日本再生 299号(民主統一改題29号) 2004/3/1発行

東アジア戦略の確立・日米同盟再設計の意思と、日本再生のための行動を

東アジア戦略の確立と日米同盟の再設計
〜ブッシュ・小泉連合を超えて〜

 第二回目の六カ国協議が開催された。前回以上に中国の存在感は重みを増している。
 「ソウルの外交専門家は、中国が朝鮮半島全体に対して影響力を発揮しているのは一八九五年、日清戦争に敗退し、軍隊を撤収して以来、百九年ぶりだという。しかし、約一世紀ぶりに朝鮮半島に現れた中国と、十九世紀までの中国との違いは、アメリカという重要なパートナーを同行し、影響力を具体化しているという点である」(劉敏鎬「論座」3月号)
 イラク問題に集中せざるをえないアメリカにとって、北朝鮮問題をハンドリングしていくうえで、中国は「なくてはならない」存在になりつつあるといっても過言ではないだろう。一方の中国にとっては、長期的には統一朝鮮への影響力確保、短期的には台湾問題でのアメリカの譲歩を得るための布石である。米中パワーゲームが東アジアを仕切るという構図は、一段とその姿を現しつつある。
 この一変した歴史環境のなかで、いかにわが国の存在感を獲得していくのか。わが国の国益をどう規定し、それをいかに実現していくのか。それはもはや冷戦時代はもとより、「苦難の近代」という時代枠組みを超えた問い(問題設定)である。 
 「苦難の近代」においては、アジアで唯一、植民地化を逃れて近代化に成功したわが国にとって、アングロサクソンとの同盟(日英同盟、日米同盟)は国益を実現する最上の策であったことは間違いない。しかし時代の枠組みそのものが、もはや大きく変わった。アジアの側からも「覇権国」アメリカの側からも、歴史的な風景は一変している。ブッシュ・小泉連合では、この風景は見えてこない。日米関係さえうまくいっていれば大丈夫―北朝鮮問題があるからアメリカと常に歩調を合わせる必要がある、という思考では自ら選択肢を限定する結果
  にしかならないことに、もう気づくべき時である。
 六カ国協議は東アジアにおけるはじめての多国間協議の場である。米中が長身のバスケットボールを展開できているのは、たんに大国であるという理由からだけではない。「その先」の東アジア戦略をどう描くのか、そこにおける国益をいかに規定し、その実現のために有利になるようにどうこの場を位置付け、布石を打っていくか。こうした戦略を描けるなら、「長身」でなくとも「なくてはならない」プレーヤーとなりうる。それがなければ、ゴールポストの下で、ゲームのなりゆきを見守るしかない。場合によっては言われるままに「補給」を行うのみ、ということになる。
 わが国には、安全保障をめぐる米中のゲームに割ってはいる力はないし、またそれを試みることは国を誤る愚策であることは、戦前の「国策の誤り」からも明らかだ。そうであるなら、経済、産業、技術、通商といった面での存在感を獲得する戦略が死活的に重要であることは明らかだ。さすればFTAの位置付けも、個別分野での損得をあれこれするレベルの問題ではないことになる。ここが見えて「日米基軸」をいうのと、ここが見えずに「日米基軸」をいうのとでは、まったく別の世界ということになる(本号掲載・前原議員の講演参照)。
 米中のパワーゲームは、安全保障面に限らない。二月六―七日にフロリダで行われたG7の「影の主役」は中国であった。戦時下の大統領(ブッシュ)の下で、アメリカの財政赤字は膨らみ続けている。もう一方の経常赤字はGDPの5パーセント台に達する。ドル安は経常赤字の削減には役に立つが、米国債の投げ売りにつながれば命取りとなる。双子の赤字という巨大な不均衡をいかに制御可能な範囲にコントロールしていくか。これが米国の当面の経済運営のキーである。欧州は、ユーロによってドルの変動を相対化できる。問題は円と元である。
 

