これは身近なコミュニティーで一番試される。だから、マニフェスト感覚のある多様な自治体議員が不可欠なのである。国政からの「系列化」ではなく、問題をそれぞれのコミュニティーで解決していく協働として地域組織のネットワークができるか。党内論争も、そうしたものとしてオープンにしていけるか(福山参院議員の言うように、「すぐにまとめられるか」ではなく「まとめるための真摯な努力を、国民をまきこんで、国民に見えるように行っているか」という問題)。
 有権者の側からはやはり、旧来の基準から事態を見ることを卒業することである。マニフェストと二大政党の定着というステージは、主権者自身も参加してそれをつくってきたのであるから、マニフェスト政党の創成という次の課題を「バッジをつけた主権者」だけに担わせるのではなく、「バッジをつけない主権者」としても担っていくことが必要である。
 「民営化」という反政府的なレトリック(佐々木毅・東大総長)で改革を叫んできた小泉「改革」の求心力は、急速に低下するだろう。郵政民営化は道路公団民営化に比して、国民の関心もエネルギーも呼び起こしていない。末期症状を種々の目くらましで延命しようとするなかで、「どのような社会を描き、そこで政府の役割をどのように規定するか」という問いを鮮明に浮かび上がらせる必要がある。
 その大きな結節環は、引きつづき年金であり、来年度予算であり、来年夏の都議選である。年金については、与野党の協議はどのような前提条件の一致で可能なのか(なぜそれが不可能なのか)を、きちんと分かりやすくする必要がある。来年度予算については、三位一体改革で政府―地方の新しい関係ができ、族議員―役所が外されかけているという力関係の変化も「上手に」取り込んで、民主党の政策ストックをさらに一段

と蓄積していく必要がある。
 そして都議選である。東京は無党派・小泉旋風の拠点であるとともに、マニフェスト感覚のある有権者も多い。都議選で自民大敗・民主躍進となれば、その後の政治闘争の主導権は民主党が握ることになる。「政策は民主党を支持するが、政党組織としての支持は留保する」という構造(民主党比例票と都議選の民主党票とのギャップ)を掘り崩していく組織戦をどこまで組めるか。ここが伴わないと上滑りになる。「バッジをつけない主権者」の参加で、地方組織をマニフェストで規律化するということもここで試される。まさにこの一年で何をどこまでやれるかが「次の選択」を決するというスパンで、「バッジをつけない主権者」も次のステージに立とう。