 この危うさを支えているのが、年間二十兆円にものぼる日本のドル買い介入である。じつは日本の外貨準備は、米政府証券での運用という形をとって、ニューヨーク連銀の金庫のなかにあるという。米国の双子の赤字が膨らみ、欧州の投資家が対米投資に二の足を踏むなかでも、日本の資金は米国へ自動的に還流されるというわけだ。
 日本とならんで(人民元のレート維持のために)ドル買い介入を続けている中国は、日本のような「従順な僕」ではない。日本に次いで四千億ドルにのぼる外貨準備の一部をドル安局面ではドルからユーロに切り替え、また一部を不良債権を抱えた国営銀行に公的資金として注入するなど、自らの目的のために運用している。元切り上げと将来の変動相場制への移行のロードマップをにらむ中国にとっては当然、ニクソン・ショックやプラザ合意の時の日本の対応は「前車の轍」である。どんなにカネを持っていても、それを自らのために使う意思を持たないもの(国家)に存在感などあるわけはないからだ。
 したがって国際金融の世界でも、米中のゲームが繰り広げられることになる。フロリダ・ボカラトンのG7の後、中国人民銀行周総裁は「年内に為替相場の形成メカニズムを改善する」と表明した。人民元の変動幅を拡大する布石と受けとめられるこの表明は、「為替問題に振り回されたくない」というアメリカに向けた阿吽の呼吸でのメッセージという含意をもつ。
 こうしてみれば、やがて地平線の向こうから現れてくる国際金融の世界では、確実に中国の比重は高まる。そこではG7への中国の参加か、あるいは米欧中という日本抜きの別のフレームワークが作られるかもしれない。「アメリカのポチ」と揶揄されるブッシュ・小泉連合の先に見えるのは、ジャパン・パッシングからジャパン・ナッシングの世界である。
   こうした日米同盟の現状(ブッシュ・小泉連合)は、同盟の価値そのものを毀損していく。「ワシントンでは米国の言いなりなだけの日本の存在感はない。いまこそ米国に直言するくらいでないとだめだ」という声が、米国側からも上がり始めている。
 ワシントンでの日本の存在感の低下の根本には、日本に対しては戦略的思考を必要としないという問題がある。「(プラザ合意などで)米国に恭順の意を示した日本と、アジアのリーダーになるためには場合によっては米国とも渡り合う強い意志を持つ中国とでは、戦略的思考そのものが違う」ということだ。これが「史上最高の状態」と言われる日米関係の現実だ。早い話、二十兆円もドル買いにつぎ込むくらいなら、その十分の一でもいいから、アジア通貨安定のために使うくらいの政治意思もないのか(その場合当然、中国との腹の探りあいが必要となる)、ということである。
 一方で、米大統領選の底流に流れているのは、「グローバル化時代の“一人勝ち”の危うさ」に対する、ある種の揺り戻しである。米経済はGDPや株価は表向き好調だが、雇用は回復していない。いわゆる「雇用なき景気回復」(ジョブレス・リカバリー)が定着しつつあるのは、グローバル化が進む中で製造業のみならずサービス業の一部もインドなどへアウトソーシングされ、クリントン時代の「一人勝ち」を支えたIT産業でさえIT技術者では食っていけない状態にあるからだ。「経済の一人勝ち」(クリントン政権時代)「軍事力の一人勝ち」(現ブッシュ政権)というグローバル化の“光”の裏に広がる“影”が「もうひとつのアメリカ」を覆っている。
 「われわれは、二つのまったく異なるアメリカに生きている」「この豊かな国で、必死に日々働きながら、家族を養うのに精

一杯の貧しい人々が何百、何千万といる。その一方で、政界で裏取引や工作をし、弁護士や会計士を使い巧妙に税逃れをし、欲しいものを何でも手に入れる特権階級がいる」。これは、民主党大統領指名争いで急浮上しているエドワーズ候補の演説である(会田弘継「フォーサイト」三月号)。トップを走るケリー候補のスタンスも、これに似通ったところがある。
 現時点でこの潮流が政権を取るまでに至るかどうかは分からない。しかし、クリントン時代以来の「中道でなければ大統領選に勝てない」という民主党の「常識」が破られつつあるのは事実だ。そしてブッシュ vs ゴアの時よりも対立軸が鮮明になればなるほど、ブッシュ政権=アメリカでないことだけは、確実に明らかになってくる。
 もちろん「もうひとつのアメリカ」の回答が、単純な保護主義や孤立主義でないことは明らかだ。稼ぎ以上に消費するアメリカ経済の不均衡が、世界経済を支える柱の一つでもあり、またイラク戦費などで膨らむ財政赤字を穴埋めするために日本や中国がドルを買い支え、という「運命共同体」の連鎖を断ち切っては、再生はおろか破綻にしかならない。これはタイミングを見計らって転轍する以外にはない。日米における政権交代とは、まさにかような意味を持つ。
 「アメリカのポチ」と揶揄されるようなブッシュ・小泉連合に替わる、日米同盟の「もうひとつの姿」=日米同盟の再設計と東アジア戦略を明確な政治意思として持つこと。参院選と米大統領選をその舞台として使いこなすことである。
 民主党大統領の誕生はもとより、接戦になった場合でも(ブッシュvsゴアの時とは違って対立軸が鮮明であるからこそ)米大統領選の如何は、ブッシュ政権=アメリカという小泉・自公政権の政権基盤に大きく影響する。これを転轍のテコとして使いうるための、日本再生と政権交代にむけたロードマップを練り上げることが求められている。
  日本再生の戦略から
小泉マニフェストを検証・追及し、
バッジをつけない主権者の行動的参加を組織しよう

 日本再生とは、別の言い方をすれば、わが国が東アジアにおいて中国とは違う方法・スタンスによって、「なくてはならない」存在であり続けるということであろう。それは先述したように、米中間の大国ゲームに割り込むことではないし、米中をうまく操作するなどということでもない。前原議員が講演で述べているとおり、それは経済、産業、技術、通商といった面での存在感である。
 そのためには自由で公正なルールに基づく競争や、その基盤であるセーフティーネット、環境をはじめとする「外部不経済」を組み込んだ市場経済などにおいて、わが国が東アジアにおける「先進」でなければならない。あるいはこれから日本以上のスピードで少子高齢化が進む東アジアにおいて、少子高齢社会のモデル(社会保障、経済、ライフスタイルなど)を提供できるかどうかは、日本がこの地域で「なくてはならない」存在になるうえで、大きなポイントとなる。そのためにこそ、さまざまな構造改革が必要となるのである。
 しかり、日はまた昇る―日本再生のための構造改革を、東アジア戦略のなかに明確に位置付けなければならない。さすれば、「構造改革」の名の下での失政も明らかとなる。
 昨年十―十二月の実質成長率は年換算で七パーセントという「超好況」であるが、どこの世界の話なのか。同時期の雇用者報酬は〇・二ポイント減とリストラや賃下げは止まっていない。設備投資や輸出が好調でも、それが雇用に結びつかないという「雇用なき景気回復」パターンは、失政の結果そのものではないか。

 改革を叫びつつ、実際には既得権の縮小再生産をやっていれば、限られた資源はもっとも非効率な使われ方をすることになり、既得権の分捕り合戦のみならず、生存権のための不必要な対立が生み出されることになる。七割の「普通の人」の世界で生存権が脅かされ、不必要な対立が放置されれば、日本再生の基盤―国民主権の基礎的条件は毀損される。
 逆に言えば、小泉改革の本質が「絶叫」でごまかせない段階にはいったということであり、七割の世界からも、生存のために「もうひとつの選択」―東アジア戦略のなかでの日本再生の構造改革を支持するという、多数派形成の本格的な組織戦にはいる時だということである。
 小泉マニフェストでは「〇六年までに四兆円の補助金を削減する」という三位一体改革が掲げられ、その第一段階として十六年度予算では一兆円の削減が決定された。その決定過程も、省庁の利害争いに明け暮れて、政治のリーダーシップというマニフェスト本来の役割とは程遠いものであったが、同時に中身においても地方の実際が見えていない、「地方への付け回し」にすぎないことが改めて明らかになった。
 一例を挙げれば、沖縄県平良市は、国からの補助金削減を受けて、これではやっていけないと「赤字予算」を組んだ。歳入欠陥の予算を組むことは法律違反である、との国と県の「指導」を受けて、市では「カラ財源」で帳尻を合わせたが、これは全国の自治体にとって他人事ではない。
 地方財政の赤字は、理屈のうえでは第一義的には当該自治体の責任であり、首長と議会を選んで付託した市民の責任だ。しかし、である。補助金などで「三割自治」といわれるまでに自主運営の余地を失い、この間の景気対策では地方債まで発行させて公共事業を押し付け、さらに合併特例債までちらつかせ・・・という国の政策にも責任はある。
   一九九七年に赤字が表面化した平良市は、財政健全化計画を作成。国からの地方交付税や臨時財政対策債に頼った自転車操業を続けながら、赤字解消に取り組んできた。「赤字をつくってきた平良市の体制は本当に悪かったが、財政健全化計画は県にも認めてもらっていた。今回の改革では、平良市のように財源を依存する自治体は打つ手が何もない」と平良市の担当者は言う。
 ならば、補助金を一括交付して自治体に自主運営のトレーニング期間を設け、その能力の度合いで分権を進めるという民主党の案は、こうした現実をとらえマネージしうるものか。足りないところ、深めるべきところがあるとすればどういうところか。その検証過程に、どれだけの参加を組織できるか。こうしたことが問われてくる。
 地方分権に賛成、反対という段階は終わった。問題は中身であり、進め方である。マニフェスト選挙後はじめての国会論戦は、その一歩となるべきである。小泉マニフェスト、その政権運営には、「実質成長率七パーセント」の裏にある「雇用なき景気回復」の世界が見えているのか。あるいは「三位一体改革」に、地方の現実は見えているのか。それが見えない「改革」は既得権の縮小再生産にすぎないのではないか。それは失政の下で(右肩上がりの時には隠されていた)格差を拡大させ、日本再生の基盤―国民主権の基礎を破壊しているのではないか。こうした追及のなかから、日はまた昇る―日本再生のための構造改革を東アジア戦略のなかに明確に位置付けて、対立軸を明確にしていくことが求められる。
 年金「改革」では、将来も現役世代の50パーセントの給付確保が「公約」された。連立を組みながら、自民、公明がマニフェストを一本化しなかったため、国民の関心が高かった年金問題について、選挙後にドタバタと給付と負担の数字の駆け

引きが行われ、ここでもマニフェストの本来の役割は生かされたとは言いがたい。(党首討論で民主党の菅代表は自公連立を批判したが、そうであるなら「参院選ではマニフェストを一本化すると約束しますね」と押し込む論戦を展開すべきであったろう。)
 同時に中身である。50パーセントの給付というのは「標準世帯」というが、それはだれのことなのか。「標準世帯」というのはどのくらいで、そうでない人はどのくらいなのか。(「標準世帯」とは平均的な賃金の夫が四十年間厚生年金に加入、妻は四十年間専業主婦、というもの。)共働きや単身者の世帯では、給付水準は四割、三割台となる。
 あるいは四割の国民年金未納者の問題とは、正規雇用・終身雇用・片働きという「標準」モデルが、はじめから人生設計の前提にはなりえない層、いわゆる四百万人のフリーターに象徴される層の問題である。彼らはまさに「失政十五年」が生み出した世代だ。彼らの存在が視野に入らない「年金改革」とは、どこの世界の話、だれを相手にした話であろうか。
 あるいは年金給付のマクロ経済スライド制で、国民年金の給付も引き下げの対象となる。国民年金だけしか受給していない人は九百万人に上り、その受給額は平均月四万六千円という。この人たちが、公的年金を信用せずに自分で資産運用して老後資金に充てている層では、よもやないだろう。四百万のフリーターと合わせて一千三百万、国民の約一割である。これは失政のツケによって生じた格差であって、公正な競争・機会の平等の結果ではない。
 ここに社会的公正から光を当てることは、同時に公正な市場経済を支える政府の公共性を担保することである。年金で
  いえば、より社会的に公正な制度とは何か、という問題であり、さらに社会保障全体のありかた全体を、医療や介護、さらには子育てや就業支援などトータルなものとして再設計していくための「もうひとつの選択肢」を提示することである。それは、既得権の縮小再生産―失政によってもたらされた社会の分裂と対立を、日本再生にむけて合意―再統合していくことにほかならない。
 「官から民へ」が改革ではない。公共性・パブリックを支える官・政府の役割は何か、それを支える市場の役割、機能は何か、それを支える市民社会の役割とは何か。それぞれの役割と補完関係を、時代に則して規定することこそが改革である。
 「民営化」一般では何の改革にもならないことは、道路公団民営化の顛末をみても明らかである。この二番煎じを、郵政民営化で繰り返したのでは茶番にもならない。小泉マニフェストの成果は、「抵抗勢力」との茶番劇であいまいにされていた小泉「改革」の姿を明らかにしたことである。総理の言葉どおり「予算編成で具体的な姿が明らかにな」ったのである。
 したがって、参院選にむけて改革の中身―どこがどうダメなのか、どういう問題設定が必要なのかを明らかにし、そのマニフェストの深化過程と政権交代のロードマップに、バッジをつけない主権者を行動的に参加させていくことが必要である。
 東アジア戦略の確立・日米同盟再設計の意思は次第に明確になりつつある。参院選と米大統領選というタイムテーブルもセットされている。通貨主権の意味も分からずに、国際金融の世界で「ポチ」になったプラザ合意から数えて十九年の失政を転轍する日本再生の行動に、大量のバッジをつけない主権者の多様な参加を組織しよう。